6-3
「配慮をするのは当たり前だと思ってるのね。優しいとかじゃなくて」
図書室。ぼくらがさっき図書室へ向かう最中で廊下でうずくまっていた女子がいて、その子に声をかけて保健室へと連れて行ってあげた名梨に対してぼくが「優しいじゃないか」と言ったらそのような返答をしてきて、ぼくは、少し、うーんと唸った。
「そう思う?」
「そう思うね。だって、人間関係の構築の上で配慮は必要不可欠だろ」
なるほど。その説明ならよくわかる。
「そうだね。配慮というか、無遠慮にやってこられたら困る」
「だから配慮しない人を見ると不思議に思うんだよな〜。さっき廊下であの子に声かけたのおれらだけだろ。他の奴らは何してんだって思ったよ」
「色々忙しいとかかな」
ふう、と、名梨はため息をついた。
「結局……そういうことなんだと思うよ」
「自分のことでいっぱいいっぱいで」
「自分に余裕がないなら、他人のことなんかいちいち気にはしてられない。わかっちゃいるが——やりきれぬものよのう」
世界を変えるのは複雑なことを複雑に考えることをやめない人。
麗子さんの主張を達成するのは、相当難しいことだろうな、とぼくは思う。
なぜならみんな忙しいのだから。仕事に家事に育児に勉強にと、忙しい日常で忙しなく生きていて、例えば“自分は一体何のために生まれてきたのだろうか?”などといった難しい、細かい、面倒臭い、複雑なことをいちいち考える余裕がない。余裕がないわけだから、男女平等についても人権についても考える余裕もない。複雑なことを複雑に考えることをやめない人、などというのは、よほどの天才を除けば余裕のある人だけだ。なぜならそういう人は暇だからそういう複雑なことを考えられるのだ。翻って、ぼくはまだ中学一年生の子どもで、それなりに忙しい日々を過ごしてはいるがそれにしても余裕は充分ある。だから一応、複雑なことを複雑に考えることをやめないでいられているのだ。少なくとも今は。
そう、それは今だけだ。これからぼくもだんだん成長していって、どんどん大人になっていく。そうなるときっと今のように色々なことを、ものを考えることはできなくなる。あるいはそれはそんな忙しい日常に“落とされて”しまうということなのかもしれない。でも、その日常を変えようとするには大人になってからでは余裕がなさすぎるし、かといって余裕のある子どもの今では力がなさすぎる……。
いつかぼくも複雑なことを複雑に考えることをやめてしまうときが来るのだろう。そして、それこそが大人になるということだと、ぼくには思えてならない。麗子さんだって、フェミニストではあるのかもしれないけれど、実際に政治的活動をしようなどという発想はきっとないだろうし、あったとしても社会人として、大人として余裕がないはずだ。
ぼくもいつか大人になる。それは、今のように複雑なことを複雑に考えることをやめる、ということなのだろうか。そうして世界は“このまま”を続けていく。それがわかっていても、ぼくはおそらくそんな社会に飲み込まれるのだろう。
——でも、それでいいのだろうか? 少なくともぼくは気づいている。気づくことができている。それなら、何かできることはないのだろうか? だがしかし、あるいはそれを模索することが子どもの、あるいは青春の特権なのだとしたら、やっぱり、できることなどないのだろうか。ぼくは結局、ただなんとなくの世の中の流れに流されて、行き着く先に落ち着くことしかできないのではないだろうか。しかしもちろん、それが大人になる、ということだというのは、わかる。わかるからこそ——ぼくは、“ぼく”がわからない。
河川敷を麗子さんと二人で雑談しながら歩く中、ぼくはぼんやりとそんな風に思った。と、そこで気になることが一つ。
「麗子さんも、対鬼哭アルカロイドの中で、そういうようなことを思うようになったんですか?」
光里さんも殊袮も、みんなそれぞれのやり方でもってそれぞれに世界を変えようとしているようだったからそう思ったのだ。ところが麗子さんは首を振った。
「私は鬼哭アルカロイドが何なのかとか結構どうでもいいの」
副隊長としてかなりの思想があると思ったが。
「そうなんですか?」
「降りかかる火の粉は払い除けるのが当たり前、だと思ってるだけで、他の子たちみたいに鬼哭アルカロイドが何で、何をしているのかとかいうことにはあんまり興味がないの」
「そうなんですね」
「たぶん、物心つく前からずっと翔悟がいてくれたから、そういうことを考えないようになってるんだと思うよ。ずっと一人で向き合っていたら——きっと、みんなみたいに考えてたかもしれないわね」
という点に関して言えば、ぼくはずっと一人で向き合っていた割にはあんまり「世界の変え方」には興味がないわけだが、やっぱり、物事は人それぞれでしかないのだろう。その人それぞれの中、麗子さんは鬼哭アルカロイドに大したこだわりがないという人生になったのだろう。それがいいことなのか悪いことなのか、あるいは得をしているのか損をしているのかはよくわからないが、それがわかるのは、あるいは感じられるのは本人だけなのだろう。ぼくはなんとなくそう思った。
というわけでやがてぼくらは道の途中で別れる。なんだか複雑な夜だった。
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