14 内海裕也

 有希さんの言葉を聞いた途端、一瞬にして頭が真っ白になった。

 実の娘を殺した?

 有希さんの実の娘——マユちゃんを?

 殺した?

 なんだ、それ。

 殺したってなんだ?

「…………」

 マユちゃんが……。

 マユちゃんが、死んだ?

 僕は四つん這いの姿勢のまま、もんどりうつように走り出した。他人の家であることも構わず、床を踏み抜いてしまいそうな勢いで二階へと上がっていく。

 あの後マユちゃんは、僕の布団でそのまま眠ることなく、自分の部屋に戻っていった。有希姉はいつもものすごく早起きで、明日の朝、もし有希姉に私達が二人で寝ているところを見られたらまずいから——と、そう言って、名残惜しそうに和室から出て行った。

 僕はマユちゃんの部屋の扉を勢いよく開ける。

「うっ……」

 とんでもない死臭が鼻を衝く。錆びた鉄と腐った生肉のような臭いが混ざり合ったような、この世の終わりみたいな臭い。

 そこには確かに、マユちゃんがいた。ベッドに横たわっているマユちゃんの姿があった。

 口が半開きになっていて、その口端から半透明の液体が漏れ出ている。目は閉じていて、仰向けに眠っているようにしか見えないけど。

 ベッドのシーツが、赤黒く染まっていた。

 マユちゃんのお腹に、包丁が垂直に刺さっている。

 その刃が朝日を反射して、僕の目を焼いた。

 地獄だった。

「……どうして」

 マユちゃんに駆け寄る。ベッドの端に座って、マユちゃんの頬に手を触れる。背筋が凍るほど冷たかった。

 ここ最近は、この部屋でマユちゃんに数学を教えるのが楽しみになっていた。自分の恋心を自覚して、マユちゃんについて考える回数が増えて、マユちゃんと顔を合わせられるのが楽しみだった。

 この部屋で、僕たちはたくさんの数学の問題について語り合った。悩むマユちゃんにヒントを出して、ひらめいたときのマユちゃんの明るい表情が好きだった。

 そんな僕たちの聖域が、一夜にしてこんな地獄と化すなんて。

「私が悪いんですよ」

 振り向くと、扉のそばに有希さんが立っていた。沈痛な面持ちだった。

「私が子育てを間違えてしまったから、マユは間違った人間になってしまったんです」

「……は?」

 こいつは何を言ってるんだ?

 自分の娘が死んでいるのに、自分の娘を自分の手で殺したというのに、どうしてそこまで落ち着いていられる?

「自分の娘が犯罪に加担するような人間になっていただなんて、思いもしませんでした」

「あなたは……いったい何を」

「さっきから言っているでしょう。私はこの目で見たんです。あなたの犯罪を」

「だからさっきから何なんですかその犯罪って! 犯罪者はあなたのほうでしょう! 人を殺しておいて、どうして僕が犯罪者だなんて言えるんですか!」

「未成年淫行ですよ」

 有希さんの一言によって、また視界が揺れる。感情の落ち着く暇がない。

「見たんですよ、私。昨夜和室で、マユと内海さんが性交渉をしている現場を」

「だっ、はっ、はぁ? それが、なんですか」

「あなた、犯罪者ですよ」

 有希さんは冷静に言う。僕は両手で頭を抱えた。自分の感情が暴れまわっていてさっきから動悸が止まらないし、マユちゃんの血の匂いで頭の中が徐々に満たされていって、もう少しで気が狂いそうだった。

「でも、有希さんは僕たちのことを応援してたじゃないですか。付き合っちゃえばいいって」

「言いましたけど、私はあのときこうも言ったはずです。手を出さなければ犯罪じゃないって。つまり手を出せば犯罪なんですよ」

 バレてないとでも思いました? と有希さんは付け足す。何なんだこの人。どうして娘が死んでいる状況で僕の未成年淫行の罪を堂々と糾弾できる? わけがわからない。何を考えているんだ。

「……どうして、マユちゃんを殺したんですか」

「だから、犯罪に加担したから……」

「だったら、当の犯罪者である僕のことを殺せばよかったでしょう⁉ どうしてマユちゃんだけを殺すんですか!」

「そんなこと、私にできるわけないですよ」

 有希さんはぴくりとも表情を変えずに言う。アラフォーに差し掛かろうというのに僕の大学の同級生と比べても全く見劣りしないその端正な顔立ちが、冷たく僕を見下ろしている。

「ど、どうして、実の娘が殺せて、赤の他人である僕のことは殺せないんですか……!」

「だってあなたは、将来私と愛し合うべき人だから」

「は……?」

 叫びすぎて掠れた喉から、間の抜けた声が出る。

 意味が理解できない。

「私と愛し合うべき人を、今この時点で殺してしまうことは、私にはできません」

「…………何を言っているのかわかりません」

「だ、だから……その……」

 そこで、有希さんの端正な顔立ちが少し歪んだ。僕から目を逸らして、照れくさそうに頬を掻いている。

「私は、あ、あなたのことが、好きだから……」

「…………」

 意味が、理解できない。

 当然ながら有希さんは既に結婚していて、中学二年生の娘がいる。マユちゃんの父親の姿は見たことがないけれど、離婚はしていないはずだ。それに僕は大学三年生の二十一歳、有希さんとは一〇個以上も歳が離れている。それなのに、好き?

 ……ダメだ、これ以上考えると本当に発狂してしまう。

「……好きだから、僕のことは殺さなかったんですか。好きだから、僕じゃなくてマユちゃんを殺したんですか」

「はい」

 有希さんは平然と答える。

 わからない。有希さんが実の娘を殺してしまえるほどの動機。マユちゃんが、中学生の身ながらにして僕という大人の男性に身体を許してしまうような人間に育ったから、殺した。しかし、娘に手を出した当の本人である僕のことは殺さなかった。なぜなら僕のことが好きだから。

 本当にそれだけか。僕の気持ちがマユちゃんに傾いていることを有希さんは知っていた。それで有希さんはマユちゃんに嫉妬して、僕の心を独り占めするために、マユちゃんを殺したんじゃないのか。

 有希さんはうっすら頬を紅潮させている。どうしてこの状況で、マユちゃんの死体のそばで、僕という異性に対してそんな態度がとれるのだろう。

「さぁ、内海さん。私と一緒に自首しに行きましょう」

 有希さんは弾んだ声で言って、僕の腕を掴んだ。無理矢理引っ張られて、僕は立ち上がる。

「今から私と一緒に警察へ行くんです。私は殺人で、内海さんは未成年淫行」

 僕は何も言えなかった。ただただ茫然として、有希さんに引っ張られるまま、家を出る。外は快晴で、からっとした太陽が照り映えている。さっきのマユちゃんの部屋と地続きの世界なのが信じられないくらい、空気が綺麗に澄んでいた。

 最悪の朝だった。

「私達、これから初デートするんですね。ドキドキしちゃいます」

 有希さんは僕の腕を引っ張って、本当に幸せそうな笑顔で、そう言った。

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歳の差恋愛 ニシマ アキト @hinadori11

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