8 宮里有希

 振り返ると、マユと内海先生が並んで立っていた。

 マユはなんだか嬉しそうににやにや笑っていて、内海先生は気まずそうに苦笑いをしている。

「だから今日は、内海先生を家に泊めてあげようと思うんだけど、どうかな?」

 またとんでもないことを言い出したな、この子は。

 父親以外の異性を完全に拒絶していた数年前からは考えられないような事態だ。自分の家に身内以外の異性を泊めようと言い出すなんて。これは喜ぶべきことなんだろうか。

 確かに今も外では強風と豪雨によって地面に白波が立っているし、天井からはぱらぱらと雨の打ち付ける音が聞こえている。こんな状況で内海さんを歩いて帰らせるには忍びない。その気持ちはわかるけど。

 本当に、内海さんとマユをひとつ屋根の下にいさせてもいいのだろうか。

 つい先日、喫茶店での内海さんとのやり取りを思い出す。

 マユは言わずもがな完全に内海さんに心を奪われていて、内海さんのほうも、気持ちがマユに傾きつつあるらしい。

 そんな状況で、二人で同じ家に一晩泊まって、何か間違いが起こったらどうしよう。

 恋愛経験が皆無な二人だから、そんなことは起こらないと信じたいけれど……。

「……ごめん、マユだけ、ちょっと部屋から出てもらえる? 少し、内海さんと話したいことがあるから」

 おそらくマユはもう私には制御不能だ。思春期の女の子に私から釘を刺しても、逆に燃え上がってしまうだろう。

 マユは素直に部屋から出て行って、内海さんと私だけになる。

 私は一度、わざとらしく咳ばらいをした。

「泊まること自体は、別に構わないんですけど……」

「あ、いいんですか?」

「だけど、わかっているとは思いますけど……」

「ああ、はい、わかってます。マユちゃんには、あまり接触しないほうがいいですよね」

 内海さんは苦笑いで言う。本当にわかってるのかな、この人。

「何かわからないことがあれば、全部私に聞くようにしてください。マユが張り切って教えたがると思いますけど、全部無視して。極力喋らないようにしてください」

「そこまでする必要あるんですか?」

 内海さんが少し困惑したような口調で言う。私はふっと息を漏らした。

「マユのことをあまり見くびらないほうがいいですよ。女子中学生だって一人の女性なんです。恋をしている女性は、何をするのかわからないんですから。内海さんも警戒しておいてくださいね」

「はあ……わかりました」

 頷いて、内海さんは出て行った。扉が閉じる寸前、マユが目を輝かせて内海さんを見上げているのが見えた。目の前の男に夢中で視野が狭まって、周りが見えなくなっている女特有の目をしていた。

 案の定、マユは夕食の席でやたらと内海さんに世話を焼こうとした。いちいち内海さんのカトラリーを取ってあげたり、内海さんが座る椅子を引いてあげたり、内海さんが飲むお茶を注いであげたり。内海さんはそれを苦笑いで受け入れている。さっきの私の忠告をあまり聞く気がなさそうで、ちょっとムカついた。でも食卓で全然喋らないのは不自然だし、あんまり無視されるとマユがかわいそうだから、見逃しておいた。マユが内海さんに付いて寝室や風呂場に行こうとしたときは、さすがに止めたけど。

 その後、マユがシャワーを終えて二階の自室に入ったのを確認してから、私は和室へ内海さんを呼びに行った。

「あの、内海さん……? まだ寝てないですよね?」

 内海さんは布団の上で仰向けになって目を閉じていた。まるで死人のように綺麗な寝相だった。その目がぱっちりと開く。

「その、お酒、好きなんですよね? よかったら飲みませんか?」

「いいんですか? ぜひ!」

 内海さんは勢いよく身体を起こして、嬉しそうな笑顔でこちらにやってくる。基本表情が笑顔の内海さんだけど、最近は私もそこに含まれる感情の違いがなんとなくわかるようになってきた。

 冷蔵庫の中から缶チューハイを二本取り出して、一本を内海さんに手渡す。この前、内海さんがスーパーで買っていた銘柄と同じものだ。

「有希さんもいける口なんですか?」

「まあ……ほどほどです」

 嘘をついた。本当は全然飲めない、というかそもそも数回しか飲んだことがないから、自分が飲める人間なのかすらよくわかっていない。

「それじゃあ、乾杯」

「……乾杯」

 こつん、とお互いの缶を触れ合わせると、内海さんはすぐにお酒に口を付けた。私もおそるおそる、缶の中身を口の中に注ぎ込む。

 ……うん、少しの苦みがあることを除けば、炭酸のジュースとそこまで変わらない。これなら私でも飲めるかも。

 と、油断した瞬間。

 がくんと、見えない糸で頭を思い切り引っ張られたような感覚があった。次第に顔が熱くなってきて、指の先までじんわりと体温が上昇していく。どくん、どくんと心臓が自分の骨を揺らす。

 一瞬で酔っちゃった、私。

「だ、大丈夫ですか? 有希さん」

「……いえ、大丈夫です。お酒、久しぶりなので」

 私はゆっくりと顔を上げる。おそらく真っ赤になっているであろう顔を見られるのは恥ずかしかった。目もだいぶ充血しているだろう。まさか自分がここまで弱いとは思っていなかった。でもぎりぎり意識を保っていられたから、内海さんとの晩酌は続行する。

 何かツマミでも用意すればよかったとか考える余裕はなかった。何も考えられなかった。意識とは無関係に勝手に口が動いて、内海さんとよくわからない会話を繰り広げている。私の意識は、真っ赤な顔で内海さんと楽し気に話す自分の姿を、冷めた目で見下ろしていた。

 気が付いたときにはなぜか私は自室にいた。ベッドに寝かされていて、そばには内海さんが座っている。内海さんが、ぶっ倒れた私の身体をここまで運んできてくれたのだろうか。内海さんが立ちあがろうとしたので、私は内海さんの服の袖を引いた。内海さんの足が止まる。

「い、行かないで、ください」

「…………」

 暗闇で、しかもアルコールのせいで視界がぼやけているからよくわからないが、たぶん内海さんは迷っている。

「マユのところに、行こうとしているんですか?」

「……行きませんよ。和室に戻ろうとしているんです」

 内海さんの口調はいつも通りはっきりしていて、酔っている様子はない。同じ人間のはずなのに、どうして私とはこうも差があるんだろう。

「あの、内海さん、ひとつだけ……」

「……何ですか?」

「もしマユが内海さんの布団に入ってきても、何もしてはいけませんよ」

 私が言うと、内海さんはしばらく黙っていた。痛いほどの沈黙が下りた。どうしてここで返事を躊躇するんだ? 素直に「はいわかりました」と言えばいいのに。

 私は服の袖を掴む手に、より力を込める。

「内海さんも、大学生とはいえ二十歳を超えた大人なんですから、わかっていますよね? そんな状況でマユを受け入れたら、手が後ろに回ることになりますよ……」

「わかっていますよ、それは」

「……あの、もし、内海さんが良ければ……」

 私はベッドの上に横になっていて、内海さんはベッドのそばに立っている。内海さんの顔は暗闇に覆われていて、表情を確認することはできない。

 こんなこと、言うつもりなかったのに。

 内海さんの顔を見なくて済んでいるからなのか、それともアルコールのせいなのか。

 タイミングは今しかないと、思ったからなのか。

「マユの代わりに、私が慰めてあげることもできますよ……」

 私は、言ってしまった。

 とんでもない台詞を、吐いてしまった。

 内海さんが驚いているのが、気配でわかる。

 また、痛いほどの沈黙。耳鳴りが鼓膜を刺すように響く。

 完全に引かれてしまったかもしれない。私はこんなことを言うような女じゃなかったはずなのに。こんなにはしたなくて、下品で、卑怯なことを言ってどうする。

 そもそも内海さんがこの提案に乗ってきたらどうするんだ。私はマユの代わりに消費されることになっていいのか? 内海さんが、マユの代わりに私を消費するような男だと知って、私はそれでも内海さんを好きでいられるのか?

 何もわからない。考えたくない。ただ、内海さんの返答を待つ。

「……下手な冗談を言わないでくださいよ」

 少し笑いを含ませながら、内海さんは言う。

「あなた、やっぱり僕やマユちゃんのことを見下しているんじゃないですか? 自分よりも子供だからって、見くびっているんじゃないですか? 恋愛に子供も大人もありませんよ。あなたみたいな態度、僕はあんまり好きじゃないです」

 ゆっくりと、落ち着いた口調で、内海さんは言った。「では、失礼します」と言って、内海さんは部屋から出て行った。内海さんの階段を下りる足音が消えても、私はしばらく茫然としていた。

 内海さんの言葉が、徐々に心の中に浸透して、奥底へと沈殿していく。黒く濁って、私の思考を侵食してくる。

 見下しているんじゃないかって?

 そういう態度は好きじゃないって?

 なんだそれ。

 なんだよそれ。

 私みたいな人間を馬鹿にしてるのは、むしろそっちのほうだろ。マユや内海さんのような人間こそ、私を馬鹿にしているんだろ。

 どうせ、何もわかっていないくせに。

 私の考えなんて、私の心なんて、私の人生なんて、何もわかっていないくせに。

 何を、偉そうに。

「…………何なの、本当に」

 奥底から湧き上がってくる感情に蓋をするように、私は毛布を上から被った。

 気づけば、酔いは完全に醒めきっていた。

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