7 宮里マユ
最近、内海先生の様子が変だ。
玄関先では今まで通り朗らかに挨拶してくれるし、オリジナルの問題を作ってくれるのも、問題の解説が学校の先生より数百倍わかりやすいのは変わっていない。表面上は何も変わっていないように見えるけど、いつも内海先生を注意深く観察している私にはわかる。
一度目が合うと、そのままずっと私の目を覗き込むように見つめてくる。問題の解説をしているとき、なぜか私の顔を一切見ようとしない。以前よりも座っている位置が若干遠い。数学の問題を作っているときに、手が止まる回数が増えた。
なんだか、あまり授業に集中していないように見える。気もそぞろといった風に。
何か、悩みごとでもあるのかな。
大学での勉強が上手くいっていない、とか。でも内海先生ほど頭の良い人が、勉強で悩むことなんてあるのかな。
——あるいは、誰かに恋をしている、とか。
大学で気になる人でもできたのかな。それとも、私以外の他の担当生徒によからぬ感情を抱いてしまったのか。女子中学生は恋愛対象に入らなくても、女子高生なら入るのかもしれない。
どちらにせよ、内海先生が私に悩みを打ち明けてくれることはないだろう。私は内海先生にとってただの子供。自分の悩みを相談できるような相手じゃない。
私と内海先生は対等じゃないから。
「……雨、凄いね」
内海先生がぽつりと、呟いた。確かに、その声が少し聞こえにくくなってしまうほど、屋根を強く叩き付ける雨音が部屋にこだましていた。
「今夜は嵐になるそうですよ」
私は問題を解く手を止めないまま、内海先生に答える。
「僕が来たときはまだそんなに降ってなかったし、ここまで土砂降りになるのは想定外だったな」
「帰れるんですか?」
「あー、どうだろ。ずぶ濡れを覚悟すれば帰れるだろうけど……」
「風邪ひいちゃいますよ」
「そうだよね。でも仕方ないかも」
「……今日は、その」
「うん。なに?」
内海先生は優しい声で問いかける。気づけば問題を解く手が止まっていた。なんとなく落ち着かなくて、手の中で軽くペンを振る。はぁーっと、深く息を吐いた。
いや、でも、別に自然な流れでしょ。そんなに緊張することない。私はただ、親切心で言うだけなんだから。
「今日は、うちに泊まっていきませんか?」
「えっ?」と、内海先生は一瞬面食らった後で、慌てたように手を振る。「いやいやいやいや、そんなの悪いよ。迷惑でしょ? それに、本部の規約ではそういうのダメってことになってるし……」
「でも、帰れないんですよね?」
「帰れないことはないよ。ただの雨なんだから、無理矢理歩いて帰ればいい。別に雨に打たれたからって死ぬわけじゃないんだし」
「でも、風邪ひいちゃうんですよね?」
「風邪くらい引けばいいさ」
「私に授業をしたせいで内海先生が風邪をひいてしまうほうが、私にとってはよっぽど迷惑ですよ」
「……いや、マユちゃんが責任感じる必要ないよ。この仕事は、僕がやりたくてやっていることだし、ちゃんとお金を貰っているんだから」
「……内海先生って、しつこいですね」
私が上目遣いに睨んで言うと、内海先生はバツが悪そうに目を逸らした。それから観念したようにため息を吐いて、「じゃあ、有希さんも迷惑じゃないって言うんだったら、泊まることにしようかな」と言った。
私たちは二人で有希姉の部屋に向かった。軽くノックをしてから扉を開けると、机に向かう有希姉の背中が見えた。勉強中だったらしい。
「どうしたの……ですか?」
振り返った有希姉が、内海先生が一緒にいるのを見て敬語を付け足す。
「あのさ、今日、雨がものすごいでしょ?」
「……うん」
「だからね、内海先生がこのままじゃ帰れないって言い出して」
「僕が言い出したわけじゃないよ」と、隣の内海先生が突っ込んでくる。
「だから今日は、内海先生を家に泊めてあげようと思うんだけど、どうかな?」
有希姉は怪訝そうな顔で私と内海先生を交互に見て、考え込むように視線を逸らせた。
「……ごめん、マユだけ、ちょっと部屋から出てもらえる? 少し内海さんと話したいことがあるから」
有希姉が眉根を寄せた険しい表情で言うので、私は素直に頷いた。内海先生を置いて、一人で部屋を出る。
内海先生だけに話すことって、何だろう。逆に言えば、私がいたら言えないような話。
悶々としながら扉のそばで待っていたら、案外と早く内海先生が部屋から出てきた。
「泊まってもいいってさ」
「本当に?」
と、反射的にはしゃいでしまって、慌てて口元を抑える。こんなあからさまに内海先生に泊まってほしそうにしたらよくないだろう。
「じゃあ、授業の続きしようか」
内海さんは優しく微笑んで言った。私は照れ隠しをしながら、軽く頷いた。
内海さんは私や有希姉よりも早く夕飯を食べ終えてしまって、空になった食器を前に手持無沙汰な様子だった。やっぱり男の人だから食べるのが早い。
「今日って、内海先生どこで寝るの?」
「んー……和室、かな」
有希姉が短く答える。内海さんは所在なさげに、無表情でテレビ画面を見つめていた。
内海さん、あんまり他人の家に泊まった経験とかないのかな。明らかにこの状況に慣れていなさそうな雰囲気が滲み出ている。
「じゃあ、先に布団敷いちゃったほうがいいかな」
「あ、いや、僕が自分でやるよ」
言って、内海さんが席を立つ。
それを見て、有希姉が声をかけた。
「あ、もう寝るんでしたら、先にシャワー浴びちゃってください。今日はお湯をためないので、ご自由に」
「だったら、私がシャンプーとかボディソープとか教えてあげる!」
私が立とうとすると、有希姉が手で制した。
「内海さん、それくらいわかりますよね?」
「あ、ああ、はい、まあ。見ればわかりますよね」
内海さんは困ったような笑顔で言って、部屋を出て行った。その姿を最後まで見届けてから、私は立ち上がりかけた身体を椅子に戻す。
「マユ。あんまり調子に乗ったらだめだよ」
「別に、調子なんか乗ってないけど」
「乗ってるでしょ。さっきからずっとはしゃいでる」
「は、はしゃいでなんかないし!」
有希姉は口元を抑えて、ふふふ、と笑った。いちいち仕草が上品な人だ。
「今日は早く寝なさいよ。明日も学校あるんだし」
「言われなくてもわかってる」
いつもよりお節介な有希姉をうざったく思いながら、晩御飯を食べ終えて。
内海さんの直後にシャワーを浴びて、私は一旦はベッドの中に潜り込んだ。
だけど、こんな状況の中、そう簡単に眠れるわけがない。
部屋の電気を消して、暗闇の中で目を閉じても、心臓の鼓動がうるさくて眠れなかった。どくんどくんと、身体を揺らすような激しい鼓動で、じっとしているのに身体と毛布が擦れる音が聞こえる。寝よう寝ようと思えば思うほどに眠れなくなっていく。
だって、同じ家の中で今、内海先生が眠っているんだ。和室は私の部屋の真下あたりだから、ちょうどこの下に内海先生が眠っている。ベッドに自分の耳を付ければ、ギリギリ微かに内海先生の寝息が聞こえるんじゃないかと期待したが、うるさい自分の心臓の鼓動が聞こえるだけだった。
何度も深呼吸を繰り返して、興奮を鎮めようと努めるけれど、全く効果がない。ふと時計を見ると、もう深夜の一時を回っていた。やばい。そろそろ寝ないと。
それから三〇分が過ぎ、一度トイレに行って、それからまた三〇分が過ぎて、深夜の二時を回った頃。
私は意を決して、ベッドから這い出た。
自分でもわかっていた。内海先生の寝顔を見るまで、自分は眠れないのだろうということは。もう取り返しのつかない時間になってしまっているけど、構わない。とにかく和室に向かおう。
有希姉にバレないように、なにより内海先生に勘づかれないように、足音を殺して家の廊下を進む。階段を下りる途中、きぃーっと床が軋む音が響いたときは流石に肝を冷やしたけど、特に何事もなく、和室の扉へとたどり着いた。
嵐はもう過ぎ去ってしまったのか、家の中は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。内海先生も有希姉も既に眠っていて、人の気配はない。外の街頭の白い光が、窓から部屋に差し込んでいた。
ゆっくりと横開きの襖を開けて、和室の中を覗き込む。部屋の中央に敷かれた布団に、毛布に包まれた内海先生の姿がった。
仰向けに天井を向いていて、毛布は一切乱れておらず、規則正しく静かに寝息を立てている。まるでお手本のような寝姿だった。棺桶に入れられた死人のように、仰向けの状態から微動だにしていない。
そろりそろりと近寄って、内海先生の前で膝を立てた。内海先生の寝顔を覗き込む。穏やかな表情をしていた。内海先生でも、寝るときはこんなに幼い表情をするんだな、と見惚れていたとき。
「なにしてんの?」
「うわっ!」
目を閉じたまま、内海先生が口を開いた。
「お、お、起きてる?」
「起きてるよ」
「うわっ!」
「二回も驚かなくてもいいでしょ」
今度は目も開けて、内海先生は笑いながら言う。
「あ、あの、寝なくていいんですか?」
「それはこっちの台詞だけど?」
「ああ、いや、私は……」
「眠れないの?」
夜の静寂の中にすっと溶けてしまいそうな優しい声で言われて、私は熱くなっていく頬を手で抑えながら頷く。
「じゃあ、僕と一緒に寝る?」
「…………う、うん」
内海先生は布団から手を出して、ちょいちょいと手招きをした。私が布団に入ろうとすると、内海先生は少し身体をずらした。
和室の窓から、ぼんやりとした白い月の光が差し込んで、私達二人を照らし出していた。
「マユちゃんはやっぱり素直でかわいいね」
「……ば、馬鹿にしてますか?」
「馬鹿にしてないよ。かわいいって言ってるんだよ」
やばい。布団の中あったかい。やばい。これって内海先生の体温だよね。内海先生の身体から発せられた温かみだよね。今の私はそれに身を包まれてるってことだよね。なにそれ、どういうこと? 私ここで死んじゃうのかな。
ふと、内海先生と足の先が触れ合う。私はすぐにさっと足を引いてしまったけれど、内海先生は動かなかった。
内海先生は、私と触れ合うことを受け入れているのだろうか。
「あの、内海先生」
「うん、なに?」
「その、眠くないんですか?」
「んー、今日はあんまり、眠気がないんだよね」
内海先生はこの状況をどう思ってるんだろう。同じ布団に入って、こんなに距離が近いのに、内海先生はとても落ち着いている。さっき私が寝顔を覗き込んでいたときと同じリズムで呼吸している。
内海先生にとっては、猫が布団に入ってきたのと同じようなことなのだろうか。内海先生は私をただの子供だと思っているから。こんな状況には全く興奮していないのかな。
……あ。
そこでふと、内海先生が興奮しているかどうかを手っ取り早く確認する方法が、この状況なら実行可能だということに気が付いた。
でも、私が突然そんなことしたら、めちゃくちゃドン引きされるかもしれない。
でもでも、こんな機会って二度とない。
すぐ横にある内海先生の顔を見つめる。全然眠くないとか言いつつけっこう顔がぼーっとしているし、本当はかなり眠いのかもしれない。
一瞬だけさっと触るくらいなら、気づかれないかもしれない。
私は目をきつく閉じて、だいたいのあたりをつけてから、内海先生の腰回りにさっと手を滑らせた。
「あつ……」
熱かった。もっと言えば硬かった。
内海先生は笑いを堪えるように息を吐いた。
「あのね、マユちゃん。僕も男なんだよ」
「……はい」
「だけど、マユちゃんが嫌がるようなことは、極力したくないんだ。マユちゃんに嫌われるのだけは、ものすごく怖いから」
「私、何をされても、内海先生のことは嫌いになりませんよ」
「本当に?」
「……はい」
お互いに小さな声で囁きあう。今この瞬間、この和室以外の空間が全て消えてなくなって、私と内海さんの二人だけが宇宙に取り残されたんじゃないかという気がした。
「……きっとマユちゃんは、僕が先生だから好きなんじゃないのかな」
好き。好き? え、私が内海先生のことが好きだって、もうバレていたのか。まあそりゃあバレるか。別に隠してたわけでもないし。
自分の心臓の鼓動が耳を打つ。
「でも僕は先生ってほど偉い人間じゃないんだ。本当は、大学の中ではそんなに頭が良いほうじゃないし、色んな経験を持っているわけじゃないし、大人としての強さなんてないし。僕は先生として尊敬されるような人間じゃないんだ」
身も蓋もない言い方だった。
「そんなこと、とっくに知ってます。内海先生をかっこいいと思ったこと、そんなにないので」
照れ隠しではなく本心だった。かっこいいと思うから好きなんじゃない。赤の他人のはずの私にも真剣に向き合ってくれるところ。お金のためじゃなく他人のために動けるところ。私みたいな男嫌いのめんどくさい女の子にも、腐らずに真摯に向き合ってくれたところ。
別にかっこいいとは思わない。だけど、好き。
「僕はできた人間じゃないから、こんなに誰かのために頑張ろうと思えたことって初めてでさ。なんでだろうって考えてみたんだけど、たぶん、マユちゃんのためだから頑張れたのかなって」
内海先生の大きな温かい手が、私のお腹のあたりを直接撫でて行った。くすぐったいような、心地いいような感触がする。
「マユちゃんは、こんな僕でも受け入れてくれる?」
「もちろんです」
私は、生唾を飲み込んだ。
その夜、私は内海さんの手を、一度も拒絶しなかった。
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