5 宮里有希

「……有希さん? ですよね?」

 平日の夕方、スーパーの食品売り場で買い出しをしていたところ、突然後ろから男性に名前を呼ばれた。両肩を震わせながら振り返ると、人の良さそうな笑みを浮かべた内海さんが立っていた。

「いや~こんなことってあるんですねぇ。実はさっき、マユちゃんにも会ったんですよ」

「マユに?」

「はい、学校帰りだったみたいで。制服着てました」

 私はほっと胸を撫でおろす。この言い方からして、内海さんとマユが事前にアポイントメントをとってから会っていた、というわけじゃなさそうだ。学校帰りのマユに、偶然道端で会っただけだろう。

「有希さんは、ご飯のための買い出しですか? 偉いですね、家庭的で」

「いえ、当然のことですから。内海さんは?」

「僕はお酒を買いに来ただけですよ。ストックが切れちゃったもんで。くだらない理由でお恥ずかしいです」

 内海さんはチューハイが六本セットになった箱を両手に持っていた。お酒か。私やマユはお酒が飲めないし、父親もあまり飲むタイプじゃないから、うちの冷蔵庫には一本もお酒が入っていない。

 内海さんのために、うちにも少しだけお酒を置いていおいたほうがいいかな……。

 ……いや、なんで。

「あら、有希のお知り合い?」

 一緒にスーパーまで来ていた紗英が、弾んだ声を上げる。

「あ、えっと、マユの家庭教師の……」

「内海裕也と言います。よろしく」

 内海さんは紗英に向かって清涼感のある微笑みを向ける。初対面の女性相手なのに、随分と余裕のある振る舞いだった。雰囲気に似合わず、意外と女慣れしているのだろうか。それとも、大人の男性というのは皆こういう風なのだろうか。

「どうも初めましてぇ。有希の友人の、西城紗英です」

 紗英は髪を耳にかけながら軽く頭を下げて、すかさず私に小声で耳打ちしてくる。

「ねぇ、この人が例の家庭教師の人?」

「う、うん。まぁ……」

 紗英は小学校低学年の頃からの幼馴染で、友人の中では唯一完全に気を許せる相手だった。だから紗英には前々から、私の抱える不適切な恋心について相談していた。

「家庭教師だなんて、やっぱり頭良いんですかぁ?」

「いえいえ、別にそういうわけじゃありません。マユちゃんが優秀なのでなんとかなっている感じですよ」

「へぇ~、そうなんですか。マユちゃんは賢いですもんねぇ?」

 言って、二人して私に視線を合わせてくる。咄嗟に何と答えていいのかわからず、「え、えぇ、まぁ、はい」と濁したような返事しかできなかった。

 そのまま、内海さんと紗英の二人だけで話し始めてしまった。紗英は私と違って男慣れしているから、内海さんのような大学生の男の人とも難なく会話を弾ませられる。いや、私だって特段男性が苦手というわけではないはずなのだけど、内海さんを前にすると頭の回転が鈍化してしまって、話題をどう切り出したら良いのか全くわからなくなってしまうのだ。

 紗英は内海さんに恋をしていないからこれだけ流暢に話せるのだ。私だって本来は——。

「内海さん、この後って何かご予定があったりするんですか?」

 紗英が急にそんなことを言い出して、私は少し面食らう。いきなり何を言い出すんだ。紗英も内海さんのことを気に入ってしまったのか?

「いえ、特には。お酒を買ったら真っ直ぐ家に帰るつもりでしたよ」

「じゃあ、せっかくだからこの三人でお茶でもしません?」

 紗英は胸の前で両手を合わせて、朗らかに言う。

「あはは。いいですね。有希さんはどうですか?」

「え、えっと……」

「良いに決まってるじゃないですか。ね?」

 私が答える前に、紗英が私の肩を掴んでそう言った。戸惑いながらも,私は静かに顎を引いた。

「私、この近くにあるおいしい喫茶店知ってるんです。早く行きましょう!」

 妙にテンションの高い紗英に先導される形で、私達は会計を済ませ、スーパーを出た。それから一〇分ほど歩いたところに、紗英の行きつけであるという喫茶店が見えた。その道中、内海さんは私が買った食材を代わりに持ってくれた。

 その喫茶店は床や調度品が暗めの木目で統一されており、照明も黄色い光が控え目に灯っているだけで、全体的に落ち着いた雰囲気があった。いかにも紗英が好みそうな、上品な店だった。

「あ。ごめんなさ~い。あたし、この後用事あったの思い出しちゃいました~」

 窓際の席に着いてから少しして、紗英がわざとらしい口調でそんなことを言い出した。

「え?」と私と内海さんが声を合わせて困惑しているのをよそに、紗英は「では、失礼しますね~」と言ってさっさと席を立ってしまう。私に向かって下手なウインクをして、そのまま店を出て行ってしまった。

 私に気を遣って、内海さんと私を二人きりにした、ってことか。急に喫茶店に行こうと言い出したのも、このためだろう。

 これまで私から紗英に恋バナを持ち掛けたことが一度もなかったからなのか、内海さんのことを相談してから、紗英はほとんど毎日のように私と内海さんの関係について探りを入れてきた。なぜか妙に張り切っているのだ。けれど残念ながら私が内海さんを一方的に想っているだけで、内海さんと私はまともな会話すらあまりしない仲なので、何を聞かれても私から話せるようなことはなく、そのたびに紗英は露骨に落胆していた。

 紗英が心から私の恋愛を応援してくれるのは嬉しいけど、でも、これって心から応援していいような恋愛じゃないと思う。

「なんだか面白い人ですね、有希さんのお友達」

 内海さんが苦笑いしながら言った。

「あ、はい。紗英はいつもあんな感じなんです。その場その場で生きてるっていうか……」

 私は精一杯の下手な笑顔を作って応対する。

「あはは、そうなんですね……」

 そこで店員がやってきて、私達の前にそれぞれコーヒーを置いて行った。店員の「ごゆっくりどうぞ~」という言葉を最後に、私達の間には気まずい沈黙が下りた。

 まずい。話すことがない。いつも暇さえあれば内海さんと話したいことを色々と考えていたはずなのに、その考えていた話題が頭の中であっちこっちへ忙しなく動き回って、どの話題もつかみ取ることができない。唇を開いて何か声を出そうとしているのに、なかなか喉が震えてくれない。代わりに両手の指先が震え始めた。

 内海さんはコーヒーを一口飲んで、窓の外を眺めている。最近は太陽が沈むのが早く、外は既に薄暗くなっている。だから、窓に反射する内海さんの横顔がよく見えた。

 正面の内海さんの顔を見つめることはできないけど、窓ガラスに反射する内海さんなら見つめることができた。内海さんはどこか物憂げな表情を浮かべていた。つまらなさそうな顔のようにも見える。きっと内海さんはこの状況がつまらないんだ。私みたいな面白くも何ともない女と急に二人きりにされて、愉快なはずがない。

 何でもいいから声をかけないと、内海さんがこのまま帰ってしまうかもしれない。最初は何でもいいんだ。気分はどうですか? とか。中学校の英語の授業で何度も習った会話の始め方じゃないか。日本でそんなことを言う人はいないけど、海外ではそれがスタンダードなのだろう。もし変な顔をされたら、実は留学経験があって、とか適当に言い訳すればいい。気分はどうですか? よし、これでいこう。

「あ、あの」

「有希さん、少し、僕から相談したいことがあるんですけど」

 私が口を開こうとすると、内海さんは窓の外に顔を向けたまま、低い声で言った。

「すみません。なかなか有希さんと二人で話せる機会ってなくて、今まで言いそびれていたんですけど」

「え、はい……」

 内海さんは私に視線を合わせた。その目が真剣味を帯びているのを感じて、私は少し居住まいを正す。

 相談したいことって、何だろう。私と二人じゃないとできない相談って。

 まさか、内海さんも私と同じ気持ちで……。

「マユちゃんのことなんですけど」

「ああ……」

 高鳴っていた鼓動が急速に落ち着いていく。まあ、そりゃあそうか。私と内海さんの接点は、マユだけなんだから。

「マユちゃんは、とても優秀な子です」

「はあ。そうですか」

「あの、お世辞で言ってるわけじゃないですよ。あの子には才能があるんです。このまま勉強していけば、将来は僕よりも良い大学に入れるかもしれない」

「え、そうなんですか?」

「ええ。マユちゃんは僕よりもずっと頭の良い人だ」

 マユは昔から私と違って勉強が苦手だった。確か、マユの数学が苦手になったきっかけは、小学校の分数の計算で躓いたからだ。小学校の段階で勉強に躓くような人間が、頭が良いとは思えないのだけど。

「だから、マユちゃんをちゃんとした塾に入れてあげてくれませんか」

「え?」

 思わず耳を疑う。

「ど、どうしてですか?」

「それは、その……言いにくいんですけど」

 内海さんは少し顔を俯かせて、小さな声で続ける。

「マユちゃんってたぶん、僕のことが好きですよね」

「え? え、えっと、それは、私は知りませんけど……」

「有希さんだって見ていればわかるでしょう? マユちゃんは僕に恋をしてしまっているんです」

 身を乗り出すように言った内海さんに気圧されて、私は頷く。

「今、マユちゃんが勉強にやる気を出してくれているのは、きっと僕のためなんです」

 この人、私が思っていたよりもけっこう変な人なのかもしれない。私に面と向かって、平気な顔でそんなことを言えるなんて。

「でも、今の状況は不健全だと思うんです」

「まあ、それはそうですよね」

「いや、そういう意味ではなくて。マユちゃんが、僕のためだけに勉強するようになってしまったら、僕がいなくなったときに勉強をしなくなってしまうかもしれない。それはあまりにももったいないと思うんです」

「……だったら、内海さんが、マユが大学進学するまで勉強を教えてあげたらいいんじゃないですか」

「それはできません。僕はただのバイトですし、大学を卒業したら企業に就職するつもりです。僕が教えられるのは、あと一年の間だけなんです」

「…………」

 内海さんが真面目な顔で言うので、私も真面目に考えてみる。

 内海さんが教える前まで、マユは勉強が苦手で嫌いだった。しかし内海さんが教え始めてからは、マユの成績は驚くほど上がったし、自らすすんで勉強するようになった。そしてマユは内海さんに恋をしている。普通に考えればマユの勉強の動機は内海さんだし、だから内海さんがいなくなれば動機がなくなって、勉強をしなくなるかもしれない。しかし内海さんはいつまでも家庭教師でいられるわけじゃない。今のうちに、塾に通わせるなり何なりして、マユの中に内海さん以外の勉強の動機を作っておいたほうがいい。

 理屈は通っている。内海さんの言いたいことは理解できる。でも……。

「でも、私に言われても困ります。そういうことを決めるのは、お父さんだから……」

「……あ、ああ、そうですよね。では、今の話を、お父様にそれとなく伝えておいてくれませんか」

「ええ……」

 私が返事をすると、内海さんは俯いてしばらく黙り込んだ。コーヒーに口をつけ、迷うように視線を彷徨わせた後「あ、あの……」とか細い声で言った。

「すみません、今のは、その、建前というか……、いや、本音ではあるんですけど。実際マユちゃんはとても優秀ですし。でも、その……」

「何ですか?」

「……これからする話は、お父様には内緒でお願いします」

「え。は、はい。わかりました」

 内海さんの喉ぼとけが、一度大きく上下するのが見えた。

「実は僕、マユちゃんのことが怖いんです」

「怖い?」

「いや、違いますね。マユちゃんに好意を向けられて、気持ちがマユちゃんのほうに傾いてしまいそうになっている自分のことが、怖いんです」

「は?」

 思わず少し大きな声が出てしまった。一瞬、店内の視線がこちらに集まる。

「あの、どうかしましたか?」

「……い、いえ、何も」

 一度咳ばらいをする。前よりも感情のコントロールが難しくなっている。いきなり大声を上げたことなんて、今まで一度もなかったのに。

「自分でも情けないとは思っているんです。中学生の女の子相手に、そんなことを考えてしまうなんて。でも、マユちゃんは芸能人みたいに美人だし、それに、異性の人にあれだけわかりやすく好意を向けられた経験、僕は初めてだったんです」

「はあ……」

 内海さんの頬がだんだん紅潮してきていた。それに比例するように、私の頭は急激に冷えていく。

 私はいったい何を聞かされているんだろう。

「だから、自分で自分を制御できなくなる前に、僕はマユちゃんから距離をとったほうがいいんじゃないかと思って。だから、さっきあんなことを言ったんです」

「…………」

「毎週マユちゃんの部屋で、マユちゃんと二人きりになって……。マユちゃんの授業の日が近づくたびに、自分がいつか取り返しのつかないことをしでかすんじゃないかと思って、いつも不安になるんです。それでもマユちゃんは容赦なく僕にアピールしてくるし……。もう、頭がおかしくなりそうなんです」

「…………別に、いいんじゃないですか」

「え?」

 とても大きなため息を吐きたい気分だったけど、ぐっと堪える。

 面倒だな、この人。本当に。

「いいんじゃないですか、マユと付き合っちゃえば」

「えっ? い、いや、それはダメでしょう」

「私はいいと思いますよ、内海さんがマユと付き合っても」

「えっ……、あの、さすがに冗談ですよね?」

「本気ですよ」

「い、いや、でも、そんな、犯罪ですよ」

 内海さんは明らかに狼狽していた。自分の好意を肯定してほしくて話を切り出したくせに、何をそんなに慌てているのだろう。

「交際すること自体は犯罪じゃないでしょう。手を出さなければいいんです」

「そっ、そういう問題じゃないですよ。有希さんは、本当にいいんですか? そんな……」

「別にいいですよ。内海さんなら、マユを任せられます」

 マユのことは別にいいけど、内海さんはとんでもない馬鹿だなとは思う。さっき内海さんはマユを芸能人みたいに美人だと言っていたけど、それなら私のことだって芸能人みたいに美人に見えるってことだ。私とマユの顔立ちはよく似ているから。それでも、内海さんはマユを選ぶらしい。私を選べば、年齢とか世間体とかややこしいことは考えなくて済むのに。

「で、でも、やっぱりおかしいですよ。大学生と中学生が付き合うなんて……」

「世間体を気にして踏み出せないような程度の気持ちなら、私は付き合ってほしくないですね」

「え? で、でも」

「すみません。私、そろそろ夕飯の支度をしなくちゃいけないので、失礼しますね」

「え、あ……」

 コーヒーの代金を机の上に置いて、私はさっさと立ち上がる。内海さんはずっと口をぱくぱくさせていた。

 店を出ると、冷えた空気が首筋を撫でていった。だけど、身体も思考も冷え切っていたので気にならなかった。

 既にわかっていたことだ、マユと内海さんの関係のことは。だから別に、私は大丈夫。わかっていたことを確認しただけだから、大丈夫。

「……はぁ」

 内海さんよりも、私のほうがよっぽど馬鹿な女だよな——と、そんなことを思った。




「有希姉、帰り遅かったけど何してたの?」

「ちょっと友達と話が弾んじゃって。ごめんね、すぐにご飯つくるから」

 帰宅して、スーパーで買った食材を冷蔵庫に詰めていると、階段を下りてきたマユが声をかけてきた。今はなんとなくマユの顔を見たくない気分なので、振り返らずに答える。

「ねぇねぇ、そういえばさ、今日、帰ってるときに内海先生に会っちゃってさ」

「……そっか」

「それでね、一緒に帰ってた友達が、なんか変なこと言うんだよ」

「うん」

「なんか、大学生の男の人と部屋で二人っきりでいたら、襲われちゃうかもだから気を付けたほうがいいよ~って。おかしいよね。内海先生がそんなことするわけないのに。有希姉もそう思うでしょ?」

 作業をする手を止めて、マユのほうを振り返る。

 私のただならぬ空気を察したのか、マユが不思議そうに小首を傾げる。

「……それ、本当?」

「え、何が?」

「マユは本当に、内海先生がそんな人じゃないと思ってるの?」

「う、うん。なに、有希姉まで、男はみんな狼なんだぞー、とか言うの?」

「ううん、そういうわけじゃないの。内海先生のことは、私も信頼してるよ」

 やっぱりマユは見た目だけじゃなく、内面も私とよく似ている。

 私は作業を再開しながら、少しだけ口角を上げた。

「あのさ、マユ。今日はレトルトでもいい?」

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