2 宮里有希


 マユと連れ立って内海さんを玄関まで見送る。内海さんが玄関扉を閉めた瞬間、身体にどっと疲れが押し寄せてきて、私は胸に手を当てながら大きく深呼吸をした。

 何度も大きく息を吸って吐いて、高鳴る鼓動を抑えようとする。五回くらい深呼吸を繰り返したところで、やっと心臓が落ち着いてきた。

 近頃の私はおかしい。

 マユの家庭教師として内海さんが週に二度家を訪問するようになってから半年。最初は内海さんを警戒していたマユも、最近はだいぶ心を開いているようだった。成績も以前からは考えられないほど上がっている。それはいいのだけど。

「はぁーあ。早く内海先生来ないかな」

「今帰ったばかりでしょ」

「だって早く会いたいんだもん」

 私がおかしければ、マユも近頃様子が変だった。

 以前まで、マユは異性のことがひどく苦手だった。マユが小学五年生の頃、一時期クラスの男子たちから執拗に揶揄われたことがあった。男子たちはただマユの気を引きたいだけだったのだろうが、マユは本気で気分を害して精神に不調をきたしていた。朝、マユがベッドの中で、どうしても学校に行きたくないと泣き出したこともあった。そのことがトラウマになって、マユは今でも異性に対して漠然と苦手意識を持っていたはずだった。男性である内海さんが家庭教師としてやってきたときは、すぐに違う先生に変えてほしいと言い出すだろうと思っていたのに、マユはすっかり内海さんを気に入ってしまった。

 自覚しているのかわからないけど、マユは明らかに内海さんに恋をしている。

 そしてそれは、私も。

「有希姉、内海先生の分もご飯作ってよ。それで、今度から三人で食べよ」

「そんなこと言ったら、内海さんが困っちゃうでしょ」

「内海先生だって嬉しいんじゃない? いいでしょ、あと一人分作るくらい」

「あのねぇ、私だって自分の勉強で忙しいの。そんなに言うんだったら、マユが自分で作ればいいでしょ」

「チッ」と短く舌打ちして、マユは自分の部屋に戻っていった。マユの前ではああ言ったけど、同じ料理をあと一人分余分に作るくらいはそんなに大変じゃない。でも、今以上に内海さんが家にいる時間が増えたら、自分がどうなってしまうのかわからなくて怖かった。

 ここ数週間、内海さんが家に来る日になると、妙に気分がそわそわするようになった。そして内海さんが家にやってくると、耳の先が熱くなって、手先が痺れて、心臓の鼓動が早まる。玄関先で私に爽やかな笑顔を向けてくる内海さんに、うまく目を合わせることができない。リビングで夕飯を作っている間、二階のマユの部屋から聞こえる足音が気になってしまう。二人が部屋の中で何をしているのか気になって仕方がなくなる。でも、男女二人きりの部屋の中で、マユと内海さんがいったい何をしているのか、私は知ることができない。

 たった一人の男性について四六時中考えて、思い悩んで、でもいざ本人と対面してみると何も行動に移せなくて。こんなぐだぐだしたまどろっこしい感情を胸に抱いた経験、私は生まれて初めてだった。

 この感情は恋と呼ばれるものなのかもしれない、という疑念は、私の頭の中で無視できないほど大きく膨れ上がって、その存在感を強く主張していた。

 私はマユほど子供じゃない。経験したことのないことだって、知識としてなら知っている。ドラマや映画で恋愛という概念が出てくることは多いし、学校の友達からもそういう話題は何度も耳にしてきた。恋愛がどういうものなのか、まだ中学二年生のマユよりは知っているつもりだ。

 一日に五回以上その人のことを考えていたなら、あなたはその人に恋をしている、という話を聞いたことがある。私は間違いなく一日に二〇回以上内海さんのことを考えている。今頃内海さんは大学の授業を受けているだろうか、いや、マユ以外の生徒の家に訪問しているかもしれない、あるいは友達と一緒にラーメンでも食べているのかも。もしかしたら、大学の女友達から合コンに誘われているかもしれない。それは嫌だな。でも内海さんならそんな誘い、すぐに断ってくれるはずだ。きっと内海さんは同級生の女子大生なんかには興味ないはずだ。何の根拠もないけど、たぶん。

 私は暇さえあれば内海さんについて考えを巡らせている。そんなことをしたって意味がないとわかっているはずなのに。私は内海さんの連絡先を知らないし、内海さんがいつ大学に行っているのかも知らないし、内海さんの地元がどこなのかも知らないし、家庭教師としてマユ以外にどんな生徒を受け持っているのかも知らない。

 内海さんについて何も知らないのに、内海さんについて勝手に妄想を膨らませるのは無意味だ。情報が足りていない以上私の妄想は実際から大きく的を外れているはずだし、いくら内海さんについて私が考えを募らせても、内海さんは私のことなんて最初から眼中にない。マユのほうは自分の教え子だから少し愛着が湧いているかもしれないけど、内海さんにとっての私は、この家を訪問する際に少しだけ顔を合わせるだけの人だ。私の名前だって碌に覚えられていない可能性もある。

 私と内海さんがどうにかなることは、今後一切あり得ない。

 この恋が成就することは、絶対にない。

「…………」

 鍋の中のカレーをかき混ぜながら、大きくため息を吐く。苛立だしかった。自分の恋心に対して自分で腹が立っていた。理性では内海さんに好意を持つべきではないとわかっているのに、感情は一直線に内海さんへ向かってしまう。つい気を抜くとすぐ内海さんのことで頭がいっぱいになる。何かの出来事に遭遇しても、このこと内海さんに話したら面白がってくれるかな、なんて考えてしまう。私が内海さんとまともに言葉を交わしたことなんか、片手で数えるほどしかないのに。

 マユは、週に二度は必ず内海さんと会話する機会を持っている。

 そんなマユを、羨ましい、と思ってしまう。

 私も内海さんから数学を教えてもらえばいいのかな。

 そんな考えが頭を過って、慌てて私はかぶりを振って、カレーを温めていたガスコンロの火を消した。食器棚から二枚だけ、皿を取り出す。

 今日もお父さんは帰ってこない、か。

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