1 宮里マユ
今日の授業は数学、連立方程式の単元。既に学校の授業で習っている範囲だった。数学は私の一番の苦手科目なので、復習の形で授業を進めている。
でも最近、あまり数学が苦手だとは思わなくなっていた。小学校の算数のとき、分数の計算で一度理解に躓いてしまって以来、なんとなく算数に苦手意識を持ってしまって、中学校に入ってからも数学の勉強を避けていたせいで今までずっとテストの点数が振るわなかったけど、内海先生に教えてもらうようになってからは、呪文のように聞こえていた数学の授業がちゃんと日本語として聞こえるようになった。内海先生と一緒に小学校の範囲まで遡りながら一歩一歩着実に理解していくと、中学校の数学だって算数とそこまで大差ないと思えるようになった。連立方程式の解き方も、学校で授業を受けた時点でしっかり理解できていた。内海先生が用意した基礎問題のプリントは、一〇分と経たずに全て解き終わってしまった。
「終わった? じゃあ採点するね」
内海先生はさらさらと走らせていたシャーペンを置いて、胸ポケットから赤ペンを取り出した。内海先生は都内の私立大学に通う大学三年生、二十一歳。理学部の数学科を進学先に選ぶほど数学が大好きな人で、内海先生はいつも、本部から支給されるプリント以外に、自分で手書きの文章題を作ってくれる。数学の問題を考えるのが趣味らしい。内海先生の考える問題は、登場人物に私や有希姉が出てきたり、私の好きな男性アイドルが出てきたりして面白い。答えに至る過程にも様々な仕掛けが施されていて、数学的にも面白い。内海先生のおかげで、私の数学に対するイメージは百八十度変わった。
「うん、満点。すごいね、マユちゃん。この短期間でここまで成長するなんて」
「ねぇ先生、ご褒美は?」
「え、ご褒美? ……あー、ごめん。今日はお菓子持ってきてないんだ」
「お菓子が欲しいんじゃないよ」
「じゃあ、何がお望み? 最近マユちゃん頑張ってるし、僕にできることなら何でも言ってよ」
何でも、か。
内海先生はいつも軽々しくそういうことを言う。たぶん、私のことを異性として認識していないんだと思う。それは家庭教師として、二十歳を超えた大人としては正しい態度なのかもしれないけど、私は不満だった。私のことを子供扱いしないでほしい。お菓子なんかで喜ぶ子供だと思わないでほしい。もっと私をちゃんと意識してほしい。
内海先生はたぶん、大学ではあまりモテていないと思う。内海先生から大学生活についての話題はほとんど出てこないし、休日はいつも暇そうにしている。女友達はもちろん、男友達もあまりいないだろう。内海先生は身長が高くて身体がひょろ長い。いつも似たようなパーカーとジーンズを着回していて、眼鏡はかけていないけど野暮ったい前髪がカーテンのように目元を隠している。要するに、内海先生は地味な男だった。
「……き、……え、えっと、頭、撫でてほしい」
キスしてほしいと言う勇気はなかった。
「頭?」
「う、うん……」
「大丈夫? 髪型崩れちゃっても怒らない?」
「お、怒らないよ!」
内海先生はおそるおそる、そっと私の頭頂部を撫でた。撫でたというより、ただ頭の上に手をのせただけみたいだった。
「これでいい?」
「うん……ありがとう」
やばい。顔が熱くなっているのがわかる。恥ずかしい。
「マユちゃんは素直でかわいいね。学校ではけっこうモテるでしょ。あ、こういうこと言うとセクハラになっちゃうのかな」
「別に、全然モテないよ。ほとんど男子と喋らないし」
「え、そうなの?」
私がまともに会話をする異性は、内海先生だけだ。最近はお父さんがあまり家に帰ってこないから、本当の意味で。
「男子たちはみんなビビッて近づけないだけで、実はマユちゃんのこと良いなって思ってるかもしれないよ」
「そんなこと……。えっと、内海先生は、私がモテるような女子だと思うの?」
「え、うん」
また軽々しく、内海先生は言う。
こういうことを言われるたびに、私は顔が熱くなって、内海先生とうまく目を合わせられなくなる。顔を俯かせて、生唾を飲み込んで、深く息を吐かなきゃいけなくなる。私のその変化に、内海先生は気づいていないのか、気づいていないふりをしているのか。どちらにしても、内海先生が私の相手をする気がないのは明白だった。
「あとちょっとで問題完成するから、マユちゃんはもう一枚プリントやっといて」
内海先生にもう一枚プリントを渡される。内海先生は机に向き直って、製図用の黒いシャーペンで問題の文章を書く。私はしばらく、その姿を見つめていた。内海先生は私の視線に気付かない。
普通の大人の男性からして、女子中学生が恋愛対象に入らないのはわかるけど、それにしたって内海先生は鈍すぎると思う。
内海先生って、今まで一度でも恋愛したことあるのだろうか。
私は特段、成長が遅いわけではない。平均的な女子中学生として日々、心も体も大人の女性へと近づいている。私は小学生じゃないんだ。まだ子供だけど、全く女性的な魅力がないわけじゃない。
そんな私がこれだけアピールしてるのに、内海先生はずっとセクハラにならないかどうかを心配しているだけだ。
誰ともお付き合いをしたことがないから、自分を好きになる女の子の存在が信じられないのではないか。だからこんなに、私の好意に対して鈍いんじゃないか。
内海先生も、恋愛経験に関しては私と同レベルなのかもしれない。
そう思ったら、なんだかちょっと笑えてきた。
「……マユちゃん? ちゃんと集中してる?」
「あ、ごめんなさい」
私は気を取り直して、連立方程式の数字を揃え始めた。
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