第20話 地獄
旧ロシア地区、新生ロシア帝国領土、その他多数…。その場所をどう呼ぶのかは、思想や国によって大きく異なる。はるか昔の時代から争いと死に満ち溢れる広大な雪の大地。ここでの戦いを終えた志願兵は、みな口をそろえて
「地獄だった。」
と言う。今日、アル達志願兵はその大地に降り立った。降り立ってしまったのだ。
アル達の配属先である戦場病院はひどいありさまだった。病院とは名ばかりの衛生環境、古びた設備、あちこちから肉が腐る臭いが漂い、負傷者は石のような硬さのベッドに、紙よりも薄い毛布を掛けられ寝かされている。救いがあるとすれば、ここが直接攻撃される可能性は薄いということだろう。アル達のような医療要員が命を落とす可能性は限りなく低いのだ。
(地獄という評価すら生ぬるい場所だ…)
自身の想像をはるかに超える劣悪な環境に戦慄しつつ、アルは早速仕事にとりかかった。
アル達は毎日必死に施設内を駆け回り、1人でも多くを救おうと努力した。だがいくらアルに医療の知識があろうとも、リサやオリバーに戦場の経験があろうとも、この環境では理不尽に人が死ぬ。1人救えば2人死に、2人救えば3人死ぬ。つい昨日まで未来への希望を口にしていた若者が、朝にはベッドで冷たくなっている。良くて一般市民内の力自慢でしかない志願兵たちは、虫のようにあっさりと死んでいく。過酷な環境、常に付きまとう死への不安、アルの精神は限界に近かった。何度も吐いた。まともに食料が支給されない中、胃の中が空っぽになっても吐いた。
そんな環境でも、夜はつかの間の平穏だった。技術が発展した現代でも雪の降る夜は視界が悪く、日が沈んでから夜明けまでの数時間は双方が動きを止める。警備のための最低限の人員を外に置き、傷ついた体を休めるための時間だ。アルはパンをひとかけらかじり、水筒の水で流し込む。ただでさえ硬いパンはこの気温でさらに凍り付き、水筒の水からは血の匂いと味がする。リサとオリバーはまだ施設中を駆け回り、少しでも命を救うために奔走している。その事実が、アルをより苦しめた。
(みんなが命を削って戦っているのに、私は、こんなところで)
自分の血にまみれた両手をじっと見つめる。だがこの凍り付いた血は、大半がアルのものではない。
(このまま、誰にも知られず凍え死んでしまったほうが良いのではないか…)
そんな考えがアルの頭によぎったとき、不意に甘い匂いがした。
覚えのある匂いだった。ふらふらと匂いと細長い煙の筋をたどっていくと、その先にはタバコをふかしながら、壁にもたれて床に座り込んでいる男が1人いた。ブレイブである。訓練場での正規兵の威厳に満ちた姿はどこへやら、血で汚れた軍服と包帯を身に着け、ただでさえ細かった体はさらに痩せて見えた。顔からは生気が失われ、夜の闇と合わせてまるで死人のように見えた。
「あの…」
「…ん」
ブレイブが顔を上げる。月明かりに照らされた顔はより一層白く、雪のように見えた。
「…お前か、久しぶりだな。」
「お久しぶりです。ブレイブ殿。」
ブレイブは初めて会った時と同じように自分の隣を左手でポンポンと叩く。初めて会った時とは違い、アルは寄り添うように近くに座り込んだ。
「…ひどいもんだ。今日も大勢死んだ。前線でも、ここでも。」
「…そうですね。」
ブレイブは吸っていたタバコの火を消し、胸ポケットから新しいタバコを取り出した。
「お前、ずいぶん疲れてるみたいだな。顔色が悪い。」
「お互い様ですよ。先ほどまでのあなただって、タバコの火がついてなければ、死体と見分けがつかなかったです。」
「それもそうか。」
ブレイブが壁にドンっともたれた。
「…お互い、ひどいものを見たらしいな。」
「ええ…」
「…そういえばお前、訓練場でこの戦争を不可解だと言ったな。」
「…そうでしたね。ここにきてより一層、そう思いますよ。」
「教えてやるよ、お前の疑問の答え。」
「…?」
ブレイブはアルの正面に座り直し、新しいタバコを取り出した。
「イギリス国内に、パーカー家という一族が経営してる武器の会社がある。どデカい会社だ。異形の力を活用した武器、兵器を国内外に販売して莫大な利益を得てる。」
「パーカー家…」
アルには聞きなじみのある名前であった。アルの顔が一瞬こわばる。
「武器商が一番儲かるタイミングってどこだと思う?」
「…戦争ですか。」
「その通り。連中は適当な理由をつけて世界中で戦争を起こさせてる。政財界に太いパイプを持ち、ゼログループが背後についてるからこそ成立する無茶苦茶な商売だ。この対新生ロシア帝国戦争も例外じゃない。連中はイギリスとロシア、双方に武器を売り利益を上げている。だからできるだけ戦争が長く続くほうが都合がいい。正規兵より志願兵を用いるのはそれが理由だ。」
「…なるほど。」
「だが、この事実を咎める連中はいない。咎めるより、タダ乗りするほうが楽だし安全だからな。」
アルは腹の底から何か熱いものが湧いてくるのを感じた。物理的なものではなく、おそらく精神的なものであること以外、それの正体はまだわからなかった。
「だが、咎めようとする、あるいはその意思をもつ連中はいる。俺や、俺のかつての友達だな。」
「…ご友人は今は?」
ブレイブはタバコを一度大きく吸った。
「死んだよ。背中から味方に打たれたのさ。」
「…すみません、つらいことを。」
「いやいい。どうせ話そうと思ってたことだ。」
ブレイブはタバコの火を消し、すっと立ち上がった。
「お前、神は信じるタイプか?」
「…いえ、異形の研究が進んだ現代、世界の神話のほとんどは否定された、もしくは修正されたと聞きました。」
「そうだな、だが俺は信じるタイプだ。あの時、俺は友達の代わりか、あるいは一緒に打たれて死んでてもおかしくなかった。パーカー家のことで、あいつと一緒に軍の上層部に頻繁にかみついてたからな。俺たちが気に入らない上官はいくらでもいた。だから今だってこんな地獄に配属されてる。」
ブレイブはアルに右手を差し伸べ、立ち上がるよう促した。アルがつかんだ右手からは、タバコの甘い匂いがした。
「だが、今俺は生きている。生きて立っている。これは奇跡だ。個人じゃどうしようもない大きな流れの中にいる。これが俗にいう神だと俺は考えている。」
「はぁ。」
「俺と同じ考えを持った連中が、俺が生きていけるようにサポートしてくれた連中がいて、そいつらが起こした流れに、今俺は乗っているんだ。それを自分から降りちゃもったいない。乗れるだけ乗って、最後には誰かの流れを起こして死ぬ、それが俺の目標だ。」
「それは、私もそうだと?」
ブレイブはニッと笑って言った。
「さあな。だが誰にだって流れはついてる。お前にも、助けてくれた人がいるだろう。そしてお前はさっきの話に怒りを覚えたんだ。自覚があるかは知らないが、俺とそっくりじゃないか。俺と同じように、お前にだって流れはついてる。お前にも流れを起こす力があるんだ。そう考えたら、多少は生きる気力が湧いてくる気がしないか?」
単純で雑な理屈、だが不思議とアルはからだが温まる感覚を覚えた。否定され、利用されてきたばかりの人生に新しく道が生えたような気がした。
「そうですね、もう少し生きてみましょうか。」
ブレイブはその答えを聞いて満足そうに笑った。
突然どこかから大きな音がした。続いて悲鳴と、石が崩れ落ちるような音がした。何か異様なことが起きているのは、アルもブレイブも肌で感じていた。リサが息を切らしながら向こう側から走ってきた。
「ああブレイブ殿、とアル!ここにいたのか、よかった。」
「リサか、何事だ。」
「奇襲です!見張りが2人負傷、道中の警備も突破されながら奥の大病室へ近づいています!」
「すぐに行く!お前もこい!」
「はい!」
大病室はその名の通り、この病院で最も大きい部屋。負傷兵の数も医療設備も尋常ではないほど多く、そこを襲撃されるというのがどれだけまずいかは、わざわざ言うまでもないだろう。2人は先ほどまでの疲れも忘れ、必死にリサに続いた。やがて広い廊下に出ると、そこは硝煙と血の匂いに満ちていた。
「…なんだこれは、なんてありさまだ。」
「とにかく先回りしましょう。今なら止められるかもしれません。」
「…ああ。」
倒れた仲間を飛び越え、廊下の奥へ奥へと進んでいった。やがて向こうから悲鳴と銃声が聞こえ始め、だんだんと大きくなってきた。そこは大勢の味方が銃をやたらめったらに乱射し、悲鳴と怒号、弾丸が飛び交う地獄だった。敵も味方もわからず、状況の把握は困難を極めた。飛んできた弾丸がアルの両耳をかすめ、アルはその痛みに膝から崩れ落ちた
「全員落ち着け!俺だ、ブレイブだ!冷静になれ!そんな撃ち方しても味方にあたって同士討ちになるだけだ!」
ブレイブが力いっぱい叫んだその時、群衆をかき分けて銃を持ったオリバーが現れた。息も絶え絶えで、支給されたぼろ布の軍服もどきは、もみくちゃにされた影響かずたずたに破けていた。
「ブレイブ殿!」
「オリバーか!状況は?敵は何人だ、どこにいる?」
「状況は見ての通り悲惨です!敵の位置はこの中であることは確実!数は…」
オリバーの話を遮るように、突然群衆の上を大きな黒い影が飛び越えた。影は下の志願兵たちを2回ほど踏みつけ、静かにブレイブたちの前に着地した。目の前に立たれるとより一層大きい。190はある長身に、その異質な威圧感が合わさることで、まるで巨大な怪物のように見えるのだ。
「お前は…」
オリバーが何か言い切る前に、影は右手に持った棒状の何かでオリバーの顎を打ち砕いた。血を流しながら、オリバーはその場に倒れこんだ。
「「オリバー!」」
「オリバーさん!」
3人が慌てて駆け寄ろうとするのを、影が静止した。差し込んできた月明かりに照らされた影は、かなり若い男の顔をしていた。オレンジの髪は短く乱雑に切られ、着ている軍服はボロボロで、その眼は確かに3人を、特にブレイブを重点的にとらえていた。
「お前が、ここの頭か?」
「お前が侵入者か。仲間はどこだ!」
侵入者は首を傾げ、頭をポリポリと掻いた。
「あいにく俺だけだ。」
ブレイブはぽかんとした後、右の腰にぶら下げていた銃をとった。
「そんなバカげた話が…」
言い切るよりも前に、侵入者はブレイブの目の前まで迫っていた。慌てて発砲しようとした瞬間、ブレイブの手首を侵入者の武器が正確に砕いた。殴られた衝撃で銃は宙を舞い、オリバーの倒れているあたりに落ちた。ブレイブは痛みのあまり声も出せず、その場に手首を抑えてうずくまった。侵入者は武器をブレイブの頭に向けた。
「大病室ってのはどこにある?ここは広すぎて1人じゃ見つからん。案内しないってんなら、お互い軍人ならわかってるよな?」
「…なら、俺がどう答えるかもわかってるはずだ。」
侵入者はふぅとため息をつき、ブレイブの脳天めがけて武器を振り下ろした。突然、部屋に銃声が1回鳴り響いた。侵入者は腹から血を流し、振り上げた武器は力なく右手から滑り落ちた。ブレイブが侵入者の後ろのほうに目をやると、先ほどの自分の銃を持ったアルが、銃を構えて立っていた。両手はこわばり、目は血走り、息遣いは荒い。必死になりながら打ったのだろう、誰の目から見てもそれは明らかだった。
「…!」
アルが力なく倒れ始めたとき、ブレイブと同時に侵入者も飛び出した。
「っ!こいつ!」
だが残念ながら、侵入者のほうがブレイブより圧倒的に素早く、アルのもとにいち早くたどり着いた。
「やめろ!」
ブレイブが力いっぱい叫んだとき、侵入者は誰も予想してない行動をとった。倒れるアルの頭に手を添えたのだ。アルが倒れた時、頭を打たぬよう、命を守るようにと。ブレイブは一瞬困惑したもの、すぐに自分の役割を思い出した。落ちていた武器を拾い、侵入者の頭めがけて思いっきり振った。ガンッと鈍い音とともに、侵入者は頭から血を流して倒れこんだ。ブレイブははあはあと息を切らしながら、大声で叫んだ。
「2人を集中治療室に!」
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