第19話 アルとブレイブ
アルの所属する班は「第三医療班」と呼ばれ、メンバーはアルを含めた3人と、班長であり正規の軍人であるブレイブの計4人。主に後衛での負傷した兵士の治療が任務である。その性質上、座学の時間がほかの班と比べて圧倒的に多く、その量と過酷なスケジュールは、しばしば拷問とまで評されるほどであった。しかしこういった知識に触れる機会が限られていたアルにとってはむしろ、今まで体験したあらゆる娯楽にも勝る至福の時間だった。本来苦痛であるはずの座学の時間、常に生き生きとした表情を見せていたアルは、同じ第三医療班のメンバーのみならず、多くの者の印象に残ったに違いない。アルは今日も座学を終え、満足げな顔で廊下を歩いていた。
(今日も興味深い内容だった…この熱が冷めないうちに復習を終わらせるか。)
「ちょっと、あんた!」
突然後ろから力強い声が聞こえた。アルは声の聞こえたほうを向く。後ろにはいつの間にやら、口元にひげを蓄えた、山のように恵まれた体格の大男と、それより頭1つと半分ほど小さい、やや細めの女が立っていた。どうやら今の声の主は女の方らしい。
「私、ですか?」
「そうそうあんただよあんた!あんた若いのにあんな楽しそうに座学を受けててすごいなぁって思ってね!あっ自己紹介が遅れたね、あたしはリサ、こっちはオリバー、あんたほどの若者からすりゃもう老い先短いジジババだが、まあ仲良くしてくれや!」
リサは一通りしゃべって満足したのか、アルの手を握り、一方的に力強い握手をすると、満足げに去っていった。触れた皮膚の感覚は確かに老人といって差し支えないものだったが、その語り口調はとても強い生命力を感じさせた。
(彼とは大違いだ…)
アルはいつぞや出会った、あの父親のことを思い出していた。
あの一方的な握手から早3日、アルは同じ班のメンバーを、少しずつ理解し始めていた。リサはやや強引なところはあるものの、しっかりとした信念と積み重ねた人生の重みをもつ女性だった。オリバーはリサに比べればやや弱腰なところがあるものの、優しく誠実な男性だ。それぞれ歳は50と40、これまでに何度か兵として志願した経験があり、今回初めて医療班のテストに合格したらしい。2人とも、素性を語りたがらないアルを、何も言わずに受け入れてくれる懐の深さを持っていた。
「あたしが今までで一番大変だったのは、やっぱりあれだね、本隊とはぐれて、1日分の携帯食料で5日間食いつないだ時だね。最前線ってこともあって生きた心地がしなかったよ…」
「僕はどこぞのばあさんに食われたせいで、半日分しか手元になかったけどね。」
「なんだい、今更戦友に向かって文句かい?」
この2人の掛け合いを聞くのが、座学と並ぶアルの楽しみになっていた。一通り喧嘩した後、それぞれの夢の話になる、それがいつもの流れだった。
「あたしはこの任務の報奨金を元手に、故郷で孤児の面倒を見るつもりさ。私が世話になった分は、次の世代へつなぐもんだからね。」
「僕は料理屋を開きたいな。コーヒー以外には自信があるんだ。」
夢を語る2人の姿は、まるで小さな子供のように輝いて見えた。
「で、あんたはどうするんだい?」
「…え、私?」
不意にかけられた問いに、アルはすぐには答えられなかった。思えば、アルは未来について肯定的に考えたことがほとんどなかった。
(家には帰れない…もはや考えるまでもない。だが、私に頼れる場所はない…そもそも私は何がしたいのだ?またエルの授業を受けにエルのもとを訪ねるのか?だがその先に何が…)
「まあ、今すぐ答える必要はないさ。」
見かねたオリバーの声で、アルはようやく顔をあげた。
「特に決まってないならないでいいけどよ、できるだけ人との縁は作っておいたほうがいいぜ。ここに来るってことは訳アリだろ?そういう時、最後まで頼れんのは人の縁だからな!あたしとオリバーは、何があってもあんたの味方さ!」
リサはまた一方的に手を握った。はじめはやや鬱陶しかったこの熱量が、今は少し頼もしく思えたアルだった。
「そうだ、縁といえば…あんた、班長には会いに行ったかい?」
リサが流れのまま口を開く。
「班長…ブレイブ班長のことですか?」
「そうそう、あいつはいい男だよ。少し嫌味っぽいところはあるが、頭が良くて情に厚い。あたしらも何度か世話になったからね。あんたも会いに行ってみるといい。」
(この人にそこまで高く評価されているとは…)
アルの中に、ブレイブへの興味が湧き始めた。
「ありがとうございます。機会があったら、ぜひ話してみたいと思います。」
残念ながらその後一ヶ月にわたり、アルはブレイブと話す機会に恵まれなかった。班長であり正規の軍人であるブレイブと、志願兵の1人にすぎないアル。業務的な会話ならまだしも、雑談を交わす余裕などあるはずもなかった。
アルの中で、ブレイブへの興味が尽きつつあったある日のこと。その日の朝はいつもよりも騒がしく、アルが外のざわめきで目覚めた時、すでにリサもオリバーも身支度を済ませていた。
「リサさん、いったい何の騒ぎですか?」
眠眼をこすりながらアルは問う。
「ああ、起きてきたかい…今日はちょっと、ね…」
リサが気まずそうに目線をそらす。
「もったいぶってないで教えてくださいよ。らしくないですよ。」
「あぁ…うん。」
リサは大きく息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「今朝連絡が入った、3日後だ。」
「3日後?」
「3日後、私たちは旧ロシア地区へと向かう。」
「…!」
あまりにも突然の通達、志願兵たちのざわめきも納得である。かくいうアルも、額に汗がにじんでいた。
そのあとのことを、アルはあまり覚えていない。気が付いたときには座学も終わり廊下で立ち尽くしていた。自身を害される経験、およびそれに対する不快感と恐怖は今までもあったが、他人を害されることに対するものは、生まれて初めて湧いてきたものだった。
(足が重い…いや、足だけじゃない。腕も、頭も、何もかも。)
アルの体は隅から隅までこの感情に支配された。どこか遠くに思えていた友人の死、それが今、目の前に迫っている。
(こんなことになるなら、初めからひとりで…)
足はどんどんと重くなる。まるで何かが、アルを地面の下へ引きずり込もうとしているかのように。しかしそれに抵抗する気力は、今のアルにはなかった。
不意に、妙に刺激的な香りがした。甘いような苦いようなそれは、白っぽい煙を伴って現れた。
「タバコ…?」
よく祖父が椅子に座り、高価な葉巻をふかしていたのを思い出した。アルは無意識に煙をたどった。その時だけは、足の重みを忘れていた。煙はどうやら廊下の突き当りの大きなドア、その先から来ているらしい。
「運動場…あんなところでタバコを?」
運動場、それは訓練で使われる屋外の訓練場とは違い、あくまで休憩や交流を目的として作られたスペース。四方を壁に囲まれていることを除けば、日当たりがよく、解放感もある人気の休憩場所。アルたちは志願兵とは言え兵士。軍隊の規則にのっとり、生活のありとあらゆる部分を管理されている立場である。雑誌すら好き勝手持ち込めないこの環境でのタバコなど、いうまでもなく論外。懲罰は避けられないだろう。
(ましてや人の目のつく運動場での喫煙など…自殺行為もいいところだ。)
アルはあきれたようにドアノブに手をかけ、ドアを勢いよく開いた。直後飛び込んできた光景は、アルを驚愕させた。
(誰もいない…まだ夕食までの時間も十分あるのに…)
「こんな時間にここに来るとは、ずいぶん元気な奴だな。」
右の方から声が聞こえた。どっしりとした男の声。見ると、端のベンチに軍服を着た男が座っていた。足を組み、右手で紙巻きたばこをふかしている。体格は並の軍人よりやや細い。目つきは獣のように鋭いものの、その顔には敵意や害意より、疲れの方が濃く浮き出ていた。
(志願兵ではない…しかし正規兵だとして、なぜこんなところに…)
「そんなにこれが気になるかい?」
男はタバコをアルに向かって突き出した。
「いえ、ただこんなところで正規兵の方が、タバコを吸ってるなんて。初めて見たものですから。」
「へぇ、そうかい。ま、確かにタバコをねだるような顔じゃなかったか。ねだってもやらねえけどな。」
(なんだか嫌味な男だ…)
アルが心の中で眉をしかめた。
「では、私はこれで失礼します。」
「まぁ待て。もう少し話そう。」
男はアルを呼び止めると、ベンチの片側により、空いたスペースをポンポンと左手で叩いた。どうやら”座れ”と言いたいらしい。
(気を抜いていたとはいえ、面倒なことに巻き込まれてしまった…)
あくまで表情には出さなかったが、アルは強い疲れと不快感を抱いていた。とはいえここで頑なに断って面倒になっても面倒だと思い、いざというときに男を攻撃するためのペンをこっそり左手に握りこみ、出来るだけ男と距離を開けて座った。正規兵が立場を利用して志願兵をいたぶる事件は、決して珍しいものではなかったからだ。
アルが座るのを確認すると、満足したのか、男は空っぽの運動場の方へ目線を移した。
「お前はどう思う?」
「どうって、この運動場のことですか?」
「そうだ、いつもと比べてどうだ?」
「…まぁ、珍しいなとは思います。ガラの悪い連中のせいで人が少ないことはあっても、ほとんどだれもいないというのは初めてです。」
「じゃあ、原因は何だと思う?」
「なんだも何も、今朝のあれでしょう?ショックを受けるのは当然のことですよ。」
「そうか。」
男は胸ポケットから新しいタバコとライターを取り出し、タバコに火をつけ、白い煙を吐き出した。命令を出した側のくせにどこか悲しげな男の態度が、アルには腹立たしく思えた。
「…じゃあ、お前はこの戦争についてどう思う?」
「…どう思うって?」
「さっきまでと同じだ。正しい、正しくない、良い、悪い、なんでもいい。ただし、お前の意見であることが重要だ。」
(また面倒な…)
アルは疲れ切っていた。もし出来るのなら、この壁を飛び越えてどこかへ逃げたかった。しかし現実は残酷で、アルはこの尋問のような奇妙な状況から逃げ出すことはかなわなかった。
(とはいえ、質問自体はそう難しいものでもない。概要を知ってる私なら、十分当たり障りのない答えを返せるはずだ。)
「少々お時間をいただいても?」
「構わん。」
アルは顎に手を当て、早速知ってる情報を羅列し始めた。
(そもそもは208年前の、当時のロシアの指導者が暗殺されたことから始まった旧指導者派閥と新政府派閥の内乱だ。第三次世界大戦の引き金でもあった。我が国は当時新政府側を支持したが、新政府の度重なる条約違反と無差別なテロ行為に怒り、その報復として仕掛けた、というのが建前だろう。)
アルは昔から、考えが深まると自分でも止められない、なかなか難儀な癖を持っていた。アルの思考はさらに深くまで潜っていく。
(条約違反やテロ行為に関する有力な証拠は全くと言っていいほどない。大方、新政府に取り入って天然資源やらなんやらを手中に収めたかったが、新政府が想像より強固で失敗した、そして武力行使に打って出たといったところだろう。いや、だとするとなぜわざわざ志願兵などを募って戦争を長引かせる?制圧が目的なら、正規軍で叩き潰して終わりだ。今のイギリスにとって、新生ロシア帝国は赤子も同然、なのに…)
「おい、大丈夫か?)
アルがはっとして男の方を見る。男の手に握られていたタバコは、いつの間にか新品に代わっていた。アルは慌てて額の汗をぬぐい、男の方へ向き直る。
「大丈夫です。ちょっと考えすぎる癖がありまして。」
「そうか、ところで答えは決まったか。」
「はい。」
アルは平然とした態度で答える。
(建前を言えばいいだけだ。ここで下手なことを言って正規兵といざこざを起こすわけには…)
深く息を吸い、口を開いた。
「不可解、でしょうか。」
「ほう…」
(…やってしまった…)
アルの行為がどれほど命知らずなことか、それはアル自身が最もよく理解していた。だがアルの口はアルの意思に反し、言葉を発し続ける。
「新生ロシア帝国との戦争は長い歴史を持ちます。原因は向こう側の度重なる条約違反とテロ行為だとされていますが、それらを証明する有力な証拠は、開戦から長い月日が経過しているにもかかわらず、いまだ見つかっておりません。あの大地に眠る資源が目的のいちゃもんだと考えています。しかしそれならそれで、なぜ正規軍を使って手早く済ませないのか、なぜいたずらに志願兵を集め、殺しているのか。私にはどうも理解しかねます。」
すべて話し終えたアルの表情は、意外にも穏やかなものだった。もはや不安や後悔の先の感情に到達していた。
(…まあ、まだチャンスはある。正規兵が全員凶暴なわけじゃない。それどころかこの男と意見が一致さえすれば、むしろ良い状況に転ぶ。そうだ、きっとそうだ。)
手に汗を握りこみ、生まれて初めて神に祈るアル。男はしばらく黙った後、スッと立ち上がった。
(ダメか…)
殴られるか、蹴られるか、アルはぐっと目をつぶり、歯を食いしばった。
何秒か経っても、アルに拳や足がとんでくることはなかった。アルが恐る恐る片目を開けると、男がタバコを口にくわえ、天を仰いでいた。気のせいか、その目には涙がたまっているように見えた。
「お前は優秀だな。」
「…はぁ。」
「頭もいい、空気も読める、だがここぞというときに外す。一番損をしやすいタイプだ。」
「そうですか…」(相変わらず嫌味な物言いだが…これは褒めてるつもりなのか…?)
「だが、だから気に入った。」
男は目をぬぐい、アルの方を向いた。
「お前、名前は?」
「…名乗りたくない、と言ったらどうしますか?大体正規兵なら、志願兵関係の書類を探せば出てくるでしょう?」
アルはここで再び賭けに出た。今回は無意識ではない、自分の意志で賭けた。男は大笑いして言った。
「それもそうだ。なら言わずとも結構。代わりに俺が名乗ろう。」
男はタバコの煙を吐いた。
「ブレイブだ。任務終了後に何かあれば、俺を頼れ。」
「!」
ブレイブは運動場を後にした。そこにはタバコの煙と、驚愕のあまり立ち尽くすアルが残された。
(…ブレイブ、あの男が。)
ふと、アルは体が軽くなっていることに気が付いた。彼女の頭は、ブレイブのことで埋め尽くされたのだ。いつの間にか空は闇に覆われ、月がぽつんと浮かんでいた。
不幸なことにこの後出動までの2日間、アルとブレイブが再び相まみえることはなかった。それぞれの思いを胸に、旧ロシア地区へ向かう船が港から出港した。
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