第18話 旧ロシア地区出兵
アルが15歳の誕生日を迎える数か月前、悲劇は起きた。アルの母親、マデリン・ゼロが浮浪者に腹部をナイフで刺され死亡した。マデリンが特別何かしたわけではなく、ただ金持ちの女が妬ましいという理由だけで、理不尽に殺された。まさに悲劇だった。生前の彼女は夜遊びや浮気性といった欠点はあれど、彼女と接したことのある人間の多くは、彼女の人間性を高く評価していた。ただひとり、実の娘、アル・ゼロを除いて。
彼女の葬儀は巨大な教会で執り行われた。参列した人の多さが、生前の彼女の人望を物語っていた。葬儀は長く続いたが、その間、アルは一滴も涙を流さなかった。
(我ながら薄情だな…実の親なら、少しは涙も出ると思ったけど…)
彼女にとって、母親はほとんど顔も知らない他人も同じ。それでも今までのアルだったら多少なりとも涙が出たかもしれないが、今のアルにはエルがいた。アルにとって、今や唯一心を許せる存在であるエルは、実の母親より母親としてふさわしいと言えた。葬儀も終わりに近づき、マデリンの棺桶が教会裏の広大な墓地へと運び出された。どうやらここからは親族のみで執り行うらしく、あれだけたくさんいた参列者も、ひとり、またひとりと教会を後にした。アルは母が埋められるという場所まで、黙って祖父の背中を追いかけた。
埋葬の儀式は滞りなく、きっちり最後まで行われた。アルは正直この息苦しい空間から早く逃れたかった。しかし、大人たちにとっては違うらしく、そこかしこで話をする声が聞こえた。内容は聞かずともわかる、最終的には金だの権利だのといったところに着地することを、アルは知っていた。
(…ろくでもない母親だったとは思うけど、それでも、なんだか母の死を利用されているみたいで気分悪いわ…)
アルが顔をしかめながらその場を離れようとしたとき、あちらこちらで聞こえていた話し声が、突然ピタリと止まった。
電動の車いすに乗った1人の老人。長い髪は真っ白に染まり、手足は木の枝のように細く骨ばっていて、ずっとうつむいている。常に背中を曲げているせいで、本来の背丈よりずっと小さく見える。はたから見れば、今にも息絶えそうな老人。だが、この場の空気を一変させたのは、ほかでもないその老人だった。
「…久しぶりだな、パーカー。」
ひどくしわがれていたが、地球の裏まで響きそうな、奇妙な威圧感のある声は、
アルの祖父に向かって放たれた。
「お久しぶりですジャック代表!本日は天気も良く…」
「私は挨拶をしただけだ。お前の下らん雑談に付き合うつもりはない。」
アルの祖父は会話を遮られたことに文句も言えず、顔を真っ赤にして縮こまった。
(ジャック代表…ということはもしかして、御祖父様より年老いて見えるあの老人が、私の父親、ジャック・ゼロ…)
突然、車いすの車輪がアルの方を向いた。ジャックを乗せた車いすが、ゆっくりとアルの方へと近づいてきたのだ。アルは逃げ出しくてしょうがなかった。だが、ジャックの放つ威圧感は並大抵のものではなく、車いすがアルの目の前で止まるまで、アルは呼吸すら忘れていた。
「おいで。」
その声はさっきとは打って変わって、慈愛に満ちた父の声だった。アルは急激な雰囲気の変化に戸惑いながらも、車いすの方へと近づいた。ジャックは右手を伸ばし、アルの頬、髪、頭に、花でも愛でるように丁寧に触れた。触られた時の感じはいよいよ老木の枝といったようで、優しくも生気を全く感じなかった。だが、髪の隙間から一瞬覗いた目は違った。大きく見開き、真っ赤に血走った目は、強烈な執念、怒り、焦り、そして少しの恐怖…アルは、このいつ死んでもおかしくなさそうな老人が、今の今まで生きてこれた理由が、わかった気がした。しばらく触れた後、車いすはくるりと向きを変え、墓地の向こうへと去っていった。アルの祖父はジャックに恥をかかされたことがよほど気に入らなかったらしく、顔を真っ赤にしてぶつくさと文句を言いながら、アルを連れてその場を去った。
アルの周囲に変化が起き始めたのは、葬儀が終わってから数日たってのことだった。屋敷の人々が、アルを冷遇し始めたのである。パーカー家の人間はおろか使用人すらアルを、まるでいないものかのように扱った。アルのいとこたちは、彼女の自室に無断で入るようになり、アルの私物を勝手に持ち出すこともあった。今までは廊下ですれ違うたびに、うんざりするほどおべっかを並べ立てていた者たちも、目をそらすようになり、ひどいときにはわざとぶつかり、床に倒れるアルを嘲笑った。食事は食べきれないほど出されていたのが、少しずつ量が減り、虫や雑草が入れられていることもまれにあり、ついには用意されなくなった。エルが人目を盗んでパンや肉を差し入れていなかったら、アルは15の誕生日を迎えることなく、息絶えていただろう。この日も広い庭の隅の方で、アルはエルが持ってきたパンにかぶりついていた。
「…ねぇ、エル…」
「はい、何でしょうか?」
「どうして、私はこんな目にあってるの…?」
「…アル様。」
エルと初めて会った時のように、アルの感情が彼女も制御しきれないほどにあふれ出す。アルはこぶしを強く握りしめ、流れる涙とともにパンを口に含んだ。
「…生まれてから今に至るまで、両親にはずっと放置されて、あんな気色の悪い連中と一緒に生活させられて、勝手に利用されて、急に冷遇されて…」
アルがエルの方を向く。
「私の人生って何なの…?私はだれのために生きているの…?」
黙ったままアルの顔を見つめていたエルが、口を開いた。
「…あなたの人生は、あなたのためのものです。」
エルはポケットから一枚のチラシを取り出した。
「これは…?」
「旧ロシア地区出兵の志願兵募集のチラシです。」
「旧ロシア地区…これがどうかしたの?」
「ここを見てください。」
エルはチラシの右下あたりを指さした。そこには、志願者1人あたりにつき、膨大な金額の報奨金が、志願兵の家族に支払われるということが書いてあった。
「先日、ジャック・ゼロ氏から、あなたを娘としては認めないといった内容の手紙が届きました。これにより、パーカー家はゼロ家との血縁のつながりを失いました。ゼログループに口を出すのも、難しくなるでしょう。」
「つまり、私は用済みになったってこと…?」
「…ええ、その通りです。加えてマデリン様の葬儀で、ジャック氏に恥をかかされたことが、ご主人様は相当気に入らなかったようで、最近の極端な冷遇はこの2つが主な理由です。パーカー家の人々は、あなたを志願兵として戦場に送り出し、報奨金を受け取るつもりなのです。」
驚きとむなしさ、怒りで、アルは食べかけのパンを地面に落としてしまった。
「そんなくだらない理由で…」
「しかし、これはあなたがパーカー家から解放されるチャンスでもあります。」
エルは大量の本と紙をどこからともなく取り出し、アルの前にドンッと置いた。
「今日から授業内容を変更して、あなたが戦場で生き延び、この先ひとりでも生きていけるように、出来るだけ多くの医学、薬学、経済学…もろもろを教えます。」
実の父に見放され、周囲の人間から非人道的な扱いを受け、限界に迫っていたアルの心を、エルが再び救ったのだ。アルはいつの間にか大粒の涙を流し、エルに抱き着いていた。
アルの自室が使えなくなったため、2人は庭の隅で授業を行うようになった。幸か不幸か、屋敷の人間も嫌がらせに飽きてきたようで、2人が庭の隅で何かしていることなど、大半が気にも留めなかった。エルはアルに薬学、医学、経済学等を教えられるだけ教えた。
「ねえ、エル。」
「なんでしょう?」
「今更だけれど、どうして医学とか薬学なの?銃を使った戦い方とかじゃないの?」
「訓練期間中に医療系の心得があることを証明できれば、前線に立たない任務に就ける可能性が高まります。当たり前の話ですが、そちらの方が生存率は高くなりますし、任務が終了した後の人生でも、活用できる可能性が高いです。」
「経済学は?」
「戦場で役立つかはともかく、任務終了後に役に立つ可能性が高いので。」
「じゃあ、この喋り方の練習は?」
「…戦場は非常に過酷な環境です。加えて、志願兵は男性の比率が非常に高く、まともな教育を受けれていない者も多くいます。軍の治安はあまり良いとは言えません。これは自衛のためのスキルです。幸い、あなたは背も高く、今も伸び続けています。肉体も顔も中性的なので、喋り方さえ何とかなれば自衛は事足りるでしょう。念のため、体は鍛えておいた方がよいとは思います。」
今の会話、そして今まで学んできた知識から、戦場でどういうことが起きうるのか、アルは理解した。人目を盗み、授業をする。この生活が3ヶ月ほど続いた。
アルが15歳の誕生日を迎える3日前アルは突然祖父に呼び出された。要件は大体わかっていた。アルは祖父から志願兵のチラシを受け取り、3日後に出発だということを告げられた。
「今のうちに荷造りをしておけ。」
(今更持っていく私物などほとんどないと知っているくせに…)
アルは口から出かけた言葉をそっとしまい込み、今日もエルのところへ授業を受けに向かった。
3日後、アルは早朝から車に乗せられ、異質な空気を放つ巨大な施設へと送られた。鉄柵に囲まれた、真っ黒なこの直方体の建物は、どうやら志願兵たちの集合地点兼訓練場らしく、ここで班分けされ、訓練を受けたのち、戦場へと送られるようだ。車はアルを下ろすとさっさと去っていった。
(まあ、見送りはもとから期待していないからな…)
アルは唯一の私物、出発の前日にエルから渡された、エルの連絡先が書かれた紙を握りしめ、1人で施設の中へと入っていった。手続きを済ませた後、簡易的な試験が行われた。ここで配属先を大まかに決めるらしい。アルは持ち前の頭脳と、エルによって叩き込まれた医療の知識を活かし、見事数少ない医療班の枠を勝ち取った。その後班内で自己紹介ののち、志願兵ではない正規の軍人が紹介された。
「この班の訓練、生活、戦場での作戦などの指揮を担当することになった、ブレイブ・ホークスだ。以後、班長と呼ぶように。」
その後ブレイブに連れられ、施設内の説明を受けた施設は広大で、説明が終わるころにはすっかり外が暗くなっていた。就寝の時間になると、班ごとに1つの大部屋が与えられた。足をのばすのがやっとの、硬く汚れたベッド。これが当面のアルのスペースになった。真夜中、アルは毛布を頭からかぶり、体を震わせていた。薄手の毛布と薄い壁では、夜の寒さを防ぎきるのは難しかった、というのもあるが、身震いの大きな原因はとてつもない孤独感、心細さだった。親に見捨てられ、帰る場所も失い、唯一の心の支えだったエルも、ここにはいない。15歳の誕生日を迎えたばかりの少女にとっては、あまりにも過酷な環境だった。
(誕生日おめでとう、私…)
毛布を頭からかぶりながら、アルはただ1人、自分の誕生日を祝い続けた。それは、これから長く続く苦難に打ち勝つため、自分を鼓舞するための行為。アルの苦難は、まだ始まったばかり。
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