第17話 アル・ゼロ
ルーグたちの生きる時代から35年前、ゼログループ7代目代表ジャック・ゼロとその妻、マデリン・ゼロとの間に、1人の女の子が生まれた。名前はアル・ゼロ。母親譲りの美しい黒い髪と、父親譲りの優れた頭脳を持った彼女は、この世の誰からも祝福される存在のはずだった。ところが、アルの父親は体が弱く、なおかつ多忙で、彼女に会う機会がほとんどなかった。母親はというと、わが子が起きる前に遊びに出かけ、わが子が寝静まった夜に帰ってくることがほとんど、帰ってこない日もあるというありさまだった。そのため、アルの周りにいたのは、ほとんどが母方の親戚、パーカー家の人間であり、彼女の生活はパーカー家の屋敷内で完結していた。
パーカー家の人々は、アルにとにかく親切に接した。それは善意だとか、両親にかまわれない子供を憐れんでだとか、そういったもの由来の行動ではなかった。ひとえに私利私欲、”アル・ゼロという人間”が次期ゼログループ代表の最有力候補であったからこその行動だった。彼女の要望の大体をかなえていたパーカー家であったが、唯一”彼女が何かを学習すること”だけは許さなかった。アルの行動範囲には、本がほとんど存在しなかった。彼女の自室に、10ページ前後の絵本が片手で数えられるほど。ただそれだけ。テレビ、ラジオ、携帯によって得られる情報も徹底して制限した。ニュースはもちろん、ドラマ、バラエティ、アニメ…彼女に残された自由は、毒にも薬にもならない教育番組が2種類。それも、録画されたものから”不適切”と判断したシーンをわざわざカットした特別版。そのうえで、彼女を老若男女問わず屋敷の人間全員が「アル様」と呼び、本人たちは笑顔だと思い込んでいる、下卑た目つきとにやけた口で彼女の機嫌を取ろうとしていた。彼らの目的はただ1つ。アル・ゼロを”できるだけ愚かなまま、ゼログループ代表にすること”である。無知で、権力以外は何も持ちえない、いわば張りぼての王。その後ろから、助言という形でゼログループの実権を握る。彼らが望んでいたのは、そのような未来だった。
アルは聡明だった。周囲の人間の、そういった醜い欲望に気づき、何度も抗うことを試みた。しかし、いくら将来ゼログループの代表となるであろう彼女であっても、現在の彼女は、1人の非力な少女でしかなかった。彼女が10歳になったころには、ゼログループの未来、イギリスの未来、自身の未来など心底どうでもいいと思うようになった。実の親には生まれてからずっと放置され、身の回りに心を開ける人間はおらず、生きる意味さえ見失いかけていた。
「アル・ゼロ様。」
その声は、屋敷の庭で座り込んでいた、アルの頭上から聞こえた。後ろをちらりと見ると、色白の、儚げな雰囲気をまとう顔が、アルの顔を見つめていた。そのままアルが振り返ると、人かどうかも怪しいほど長身の人物が、屋敷の従者の制服を着て立っていた。髪は淡い青緑色で、腰まで届きそうなほど長かった。
「本名で呼ばれたのは久しぶりよ。」
アルは着たくもないのに着せられているスカートのすそをはたき、腰に手を当てて向き直った。
「それで、あなた誰?」
「初めまして、本日よりあなた様のお世話役としてお仕えいたします。私のことは”エル”とお呼びください。」
「ふ~ん、エルねぇ…私と似た響きの名前…」
アルは顎に手を当て、エルの周りをぐるぐると回りながら、エルの体を細部まで観察し、同時に質問もした。
「あなた、出身は?」
「お答えすることはできません。」
「…じゃあ性別は?女っぽいけど。」
「お答えすることはできません。」
「…じゃあ年齢。」
「お答えすることはできません。」
「…苗字。」
「お答えすることはできません。」
「あぁもうっ!」
アルは怒りのままに地面を強く踏んづけた。エルの変わらない回答と変わらない態度が、彼女を久しぶりに苛立たせた。
「知ってたわよ!どうせ今までの従者と同じ、私に何も教えないように言われてるんでしょ!もういいわ!今のままで満足よ!ポーカーもチェスも絶対勝たせてもらえるし、お菓子もおもちゃもたくさんあるし、何をやっても誰かが褒めてくれる!いたずらしたって誰にも叱られない!こんなに素晴らしい人生、ほかにあるかしら!?」
アルは目から大粒の涙を流しながら叫んだ。これまで外に漏らさぬように努めていた本音が、彼女にとって予想外なタイミングであふれだした。あふれ出る涙を袖でぬぐいながら、庭の端にある花壇の前にしゃがみこんだ。ぐしゃぐしゃになった顔を、今日来たばかりの人間に見られて、惨めで情けない気分だった。
「あの…」
「…もういいでしょ。あっち行って。心配しなくても、御祖父様たちにあなたのこと悪く言ったりしないわ。」
後ろで立ち尽くすエルをよそに、アルは目の前の花をじっと見つめた。
(…真っ赤できれいな花…なんていう名前かしら…)
アルは黙って空を見上げた。
(…ここにはこんなにもたくさんの植物があるのに、この壁の外は、もっとたくさんの知識であふれているかもしれないのに、私はきっと、こんな小さな植物の名前1つ知ることもなく、一生を誰かに利用されて終える…)
アルの目に、再び涙がたまり始めた。
「サルビアです。」
突然、後ろから声が聞こえた。誰が言ったかなど、確かめる必要もなかった。
「…あなた、今なんて?」
「サルビア、その植物の名前です。私が昔住んでいた場所では、訛りで”サルヴィー”と呼ばれていました。シソ科の多年草で、原産地はブラジル。1度目の産業革命期と呼ばれる時代に、観賞用の植物として流行しました。野生のものでは1mほどまで育ちます。観賞用として花壇に植えられるものは丈が低くなるよう、また花瓶などで飾る場合にも、すぐに枯れることがないように品種改良が重ねられ…」
「ちょっと待って、いったんストップ。」
アルは右手を突き出し、エルの話を遮った。
「いろいろ言いたいことはあるのだけど…」
う~んとうなりながら、アルは小声で尋ねた。
「いいの?そういうこと教えて。」
「まさか、禁止されていますよ。」
10年にわたる代わり映えのない日々に突然飛び込んできた、穏やかな水面に投げ込まれた石のような刺激は、アルを困惑させ、同時に興奮させた。
「じゃあ、あなたはクビってこと?」
「ええ。アル様がご主人様に今のことをご報告なされるようでしたら。おそらく明日にでも、荷物をまとめて出ていくことになるでしょう。」
アルは両手で顔を覆い、目からこぼれる涙を受け止めた。しかし、この涙は、いつものものと違うことをアルは感じ取っていた。
「フフ…アハハハハ!」
気が付けば、アルは大声で笑っていた。呼吸ができなくなるほど笑っていた。表情ひとつ変えず、ずっと同じ声色で話すエルが、どうにもおかしく見えて仕方がなかった。ひとしきり笑った後、目元の涙をぬぐって立ち上がり、エルの顔をじっと見つめた。
「あなた面白いわね。私にこんな話をしてくれた人は初めて。」
アルは再び花壇の方を見つめた。
「”サルビア”、”サルヴィー”…いい名前ね。」
アルはくるりと体の向きを変え、エルの前まで歩いて行った。
「あなた、私に勉強を教えてくれない?」
エルは不思議そうに首を傾げた。
「勉強、というと、どのようなジャンルをお望みですか?」
「あなたが知ってること全部、片っ端から教えて。私、こう見えてもゼログループの次期代表よ、恩を売っておいて損はないと思うけど?」
アルはいたずらっぽく笑った。なんだか一歩大人になれたような気がして、少し誇らしかった。
「…いいですよ。」
「やった!約束よ!」
「ええ。ただし、ご主人様やほかの屋敷の方々にばれない時間、ばれない形でのみです。」
「もちろん、楽しみにしてるわ!」
「では今夜、あなたのお部屋へお伺いいたします。」
エルは深々と頭を下げ、屋敷の奥へと消えていった。アルは、たくさんのサルビアの中から、特別きれいな1本を摘み取り、屋敷の中へ戻った。
「おやおやこれはアル様!それは花壇のお花ですか?それを選ばれるとはさすがアル様、お目が高い!アル様には及びませんが、きれいでございますなぁ!」
廊下ですれ違った男の使用人の見え透いたおべっかにも、いつものような下卑た笑みにも、アルは不思議と不快感を覚えなかった。
「ありがとう。そうだ、花瓶をひとついただけない?」
「もちろんもちろん!あなた様に見合うような見事な花瓶をご用意させていただきましょう!」
アルの自室に、シンプルで品のある陶器製の花瓶と、その花瓶に生けられた真っ赤なサルビアが飾られるようになった。サルビアの鮮やかな赤が、彼女の部屋に、彩をもたらしていた。
エルは約束通り、毎晩アルの部屋にやってきて、どこからか紙とペンを取り出し、アルに自身の知識を片っ端から叩き込んだ。医学、薬学、生物、歴史、政治、文学、芸術…彼女の知識の広さ、深さに、アルは息をのんだ。アルが特に好きだったのは歴史の授業だった。エルはいつも人形や機械のようで、表情をまったく変えなかったが、まるで実際に見てきたかのように、詳細に歴史上の出来事を語る様は、アルにとっては、まるで旅をしているような不思議な体験で、エルの顔もいつもよりイキイキとしてるように見えた。そんな生活が始まって4年と少し経った頃、その日も歴史の授業を終え、エルが自分の部屋に戻る準備を始めていた。
「今日も面白かったわ。ありがとう。あなたはすごいわ。あなたの授業、とっても分かりやすくて、面白いもの。」
「いえ、それほどのことでは。アル様が優秀なのです。」
「その呼び方やめてったら。2人の時くらい呼び捨てでいいでしょ?もう友達みたいなものじゃない。」
「いえ、あくまで私とあなた様の上下関係は変わりません。」
(頑固なのか、柔軟なのか、よくわからないわね…)
世話役としてベッドを整えるエルの後姿を見て、アルはぽつりとつぶやいた。
「お父様か、お母様がいてくれたら、こんな感じなのかしら…」
「…そうかもしれませんね。」
「ねえ、あなたは何で私に勉強を教えてくれるの?私から頼んでおいてだけど、いつクビになっても、いいえ、下手をすればそれよりひどいかもしれないのに。」
エルは手を一瞬止め、少し考えこんだ後答えた。
「…不思議なことに、あなたを見ていると、昔のことを思い出すのです。」
「昔のことって、何?あの日言ってた、昔住んでいた場所のこととか?」
エルは不意に立ち上がり、くるりとアルの方を向き、右の手のひらを差し出してきた。エルの右の手のひらには、まるで割れた陶器のような、人体には発生しそうにもない奇妙なひびが入っており、そこからキラキラと光る細い煙が漏れ出ていた。
「…なにこれ…」
「この世界には、”異形”と言われる奇妙な生物たちが住んでいます。この手は、異形の中でも特別な個体であることの証明です。」
「…じゃあ、あなたは人間じゃないってこと?だとしても、なんで今それを教えてくれたの?」
「私の生まれ、そして過去の話は、今のあなた様にはあまりに複雑で難解だということを理解していただきたかったのです。いずれ明かします。その時までお待ちください。」
「うん、わかった…」
エルはいつものようにベッドを整え、深く頭を下げてアルの部屋を去った。アルはベッドに仰向けで寝ころび、天井をじっと見つめていた。
(…思えば、この屋敷の監視をかいくぐって、あんな大量にペンや紙を持ち込めるはずがない。とすると、本当に…)
時間が経てば経つほど頭が冴え、考えが深まっていく。その流れを断ち切ったのは、けたたましいノックの音だった。ドアが勢いよく開くと、息を切らした男の従者が飛び込んできた。
「アル様!お母様が…マデリン様が町で刺されて…!」
アルの人生に、再び陰りが見え始めた。
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