第四章 冬籠もりの間に 

 帝国は皇帝で成り立つ。その皇帝を私的に支えるのは妻であり后であるマリオン、政治を共に支えるのは多くの重鎮たち、領地の人間、そして属国の国王たち。そして、その属国を手に入れるために皇帝の手となり足となり、彼のためならこの命いつでも捨てられるという強者揃いの将軍たちが、どんなときでも帝国でその牙その爪をといでいる。

 帝国になくてはならない将軍たち、国民すべてが慕うところの将軍たち、皇帝に必要な

将軍たち、皇帝を必要な将軍たち---------……日々、何を考え何を思う。



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 第八個師団闇輝隊将軍ティムラム・ハムラムはその日屋敷から静かに窓の外の、はるか向こうの城下の無数の灯りを見つめていた。

「……」

 十二将軍一の長身、金の髪には珍しい黒い瞳はその名のごとく闇。整った顔立ちは日に灼け、たくましい壮年の軍人の雰囲気を醸し出している。苦味ばしった顔は、昔日の女たちの騒ぎぶりを容易に想像させる。

 闇将軍ティムラム。

 黒を基調とする闇輝隊を指揮する彼はその異名の通り暗闇での戦いを得意とする。街の灯りが反射して彼の金の髪を幻のように一瞬きらめかせた。灯りもつけずにたたずむ彼。 暗い部屋の中、ただ窓の外からにじむようにして輝くわずかな街灯りばかりが光る。

「あなた」

 彼はゆっくりと振り向いた。戸口には妻が立ってこちらを見ていた。彼は構わず窓へと目を戻す。妻が歩み寄るのもわかっていたし、こうすることで無言のうちに彼女を呼んだということを妻がわかっているということも、充分理解していたからだ。

「リードのことを、思い出していましたの?」

「うむ」

 通常無口な彼は静かにこたえた。妻はいつのまにか隣に立って共に街の灯りを見つめている。ちらりと見ると、彼女は微笑んでいた。自分はあの時も、この笑顔にどれだけ救われたことか。

 あの時……そうこんな冬の夜は、彼のことを思い出す……


 あれは二十年前、ティムラムがまだ十六のときのことだ。彼は帝国の近衛隊の一隊員で、先頃野盗の群れに襲われものの、見事に荒廃の一途をたどっているアデンの街の近くを通り作戦を遂行するために隊の者数十名と、親友のリード・ティランと西へ向かっていた。

 親友は彼より三つ年上、青年組と呼ばれる近衛隊の隊長で、何でも知っていて逞しく、人望もあって、ティムラムにはさながら兄のような存在であった。青年というよりはまだ少年といっていもいい年齢にも関わらず大した兵士ぶりを発揮するティムラムは副長として彼と共に任務を遂行するのが役目だった。十三歳で入隊、以後は目覚ましい活躍ぶりで近衛隊の副長にまでなったティムラムは、しばらくして公爵家に誕生する氷のような女が軍隊と帝国の歴史に登場するまでは、兵士たちの間でちょっとした成功談の担い手でもあった。

「リード」

 彼らはアデンの街の近くまでやってきてそこの野原でキャンプを張り、明後日到着の予定で任務遂行の土地へ行くことになる。

「食料を補給しなければならない。アデンの街くらいしかないが……どうする」

「アデンか」

 リードは焚火を見ながらため息まじりでこたえた。

「あの街は荒れていく一方だな。痛ましい」

「治安も最悪で物価は百倍という噂もある。よほどたちの悪いのに乗っ取られたな」

 ティムラムは自らも隣に座りながら言った。

 アデンは一年前までは世界中で音に聞こえた豊かな街であった。秋の豊穣、春の恵み、美しい夏と冴え渡る冬、街は豊かで人々はやさしく慈愛の精神に溢れ、永遠に栄えるとすらうたわれた楽園のような街だった。が、一年前、大規模な人数の盗賊に襲撃され、楽園は転じて地獄となった。今では街はすっかりと荒み、男は労働に使われるか、あるいは反抗すれば殺されるかどちらか、女たちは凌辱されるがま、日夜誰のものともつかぬ子供を生み落とした。

「しかし他に場所はないだろう。帝国の近衛隊の格好をしているし、大人数で行けば大丈夫だ。かもられるなよ」

 ティムラムは笑いながら親友の肩をたたくと立ち上がった。食料や物資の供給は副長の大切な任務でもある。彼はなじみの部下と連れ立ってアデンへ向かった。

 五人一組で買い出しに行かせ、五組の内三組には食料、残った自分たちは、薬などの薬品を買いにいった。早く買い出しが終わり、ティムラムと部下たちは食料組を街角の店の側で待った。

 メモを取り出してチェックしていたティムラムはふと赤子の声に気付いて、顔を上げた。 どこからかはわからないが、子供の泣く声、女が叫ぶ声、男の怒鳴り声などがしきりに聞こえる。ティムラムはため息をついた。辺りを見回すと、なんとなく荒んだ道、風が吹くと埃が舞う。焼き払われた家々も少なくなく、あちこちの物陰からこちらを隙なく伺う男たちの視線がいくつも感じられる。危険はない。ただ帝国の兵士だから警戒しているのだ。

 と、彼が見ていた方向とまったく逆の方向で、突然悲鳴が聞こえた。

 見ると女が一人、男が一人、そしてどう見ても盗賊の人間としか考えられないような、卑しい笑いを口元に浮かべた男が一人。

「いいからちょっと貸せって。一時間程で終わるからよ」

「嫌! ---------リオン!」

「彼女を離せ!」

 若い二人はどうやら恋人どうしらしい。いや、ティムラムの鷹のような鋭い瞳が女の指に光るものを見つけた。あれは婚約指輪だ。

「離せ! やめろったら!」

「こっちがこれだけ言ってるんだ! 素直に女を渡しやがぁれ!」

「やめろ! 離せ!」

 ティムラムは盗賊の右手がスッと向こう側に吸い込まれるのを見た。彼がそれに反応してわずかに動いたとき、ザシュッという音と、悲鳴が一度に聞こえてきた。

「きゃああああリオン!」

「……イリー……」

「世話やかせやがって。素直にこっちに渡しゃあいいんだよ。来な」

 盗賊は泣きながら恋人の亡骸にすがろうとする女を引きずるようにして向こう側の建物に歩いていった。女はひどく美しかったが、それだけに泣き叫び髪を振り乱す様子は痛ましくて見ていられなかった。

 ティムラムは深いため息をついた。

「嫌なものを見ましたね」

 部下の言葉にああ、低くこたえる。助けてやりたいのはやまやまだったが、彼らは帝国の兵士、領内ならともかく、他の勢力の地域で下手な真似はできない。それがこの当時の帝国の方針であった。その反動か、現在の皇帝ヴィルヘルムの治世のもとでは、兵士は、いつでも自分の良心に基づいて義を正すことを許される。それで治外法権と地域あるいは国ぐるみで抗議が来れば、その兵士の所属する将軍と皇帝が彼の立場を保護し正当性を主張するまでの律儀さだ。しかしこの時代では、兵士はどうすることもできない。そして任務遂行前、下手な真似をしてはならないのだ。ティムラムは戻ってきた部下と共にキャンプへと帰っていった。

「そうか。それは確かに嫌なものを見たな」

 その夜二人で焚火を囲みながらリードは静かに言った。

「なんとかしてやりたいものだが」

 遠くで鳥の鳴くような声がした。梟だろうか。

「ところでティム」

 彼は向き直った。

「やはり明日の作戦は夜がいいと思う」

「夜。新月だぞ」

 ティムラムは気が進まなげに言った。

「またか。お前は闇が恐いのか」

「ああ恐いね」

 ティムラムは投げ遣りに言った。

「灯りもなく夜歩くのなんて考えたこともない」

 彼は言うのも嫌という体で言った。

 ティムラムは幼い、まだ二歳半くらいの時に、酒の飲みすぎが元で頭のおかしくなった親戚の叔父の手によって真っ暗な納骨堂にまる二日間閉じこめられて以来、本能的に闇を嫌うようになった。発見されたとき彼は、肉体ではなく精神の方が、半死半生に近かったという。

 それだけの恐怖を味わったのだ。

 闇。

 この世で一番恐ろしい魔物。

 どれだけの強情者がどれだけ音も光もない闇のなかで過ごすことができるだろうか。

 闇は混乱を呼ぶ。闇は恐怖を生む。最初のうちはいい。しかし一時間、二時間、三時間……。長い間なにも見ずに一人でどれだけ暗闇のなかにいることができるか。こころの弱い者はそれだけでも闇の持つ恐ろしさに耐えきれず発狂してしまうだろう。

 闇はそんな恐ろしいもの。

 ティムラムはそれを理屈でなくこころで、本能で知っていた。

「……」

 リードはそれ以上なにも言わなかった。二人の目の前でパチ、と火が爆ぜた。


 任地には夕方近くになって到着した。隊長と副長はそれぞれ自分の隊を引きつれて、かなり離れた場所で配置についていた。今回は少々大きな戦のようなものをしなければならない。と、いうのは、たちの悪い野党が巣食っていて帝国領民がひどく迷惑しており、生活するのも危ういという報告を受けたからである。副長ティムラムの隊はまぶしいほどの篝火を焚いていたが、隊長リードの隊は、松明を持っている三人の兵士以外は、不気味なほど暗闇を纏っていた。

 ヒゥー……

 密かに鳴る合図の笛……・。闇の中にまた闇が動く。ティムラムの隊はさながら光の塊、人影が地に映れば月でも出ているのかと天空を思わず見上げるほどに。

 シュッ……

「う……っ」

 ティムラムの隊の兵士が低く呻いて倒れた。ティムラムはハッとして振り返った。兵士の首には太い矢が深々と突きささっている。

「火を消せ!」

 彼は怒鳴る。そして闇。松明がくすぶる匂い、微かに動く気配、人の影、そして蘇るは体の奥底に眠る記憶にない記憶。黴の匂い、冷たすぎる空気、どこを見ても、闇……  ティムラムは闇の中一人で汗を滝のように流していた。呼吸は荒い。恐怖で身体がガタガタと震える。剣を持つ手はいつしか下がり、瞳は逃げるようにして閉じられる。しかし逃げるつもりで瞳を閉じても、やはりそこにあるのは闇。

 逃げだしたくなった。足が、もう前へ動かない。前の方で戦闘が始まっている。リードと、いくつかに分かれた他の部隊だ。早く行かなくては、号令を早く。しかし喉すら凍りつき、足が痺れてもう立てない。ティムラムはとうとう立ちすくんだ。

「ティム!」

 その時であった。戦いの合間から、リードがこちらに声をかけているのだ。それは強く逞しく、彼そのものを表す声であった。ティムラムはこの声ですべての呪縛から解き放たれたようにハッとなって、顔を上げほぼ反射的に、

「---------副長隊、行け! 突撃!」

 その合図で彼の部隊の兵士たちも目的を見つけて踏み込む、あとは声だけが頼りの闇の中での乱闘戦。そして闇のなかでティムラムを新たな恐怖が襲った。

 仲間を殺してしまったらどうする? そのため彼はまた一歩も動けなくなった。飛びかう怒号、闇のなかの血のにおい、ティムラムは頭が狂いそうになるのを押さえられなかった。目の前にザッという音と共に人影が近寄ってきた。敵だ!

「ティム! 刺せ!」

 どこかでリードの声がした。彼は反射的に目の前の人影を刺した。重い手応え。

 ティムラムはやった、と思った。恐ろしくはない、同士討もないではないか。しかしティムラムのその安堵は次の瞬間闇よりも強い恐怖となってかわった。誰かが灯した松明のほんの微かな灯りが、ティムラムの剣の先にいる人間を照らし出したのだ。

「---------リード……!」

 彼は目を細めてこちらを見ていた。口からはおびただしい血。

「……」

「リード!」

 ティムラムは急いで剣を抜きそっとリードを横たえた。彼が助かるはずがなかった殺すつもりで刺したのだから。

「リード……何故---------……」

「……闇が怖いか……」

 昨夜と同じ問い掛けを、友は再度口にした。

「---------」

「俺を手に掛けた恐怖と共に闇に対する恐怖も葬り去れ……

 闇より恐ろしい思いを今お前は傷ついた俺というかたちで目にした。お前はもう闇を恐れる必要は……ない……」

「リード……な……どうして……」

 リードは血塗れの手でティムラムの腕を掴んだ。

「……よく聞くんだ。お前は……将来絶対帝国に必要な男になる。その男がいつまでも闇を恐れてどうする」

「しかしこんな方法でなくても……!」

「いいんだ……どうせ俺は長くない」

「リード?」

「胸を患っている。もうあまりもたないんだ……」

「---------」

「……よかった……ただ弱って死ぬより、お前のために、お前の手のなかで最後を迎えられるなんて……」

「リード!」

 ティムラムは叫んだ。手のなかのリードがどんどん重くなっていく。

「ティム」

 グッと手を掴む力だけが強くなり、ティムラムは混乱していたこころが安まっていくのを感じた。

「いいか。もう闇は怖くない。この恐怖に勝つものはない。さあ行け。副長のお前が指揮する。そしてお前は……帝国の軍人の頂点に立て……!」

 カッと目を見開いたままリードは言った。それが最後の言葉だった。

 松明はいつの間にか消えている。戦場は混乱状態である。ティムラムは闇のなかで友の身体を抱えてしばらく泣いていた。そして顔を上げると、流れる涙を拭いもせず、怒号飛びかう闇を睨んだ。

「右へ回れ! いっせい攻撃!」

 作戦は見事成功し、ティムラムはそのまま隊長へ。やがて代が替わり、新しい皇帝を迎える頃には彼はさらに昇格、今の妻と出会い心の傷を長い時間をかけて癒し、そして将軍になる。

 友の言葉どおり、帝国の軍の頂点へ。

 今でも思う、彼が生きていたら。

 自分などは及びもつかない人間になっていた。彼は逸材だった。大将軍と呼ばれる男になっていただろう。しかし彼は、彼の運命は、それ以上永らえる運命ではなかった。彼は既に死を前にした自分を犠牲にして、もう一人の逸材を育てたのだ。

 なんという潔さ、誰にも真似はできまい。

「……」

 そして将軍ティムラムは、こうして闇のなかの灯りを見ては、時折友のことを思い出すのだ。

 闇輝隊の兵士は通常以外ではほとんどと言っていいほどに闇のなかでの作戦を遂行している。彼らは闇を恐れない。最初は戸惑い、迷い、うまくいかないことも多くあったのだが、そんな時彼らは、必ず闇夜に浮かび上がる切り絵のような将軍の影を見つける。金の髪、黒い瞳、黒いマント。

「恐れるな! 恐ろしいのは敵も同じだ! 己れのなかの己れを手放すな!」

 そうして闇輝隊は闇夜での戦いを得意とするようになった。毎回毎回の戦のたび将軍のこの言葉を聞く。闇などそう慣れることのできるものではないゆえ、戦場で将軍の姿をみとめこの言葉を聞かないかぎりは闇に対する恐怖の封印が解かれない。そして彼らはそのたびに思う、

 闇将軍の味わった、彼らの知らぬ闇の恐怖を。



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