第三章 将軍の涙 13

「ふう……」

 アナスタシアはベッドの上でため息をついた。ふかふかのベッド。ここは久しぶりの自分の部屋、宮殿の宿舎だ。

 あれから残党をすべて蹴散らした氷竜隊は、一旦その場でキャンプを張り直し、幹部たちの軍議の結果、霞暁隊のヌスパド将軍に将軍アナスタシアの容体を説明し、一週間早い引き継ぎを願った。無論ヌスパドのこと、快く引き受けてくれた。久しぶりに会ったとき相変わらず豪快に笑って、

「アナスタシア殿。相変わらず大変ですなあ」

 と言ってまた笑った。アナスタシアは苦笑いするしかなかった。

 それからアナスタシアはリィナにもらった薬湯の紙片を医者に渡し休息に入ったというわけだ。

「無理をしすぎた」

 アナスタシアは呟いた。近くにいた侍女がくすくすと笑ってグラスに水を注ぎ始めた。「閣下には驚かされましたわ。その状態で騎馬でご帰還なされるのですもの」

「誰が不様に抱えられたり馬車に乗ったりできるか」

 侍女はくすくす笑いを絶やさない。

 アナスタシアは昨日、帰還した皇帝の召喚を受けた。玉座の間でひざまづき彼の言葉を待つのはかつて幽閉されたときを思い起させた。

「……」

「久しぶりだなアナスタシア」

「……はい」

「今まで何をしていた」

「……」

 アナスタシアは黙して答えなかった。将軍たちは一瞬、冷汗を体中のそこかしこに感じたという。答えなければ、不在の長かった理由を答えなければ、また皇帝の逆鱗に触れる。 なぜ答えない? 自分のためだというのに。どうなるかはわかっているはずなのに。

「アナスタシア」

「---------はい」

「なぜ答えぬ」

「---------」

 皇帝の言い方は致って穏やかだった。詰問というよりは諭すような口ぶりだった。

「どこでなにをしていたかを申せ。肋骨を折ったそうではないか。そこまで治療するのにあの常冬の国でどうやって暮らした」

「---------」

「アナスタシア」

「言えませぬ」

 !

 将軍たちは顔を見合わせた。言った! アナスタシア将軍はなにが待っているかを承知の上で。

「---------」

「申し訳ありませぬ」

「どうしてもか?」

 アナスタシアは深くひざまづいたまま瞳を伏せた。

「---------幽閉覚悟の上でございます」

「---------」

 皇帝は彼女を見た。こんな言葉が来るとは思っていなかったのだろうか。驚いたような表情が一瞬見え隠れする。やがて皇帝は将軍達もびくりとするほどの大きな声で笑った。

「いいだろうアナスタシア。その度胸に免じて不問に付す。負傷していると聞いたゆえもう戻って良い」

 言うや皇帝ヴィルヘルムは立ち上がった。皇后が続いて退室し玉座の間に十二人の将軍だけが残って、彼らはアナスタシアのもとへ歩み寄った。口々に安堵の言葉を彼女に述べる。

「アナスタシア殿」

「パド殿」

「いやあ、あなたには本当に驚かされます」

「……」

「いやいやよく陛下を相手にあそこまで申されました」

 と、最古参ヴィウェン将軍もやってきて言う。

「幽閉覚悟とは、ずいぶん思い切った言葉でしたがな」

 十二人の将軍はそれぞれ笑った。近衛の兵はそれを聞いていて、やはり器の違うすぎる人ばかりなのだと、改めてゾッとしたという。

「やれやれ」

 アナスタシアはベッドの上で呟いた。冬はまだ長い。平原にも時々雪が舞い散っては緑の上に白い粉をふりかける。しかしあの山の深い深い雪にはとうてい及ばない。アナスタシアは心のなかで彼らの無事を祈った。彼らは彼らなりに、無事に悲願を達成できるようにと。

「草原もやっと静かになったようだな」

「ええ。先のレリック会戦で大敗したルクリーエも滅亡したと聞きます」

「---------」

 アナスタシアは硬直した。信じられない言葉が脳に到達し、理解するのに時間がかかった。

「なんだと!」

 アナスタシアは勢いよく起き上がろうとして、

「う……」

 と胸を押さえた。

「閣下。急に起き上がられては」

「それよりどういうことだ。ルクリーエが滅亡?」

「あら、閣下はご存じなかったのですか。陛下が遠征に行かれていたのもそのためです。 なんでも、このまま放っておくわけにはいかないからと」

「そんな……」

「玉紗隊と藍蓮隊を引きつれて……・・確かに討伐とは聞いておりましたが、滅亡までとは考えておりませんでしたわ。そこまでおやりになるなんて想像もしていませんでしたから」

「---------」

 どういうことだ?

 では私があの日玉座の間で謁見した時……帰還なされたての陛下は、あれはルクリーエを滅亡させたあとの帰国だったというのか?

(そんなことは一言も……)

 それに二個師団を率いてというのはどういうことだ。一万五千五百も引きつれて戦争するほどの国か、ルクリーエが? ただの兵士ではない、帝国の兵士は世界最強とうたわれるほどなのだ。厳しい訓練を受け、それに日々耐えているからこそ最強の名を冠されているとはいえ、ルクリーエと比べた場合、帝国の兵士は三倍の働きと実力をもつ。そんなに連れていかなくてもいいはず。それにそういえば昨日づけで将軍の誰かがルクリーエに発ったと聞いた。それは何のため?

 それに玉紗隊と藍蓮隊? カイルザートとラシェルは十二将軍のなかでもかなりの知識人だ。アナスタシアと三人並べば恐いものなしといわれたほどの二人。

「---------」

 まさか陛下は……あの蛮族の国を攻めるのに際して、そのとき手元にいた将軍で一番知識人を選んだというのだろうか? それは、かの国への当て付けのつもりなのだろうか?

 アナスタシアはその日、落ち着かないようだった。何度考えても皇帝の思いがよくわからなかったが、やがて考えるのをやめたのか、三日経つ頃にはすっかり落ち着きを取り戻した。そんなある日のことである。

「か、閣下。アナスタシア閣下」

 女官がひどく取り乱した様子で入ってきた。本を読んでいたアナスタシアは、

「なんだ。どうした」

 と物静かに聞き返した。女官は何か言おうとして、しかし震えがとまらず、おろおろとしてなかなか言い出せないようだった。

「あの、あの、あの、あの、」

「どうした。落ち着け」

 普段はとても落ち着きのある女官だったので、アナスタシアは不審に思ってそらちを見た。

「こここここ、皇、帝、陛下、が、」

「なに?」

 よく聞き取れなかったアナスタシアがもう一度聞き返したときだ。

「よい」

 慌てふためく女官の隣から、ひどく聞き慣れた、低い声が届いた。

 皇帝ヴィルヘルムであった。

「陛下……!」

 侍女は慌ててそこにひづまづいた。アナスタシアは勢いつけて起き上がろうとしたが、「痛っ……」

 と胸を押さえて呻いたので、侍女は慌ててアナスタシアを支えた。が、皇帝が側に寄ってきたので、また慌てて膝まづかねばならないという、ひどく忙しいことを侍女はしなければならなかった。

「陛下……このようなところへ」

 アナスタシアは息を切らせながら絶句した。侍女が彼女を支えながら枕を起こす。

 皇帝が宿舎に来るなど考えもつかないことであった。家とはちがう空間なのだ。ごくたまに将軍の家に行ったりするのとは、宿舎という、「兵士」の住む空間を訪れることとはまったく次元の違うことなのである。これにはアナスタシアも慌てた。

「みな落ち着け」

 皇帝は手になにか持っていたが、アナスタシアや侍女にはそんなことはどうでもいいほど些細なことだった。まさか臣下の、それも屋敷ならともかく、宿舎に来るとは!

「陛下……」

「アナスタシア。これは見舞いだ」

 皇帝ヴィルヘルムは持っていた木の箱をそこにあった小さな丸テーブルに置いた。全部で六つある。箱自体は大きくはなく、白い布に各箱ごと包まれていた。

「肋骨にひびが入っていると聞いた。養生せよ」

 それだけ言うと皇帝は帰っていった。

「……」

 アナスタシアはまだ痛む胸を押さえながらその箱を凝視していた。見舞い? 皇帝が将軍とはいえ一臣下に見舞いなど、聞いたこともない。

「---------」

 あの方はいったい何をお考えなのだ。

 アナスタシアは射し込む光に映った自分の影を見ながら思った。

「……開けてくれ」

 低く、抑揚のない声で言ってみる。侍女がまだ怯えた様子で箱に恐る恐る近付く。彼女たちにとって皇帝などとは、神にも近い存在なのだ。この目で見ることですら稀、見ることができてもそれは、豆粒ほど小さく、そっと見るだけ。こんな間近で、しかも喋っている皇帝を見るなど、もうないことだと思ったのだろうか。

 恐る恐る侍女が開けた箱の中身は---------。

「ひいいっ」

「---------」

 侍女が慌ててとびのいた。考えようによっては不様なものだったが、箱の中身を考えると、あながちそうとも言えなかった。

 それは首だった。

 六つの首。血にまみれ、恨めしそうにこちらを見ている。いつ絶命したのかは知らぬが、血の固まり具合からいってもそう前のことではない。しかしつい最近でもない。

 そしてアナスタシアはその首のどれにも見覚えがあった。

「---------」

 これは……。

(これは私を凌辱した六人の将軍だ)

 驚きで声も出なかった。ではもしかしてルクリーエに発った将軍の誰かはこれを?

「---------」

 あの日、涙は出なかった。

 それは自分の心が、舞い込んできた事実を不幸としてとらえなかったからだと思っていた。どんなこともさらりと享受し、不幸を不幸だと思わないから、そしてああして奪われたところで、今さら男を知らなかったわけでもなしと、だから喪失感や虚脱感もなかったのだ、涙が出ないのは悲しいと思わなかったからだと、そう思っていた。ずっとずっと今まで、そんなことすら忘れていた今の今まで、自分ではそう思い込んでいた。

 違うのだ。

 アナスタシアはこころのどこかで皇帝のことを感じていたに違いない。涙が出なかったのは皇帝がいたからだと、皇帝がいるからこそ涙も溢れることを覚えなかった。それは彼に対する絶対的な安心感がさせたのだろうか? 涙が出るほどのことがあっても彼を見ていればそれもおさまるということに、アナスタシアは気がつかなかったのだ。

(---------)

 アナスタシアは首を見て再認識した。

「……しまってくれ」

 言ったが、返事がないので見てみると、侍女は失神していた。

 仕方なかろうとアナスタシアは人を呼んだ。そして兵士をここへ寄越させると首を片付けるよう言い付け、そして眠った。

 後日聞いたところによると、あの六人の将軍の首は帝国がルクリーエを攻めている間中人目につくところで晒しものにされていたという。そしてその首を取りにわざわざルクリーエまで行ったのはラシェル将軍だとか。

「……」

 アナスタシアは窓から見える空に目を細めた。

 皇帝がとった仇。絶対的安心感がもたらしてくれたこの安堵。

 もうなにも恐れることはない。恐ろしい思いに駆られて夜目が覚めることも、湯に入るとき人知れず怯えたりもしなくていい。それはその恐怖の、怯えの根源が断ち切られたからであった。そしてその根源は、彼女にとって一番の安心感をもたらすものによって断たれたのだ。

 アナスタシアは充足と安堵のため息をついてそっと目を閉じた。あの男に一生仕えていようと思った。日の光がうららかに窓を照らし、しばし氷姫は安息の眠りにつく。

 冬が明けるまでの、束の間の休息であった。

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