第三章 将軍の涙 12
リィナの手厚い看護も手伝って、アナスタシアは回復しつつあった。この前は急に、そしてかなり激しく暴れたのでまた傷が痛みだしたのだが、今はもう前のように、歩けるくらいにはなっている。しかしリィナ曰く、しばらく安静にしていないと、ひびがはいるかもしれないという。脅しともつかない言葉に、さすがのアナスタシアも苦笑したものだった。
最初は異端者、厄介者として見られていた彼女も、度重なる事件と村人との関わり合いによってその存在を受け入れられつつあった。そして年が明けたある日、彼女は帝国に戻るという。惜しむ空気はあったものの、誰一人として引き止める者はいなかった。
その夜彼女を見送る簡単な宴のようなものが開かれた。外に焚火を焚いて、みなで飲み、食べ、騒いだ。いくつも火を焚いていたので寒くなく、またその日は狙ったように暖かかったので、楽しく過ごすことが出来た。
みなでアナスタシアのこれからの武運を願った。お返しにアナスタシアは彼らの幸運を祈った。交わされる杯、飛びかう別れの言葉、また笑顔。アシオスも妻のアエリアも、息子と共にやってきて厚い感謝を述べた。ファーエはいつまでも離れなかった。ゼファは相変わらずの無言だった。テュラはリィナと共に肩を並べて短い別れを言った。アルは、彼女のもとには来なかった。
別れの夜は終わりその日アナスタシアは村での最後の夜を過ごした。
「これ」
リィナが小さな紙片をアナスタシアに渡した。
「?」
「薬湯の調合法。帝国に戻ってもしばらく飲んだほうがいいから」
「やれやれ有り難いな。宿舎でもあのまずい薬湯を飲まねばならんのか」
「ま……」
二人は笑い合った。それからひとしきりして、リィナは真顔になってアナスタシアに言った。
「あなたには、本当に感謝しているわ。まだまだ私たちのやり方が杜撰だったりとか、食糧のことも、年中雪のここでは問題だったの。もう会うこともないだろうけど、私たちは私たちのやり方でシェファンダを倒すわ」
「その時はまた会おう」
リィナはくすりと笑った。
「そうね」
それから彼女は、もう遅いから自分も寝るといい、アナスタシアに良い夢を、と告げ、そしてもう一度感謝の言葉を呟くと、静かに部屋を出ていった。アナスタシアもほどなく眠った。わけのわからぬ充足感、そしてけだるい倦怠感。帝国に戻る。その思いゆえか、アナスタシアはしばらく眠れなかったが、やがて、自分でも気がつかないうちに、安らかな眠りにおちていった。
翌朝は、村人が全員で見送ってくれた。
「本当に一人で大丈夫かい」
「ああ。もう大して胸も痛まないし、麓までだったら大丈夫」
アナスタシアは村人全員を見回してほっと息をついた。それは、氷姫の微笑のようにも見えた。アシオスが妻とやってきてもう一度感謝の言葉を述べた。
「元気でやれ。お前の息子が大きくなる頃は、シェファンダもなくなっていようよ」
アシオスとアナスタシアは戦う人間特有の笑いを浮かべた。アエリアも側に来て、彼女に笑いかけた。その腕のなかには息子が。アナスタシアはちらりとそれに目をやって離れようとした。この女のことだからまた泣かれてはたまらないと思ったのだろう。
「あら……」
と、アエリアが口のなかで呟く。息子が、腕のなかのゼティオンが、身を乗り出してアナスタシアに手を伸ばしている。
「---------」
「だあ」
かつてその藍色の瞳を見て泣いた赤子が。
手を伸ばし彼女にしがみつこうしている。
「まあゼティオン……きっとあなたに助けられたのがわかるのね」
「---------」
アナスタシアは無言だった。そして今度こそ別れの言葉を言うと、背を返して山を下りていった。雪を踏みしめながら、アナスタシアは顔を上げられないでいた。別れが辛いのでも、彼らと離れたくないわけでもない。ではこの胸の清涼感、からっぽになったようなこの爽快感はいったい何?
自分を見たあの赤子の瞳の純粋さ---------。
「---------」
アナスタシアは硬直した。
瞳から流れる、一筋の涙。
驚いているのか、自分で泣いたことに驚いているのか、アナスタシアは動かなかった。「ふ……」
やがて涙は頬を伝いぽとりと落ちる。驚きで見開かれた藍色の瞳は変わらない。アナスタシアは静かに瞳を閉じた。抑えようのない、自分でもよく理解できない感情が流れようとしている。アナスタシアは自嘲気味に瞳を押さえた。
「かつて六人の男に凌辱されても流れなかった涙が……」
アナスタシアは空を見た。
私はあの赤子に救われた。
「---------」
あの一切の汚れのない瞳、自分を見る純粋な瞳、あの汚れのなさ。
瞳を細めて空を見る、藍色の瞳に宿る空色の空。
アナスタシアが、また顔を上げて歩きだそうとしたとき。
「アナスタシア---------っ!」
テュラが、後ろから追い掛けてきた。彼女に追い付くとしばし息を切らせ呼吸を整えている。
「はあ……早いなあ。やっと追い付いたよ」
「なんだ。忘れ物でもしたか」
「いや。やっぱり送っていくよ」
「……」
アナスタシアは薄い笑いを口元に浮かべて黙って歩きだした。かがんだり走ったりするとまだ胸が痛むが、それ以上無理さえしなければ大丈夫だ。二人は言葉少なく、次第になだらかになっていく雪の上を歩いた。テュラは黙々と前を見ていたが、時々アナスタシアの方を見ているのには、彼女も気が付いていた。やがて国境近くまで来ると、テュラは別れの言葉と共に懐からなにか取り出した。
「これ……やるよ」
アナスタシアは渡されたものを見た。
「---------」
掌に転がったのは一対のピアスだった。桐かなにかだろうか、木のピアスで、細かい彫刻がしてある。小粒の丸薬のような形をしていて、その細工はよく見ると花かなにかのようにも見えた。
「俺たちにくれちゃったからもうないだろ。代わりに」
アナスタシアは視線を掌からテュラに移した。
「お前が?」
「あ……いや……」
テュラは困ったように頭に手をやった。まさかそれを聞かれるとは思わなかった。
「?」
「いや実はこれは……---------アルが作ったんだ」
「……」
「あんたにって。自分で渡せばいいんだろうけど、そういうことのできる奴じゃないから。 ほんとは、宴の朝に渡してくれって頼まれたんだけど……その、渡すも渡さないも俺次第だって言われてさ」
「そうか……」
アナスタシアは静かに目を閉じた。物静かなアルの横顔。アナスタシアはぎゅっと拳を握った。その拳のなかにはピアスがある。
「礼を言っておいてくれ。そしてお前たちの成功を祈ると」
「ああ」
テュラは勝ち気な微笑みを浮かべるとアナスタシアから離れた。彼女はしばらく彼を見ていたが、やがて振り向きもせず、雪の上を歩いていった。丘の上からは、遠ざかる氷姫の後ろ姿を、消えるまで、消えてもなお、アルが見送っていた。
5
その頃帝国は、ルクリーエの討伐にでかけた皇帝の金鷲隊と、第四個師団玉紗隊カイルザート、第九個師団藍蓮隊ラシェルの両将軍が自隊と共に留守をしている以外は、氷竜隊が国境警備にあたっているだけで、いつもの生活そのものであった。先日のルクリーエの宣戦布告で予定を狂わされた皇帝は、狂ったのならそのままと、ルクリーエの本拠地に向かって戦に乗り出した。そのために供をすることになったのがカイルザートとラシェルということだ。
不可解な皇帝の行動に誰もが一瞬訝しげな表情をしたものだが、相手がルクリーエという野蛮国なだけあって、このまま放ってもおけないと思い直したのだろうか、異議を唱える者はいなかった。
さて国境の警備にあたっている氷竜隊だったが、戦も終わっているということもあり、あまり慌ただしい雰囲気はそこにはなかった。しかし初日は草原の辺りにたむろすると聞く盗賊団を捕らえたり、七日目で付け火があるなど、なかなか気が抜けなかった。皇帝が命じたのは三週間の警備、それ以内に皇帝が帰国した場合はいいが、しない場合はすぐさま霞暁隊と引き継ぎを行なわなければならない。イヴァンは大忙し、緊張の連続だった。 将軍代理を務める大将は二週間目の朝、表が騒がしいのに気がついて、なにがあったのかとうんざりする思いでテントの外に出た。
「何事だ」
「あ、大将殿。それが……」
「イヴァン」
槍を構えた兵士の向こうから聞き慣れた声。イヴァンは硬直した。
「---------」
「やれやれ顔を忘れられるようでは私も将軍失格か」
「---------閣下……!」
「え、閣下?」
「でででででは」
アナスタシアは自分に槍を向ける兵士ににやりと笑いかけた。
「役目ご苦労。ただ今帰還だ」
「こ、これは失礼を……」
「いやいい。仕事熱心でなにより。まあこの格好では気がつかないのも無理はない」
アナスタシアはイヴァンの方を見た。あの勝ち気な笑い。からかうような瞳。
「どうしたイヴァン。私が死んだとでも思ったか」
「い……いいえ……ただ……」
「ただ?」
「よくぞご無事で……」
アナスタシアはにっこりと笑った。十年に一度あるかないかの笑顔だ。
「うむ。とりあえずお前のテントに案内せよ」
こうしてアナスタシアは氷竜隊に舞い戻った。
この朗報はいち早く全軍に伝わった。帝国には報告の書状、ルクリーエで戦闘しているはずの皇帝には光鳩で報告がなされた。アナスタシアは歩き詰めが堪えたのか、五人の大佐と四人の筆頭魔導師、そしてイヴァンがテントにやってきたとき、ベッドに横たわっていた。
「閣下、お体の具合でも?」
フルンゼ大佐が気遣わしげに聞くと、アナスタシアは固い簡易ベッドの上で疲れたため息をついた。
「うむ。実はついこの前まで肋骨を折っていてな」
「肋……! 大丈夫なのですか」
「まあ……暴れなければ」
「あと一週間……何事もなければ」
レーヴェが呟き、アナスタシアがまあそれはとうてい無理だろうと言おうとしたとき、報告の兵士が血相を変えて飛び込んできた。
(そらきた)
「たっ大変です!」
「どうした」
「ルクリーエ残党。それから付近の山賊盗賊が徒党を組んでこちらに向かってきます!」「数は」
「わかりませんが……くずれ魔導師や弓を持った者が多く……!」
アナスタシアは起き上がった。
「よし。イヴァンはホーネットとフルンゼと共に二千引きつれて正面から。後ろから魔導部隊が援護せよ。それからティネッタ、ラッシュは弓隊と共にゆっくり後ろから迂回して挟みこめ」
「はっ!」
「イヴァン」
「は」
「誰かよこしてくれ。指揮をとる」
「はっ」
イヴァンは大佐たちと共にテントを出た。彼が正面から迎撃するので、将軍の決定を伝える側役が必要なのだ。しばらくして表へ出、目を細めて戦いの様子を見るアナスタシアの元へ、イヴァンの選んだ彼の代役がやってきた。そちらへ顔を向けて、アナスタシアはほんの少し反応した。
「おやお前か」
「はっ……」
それはいつだったか、アナスタシアが街で出会って家まで送った老婦人の息子の少佐だった。アナスタシアは戦場に目を移しながら言った。
「母御は元気か」
「は……おかげさまで。すっかり閣下のファンに……あ、いえ」
アナスタシアは慌てて言葉を取り消す少佐を見てくすりと笑った。まさか少佐の方も覚えてもらっているとは思わなかったのだろう。
「さて……」
アナスタシアは目を細めた。
「戦場というにはあまりにも稚拙だな」
元々戦略という名のすべてから縁のないルクリーエの兵の残党と、俄か寄せの山賊と盗賊ではたかが知れている。徒党を組むのにしても、軍隊の統率のとれた動きからはかけ離れていた。
「閣下」
「どうした」
「はい。大将殿からただいま報告が」
「言ってみろ」
「右翼側強力。正面勢をおさえるのに手いっぱいで手がまわらないと……」
「ふむ」
アナスタシアは身を乗り出した。足をそこにあった石にかけ、さらに手を額にかざし遠くを見る。
「弓兵とくずれ魔導師がいるのかあの煙は……確かに少々やっかいだな」
二千では足りなかったか。敵が強いのか、多いのか。自分の不在が長かったための手落ちか。アナスタシアにはわからなかったが、とにかく彼女は振り向いて、
「よし。出る。供をいたせ」
「はっ」
レリック会戦での敵の兵士の数は七千近くだったはず。その残党が二千、討伐後に千だとしても残るは千人。盗賊どもを入れると千五百か。よほどの腕の魔導師がいるらしい。 アナスタシアは馬上で剣を引き抜いた。弓兵、あるいは弓を持った人間を攻撃するのは、遠方からでは確かにきついものあったが、それも後方からの大砲の援護射撃で怯んだすきに攻め込み、近くから攻撃すれば恐いものはなかった。また魔導師に手をやいたが正面で戦う魔導師たちが気づいたのか援護してくれ、これも危険はなかった。
「騎馬兵! 五人ついて参れ! 帝国に、皇帝陛下に弓ひく馬鹿者どもを、ここで一気に叩きのめす!」
アナスタシアは剣を振り回しながら叫びまくった。そして耳鳴りのなか、先刻から息が止まるほどの痛みを訴えていた胸が、いきなりぴきり、という音をたてたような気がして一瞬硬直した。
アナスタシアはリィナの言葉を思い出した。
暴れたら、ひびが入るわよ。
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