第三章 将軍の涙 10

 その頃、帝国では、春までないはずの戦の報告を、皇帝が受けていた。

「ルクリーエ……?」

 さすがに訝しげに問う皇帝に、報告の兵士も頭を下げる。

「はっ。たった今宣戦布告して参りました。レリック高原をまっすぐ北上してきますが、いかがいたしますか」

 皇帝はしばらく考えていた。この沈黙の間、この男の頭にはどれだけの計算と策略が浮かんでいるのだろうか。

「---------出よう」

 しばらくして彼は答えた。

「は。金鷲隊のみでご出陣されますか」

「いや……氷竜隊を連れていく」

 彼は立ち上がりながら言った。

「は……? 氷竜……」

「聞こえなかったのか」

「は、はい」

 兵士は慌てて退室した。氷竜隊の司令室に行かねばならない。皇帝は后に支度をするよう言い付け、彼女が支度している間、窓から鉛色の空を見上げて低く呟いた。

「ルクリーエ……」

「陛下」

 マリオンが後ろから呼び掛けてきた。支度をして彼を待っている。鎧を纏い、留め金を彼女に留めさせ、マントを羽織ると、皇帝は言った。

「行ってくる」

「お気をつけて」

 皇后はそれしか言わない。しかしそのたった一言に、どれだけの思いが秘められているかは、皇帝ヴィルヘルムが一番よく知っていた。

 彼は廊下を小走りに歩いた。戦のときはいつもこうなのだ。

「父上」

 と、廊下の曲がり角の向こうから、皇太子ゼランディアが顔をのぞかせてきた。皇帝は大して顔色を変えずに反応した。

「ゼランディアか。どうした。父はいま忙しい」

「あの……戦に行かれるのですか?」

「そうだ」

「氷竜隊と一緒に……」

「---------」

 なにが言いたいのだろうと思ったのか、皇帝は無表情な目で息子を見た。もじもじとしてゼランディアはその視線に耐える。

「でもアナスタシア将軍は行方不明なのでしょう」

「ああ……」

 皇帝は答えたが、その瞳には、何か意味があってそうしているのだという彼の無言の言葉が皇太子に言っていた。しかし、それを聞くことは、まだ幼い少年にはできなかった。

「父上」

「うむ」

「アナスタシア将軍は、父上を素晴らしいと言っておりました」

「---------」

「自分などが束になってもかなわないくらい強いと……どうすれば将軍や父上のように強くなれるのでしょう」

「---------」

 皇帝はしばし沈黙して息子を見ていた。これも血なのか。年齢が嘘のようなこの侮れなさは。彼はしゃがんでゼランディアと視線を等しくして、そして息子の肩を掴み、静かに言った。

「ゼランディア……。強い男になれ。心も身体もだ」

「……」

 言うだけ言うと皇帝はまた立ち上がり、ではなと言うと廊下の向こうに消えた。

 少年は、それを黙って見送る以外は、なにもできなかった。


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