第三章 将軍の涙 9

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「ファーエがいないわ!」

 誰かが叫んだのはもう昼近くなってからだった。ゼファもその時は戻ってきていた。男たちはいくつかに別れて偵察に行き、もうすぐ戻る頃である。

「何……」

「入ったのは確かよ」

「あの子ったらまさか……!」

「案ずるな。じき戻ってくる」

 部屋に入っていた方がいいと言われたのをここにいると言い張って、相変わらず部屋の中央にいたアナスタシアが静かに言った。ゼファが珍しく顔を青くした。

「なんだと……」

「もうすぐ戻ってくる」

 ゼファはアナスタシアに詰め寄った。

「ファーエに何かあってみろ。ただではすまさない」

「ならばずっと側におればいいのだ」

 アナスタシアは鼻で笑った。詰め寄られた拍子に肋骨が悲鳴を上げたせいか、額には脂汗が浮いている。

「……」

「アナスタシア……」

 リィナも気付いた。

「今はそんなこと言っていられない」

「でも……!」

「薬湯を持ってきてくれ」

「……」

 リィナはまだ言い足りないようだった。しばらくして男たちが戻ってきた。ファーエの不在とその原因に、彼らも色めきたった。

「なんだと……!」

「なんてことを!」

「いくら帝国の将軍でも……!」

「許さないか。それより前に偵察はどうだったのだ」

「……」

「数が絶望的に多い……女たちは逃げきれるかどうか……」

「しかしここは反乱軍の本部だ。向こうはそれに気付いていないから本国に連絡していない。ここが落ちたら世界中に散らばっている仲間たちが……」

 と、その時、やはり台所の裏口から、ファーエが雪にまみれて戻ってきた。

「ファーエ……!」

「よかった……さあ早く着替えて」

 しかしそんな大人たちの手を振り払って、彼は真っ先にアナスタシアの元へ行った。

「待っておったぞ」

 アナスタシアは長椅子に寄り掛かったままテーブルに大きな白い紙を広げた。

「よし。ここが私たちのいる村だ。山の頂から稜線はどうなっている?」

「ここを……こうして斜めに……」

 少年が指でなぞった線を、アナスタシアはきれいに鉛筆でたどっていった。ファーエは着替えながらさらに続けた。

「こっちが山で一番急なの。枯れた木がここにあって……」

「どれくらいの傾斜だ?」

「うーんと……雪玉を転がすと、下の方までにはおっきくなるくらい」

「ここの雪質はどうだった? 調べてきたか」

「うん。お姉ちゃんがみんな見てこいって言ったから」

「いいぞ。それで?」

「うん。水がいっぱいで、べたべただった。足がとられるの」

「……と。それからこの辺りは」

「木がいっぱい」

「どれくらい」

「十本……以上」

 アナスタシアは次々に彼から得た情報を紙に書いていった。ファーエがすべて話し終える頃には、そこには一枚の精巧な地図ができあがっていた。

「よし……」

 アナスタシアは地図を見て呟いた。

「これで私は外にいるのも同じだ。しかし身体は動かない。私の身体になるのはお前たちだ」

「……なんだって……?」

「勝ちたいのだろう。ここを守りたいのだろう? 妻や恋人や、生まれたばかりの自分の子供を死なせたくないのなら、黙って私の言うことを聞け。勝たせてやる」

「勝手なことばかり……!」

「待て」

 アルが抗議しようとした仲間を手で制した。アナスタシアを見る。

「本当にできるのか」

「試してみろ」

 二人の視線はしばらく相手を離さなかった。ほどよい緊張感がそこに漲った。

「よし」

「アル……!」

「なにを……!」

「今は彼女の言う通りにするんだ。それ以外に方法がないのは偵察に行った俺たちが一番よくわかっているはずだ」

「……」

「---------」

 男たちは顔を見合わせた。どうする?

「……わかった」

「それで何をすればいい」

「この中で弓に優れた者は?」

「俺だ」

「それから俺も」

「二人だけ?」

「いや、後はライルとリュオンが行け。足りるか」

「まあいいだろう。それから女たちもやることはあるぞ。裁縫道具でまずは……」

 アナスタシアは座ったままてきぱきと指導した。よそ者特有の知識不足の補充にはアルが適任だった。

「それからここは簡単な弩を使って五人くらいで攻め込める。急だから敵は足をとられるし抵抗もしにくい。這いつくばって攻撃しろ。頭は出すな」

「弩っつったって……そんなものないぜ」

「作り方を今から説明する。誰か木を伐ってこい」

 実に無駄がなかった。すべての説明を終えるとアナスタシアは強い瞳で彼らをとらえ言った。

「行け」

 彼らはいっせいに行動をおこした。女たちは得意の裁縫で小さな袋を何枚も造り、、子供たちは石を運んできてその中に入れ、男たちの元へ運んだ。木を伐ってきて弩の作り方を心得た男たちはいっせいに場所について弩を作り始めた。アナスタシアと残った女たちは矢を作った。彼女にならって弓をつくる女もいた。

「ようし。ファーエの話によるとここは雪がさらさらしているはずだ。で、傾斜が一番きつい……と、いうことは、あらかじめ雪だるまをつくって転がせば向こうは登ってこれまい」

「しかしそんなことをしたら今度来たときがひどいぞ」

「生きては帰さない」

 アナスタシアは冷たい光を瞳に宿して言った。

「ここの場所が知られた以上は絶対に生きて帰すな。一人でもシェファンダに戻れば、次はお前たちが死ぬ番だと思え。いいな」

 それは、彼らが普段あまり触れることのない軍人特有の冷酷さだった。

「でも……」

「そんな甘いことを言っているからすぐに見つけられるのだ。ここが本部で、多くの反乱軍の希望だということを忘れるな。だいたい敵に憐愍などしたら戦ではすぐに首がなくなるぞ」

 アナスタシアの口調が少しきつくなった。いらいらしている。彼女は十の時に軍に入って、以来ずっと軍人としてやってきている。戦のルールというものを嫌というほど知りぬいて、戦の悲惨さもまた知りぬいているゆえか、彼らのそういう中途半端な一面が許せないのだろう。

「テュラ、十人連れて下で待て。向こうが雪だるまで倒れたらすかさず攻撃しろ」

 アナスタシアは顔を上げてテュラを見据えた。

「わかっているな」

 テュラは固くうなづいた。自分は副リーダーなのだ。

「よし」

 アナスタシアは次に女たちに説明をし始めた。テュラの方など見向きもしなかった。それはもう、彼には用がなく、早く行けと無言で示唆しているようなものだった。

「ファーエ、天気を見ておいで」

 アナスタシアはてきぱきしている。戦の時の彼女は、こんなものではないのだろう。彼女のような将軍が十二人もいるのだから、帝国が強いはずだ。そしてこんな個性の強い女を、一人だけでなく、他にも一癖も二癖もある人間までもその魅力ひとつでまとめあげている皇帝というのは、いったいどういう人間なのだろう。テュラは改めて帝国に対する脅威を心密かに感じた。

 戦いは夜まで続いた。血のにおいが風にまじって村まで流れ、月が山の向こうから登ってくる頃、男たちが勝利の叫びと共に村に帰ってきた。一人二人怪我をした者もいるようだが、誰も死なずにすんだようだ。

「どうやら勝ったようだな」

 アナスタシアは満足気に呟いた。


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