第三章 将軍の涙 6
アナスタシア将軍の事故は宮殿でちょっとした騒ぎを引き起こした。彼女の読み通り、春まで戦のないことはほぼ確定していたのだが、それでも氷姫が崖から転落したというのは将軍や多くの官僚をひどく動揺させた。大将イヴァンは戦ののちさっそく玉座の間に呼び出されて皇帝に謁見した。
「申し訳ありませぬ!」
「アナスタシアは崖から落ちたと?」
「は……」
イヴァンは背中に汗が浮かぶのがよくわかった。世の中で、皇帝の怒りほど恐ろしいものはなかった。首をこの場で斬られてもおかしくない失態を、彼は演じてしまったのだ。 かつてアナスタシアが幽閉されたときの彼女の冷静さを思うと、やはり器の違いをひしひしと感じてしまう。
「あれはお前に委任を申し立てたそうだな」
「は」
「……」
皇帝ヴィルヘルムはしばらく沈黙して考えていた。イヴァンには、自分の始末の方法をあれこれと思案しているかのように思えた。
「アルフォンゾ、どう思う」
皇帝は側の第一宮廷魔術師アルフォンゾに話を振った。
「は……恐れながら、わたくしの生命枝の魔法では、アナスタシア閣下はまだご存命かと」
ザワ……
将軍たちもこれには動揺した。冷静なのは一人だけ、皇帝だった。
「生きていると……確かなのか」
「間違いありませぬ」
「ふむ」
皇帝はイヴァンの方に視線を移した。彼もそれを感じたのか、頭を深く垂れる。
「聞いての通りだ。アナスタシアは生きている。が、帰ってこないところを見ると、よほどの怪我をしたか、動けないかどちらかのだろう。どちらにしても生命の保証はあるのだな」
「それは間違いなく」
「イヴァン大将」
「はっ」
「お前はアナスタシアから委任されて氷竜隊をまとめる将軍代理だ。春までよほどのことがない限りは戦はないから安心してよい。が、よしや戦がおこった場合は、皇帝の軍と共に戦うか、なるべく戦わなくていいように他の隊に図らわせる。よいな」
「ありがたきご配慮にございます」
イヴァンはアナスタシアが言った、後は陛下に任せればよいという言葉の意味を初めて理解していた。アナスタシアも皇帝も、並みの人間ではなかった。それから皇帝は、アナスタシアを崖から転落させる経緯を作ったもととなった兵士のことを聞くと、あっさりと首を斬れと命じた。それからイヴァンの事故のあとの処理の手早さを褒めると、アナスタシアも有能な部下を持ったと、有能な部下を二十人以上持つ皇帝は言って豪快に笑った。
ある日テュラがアナスタシアのもとへやってきた。さすがに反省したのか萎縮しているのか、決まり悪げな顔をしている。
「聞いたよ」
開口一番彼は言った。
「悪かった」
こうも言った。アナスタシアは気にしていない、と静かに言ったのみだった。テュラはまだ自分の言ってきたことが決まり悪いのか、おずおずと口を開く。
「……あんたを見つけたのは、俺とアルなんだ」
それはアナスタシアも初耳だった。アルが一人のとき見つけたのかと思ったが、考えてみれば彼ひとりで重傷の自分を運べるはずもなかった。
「---------」
「俺は放っておこうって言ったんだ。みんなのことを考えると、種だとしてもやはりなにか起こるようなことは持ち込みたくなかった。あんたは帝国の鎧を着ていたしな」
「副リーダーとしては当然の感情だろうな」
テュラは一瞬なんとも言えない顔になった。
「だけど村に運ぼうって言ったのはアルだった。もちろんあんたを仲間にしたいっていうのもあったんだろうけど、それは村に着いてからだったらしい」
「……ではなぜ……?」
何か含むような言い方にアナスタシアも疑問を感じた。テュラは長いこと黙っていた。 なかなか言い出せないようだった。自分がこんなこと言ってもいいのだろうかという表情だったが、意を決したのか、彼は顔を上げて言った。
「アルは、多分あんたを好きなんだと思う」
一瞬空白になった。
アナスタシアは予期せぬ言葉に戸惑いを通り越してよく理解できず、その言葉が脳に到達し、それを理解するまで、かなりの時間を要した。
「……なんと?」
「だから、」
テュラは二度は言いたくなさげに言った。
「あんたを好きなんだよ、アルは」
「---------」
アナスタシアは額を押さえた。なんだと?
「うーむ」
アナスタシアは唸った。
「理解できぬ」
テュラはお手上げだな、と呟き、
「確信はないんだけど。雪に埋もれたあんたを見たときのアルの表情は、見たこともなかった。なんかこう……驚いたような、ひどく緊張したような……うまく言えないな」「うーむ」
アナスタシアは腕を組んだ。ようやくこうしても痛くなくなってきている。
「それで私を助けたと?」
テュラはうなづいた。
「うーむ」
アナスタシアは唸った。
「わからん」
テュラはやれやれと肩を落とした。
「慣れてないみたいだな」
「しかしなぜそんなことを私に?」
テュラはまた一瞬考えたが、今度はすぐに答えた。
「やっぱりあんたにいてほしいんだ。あんたが側にいたほうがアルは活気があるみたいなんだ。もちろん別の面でもだけど、でもやっぱりあんなアルを見るのは初めてなんだ。彼のために言ったんだ」
「---------」
アナスタシアは、今度は沈黙していた。
「雪山を血で真っ赤にしたって伝説まで残したあんただ。反乱軍のためにも」
「---------」
「急にとは言わない。折れた肋骨が治るまで。じゃあ俺はこれで」
テュラは言い置いて帰った。アナスタシアはようやく頭がすべてを理解したのか、しばらく考え事をしていたが、テュラの言葉で思い出したのか、自分の名を広く知らしめる元となったあの、テランスレット会戦のことを思い浮かべていた。
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