第16話『忠誠の犬』

 取り乱すリリーを見て騎士宿舎から逃げ出した王子は、心臓を押さえて激しい呼吸を繰り返しながら遮二無二しゃにむに走っていた。とにかくあの場から脱したい一心で、混乱した頭のまま前後もなくとにかく足を動かす。大きく見開いた目には、今しがたの光景だけが繰り返し流れ続けている。


 自分以外の男に心を乱すリリーを見たくない。嗚咽おえつが零れ、ついに立ち止まると、足元の草の上に涙の雫が落ちて静かに葉を揺らした。


 あんな男など最初からいなければ良かったのに。


 ベッドの上で苦しむ騎士を思い出して、王子はそう思った。しかしすぐに、そんな醜い感情を抱いてしまう自分へ激しい嫌悪が湧いた。


「ううっ、おぇッ、」


 頭の中に、優しく微笑むリリーの姿が浮かぶ。彼女が誰に対しても慈悲深いのは知っている。だがあの騎士に対しては、それだけではない深い愛情を感じた。そも自分が彼女と向き合えるほど強ければ、同じように彼女の激情をこの身に受けられたのだろうか。自分のこの不幸な境遇にも泣き縋られ、愛が与えられたのだろうか。


 噛み締めた唇から垂れた血が、ぼたぼたと音を立てて足元に咲いていた白薔薇に色を付ける。それを見て、彼はやっと少し冷静になれた。気づけば庭まで戻っていたらしい。


 王子は血の付いた薔薇の前に膝をつき、気持ちを確かめるように自分に問いかけた。


 このまま諦められるような綺麗な恋ならば、もうとっくに捨てていただろう。


 あの男のことは確かに憎い。昔からずっと欲しくて欲しくて欲しくて、喉から手が出るほど欲しくて夢に見るまで切望して、それでも手に入れられなかったリリーの愛を彼は受けている。


 王子は地面に手をついて、土を握り締めた。それでも、リリーが好きだった。彼女の瞳が誰を映していようとも、この想いは変えられない。愛に狂っている。きっとずっと前のあの日――初めて彼女を見つけたあの幼き日から。


 自分の呪いを解くのはリリーだけだと分かっていたし、そうじゃないならいっそ死にたかった。


 フィリップは、あの騎士を見殺しにしては駄目だと本能的に感じた。今バーナバスを見殺しにすれば、リリーの心の中には一生あの男が居座ってしまう、と。生きている人間には勝てるが、死んでしまった者には決して勝てない。リリーの記憶の中で美しく輝き続けるバーナバスを超えることは、恐らくできない。


 そんな経緯で彼は、ロイドの執務室へ向かったのであった。


「――ふふふっ……」


 王城に向かう馬車の中で、王子は意図せず零れた笑みを隠すように手で口元を覆った。誰に見られている訳でもないが、それでもこのように突飛に笑い声を上げることははばかるべきだ。彼は周囲に視線を彷徨わせ、緩む唇を噛む。


 奇妙なことに、成すべきを成した彼の内心は晴れ晴れとしていた。


 バラモア卿リリーの父に聞いた症状が確かならば、あの男はまだ死なない。かけられた呪いは恐らくじわじわと人を苦しめるものだ。苦しかろうが一晩、いや二晩はあのままに違いない。


 強力な呪いには違いないが、それでも王室付きの魔術師の手にかかれば、一晩もあれば解呪は済むだろう。あとはバーナバスの体力が持つかどうか、そこが問題になってくる。


 呪いが命を蝕むのが先か、救われるのが先か。彼は自身の運命さえも神に賭けるような気持ちで、ただ一つ、リリーの心の安寧を神に願うのだった。


***


「お嬢様、お飲み物を……」

「……はいってくるな」


 誰の顔も見たくない。そう突っぱねられたポーラが扉の前で立ち往生していると、速達を出して戻って来たセヴァが、代わってワゴンを受け取った。


「お嬢様、声が掠れていますよ」


 断りもなく入室したあとで、小さく声を掛ける。リリーは床に膝をついてベッドに伏せていた。鼻を啜る声が静寂の中に響く。その度に華奢な肩が跳ね、頼りない背中が震えていた。


「紅茶をこちらに置いておきます。ぬるいですから、どうぞ」

「カーテンを閉めてくれ……光なんか見たくない」


 リリーが呟いて間もなく、重たいドレープカーテンの滑る音がした。


 一片の隙間なく閉め切られたそれは、合わせが離れないように固く紐で結ばれた。そこまでされてやっと顔を上げた彼女は、沈鬱な気配を漂わせ、呆然としていて、虚ろな目は何も映そうとしなかった。


「……ありがとう」


 蚊の鳴くような声で告げる彼女は、力の入らない腕で傍らに置かれたワゴンに手を伸ばす。すぐ、ガシャン! と音がしてカップが手から逃げ落ちた。セヴァは慌てて、その破片を彼女の手の届かない位置へ集める。ポーラが破片を片付けている間、セヴァが新しいカップに紅茶を注ぎ、それを自らの手でリリーの口元へと運んだ。


「お飲みください、心が落ち着きますから」


 労わる声に、リリーは静かにまなじりから涙を滑らせ、薄く口を開けた。


 そっと傾げられたカップから香るのは、いつも飲んでいるのとは違う、強いフルーツの香りがするものである。それを嗅ぐと、不思議と心が落ち着いてくる。


「……バーニーが死んだ」

「まだそうと決まったわけではありません」

「でも……」

「夜までには、王城から魔術師が来ます。王太子殿下がそう取り計らってくださいました。嘆き悲しむのは、すべてが終わってからでも遅くはないでしょう」

「……殿下、が……?」


 リリーはベッドに体を預け、目を瞑った。泣き叫び疲れてか、妙に体が重い。その額を優しく撫でたセヴァは、ポーラを下がらせると、扉の閉まる音を確かに聞いてから、彼女をベッドへ横たわらせた。


「……解きますよ」


 彼女の上に跨り、小さく上下する胸元に手を伸ばしたセヴァは、ベストのポケットから小さなナイフを取り出した。


 胸元を飾る華やかなストマッカー硬い装飾板と左右に広がるローブの留めピンをナイフで強引に切り広げて、上半身を少し寛がせる。


 リリーの背中に片腕を滑り込ませて、そっと腰を持ち上げる。布の隙間から中を探ってコルセットの結び目を見つけ出すと、それを解いて体を緩める。光のない室内で、何にも照らされないセヴァの瞳には暗い影が落ち、眠っているリリーだけをただ静かに見つめていた。


「可愛い可愛いお嬢様、まるで人形のようだ。本当は昨日、あのドレスも私が全て脱がしたかったのに……」


 体を一旦離し、何層にも重なったスカートの裾から手を忍ばせる。


 細くしなやかな足首に、そっと手を添える。手触りの良い靴下の感触と、人肌で温まった空気が彼の手に纏わりつく。


 足首から膝へ手を滑らせて、大腿を撫でる。柔らかい足の付け根を辿って下腹部に辿り着く。硬いパニエを固定している紐を指先で探るが、どうしてか今日はいつもの場所にそれが見つからない。


「……何でだ……っあ、」


 一旦引こうとした指が、何か柔らかいものを引っ掻いた。


 びくりと震えた主人の体に、彼は慌てて手を引き抜く。顔を確認すると、彼女は多少の身動ぎはしたものの目蓋までは開けなかった。


 セヴァが動くと、ぎしりとベッドが音を立てて沈む。


 捲り上げたスカートの中に頭を潜らせてみる。すらりと伸びる足は白い靴下に包まれて、宿舎で膝をついていたからか少しだけ汚れていた。


 セヴァは滑らかな布と柔らかい太腿を撫で、靴下を固定している紐を解いた。白い布をするすると膝辺りまで下ろすと素足が見える。息がかかってしまったのかはたまた外気に触れて寒かったのか、足がふるりと震えた。


 それからやっと腰元のパニエに辿り着いた。メイドたちも今朝は慌てていたのか、いつもならパニエの中に仕舞われている筈の紐が、仕舞いきらずに骨組みに絡まっていた。


「なるほど……こうなっていたからか」


 セヴァは丁寧に紐を解き、そしてパニエを外へ投げ落とした。丁寧に左右の靴下を脱がせる。細く引き締まったふくらはぎに触れ、冷えた足に頬をつけて温める。最後に足の甲にキスをすると、ついばまれた足が小さく跳ねた。


「……ん……」

「……お嬢様? 起きたのですか?」


 スカートの中から身を抜いた彼がそう問うと、ぼけっと天井を見ていたリリーが、その視線をセヴァへ下げた。


「…………セヴァ、か……?」

「ええ。お嬢様の靴下が汚れていたので、今脱がせていたのですよ」

「あぁ……そうか……」

「眠たいのでしょう? お休みになっていて結構ですよ」

「ん……そうだな」


 彼女が再び目を瞑ったのを見届けると、セヴァは靴下をポケットに仕舞い、名残惜しそうに身を離すと、静かにベッドから降りる。


 夜着を着せ終わると、枕元に腰かけたセヴァは、指先でリリーの首元を隠す髪を払った。そこは綺麗なままでなんの跡もついていなかったが、昨晩のあの様子だと王子には余程の事をされたに違いない。キス、或いはそれ以上のことを。もしも、このスカートの中にも王子の手が忍び込んだのだとしたら。


 彼はそんな歪んだ妄想に駆られて、リリーの首元にキスを落とした。彼女の肌と、ほんの少しの香水の匂い。それだけで、逆上せあがってしまうほど甘美だった。


 そっと胸元のレースに触れ、胸の膨らみと鎖骨に頬を寄せる。温かい体が、神聖な体温が卑しい己を包み込んでいくようだった。


「お嬢様……」


 目を細め、その柔らかな肌の体温を楽しんだが、ふと我に返り体を離した。肌に感じていた温もりが夜に溶けて冷えていく。己のけがらわしさを知り、彼は今にも凍えてしまいそうだった。


 セヴァは静かに、こんな痛みにさえ涙を流さない自分の心を恨んだ。

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