昨晩はまったく夢を見なかった。

　リリーは一瞬で過ぎてしまった夜を名残惜しく思いながら、疲れの抜けない気怠い体を引き摺って、ベッドから抜け出す。

「……？　おい、なぜまたドレスなんだ。今日は部屋着をと言ったろう」

　昨日も見た華美なドレスの山を抱えて入って来る侍女たちにリリーが顔を曇らせる。

　そして、身を震わせた。なにか、よくは分からないがとても嫌な予感がする。最早野生の勘と言ってもよかった。侍女らと共に入って来たセヴァは、恐れおののく彼女の不安を裏付けるようにこんなことを告げる。

「おはようございます、お嬢様。実は今朝から王太子殿下が屋敷にいらしていて……」

　言葉を濁した彼に、纏わりついていた眠気が一気に吹き飛んだ。王子が屋敷に来ている？　彼女は目を見開いて、額に手を当てた。

「何故もっと早く起こさない！？」

「その、殿下が決して起こすなと……」

「ど、どのくらい待たせたんだ……！？」

「一時間半……いえ、二時間半ほど」

　その言葉に、彼女は頭を抱えた。しかし背後に立ったポーラは、そんな暇はないとばかりに容赦なくコルセットを当てて締め上げてくる。うぐぐと唸る彼女を余所に、身なりは手早く整えられていった。

　髪は低い位置でゆったりと結ぶ程度で、多少の後れ毛はわざと残した。彼女が大胆にお寝坊したことは王子も十分に知るところなのだ。敢えて気取らず、起き抜けの隙を残そうと仕組んだポーラの策は見事に当たった。

「リ……リリー……！」

　客間で彼女を待っていた王子は、おずおずとやって来たリリーを見て飛び上がる様に立ち上がった。普段より柔らかい印象のある彼女へ、吸い寄せられるように歩みを進め、いつものように顔を綻ばせる。

「今日のリリーは、何だか珍しいな……そ、そんな色のドレスも着るんだね？」

「え、ええ。殿下がいつも明るい色をお召しになるので、私もたまにはと」

　嘘もいいところである。明るい緑のフランセーズも、唇に最低限薄く塗られただけのルージュだって間違いなくポーラの見立てで、リリーは何一つ意見などしていない。

「お待たせしてしまって、本当に申し訳ありません」

「い、いいんだ、僕が待ちたかったから。本当は、その間に、庭の散歩でもしようかと思ったんだけどね。でも、折角だからリリーと歩きたくて。今日はいい天気だし」

　客間のバルコニーから臨める庭は確かに、麗（うら）らかな日差しを浴びていつもより青々として見える。彼女はそっと差し出された手を取って、王子と共に庭へ向かった。

　道中で二人は幾つかの雑談を交わしたが、そのどれもが他愛のないものだった。寧ろリリーの方が昨日の話題には触れまいと、積極的に様々な話を振っていた。

「この白薔薇は、王城にあるものと同じだそうですね」

「あぁ、うん。お祖父様が送ったんだって、聞いてるよ」

「ええ。有難いことです。花が開き、高貴なる白が庭を彩る度に心が癒されます」

「リリーは、昔から、花が好きだったよね」

　ゆっくりと穏やかな足取りで、二人は中庭のサロンへ向かっていた。しかしその背後を走り抜けたメイドたちの声に、思わずリリーの足が止まる。

　――ギャヴィストン様が……！――

　耳を掠めたその名前に、彼女は反射的に振り返る。ギャヴィストン……バーナバス？　背後に控えていたセヴァへ目でそう尋ねると、彼は王子の手前一瞬は躊躇ったものの、すぐに彼女へ耳打ちをした。

「どうしたの？　リリー」

「……、バ、バーナバス……、き、騎士の一人が、毒の呪いに侵されたと……」

　凍り付いたリリーを見て、王子はすぐに行っておいでと告げた。しかし、彼女はすぐには頷けなかった。あれだけ王子を待たせて、さらに蔑（ないがし）ろにするなんて、できない。そんな彼女の迷いを、王子は両肩を強く揺さぶることで追い払った。

「リリー、心配なんだろう！？　君ならすぐにでも飛んで行きたいはずだ。僕だってその彼が心配だよ。毒の呪いは厄介だ……一緒に行こう？」

　真摯な言葉に、リリーは目が覚めたように王子を見上げ、そして深く頷いた。

　彼へ感謝を述べて共に宿舎へと急ぐ。人の出入りの激しい室内には、ベッドの上で、汗を掻きながら苦しみ悶えるバーナバスがいた。尋常でないその様子に、辛うじて保っていたリリーの体裁が瓦解する。

　人波を掻き分けてベッドへ飛びついたリリーは、ドレスが汚れるのも厭わず枕元に崩れ落ちた。膝をつく彼女の背を追いそびれた王子は、扉の傍に立ちじっと様子を見つめる。

「バーナバス……！」

　リリーは彼の体に触れて、その熱さに驚いてすぐに手を引っ込めた。傍らには桶があり、冷たい水に手巾が浸されている。汗で濡れたシャツや繊細な銀髪が、彼の体や顔に不快そうに張り付いている。

「魔術師は！？」

「呼んでおりますが、到着にはあと一時間はかかると……」

「くそっ……一時間も……！」

「……その声……お嬢様か……？　な、んで、ここに……」

「あぁ私だ、リリーだ……この前の蛇の毒か！？　何故こんなになるまで……っ」

　彼女は伸ばされた手を素直に握り、彼を覗き込んだ。

　すると痛みに藻掻き苦しんでいた表情が僅かに緩み、視線が彼女に向く。

「なんか、おかしいとは、思ってたんだ……ハァ、……牙が刺さったのが、案外、深くてな……」

「お前に限って、こんなになるまで放っておくなんて……。なぜ黙ってたんだ……」

「俺だって……ご主人様や、騎士団の奴らには、言ったさ」

「なっ、なんで私には……」

「お嬢様は、ハァ……俺なんかに構ってる場合じゃ、ないでしょ……。ほら、行けよ……王子が待ってる。……綺麗ですよ……今日の……あんたも」

　絞り出すように囁く声に目頭が熱くなる。軽口をいつものように冷たくあしらうことができない。力が抜けてシーツの上へ落ちたバーナバスの手に必死に追い縋る。彼の熱い指先を額をつけて神に祈る。女神でも何でも良かった。とにかく、彼を失いたくなかった。

「……死ぬなっ、嫌だ……！」

　酷く取り乱しているリリーの背を見ながら、王子は呼吸も忘れ、足は縫い付けられたようにその場から動かなかった。

　胸が痛い。鉛のように重たい手で服の上から心臓を握る。何かで後頭部を強く叩かれたようだった。彼女があれほど何かに必死になる姿は、一度も見たことがなかった。

「お嬢様、お気を確かに……」

　王子の手前、セヴァはバーナバスから彼女を引き離そうと、彼女の震える肩に手を伸ばした。しかし背後の床が軋んだ音を聞いてその手を止める。振り返ると、さっきまでそこにいた筈の王子の姿は既に消えていた。

「死なないでっ、バーニー……！」

　指先に垂れた熱い雫に、バーナバスは、再び彼女へ目をやった。

「リリー、お嬢様は……やっぱ……泣き虫だな」

「い、嫌だ……っそんな顔で笑うな！　そんな……っ最後、みたいな……」

　彼の弱々しい笑顔に、リリーは泣き縋った。幾つも溢れてくる涙が手の甲を伝い、腕を濡らしていく。その頬を指先で掠めるように撫でたバーナバスはいつの間にか、口元だけの微笑を崩し、今にも泣きそうな顔をしていた。

　色々な思いが胸に迫っていた。幼い頃に交わした『ずっと守る』なんてありきたりで陳腐な約束が脳裏に過ぎる。それさえ守れなくてすまないと謝りたい。最後に彼女の顔が見れて良かったことだって伝えたいし、泣きじゃくるほど心配してくれたことへの感謝も言いたい。だがそのどれもが、喘鳴（ぜんめい）に掻き消されて言葉にならなかった。

　そしてこんな時でも感じてしまう、王子より自分を優先してくれたことへのちっぽけな優越感があった。それだけでもう充分幸せな気がした。だけど本当はもっと

「もっといっしょに……いたかったよなぁ……」

　眠るように呟いた彼は、そのままぱったりと手を落とした。

「ば、バー……、ニー……？」

　うわぁああん！　とリリーの叫び泣きが響く。

　彼の傍に伏したリリーを、使用人たちは痛ましげに見つめていた。しかしすぐにセヴァの指示によって無理矢理彼女を引き剥がすと、そのまま寝室へと引き摺っていったのだった。

＊＊＊

「シャナとリアラはここに残り、ポーラはお嬢様をお願いします。それ以外の者は、急いで王太子殿下を探してください」

　離れたくない、と手を伸ばして泣き叫ぶリリーの声が遠退くのを聞きながら、セヴァは使用人たちへ指示を飛ばした。バーナバスの脈を確認したあとで、自身も王子を探して屋敷中を走る。門前にまだ王室の馬車があるので、敷地内にいることは確実だった。

　セヴァは必死だった。

　確かにリリーとバーナバスは立場を越えた強固な絆で結ばれている。だがそれを、王子はどんな風に見るだろう？　彼はどうしても、彼女が長年積み上げてきた王子への献身が、この一件で失われてしまう気がしてならなかった。

　そんな不吉な予感に焦るセヴァが、リリーの父・ロイドの執務室の前を通った時。

　僅かに開いた扉から話し声が漏れていることに気づいて、彼は慌てて足を止めた。

「――ではその毒が……？」

「ええ、そうです。各地の魔術師に手紙を出していたのですが、中々連絡がつかず……」

「何故すぐに王城へ連絡しなかったのです！　リリーがあんな顔をするくらいなら、城の魔術師なんかすべて失っても良かった……！」

「申し訳ありません、殿下……我々も気が動転していて――」

　落ち着きなく数歩動いた足音が、くぐもった絨毯に吸い込まれて消える。

「とにかく、今すぐにでも城から魔術師を呼びましょう。事は一刻を争う」

「かたじけない……」

　王子はロイドの執務机へ腰をかがめて、手早く羽根ペンを走らせた。封蝋の代わりにサインを書き残し、矢のように部屋を飛び出していく。

　そこへ、戸口で聞き耳を立てていたセヴァが彼を引き留めた。

「速達は私が出しましょう、バラモア家の馬は早い。王太子殿下は、リリーお嬢様のお側にいては？」

　その言葉に足を止めた王子は、沈痛の色を浮かべ、奥歯を噛み締めて首を横に振った。

「いや、僕は一旦城へ戻る。僕が今のリリーにしてあげられることは……きっとない」

　彼は伸ばされたセヴァの手に手紙を託すと、重い足取りで屋敷を後にした。