第17話『ずれていく』

 それから少しの時間が経って、リリーが目を覚ましたのはすっかり日の落ちた頃であった。枕元に置かれた蝋燭はまだ半分もいっていない。ぼんやりとそれを認めたリリーは、やがて気怠く体を起こして伸びをする。


 眠りに落ちる前、『夜には王城の魔術師が来る』とセヴァが言っていた。それならば問題ない、あとはバーナバスの体力と気力の戦いである。


 リリーは夜のしじまに溶け込むように一人、冷たい床に素足を下ろして呼び鈴の横を通り過ぎ、大きな燭台を掴んで部屋を抜け出した。向かうは騎士宿舎、バーナバスの部屋である。


 その日は雲の多い朔月さくげつで、いくら目を凝らしても蝋燭なしにはとても前へ進めなかった。


 足音もなく玄関ホールへ進む。宿舎までは一度外に出て、洗濯小屋などがある小さな庭と小道を抜けなければならなかった。リリーは炊事場の裏口にあたる、使用人らが使う小さな木戸から外へ出た。


 外は夜風が冷たく、それがひと吹きするごとに今にも蝋燭が消えてしまいそうな心細さを覚えた。彼女は発火石マッチを持ってこなかったことを酷く後悔した。同時に、靴くらい履いてくるべきであった、とも。


 凍えた足先が彼女の歩みを自然と早めていく。少しすると宿舎の壁が見えて、一階の右から四つ目の部屋から煌々と光が漏れ出していた。吸い寄せられるように近づこうとして、光の側の暗がりに迸る殺気に気づく。


 はたと足を止めて、目で宿舎の壁を辿っていった。バーナバスの部屋から二、三個離れた部屋の前の暗がりに、男が座り込んでいるのが辛うじて見える。


 リリーが今やっとそれを見つけたのに比べ、向こうはもっと早くから暗闇の中に揺れる炎に気づいていたらしかった。息を詰め、目を丸くしたまま宙に浮かぶ火の玉を凝視していた男はその正体に気づくと、「……嘘だろ、お嬢様だったのか!」と、大袈裟に体の力を抜いた。


 片手に蜂蜜酒を持つ男は、宙に浮かぶ灯かりを本気で怪物の瞳か何かと思っていたらしく、「化け物でも入り込んだのかと思いましたよ」と心底安堵したように軽口を叩いた。


「……寒くないんですか? そんなカッコ・・・で」

「寒い。靴を履いてくればよかったよ。バーナバスは?」

「中で、魔術師に診てもらってますよ」


 男は両膝の上に腕を置いて、一度瓶を回してから蜂蜜酒を煽った。礼儀も何もない態度であったが、投げやりになりたい気持ちはリリーにも痛いほど分かった。


「……こんな夜に、よく来ましたね」

「泣き腫らした後でな……目が覚めて、落ち着かなくて」

「そうですか。……俺はあいつの一番のダチだから、お嬢様のお気持ちも少しは分かるつもりです。お二人の話も聞いてますし」

「私もお前の……えっと、名前は?」

「イーサンです。っと、口が悪いのはすみません、田舎育ちなもんで」

「気にするな、イーサン。お前の気持ちも何となくわかる。取り乱さないだけ立派だよ」


 その言葉に、イーサンは不遜に開いていた足を閉じて少しの敬意を示した。


「中へは入れないのか?」

「窓から覗くことは出来ますけどねぇ」


 視線で促され、バーナバスの部屋の窓を覗いてみる。


 ベッドに横たわったバーナバスは、口に布を噛まされ、裸の上半身は暴れないように拘束されて、毒のせいか苦しそうに呻き藻掻いていた。数人の魔術師が彼を取り囲んで素肌に呪いを浮き上がらせたり解読したりしている。傍らには幾つかの薬草箱もあって、確かに、心配だからといって安易に飛び込める雰囲気ではなかった。


「……そういうことか」

「お嬢様は、やっぱりバーナバスがお気に入りなんですね」


 それは多くの騎士が気にしていることであったし、リリーもバーナバスも、散々揶揄された話題であった。しかしリリーは真剣な面持ちでイーサンへ振り向いて、静かに諭す。


「あいつの人柄を信頼してるんだ」

「人柄? ……それがもしも、お嬢様に気に入られるための嘘だとしたら?」

「そしたら、あいつはもう十数年も嘘を吐いていることになる。それはそれで忍耐力を評価するよ」

「……ハッ、なるほどね」


 イーサンがニヒルに笑いながら蜂蜜酒の瓶を揺らす。それから傍らにあった未開封の瓶を持って、「飲みますか?」とリリーへ一つ取ってみせた。彼女は浅く頷いて、その横に座り込んだ。


「蜂蜜酒か。……うん、濃厚だな」

「そうなんです。俺の親父が作るこの濃厚な蜂蜜酒は、地元では有名でね」

「そうか。……今度父上にも進めてみるよ」

「ありがとうございます」


 二人は声を抑えながら、不安を紛らわせるように他愛のない話をした。時々バーナバスの唸り声が聞こえてくる。祈るしかできないことが、酷くもどかしかった。


「……冷えるな」

「あぁ、部屋に入りますか? ってのは流石にアレだから……俺ので良ければ、何か上着持ってきますよ。あそうだ、マントなら洗ったばかりですから」

「いいのか? すまない……ありがとう」


 蝋燭の炎はいつの間にか消えてしまっていたが、もう心細くはなかった。肩にマントをかけてもらったリリーは、それに包まって暫く静寂に身を任せた。どこかから梟の鳴き声が聞こえる。それに耳を澄ませて、イーサンのちょっとした昔話を聞きながら蜂蜜酒を空にした頃。バーナバスの部屋から大きな光が放たれて、二人は弾かれたように立ち上がった。


 共に部屋へ駆け込むと、突然登場した男女に魔術師たちは大層驚いた。


 だが魔術師の一人が、マントに身を包めた珍奇な女性がリリーだと気づくと、慇懃いんぎんに頭を下げてバーナバスの状況説明を始める。


「彼にかかった呪いは、一先ず解けました。あとは様子を見ながら、残っている呪いがないか確かめていくことになるでしょう。……速達を受けたのが今晩で良かったですよ。明日には、呪いは心臓まで到達してしまっていたでしょう」

「……そ……そうか……あ、ありがとう……本当にありがとう……」


 へなへなとしゃがみ込んだリリーは、説明してくれた男に精一杯礼を述べた。そして、気付く。見覚えのあるその魔術師は、満月の夜、いつも塔で見張りをしているあの魔術師であった。


「……バーナバス? まだ起きているか?」


 汗ばんだ体を無防備に晒している彼の側に寄り、声を掛けてみる。


 目を閉じているバーナバスはぴくりとも動かないが、その胸は安らかに上下していた。


「ほ、本当に生きてるんだな……! 良かった、はぁ、」


 安心したリリーは、とりあえず私室に戻ろうと身を引きかけた。がその瞬間、何かにマントを引っぱられて、体がつんのめった。


 見ると、バーナバスの指がマントの端をしっかりと摘まんでいた。彼は目を薄く開いて、何かを企むようないつもの笑い顔を浮かべている。しかし額にはまだ玉の汗が残っていて、その一つが、たらりとこめかみを流れた。


 感極まったリリーが思わず彼に抱き着くと、流石にその反応までは予想外だったらしいバーナバスは、「うおっ」と構えながらゆっくりと彼女の背に腕を回した。


「心配、かけちまいましたね」

「っうぅ……ほ、本当に心配だった……っだいたい、なんで私に言わないんだ!? 友達じゃなかったのか!」

「友達って、俺のことあんなに嫌ってたじゃねーか……」

「それはお前が馬鹿なことばかり言うからだ……っでも、もういいんだ。お前が生きているだけで……昔と違って馬鹿で軽薄で不実なお前でも、生きていたらそれで……!」

「お目覚め一番にものっすごい罵倒されてますよね、俺……でもずっと言ってるでしょ。軽薄で不実だなんて滅相もない、本気なんだって」


 背中を支えていた手が、そっと後頭部に回る。彼女を優しく引き寄せたバーナバスは少し首を傾げて、無防備に薄く開いた唇へ――


「おーいお二人さん、俺らのこと忘れんの、止めてくんねぇかな」


 その声にピタリと止まったリリーは、バーナバスと向き合ったまま、ぼぼぼっと顔を赤くした。今、自分が受け入れようとしていたことが信じられない。言葉を失ったまま立ち上がろうとした彼女は、下から手首を引っ張られて再びベッドへ倒れ込んだ。


 マントの端がはためいて落ちる。バーナバスは腕の中にリリーを抱いたまま、平然と魔術師たちに礼を告げた。そして、その場に立っているイーサンに一言。


「いつまでいる訳? えっち」

「え、えっち、ってお前……」

「えっち!? 何をする気だこのっ、は、破廉恥男!!」


 リリーの手が綺麗にバーナバスの頬を打ち、乾いた音が室内に響く。慌ててベッドから逃げる彼女を生温かい目で見ながら、魔術師たちは手早く荷物を纏める。魔術師たちはその夜は屋敷に泊まり、翌朝には一部を除いて王城へ帰る運びとなった。


 彼女が皆を見送っている間、イーサンはバーナバスと何言かを交わしたあと、リリーをおいてさっさと部屋から出て行ってしまった。


「……さて。おいでよ、お嬢様」

「いや、いやいやいやいや私も帰るぞ」

「なん、ゲホッ……! ううっ、」

「えっ!? ど、どうした、大丈夫か!」

「肩が……傷口が、まだちょっと痛むんです」


 彼が押さえるそこは、確かに呪いの侵入口ともあって生々しい傷を残していた。


 痛ましげに顔を顰めたリリーが指先で傷跡をなぞる。彼女は、厭らしく笑うバーナバスなどにはまったく気づかなかった。


「治ったばっかで、まだ不安なんです。分かるだろ? 今夜だけ、側に居てほしい」

「あー、でも、その……誰にも言わずに、部屋を抜け出して来たんだ。せめてセヴァには伝えておかないと」

「イーサンが伝えに行ってくれたさ」

「……本当か? 嘘くさいぞ」


 リリーは訝しげに彼を睨んだが、彼はどこ吹く風で、ゆっくりとリリーの手を引いた。


「いいじゃないですか、こんなにゆっくり話せる夜はもう来ないかもしれないんだ。たまには昔みたいに、二人でゆっくり語らいましょうよ」


 再び、今度はゆっくりと彼の腕の中に戻ってしまったリリーは、バーナバスの不穏な言葉に不安を煽られて、夜明け前まで残る覚悟を決めた。

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