第14話『リリーとセヴァ』

 王城からの帰り道では予想外の一日に疲れ果てていたリリーであるが、屋敷に戻ったらいつも通りを装おう、と心に決めていた。


 見送りの時でさえ使用人らはいつになく気合が入っていた。自分を迎え入れる彼らの瞳がいかに輝いているか、自惚れを抜きにしても想像には難くない。


 だが実際にバラモア家の黒馬車が屋敷へ到着した時……リリーがそこから降り、自らに向けられた使用人たちの無数の瞳を見返した時――彼女はボッと火がついたように頬を赤くするだけで、頭の中に用意していた台詞は何一つとして出てはこなかった。


「……よい休日を過ごされたようで、何よりでございます」


 言葉を失って立ち尽くす彼女へ侍女のポーラが微笑む。それを聞いたリリーはとうとう立っていられず、情けないく赤らんだ顔を両手で覆いながら、傍らに控えていたセヴァへへなへなと体を預けた。


「へ、部屋まで運んでくれ……」

「かしこまりました。お飲み物は?」

「……例のアレ・・を」

「承知いたしました。ポーラ」


 セヴァの指示を受けたポーラは、依然朗らかな笑みを浮かべながら静かに下がる。威厳を重んじる彼女のこんなにも年なりに初心な姿を見たのは、セヴァとポーラを除けば誰もが初めてであった。


「お嬢様は、相変わらず初心でいらっしゃいますね」


 彼女を寝室のベッドに座らせたセヴァは、そのドレスを緩めながら微笑む。


「煩いぞセヴァ……お前も不意打ちを食らってみろ、今日の殿下はいつもとは全く違っていた……なんなんだ……」

「恋をすると、人は分かりやすく変わるものですよ」

「いや、あれはもう別人だった!」

「ほう、一体なにがあったんです?」


 その質問に口をすぼめたリリーは、広がったフランセーズの裾を握り締めながら、少し逡巡したあとでただ一言「手を握られた」とだけ呟いた。彼女にとって大っぴらに言える今日の出来事は、このただ一つだけであった。


「……少女じゃないんですから」

「煩い! おっ、お、お前だって大した経験はないだろう! ……そうだよな!?」

「落ち着いて下さい、お嬢様」


 糸目の奥の瞳が横へ滑る。同時に背後の扉が開き、ワゴンを引くポーラが侍女らを伴って入室してきた。


 彼女らが来たことで、セヴァはリリーの寝支度を整えるのを止め、静かにその役目を譲った。


 リリーが幼い頃から側に居たセヴァが主人の衣服に触れることについて、誰も異論は唱えない。それはリリーがそう望んでいるからで、男女間の面倒な礼儀を少々軽視しすぎる彼女は、信頼するセヴァへ、聞けば誰もが驚くほどすべてのことを任せていた。


「では失礼いたします」


 綺麗なお辞儀を見せて退出した彼にはまだ聞きたいことがあったが、彼女は一旦、黙って見送った。一先ずはこの息が詰まりそうなコルセットを外し、部屋着に着替えることが最優先である。


***


「――ハァ、疲れた……明日はもう何もしたくないな……」

「最近は何かと忙しくされていましたからね」


 すっかり寝支度を済ませた彼女は、サイドテーブルの燭台しょくだいを引き寄せて、ベッドの中で天井を眺めていた。その横ではセヴァが、彼女の為の特別な紅茶にミルクを注いでいる。その褪せた若草色の髪といつも変わらない穏やかな笑顔が、蝋燭の炎に照らされる。


「久しぶりですね。こうして甘い紅茶を所望されるのは」

「甘い物は嫌いだからな」

「ご友人とのお茶会では焼き菓子を召し上がられているのに?」

「……甘い紅茶が嫌いなんだ」

「そうですか」


 セヴァがそっとカップを差し出すと、彼女は本を閉じ、それに口をつける。


 優しいミルクの香りが少しずつ心を落ち着かせていく。十年前、獣姿の王子に襲われた時も、寝る間際にこうしてセヴァを部屋に呼んだ。その時にこのミルク入りの紅茶を出されて以来、彼女は酷い不安に駆られるとこれを求めるようになった。


 だが成長するにつれて、徐々にこの紅茶を飲むことも無くなった。やり場のない不安がすべて消えたと言えば嘘になる。しかしいつまでも甘えては駄目だという思いが、彼女を頑なにさせていた。


「セヴァ……お前歳は幾つなんだ」

「私ですか? ……何故ですか?」

「いや、出会った頃からまったく見た目が変わらないなと思って」

「ふふっ、昔からよくそう言われます」


 細い瞳が更に細められ、弓なりに曲がる。愉快そうに笑う彼はしかし、それ以上なにも明言はしなかった。沈黙の中に、かちりと、カップがソーサーへ戻された音がする。


「……その……セヴァは、じょ、女性と……その……ふ、触れ合ったことは、あるのか?」


 蝋燭の明かりが、シーツを握り締めてそう呟いた彼女の戸惑う瞳を照らしている。ちらりとその視線が向くと、セヴァは薄く微笑んで、彼女の小さな手に触れた。


「そんなにきつく握ると、爪が折れてしまいますよ」


「そ、そんなことは、今はどうでもいい! 私は今日で、殿下のお心が分からなくなったんだ。殿下は私に怯え、ずっと避けていた。今日、確かにずっと怖かったと言われた。だが同時に……その、~~…だとも、言われた」


 口篭もって聞こえなかったその部分は、きっと愛の言葉でも囁かれたのであろう。頬を染めて視線を泳がす彼女を見れば、ここにいたのが例えセヴァでなくとも容易に想像できた。


「人の心とは、複雑なものなのですよ。それに、お嬢様のようにお気持ちをはっきりと口に出せる者は、案外少ないでしょう」

「おい、それでは私が単純な人間みたいだ」

「褒めているのですよ」

「私だって、なにも考えていない訳じゃないんだぞ」

「分かっておりますとも。お嬢様には自分と向き合う強さがあるのだと、そう言っているのです」

「……それで、それが何だっていうんだ。殿下は、とても複雑な人だと?」

「ええ。お立場以前に、そういうお人柄なこともあるでしょう。何しろあの事件より前は、お二人はとても仲が良かった訳ですし。王子の心情については、私とて不憫に思います。勿論、お嬢様が辛くないと言っている訳ではありません」


 セヴァの言葉に、リリーは緩く頷いた。


「……私だって、殿下を責めたことは一度もない。責めようと思ったことなども……。ただ、今まではあんなに避けていたのに、ちょっと急すぎじゃないか? 私には殿下のお心が分からん……」


 大体、殿下は自分が怖いのではなかったのか。だから今日だって、その形の良い唇から紡がれる言葉は時折よどみ、戸惑っていたのではなかったのか。


 リリーは、王子の低く穏やかで、しかし時折つまずいてしまう声を思い出す。自分と相対した彼が酷く緊張しているのはいつも充分に伝わってくる。だが、それがなんだろう、愛を囁く時のあの饒舌さは。


 彼女は蝋燭に照らされる自身とセヴァの重なる手を眺めながら、はたと思い出した。


 饒舌な時の王子は幼き日の彼を思い出させる、嬉々としていて、無邪気な雰囲気だ。まだ共に笑い合っていた時の彼そのものだ。そこまで考えて、彼女の胸は後悔と寂寞せきばくに陰る。


 やはり自分が、王子を苦しめたのだろう。


 あの日の自分があんなにも弱くなければ、彼に圧倒されなければ、語りかける強さがあれば。王子の心に憂いを落とすことも無かっただろうに、彼の心を曇らせることもなかっただろうに。孤独だった彼を深く傷つけたのは自分だ。考え込むリリーに、セヴァが訝しげに首を傾げる。


「お嬢様は、呪いを解く方法をお忘れなのですか?」


 リリーは緩く首を振った。


『互いを心から愛し、無私の愛を捧げ合うこと』。それは勿論知っている。


 魔術師は呪いをかける時、必ず解呪方法を誰かに伝えるか、術式のどこかにその方法を記す。それが呪いの掟だからだ。つまり理屈で言えば、解けない呪いはない、のだが。


「王子は少し前まで、私を酷く恐れていた……恐怖は、愛とは程遠い感情だろう? だから、それはベルやソニアや、他の女性たちに任せると決めていたんだ。……元々、そういうのは得意ではないしな。そういう意味で、私は殿下と好い仲になるつもりはなかった。殿下だってそうだったはずだ。でも他に誰もいないから……仕方なく私を愛そうとしているんだろう」


 少し困惑した様子の彼女は、そう俯いた。


「だがな、それよりも鎮静薬の開発の方がずっと現実的だ。殿下が暴れなければ塔に囚われずに済むかもしれないし、そしたら彼の悲しみも幾分か減る……でもそれより、私が獣の殿下を打ち倒し、魔術師と共に呪いを解読する方が遥かに早い気もする」

「なんて男らしい考えでしょう、惚れ惚れいたしますよ」


 セヴァの賞賛は白々しくも聞こえたが、彼は本当に心底から関心していた。彼女は決して夢物語を語っている訳ではなく、今言ったことを実現させようと日々奔走しているのだ。


 鎮静薬の開発はソニア率いるフィンガル家の研究者たちに任せているが、それに必要な素材の収集はリリーが行うことが多い。魔力を持たないにもかかわらず多少なりと呪いを読み解けるのも恐らくリリーくらいなものだろう。剣の腕だって勿論、口だけではない。


 十年振りの夜は見事王子を打ち倒し、二度目の訪問時も王子は比較的穏やかだった、とセヴァは聞き及んでいる。


 ここまで行動に移せるのは立派な愛だろうとセヴァは思うが、しかしこの様子では、リリーが素直になって王子と向き合うのはまだ難しそうである。話を聞く分には、少なくとも王子の方は、正攻法で呪いを解くつもりであるらしいが。


「セヴァ。殿下の呪いへの解決法が見つかれば、殿下は正式に王位につけるだろ? 私はな、半年後の成人の儀に間に合わせたいんだ」

「ええ、きっと上手くいきますよ。そしてそのお気持ちは、きっと王子にも届くでしょう」


 彼の言葉に、しかしリリーは笑って首を振った。認められたい訳じゃない。ただ太陽のように美しい王子の笑顔が曇らなければ、それで良いのだ。そう言った彼女は大きな欠伸をして、ベッドに潜り込んだ。


「手を……握ってもいいか」

「ええ、どうぞ」

「ふわぁ~あ……。結局……私には、殿下のお気持ちを知るのは難しいな……」

「はは、それはお嬢様がいつか、ご自分でお気づきになりますよ」

「やっぱり……ならお前は、知っているんだな、セヴァ……」

「ええ。……おやすみなさいませ」


 大きく温かい手を握りながら、彼女は耐え切れず目を閉じる。


 その目蓋まぶたに薄い唇が触れたことは、微睡みに落ちた彼女には分からなかった。

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