36 ピアノ(春由紀&陽羽里)

 母親が望んでいた芸術系の習い事はどれも性に合わなくて体験の時点でやめ、小学生でバスケに出会ったので大学生になった今でも続けている。

 それに対して、弟の陽羽里ひばりはピアノの才能があったらしく、やれコンクールや何やらで次々と賞を取り、音大に進むことが決まったが、最近浮かない顔をしていた。


「どうしたんだよ」

「兄さん……」


 ピアノの前に座ったものの、何も弾こうとしない陽羽里の肩に手を置いた。


「もうすぐだと思うと、不安で」

「一人暮らしか?」


 音楽に疎い俺にはよくわからないのだが、陽羽里が合格したのはかなりレベルの高い大学らしくて、遠方だ。春からは家を出る。


「まあ、陽羽里ならなんとかなるって」

「そうじゃなくって」


 陽羽里は俺の方を振り返り、生まれつき明るい色の瞳で射抜いてきた。


「兄さんと離れるのが、不安」

「一生会えなくなるわけじゃないんだし。夏休みとか冬休みには帰ってこいよ」

「……ずっと一緒に暮らしたかった」

「俺たちも大人になったんだ。そうはいかねぇよ」


 陽羽里はピアノに向き直り、鍵盤に白く長い指を置いた。


「弾いてほしい曲ある?」

「そうだな……」


 クラシックはよく知らない。俺は二十年前に流行ったポップスをリクエストした。滑らかに旋律が始まった。ゆったりとした曲調だ。サビに向けて段々と盛り上がっていく。雨の中、傘をさす男の情景が浮かぶようだ。

 ところが、サビの途中で陽羽里は指を止めて言った。


「……これって、失恋の曲なんだよね」

「ああ、そうだっけ」


 確かに、そんな歌詞だったような気がする。細かいところは思い出せないが。


「兄さん」


 陽羽里が立ち上がって俺に抱きついてきた。彼の頭は俺の胸あたりだ。スン、と鼻をすする音が聞こえ、泣いているのがわかった。俺はゆっくりと背中に手を回した。


「なんだよ、陽羽里」

「好き……」

「おう、俺も陽羽里のことが好きだぞ」


 努めて明るく返したつもりなのだが、陽羽里の涙は止まらなかった。俺の態度のどこがまずかったのか、一連の流れを思い返したが、彼のような繊細さを持ち合わせていない俺には皆目見当がつかなかった。


「兄さんって、鈍いよね」

「そうだけどよ」


 ハッキリ言ってくれないとわからない。どうせ俺には芸術家の心の機敏は感じ取れない。そう考えていると、陽羽里は俺から離れ、ゴシゴシと涙をぬぐい、頼りない笑顔を見せた。


「じゃあ、僕、一人でも頑張るから」

「おう。応援してる」


 本当は何を伝えたかったのだろう。これで良かったのだろうか。答えの見えぬまま、桜が開花してしまった。

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