小平秀人も限界を乗り越える
二分前、俺は孤独に戦う件のなかにいた。
ごろごろと地面を転がる件のなかで戦況を再確認しながら、俺はそれでも自分の身体にほとんどダメージが届いてこないことを、どこか悲しく思った。
──二対一だから、勝てない。
「そういうことか、件」
「ぐるる……るぅ、おのれ、修験め、おのれェ」
「どうしたらいい、件、俺はおまえのために、なにができる?」
内側からの問いに、ぴくり、と件の肩が揺れた。
優しい声。おそらくこの二百年、一度も聞いたことがないのだろう。自分をいたわろうとする、包み込むような柔らかい声を。
「わしの、ために……?」
ぶるっ、と件の巨体が揺れた。
そしていま、俺は自分の足で、地面に立っている。
件が……はじめて見た女の顔が、赤い月に照らされ、おどろいた表情で俺を見つめている。
「なんたる、こと。たいらの裔が、牛の首を」
牛身の──といっても集まった邪霊と絡まった運命の糸が、牛のような身体に見せているだけだが──件は、ひさしぶりに空気を浴びた顔の動かし方を忘れたように、しばし呆けて動かない。
その顔は黒く薄汚れ、唇は白く、髪はざんばらで、とても人間らしいとは言えない。
だがそれは確実に人間の顔であり、彼女は二百年ぶりに、自分の唇で言葉を発する機会を取り戻した。
「その首は、隷属の証、非人の役、最下層の餌食、それを進んで、負うてくれるか」
「もうないよ、この国に、そういう身分制度は」
笑って答えようと思ったが、顔面を覆う牛の首のせいで表情は動かせない。
俺は首まですっぽりと牛の首をかぶり、その呪詛を一身に引き受けて──巨大な代償とともに──禁忌は解除された。
見つめる向井の表情に、再び恐怖がもどってくる。
人面牛身の件、人身牛面の件。
都市伝説にはどちらのパターンも存在し、両者を区別すべきという説もあるが、通常は同じ〝件〟や〝牛女〟として取り扱われる。
「……これで互角だろ、学生さん。さあ、決着をつけようぜ」
二対一は、スポーツマンにとって許しがたい戦いだ。
だが同一の条件で正々堂々と戦うなら、勝敗は素直に受け入れられる。
それがスポーツマンシップの美学。
「くそ、ただ面をかぶっただけだろ、若造が、法術の素養もなしで」
「あんたのほうが若いだろ、学生さん。まあ、二つ三つしかちがわないが……先輩後輩のルールは大事だぜ!」
地面を踏みしめ、突進しようとした俺は、そのあまりの力に自分でおどろいた。
殴りかかろうとしたのだが、その暇もなく単なるタックルで向井もろとも地面を転がる。
受け止めるほうも、そのスピードを認識しきれないようだ。
ハッとして横を向く小角の身体も、直後、別方向に吹っ飛ばされた。
「軽い、ははは、軽いわ」
歓喜の声を漏らしつつ、餌をいたぶる猛牛の動きで、件は小角に連撃を加える。
力で押し切れる、という確信があった。
牛の首に多くの妖力を持っていかれたが、牛のように膨れ上がった肉体そのものに、彼女自身が二百年かけて集めてきた邪悪な力が、まだ大量に蓄積されていたらしい。
これが年月の力だ、とでもいわんばかりに、件の攻撃は小角を圧倒する。
「よそ見してる場合じゃないぜ、学生さん!」
単純攻撃をくりかえすのは、俺のほうも同様だった。
おどろくほどの身体能力を、牛の首が与えてくれた。
それは俺に与えられた生命力の、瞬時に凝縮された浪費にすぎないと、感じてはいたが。
「図に乗るなよ、トーシロがァ!」
向井が鬼の手を振り回すと、魔力の波動がベールとなって俺を弾き返す。
生命力の浪費は、相手にしても同じことか。
ここで死ぬか、近いうちに死ぬかだ。
「死ねェエ!」
「うぉおああ!」
交錯する鬼の手と牛の首。
もはや明確となった結末に向けて。
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