霧島すずのヒビワレた心の深淵


 左目に再び別の景色が広がる。

 ……揺れている。夜空が見える。


 現実の世界にもどったのかと思ったが、そうではない。

 潮風が頬を撫でる。周囲を見回す。


 ──船の上。身動きがとれない。


「みんなが生き残るためだ」


 船長の手にはナイフが握られている。

 それが自分の命を狙ったものだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 漂流して二週間。食料も水も絶え、気が狂いそうになった。

 耐え難い衝動に駆られて海の水を呑み、そのまま昏睡状態に陥った。


 ──あたしの意識は、すぐに自分がいまこうしている理由を、思い当たるように


 目を見開くと、自分を殺そうとしている船長に気づく。

 自分を殺してその血を飲み、肉を食って、他の人々が生き残ろうとしている。

 それは、さっきの場面に似ていると気づく。


 船長の姿と医者の姿が重なり、あたしはハッとして自分の身体を見下ろす。

 さっき弟の上にかけられていた手術用のガウンが、こんどは自分の上にかけられているような気がしたのだ。


 殺される。恐怖して動こうとするが、全身ピクリとも動かない。

 さっきの弟のように。


 顔を上げ、船長を見る。

 その顔が自分だったらどうしようと思ったが、顔は影になっていて表情も読み取れない。

 ただその手に光るメス──いや、ナイフの輝きが、あたしの目を恐怖とともに射抜く。


 船長の身体がゆっくりと、あたしの上に覆いかぶさってくる。

 このまま殺されるのか。そう思ったつぎの瞬間、あたしは左手になにかが触れるのを感じる。

 船長はあたしの手に触れ、その手を開かせて、なにかをそっと握らせたのだった。


「決めてくれ。、みんなを助けるか否か」


「あたしの、意志」


 自分の手にあるナイフと、自分の身体、そして憔悴した船長とその背後にいる仲間たちの姿を見つめる。

 ──自分の選択を貫け。


 脳裏に夢魔の声が聞こえる。一瞬、その意味を考え込む。

 それから身体に力を入れると、やはり左手だけが自由に動いた。

 自由に動かせる──ナイフ。


「自分の、選択」


 いままでの記憶が、いっせいにフラッシュバックする。

 四人と一匹を助けるために父を犠牲にした。五人を助けるために母を見捨てた。さらに五人を助けるために、弟の命まで手にかけたのではなかったか。


 功利主義。多くを助けるために、少数の犠牲が必要なら、致し方なし。

 仲間たちをるか。


 ごくり、と喉が鳴った。




 女が目を見開いている。

 あたしの身体が、ゆっくりと動き出していることに気づいたようだ。


 いや、正確にはその左手だけが、ゆらりと持ち上がり、痙攣的に揺れながら振り上げられる。

 手には光るものが握られている。さっき大学生から奪い取ったナイフ。

 あたしの左手は握ったものの感触を確かめるように、左右に角度をつけながら揺れる。


「目を、覚ましたの」


 なかば絶望的な声音で発された女の問いに、あたしは答えない。

 一瞬、腕から力が抜けて、地面に落ちそうになったナイフが、すんでのところで止まる。感触を確かめるように握りこまれたナイフの先が、自分自身の身体を掠めて服を裂く。


「起きたの、すず、だいじょうぶなの?」


 サダヲの問いにも、答えることができない。

 ただ糸の切れた人形のように、頼りなげに左手だけをうごめかせている。

 左手だけを。


 そのとき女の顔に、凄烈な笑みがもどった。

 自分と夢魔との戦いを想起して、あたしがいま、どんな状況にいるかを類推したか。


「あたしの勝ちだ、あたしたちの勝ちだよ」


 狂気のように叫びながら、女は自分の足に絡みついた最後の髪の毛を引きちぎる。

 スコップを手に立ち上がり、水死体を一撃する。

 それからふりかえり、あたしの動きを凝視する。


 あたしの左腕はゆらゆらと揺れながら、ナイフの持ち味を確かめ、その先を当てる。

 地面に転がされたサダヲが、悲痛な声を漏らす。


「まさか、すず、ちがう、そうじゃないでしょ」


 死にたがりのすずが、結局、自分で自分に結末をつけてしまおうという衝動に負けて、自裁して果てる。おおよそありえそうな結末、か。

 狂った笑いを響かせながら、女はその場で小躍りする。


「そう、あんたはことを選んだのね。だったら、わよね。そうならざるを得ないわよね! 貫きなさいよ。あたしのようになりたくなければ。そして、あんたが!」


 ゆらゆらと揺れるあたしの腕が、自分の胸にナイフの先を当てたまま、動きを止める。

 女はしばらく見つめるが、あたしは動かない。

 女の苛立ちは、突如として沸騰する。


「決められないなら、こっちで決めてあげるわ!」


 彼女はスコップを手に、最後の数歩を一気に走り寄る。

 走りながら勢いをつける狂気、殺意とともに振り下ろされる凶器。

 もう止められない。サダヲは諦観と悲哀をこめて絶叫する。


「醜いわよ、すず! そのままだと醜い死に様よ!」


 がつん!


 硬いものが、柔らかいものを打ち付ける音。

 サダヲは、あたしの死を覚悟し、見届けようと、ぐらつく頭を腕力で無理やり持ち上げる。


 たしかに聞こえた、金属が骨を打ちつけるような音。

 だが、ぐしゃり、という肉の弾けるような音は聞こえてこない。

 サダヲはゆっくりと、首提灯よろしく、さらに頭を持ち上げる。


 そこに、つぶれたあたしの死体は──ない。


「サ、ら、ヲ、いつ……まで寝てる、つもり? 早くこいつを、ぶっ倒しちまえ、よォ!」


 渾身の力を込めて叫ぶ。

 狼狽する女の声。


「そんな、どうして、そんな……!」


 女が必死で、つかまれたスコップを引きもどそうとする。

 だが、あたしの右腕は頑としてそれを放さない。


 サダヲは歓喜の表情で起き上がり、湿った土の上を転がりながら数歩の距離を一気に詰める。

 女はハッとしてふりかえるも、手にしていた武器を放棄しなかったことが、挟み撃ちの不利を決定的にした。

 ぐいっ、とあたしが女の武器を引っ張って、バランスを崩したところに突っ込んできたサダヲが、女をがっちりと背後から羽交い絞めにした。


「やっち、まいな!」


 あたしの左手が、自分の寄りかかっていた木を、渾身の力をこめて殴りつける。

 大きく揺れる落葉低木。葉叢にたっぷりと蓄えられていた水滴が、衝撃を受けて周囲に振りまかれる。

 恵みの慈雨を浴びた水死体の身体に力がもどり、その髪の毛はつやつやと輝いて、女の身体に絡みつき、締め上げた。


「言い残すことは?」


 ぐらり、とひしゃげた首を揺らしながら、サダヲが問いかける。

 あたしは一言。


「そいつに、しゃべる、資格は、ない」


「了解」


 女の首が、背後からくきりと曲げられる。

 同時にあたしの額から抜け出した黒い塊を、サダヲの白い手が、がっしりと捕まえる。

 あたしを追い詰め、失敗し、逃げようとしている夢魔・猿獏さるばくの尻尾を。


「さよなら」


 あたしのつぶやくような声と、サダヲの手が猿獏を握りつぶすのは同時だった。




「どうして目を覚ませたの、すず」


 木に上体をもたせたまま、あたしはしばらく無言で呼吸を整える。

 それからゆっくりとした呼吸に合わせて、努力して言葉を発する。


「──実力だ」


「またまた。アタシの声が聞こえたのよね。って、そう思ったんでしょ」


 それがきっかけにはちがいないが、すなおに認めるつもりはなかった。


「自分のだけだ。──多数を救うためにひとりを犠牲にした。そういう選択を貫くなら、最後は別に、。むしろボートの仲間たちを救うためには、身体の大きい船長が死んで、その血肉を全員に分け与えるのが正解だって気づいた。ただそれだけのことさ」


 あたしの腕が、自分の心臓を貫こうとしたナイフの先を船長の首に突き立てるのと、スコップが振り下ろされるのは同時だった。

 あたしは功利主義の選択を貫いて右手の自由をとりもどし、とどめを急いだ女の選択で第五問が出題される機会は逸された。

 あのまま功利主義をつづけていたら、つぎはどんな設問が出されていたのだろうか?


「地球を救うために、日本国民を全滅させられるのか、とか?」


「地球を救うためなら、むしろ全人類が滅亡したほうがいいような気はするけどな」


 しびれる右手をかばいながら、あたしはゆっくりと立ち上がる。


「ちょっと、だいじょうぶ? もうすこし休んでも……」


 よろめく身体を支えようとするサダヲの手を振り払って、あたしは首を振る。


「あたしの死に場所は、ここじゃなかったけど、近くにある。それはわかってる」


「なによ、すず。あんたなにを見たの? 幻覚よ、なんにしろ、猿獏に見せられた悪夢なのよ。あいつは猿獏っていってね、ほんとにタチのわるい……」


「だとしたら、あたしにとってになる」


 皮肉に笑うあたしの脳裏に、衝撃的な風景が数枚、まるでわざとのようにフラッシュバックする。


 轢死する父。溺死する母。手術台で殺される弟。

 ──自分によって。


 あたしは、なぜ家族を順に殺すことができたのか。

 ──単なる復讐?


 だとしたら、両親を殺すだけで足りるはずだ。

 連続するフラッシュバックの最後、挿入された古い写真。

 運転手のいないトラックが、あたしたち家族に向かって疾走してくるあの瞬間。

 あのとき、あたしと弟をのはだ。


「で、なの?」


 核心を突かれた、わけではない。

 けど、あたしの身体は動きを止めていた。


「……ああ?」


「弟クンはともかく、両親に対してはなんでしょ」


「人間の心を失うなよ、ゴースト。親を殺すなんて、ほんとうに心が痛む」


 唇をゆがめた笑い。ほんとうに、この笑いは他人の癇に障るらしい。

 サダヲは、ひどく残念そうにあたしを見つめる。

 そうか、この手の皮肉はそんなに気に入らないか。


 あたしは首から垂れ下がったイヤホンの片方を、ゆっくりと持ち上げて見つめる。

 メロディアスに死を歌い上げるメタルのハイトーンボイス、クレイジーなシンコペーションが心音に同期して、垂れ下がったもう一方のイヤホンと競演する。

 悪魔崇拝、反キリスト、暴力、死。

 ──逃げ込むつもりはない。こんなものはファッションだ。


なのかしらね? あなたの父親は、子どもたちを助けようなんて。あなたの母親は、子どもたちを助けようとしたけど、自分も危ないので


「ぺっ……」


 ガキじゃあるまいし、もう治ったんだよ、その傷は。

 青白い爪で、かさぶた引っ掻き回すんじゃねえよ。

 するとサダヲは見透かしたような目で、あたしを見つめる。


「あんたはガキよ。だから助けを求めてもいいの」


 冷笑を返したはずのあたしの顔が、サダヲの目にどう映っていたかは知らない。


「どっちもどっちだろ。あいつらは結局、んだ」


 自分自身だけを助けつづける選択をした、と言えるのかもしれないが。

 母親の言い訳はわかってる。

 助けようとしたのよ。子どもたちの危険に冷酷な人間よりはマシ。でも無理だった。わかるでしょう? あの状況じゃ、あたしには助けられなかったのよ。


 父親の言い訳もわかる。

 とっさのことで、思い至らなかったんだ。気づいていれば助けたさ、決まっているだろう。まさか血を分けた親が、自分の子どもの危険になんてこと、ありえない。


 どっちがマシか?

 同じだよ。どっちもな。


「おまえが死んだ事情を聞かせろとか、あたしが一度でも言ったか?」


 こっちは訊いてないんだ、おまえも訊くんじゃねえよ。


「ただ興味ないだけでしょ。教えてあげるわよ。二丁目の愛欲どろどろ略奪愛について……」


 どうやら言いたくてしかたがないようだな。


「黙れ」


「……はいはい」


 物分かりがいい、と納得はしない。

 サダヲもまだ納得していない。

 こっち見んな。そんな目で見ても、おまえなんかにはわからないよ。


 じっさい不快な記憶ではあるが、それをウジウジと言い募ったことはない。

 心の割れ目は、せいぜいこの顔の化粧に残っている程度で、世界中の不幸を背負ったような顔をして、被害者面で泣き叫ぶ人間には反吐が出る。

 あたしにとって、より重要な問題は、トラックに轢かれて死ぬはずだった姉弟をが、存在した事実のほうだ。


 彼は選んだ。

 自分が死んで、二人を助ける道を。

 

 と教えられた。その姿はのだ。


 だから、あたしはただ、その教えを守っただけ。

 それが絶対多数とか最大幸福とか、そういう言葉に置き換えられる必要は、どこにもない。


 サダヲは再びなにかを言いかけて、やめた。

 あたしの顔に描かれたヒビワレが広がって、いましも砕け散りそうにでも見えたか?

 でなければ、やはり生きている人間のほうが恐ろしい、とでも言いたいのか?


「…………」


 サダヲはなにも言わない。

 サダヲの目に、ヒビワレたあたしのメイクが縦に開いて、深淵から、まさにおまえの腐った魂の奥底までを見透かすように、見返してくる、なんてふうに見えたとしても、そいつは気のせいだ。

 いずれにしろ、あんたの感じた、に、あたしはなんの興味もないんだよ──。


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