久保初枝の選択は人類の平均値


「サ……ら……ヲ……」


 その声が聞こえた瞬間、わたしの全身は恐怖に痙攣した。

 すこし、漏らしてしまった。だって、そのくらい、それは恐ろしいことだから。


 目の前の女子高生……このクソガキ、している。

 よだれを垂らしながら、唇と喉を動かし、みずからの意志で、声を発する。


 世界の動きが一瞬、静止したかのよう。

 わたしは文字どおり、目いっぱい見開いた眼球で、クソガキの覚醒の度を見極めようとする。

 急がないと……!


 ヒビワレメイクをした、パンクだかメタルだか知らないが、頭のわるそうな音楽をイヤホンから垂れ流している、このクソガキに、生きる価値なんかない。

 母親として正しく生活し、主婦として役割を果たしているわたしこそが、生き残るべきなのだ。


「起きたの、目を覚ましたのね、すず」


 足元で、歓喜の表情で叫ぶ化け物。うっとうしい。


「あ……あ、ほう、よ……らから、あんら、も」


 わたしは再び、戦慄の表情で、クソガキを見つめる。

 なにを言っているかはわからないが、問題はことだ。


 まともに声が出せないのは当然だ。まだ肉体は、自分の意志では半分も動かせないはず。

 それでも、いまこうして目を覚ましているということは、あいつが自分のということ。

 わたしが貫かなかった、選択肢を。


 ──最初の選択は、単なる無為だった。

 疾走してくるトロッコ。五人を助けるか、一人を犠牲にするか?

 それは家族に対する愛情というより、自分が行動してだれかの命を救ったり救わなかったりという状況に、思考が追いつけないだけだった。

 なにひとつ実感がなかった。結局なにもせず、子どもたちとサルの車掌が死んで、自分の子どもだけが助かった。


 つぎの選択は意識的だった。

 ボートの向きを変え、溺愛する息子を助けるために全精力を注いだ。

 自分が五人のだれかを助けるためにボートを漕いでいるのだなどという事実は、すっかり忘れていた。


 それでも家族愛という点では、行動原理として統一されていた。

 と、あの悪魔は笑いながら言った。

 まずは家族を守る、世界を救うことなど、そのあとで考えればいい。

 そういう考えなら、それはそれで否定されるべきものではない。


 だが、わたしは、三人目でつまづいた。

 五人を救うために、のだ。


 夫は血を分けた家族ではない、という確固たる考え──そんなものがあったわけではない。

 ただ憎かった。憎い者を殺して、見知らぬ五人を助けてやった。

 他人を助けるためだ、いいことをしたんだから構わないじゃない?

 空白のドナーカードに、わたしは夫の意見を聞かず、自分だけの意思で、夫の名前を書き入れた。ただ、それだけのこと。


 わたしは貫かなかった。

 絶対多数の幸福も、家族の幸福も。どちらにも優先順位をつけず、ただその場の空気、気分に任せた選択をくりかえした。

 そうして、ここにいる──。


 だけどあのガキは、いまのところ信念を貫いている。

 それもかなり強固な意志の力で。

 これは、わたしにとって不利な状況だ。


 ──しかも、あのガキ、あの目は、どうやら

 このゲームの。くそ、こざかしい、クソガキが!


「早く、殺さないと、早く」


 必死の形相で前へ進む。


「行かせないわよ、すずがもどってくるまで、あんたを行かせはしない」


 ごろりと地面に転がった水死体の髪の毛が蠢き、わたしの足に絡まりつく。


「放せ、ちきしょう、放せ化け物」


 がんがんとつぶれた頭部をたたきつけるが、絡まった髪の毛は切れない。

 すぐに死体を殴ることの無益を悟り、足に絡みつく髪の毛を引きちぎることに注力する。


「目を覚まして、早く、すず」


 不快な言葉を口走る穴に、スコップの先をめり込ませてやる。


「ま……ってな、さい、サらオ……」


 ろれつの回らない声の方向に、目をもどす。

 右半分の唇を懸命に動かしながら、クソガキが、どうやらつぎの戦いに移ったらしい。


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