霧島すずは異常な信念をもっている


「すずはさあ、なんでって言われるの?」


 やや間延びした口調で、サダヲがそんなことを問うた。


「はあ? いまさら聞いてんじゃねーよ、バカらしい」


 西の水脈へ向けての途上、斜め背後を歩く水死体の問いに、ふつうに答えている自分に、違和感を持っていないことに気づく。


「だってさ、さっきまでの感じだと、ふつーにアタシといっしょに戦ってくれて、に、それなりの最善を尽くしている感じだもの。ちょっとすず、人と話してるときデスメタルなんか聞くの失礼よ!」


 あたしは流しっぱなしのスラッシュ高速ギターリフを片方の耳に入れたまま、


メタルやろうぜステイ・メタル!」


自殺スーサイドメタルにならないことを祈るわ」


 サダヲが肩をすくめ、やれやれと首を振る。

 自分こそ死人のくせに、失礼なやつだ。


「うるさい。言ったろ、あたしはを選びたいだけだ、自分自身の意思でな。だれかに与えられたり、強いられたりするんじゃない、みずからの思想に基づいて選んだ死、それこそがこの世でもっとも気高く、美しいんだ。それ以外の死に方は認めない」


「ふうん。なんか、って感じね」


 その語調に嘲るような調子を受け取り、あたしは憤然と顧みた。

 だいぶ遅れた場所を歩いているサダヲの前に垂らした両腕が、幽霊というよりも無礼に見える。


「水死体ごときがバカにするなよ、あたしの高貴な思想を。って、ほんとトロいな、歩く気ないなら水溜りにもぐってついてこいよ」


 左右に、ぶらーん、ぶらーん、という感じで揺れながら、のろのろとついてくるサダコまがいは、にこやかに笑う。


「だって潜っちゃったら、すずとお話できないじゃなーい?」


「笑うな、気持ちの悪い!」


「あら、差別。ほんと、幽霊に対するその手の差別意識、排除してもらいたいわよねえ」


「なにが差別だよ」


「つまり、アタシたちのに対してよ。そもそも論から言わせてもらうとね、霊が怖いなんてまちがった認識よ。いわゆる怖い話ってやつを延々と聞いてると、すぐに気づくわ。あいつら、いつも明るくもの」


 事故物件に住み着いた浮遊霊、血みどろの女が笑って天井から見下ろしている。あるいは交通事故で死んだ自縛霊、内臓を飛び出させた子どもたちが、こちらに走り寄ってくる。

 たしかに怪談話の多くに登場する幽霊たちは、にこやかであるパターンが多い。

 そうでないパターンももちろんあるが、霊が笑ってるパターンは、異常なくらいに多い、と気づく。


「演出上の技巧だろ」


「冷めた見解ね。まあ、まちがいではないけど。考えてもみてよ。コメディで笑顔はわかるわよ。みんなに笑顔を届けるために、自分たちも精一杯の笑顔を見せる。妥当な態度だと思う。でもって、おかしいじゃない。不気味に笑っている、とか表現されるけど、それは受け取る側の勝手な判断。当人の意志を無視しないであげて。アタシも含めて、あいつらは基本、明るくてにこやかな気のいい連中なのよ」


「気がいいかどうかはともかく、たしかに笑ってる印象はあるな、幽霊って」


「そうなのよ。笑っている霊に出会ったら、ぜひ、にっこりと笑い返してあげてほしいわ。いいやつばかりよ、みんな」


「それは……つまり、笑いながら殺すやつのほうが、苦しそうに殺すやつよりも怖いからじゃないのか?」


 サダヲの意見に納得するのが、心から不愉快であるがゆえの反論。


ね。だけど殺すことが笑えるような快楽ならさ、それを逃れるためには、別の快楽を教えてやればいいわけじゃない? 一方で、怒り狂っていたり、苦しそうに殺すからには、相手にも殺さなければならないそれなりの理由があるわけだから、止めづらいでしょ。やっぱり笑顔でいてくれる相手にはさ、こちらも親しみをもって接すべきだと思うのよ」


「……納得いかないな」


「そう? アタシに言わせれば、、よっぽどわよ。幽霊に殺される人間より、人間に殺される人間のほうが明らかに多いもんね」


「……言っておくが、あたしはからな」


 ぴたりと足を止めるサダヲ。ふうん、と鼻白んだように吐息する。


のは、わよ。むしろ死にたがるほうが、よっぽど問題だと思うけどね」


 あたしは佇立して、赤い月の下、横顔をリリカルに照らされながら、何事かを思い、その観念的な思想を、ゆっくりと言葉に変えようと努力する。


という気持ちを貶めてるわけじゃない。でものも強さだろ」


「短兵急に死のうとする気持ちは、貶められてしかるべきよ。だいたいの宗教が自殺を罪とするように」


「そしてだいたいの宗教が、死を美化してきた歴史をもっているよな。……だから何度も言ってるだろ。あたしは単に死のうとしてるわけじゃない。美しく意味のある死を。それだけだ」


 議論は終わり、とばかりスタスタと歩き出す。

 あわてて後につづくサダヲ。

 その目前に突如、もわっ、と黒い霧が広がった。




 ゆっくりと目を開ける。

 脈絡を整合させる前に、まずオリエンテーションを確立しなければ。


 足元には線路。すこし先がポイントになっていて、転轍機のレバーがすぐ手元にある。

 左を見る。ふつうの軌道線路に、なぜか遊園地で子どもたちが乗るサイズの列車が止まっている。子どもたちとサルの車掌。にこにこしている。

 その横の退避路線。ひとりの作業員が線路上、スコップで砂利を整えている。


 ──なるほど、これは夢か。


 ふと背後におそろしい轟音を聞いて、あたしはふりかえる。

 砂利をたっぷり満載したトロッコが、ものすごい勢いで坂道を転がり落ちてくる。

 ゾッとして背後を顧みる。それから足元。そして切り替えレバー。


 叫ぼうとする。

 危ない、逃げて。

 ──声が出ない。

 その間にも、トロッコは猛然と突進してくる。

 間に合わない。


 あたしは一瞬後、渾身の力をこめてポイントを切り替える。

 その姿勢のまま硬直するが、すぐに決意してふりかえる。

 自分がやったことのならない。


 直後、目を見開いた。

 ──父親だ。

 待避線で作業をしていたあたしの切り替えられたトロッコに吹き飛ばされ、


 そう意識した直後、空間が歪んで景色が溶けていく。

 頭を振り、情報の整合に努める。

 ──真上から、しわがれた声が降ってきた。


な」


 その声の正体を探る前に、あたしは反射的に言い訳をした。


「……知らなかった。わからなかったんだ。ただ、あたしは、多くの命を」


のだ。そのを否定するものではない。女ベンサムよ。功利主義はひとつの正義でさえある。のために。──ただ、みずからのよ。信念は貫かれなければ意味がない。そう、おまえが、その称うべき


 ゆらりと黒い影が揺らめいて消える。ぐっと唇を噛み締める。


「どこの白熱教室だ──」


 片手で顔を覆う。

 その下、右目に違和感をおぼえ、ぐっと力を入れて目を見開く。




 深い闇の森。月光に照らされて、黒いものがゆらゆらと蠢いている。

 それが人影であることに気づくのに、それほど時間はかからなかった。


 ──女だ。上半身を気だるそうに揺すって、女が歩いている。

 こちらを向いて。片手になにかを持って。近づいてくる。ゆっくりと、まっすぐに、自分を目指して。


 ──殺しにくる。

 直感的に気づいた。あの女は、自分を殺しに、近づいてきている。


 そのとき女の横から、見慣れた白い服が現れ、女に飛びかかった。

 サダヲ。

 水気のない地上で渇きをこらえながら、必死に女を──あのとき見たを──押さえつけ、あたしのほうへ行かせまいとしている。


 そうか、あいつは、あたしが死んだら困るから……。

 そんなふうに考えはじめた意識が、再び白い靄に包まれて沈潜していく。




 ふと目を開けると、あたしはボートを漕いでいた。

 顔を上げる。無線から悲鳴のような声。


「早く助けてくれ。このままだとみんな死んでしまう!」


 漕いでいるうちに理解する。

 自分は五人の遭難者を救うためにボートを漕いでいる。この先へまっすぐ進めば、五人の命を救うことができるだろう。


 ──なるほど、こういう夢か。

 自分はこの夢の中で、これを見せている何者かとの戦いを制し、現実にもどらなければならない。これは、そういう戦いなんだ。


 ふと顔を上げる。

 まったく別の方向で、だれかが溺れている。漕ぎながら顔を向ける。


「たすけて、たすけて」


 そちらから、か弱い女の声。一瞬、力が抜ける。


「おかん……?」


 ボートの速度が緩む。

 このまま向きを変えて、に向かう。

 本能的にそんな考えが浮かび、当然の選択だという思いに満たされる。


 そう、当然だ。母親だろう。助けるのがあたりまえじゃないか。

 同時にボートの無線から悲鳴。


「早くきてくれ! みんな死んでしまう!」


 唇を噛み締め、一瞬後、さらに強く腕に力をこめる。

 そのまままっすぐ、に。


 絶対多数の、最大幸福。あたしは選んだ、その正義を。


 母親は見ない。

 そう決めたはずなのに、だれかが無理にあたしの頭を動かして、母親の断末魔を確認させる。

 あたしの目は、ごく間近の助けられる場所で溺れ、水面下にゆっくりと沈んでいく母親の腕を凝視する。

 多くの人を助けるために、少数を犠牲にすることは──正義。




 ざしゅ、ざしゅっ。

 右の耳から聞こえる音に、あたしの意識は引きもどされた。


 さっきより近づいた女の姿が、いまは月明かりに照らされてはっきりと見える。

 その手に握っている、ひん曲がったスコップも。足元にすがりつく見慣れた水死体も。


「目を覚まして、すず、殺されるわよ」


「黙れ、化け物、離せ……っ」


 女がその場で足を止め、振り上げたスコップで、自分の足にすがりつく水死体を殴りつける。

 二度、三度、それでもサダヲの手は離れない。


「わるい、けど、あの子、殺させるわけに、いかないのよね。アタシもさ」


 頭部がひしゃげている。

 が、その腕は、女ひとりが前へ進むことを妨げきれないほど、非力。


「黙れ、離せ、、あいつ


 女の顔がこちらを向く。一瞬、あたしの右目と視線が合う。

 直後、女は咆哮しながらスコップを振り下ろす。

 めしゃり、といやな音がして、サダヲの身体が湿った土にめりこむ。




 呆然と眼下を見下ろす。

 横たわっている。


「先生、みなさん待っています。一刻を争います」


 ハッとして周囲を見回す。

 手術室。

 五人の患者が横たわる。その身体には、それぞれ形の違う五つの穴が開いている。


 再び目の前の弟に視線を下ろす。

 目を閉じ、安らかに眠っている。その身体を見て愕然とする。

 彼の腹部に五つの臓器が貼りついて、脈打っている。


 腎臓、肝臓、肺、腸、そして心臓。

 五人を助けることができるもの。


 五人の命を救うために、一人の命を奪えるか。──またこの命題。

 そして今度は、という。


 たいていの場合、人は五人を救うために一人を犠牲にするのはしかたがないことだ、と考える。功利主義にしたがうまでもなく、五人を救うべきだと直感的に決めるのだ。

 しかしいざ、自分にその具体的な手段が与えられ、かつ目の前で殺せと言われれば、ほとんどの人が躊躇する。それはできない、と。


 しかも目の前にいるのは弟。

 血を分けた兄弟の命を、他人のためにその手で奪えとは。


 やらなくても許される。こんな選択はおかしい。

 これは夢だ。悪夢なんだ。わざわざいやなことをする必要はない。


 そのとき弟が目を開けて、じっとあたしの顔を見る。あたしの手から力が抜ける。

 そうだ。自分の弟を他人のために殺すような人間が、いるはずがない。そんなことが正しいわけがない。


 弟の唇が、何事かをつぶやく。

 あたしの耳には聞こえない。唇の動きもよくわからない。

 だが記憶のなかに現れた弟が、にこにこ笑いながら、将来はお医者さんになるんだ、たくさんの命を救うんだと言って、もしなれなくてもやれることはあるんだよと、ドナーカードに自分の名前を書き込んでいる姿が思い浮かぶ。


 あたしは目を見開き、弟の頬に手を当てる。

 脈打っている。生きている弟。

 血肉を分けた少年の身体に触れながら、もう片方の手をゆっくりと持ち上げた。


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