小平秀人と大日本帝国軍人との因縁
黒い繭の向こう、巴たちが戦っている。
どうしてだ。どうしてこんなことになった?
自問自答している暇は、いまはない。
歴戦の軍人が、愛しい子孫を守るため、老骨をきしませて自身の観念を洗浄している……そんな気配が伝わってくる。
なぜかはわからない、だが伝わるんだ。
俺の上に、なにかが重なっている感覚。
まるで遺伝子に刻まれた記憶のように。
──敗戦から学んだこと。この国が築き上げてきた形は、世界の敬意に値する。
「そうか。相手を生かす戦い。それができず畢竟、われわれは負けたのであろうか」
老軍人が、ぼそりと呟いた。
目の前には、少年の肉体を貪り食うように噛み千切り、その肉体を消耗戦の武器に変えて放ってくる悪魔がいる。
──あれを滅するのは、正義であろう。だとすれば。
「指がなくなっちゃう、おじいちゃん、助けてあげて、早く」
巴の悲鳴のような叫び。混乱していて、ルールの理解まで霧消してしまっているのかもしれない。
彼女の要求は、ひどく錯雑として、矛盾に満ちている。
飛来する指弾丸を、老人の軍刀が弾き飛ばす。
しかしそれは意思を持ったものであるかのように、初弾よりもはるかに優秀な弾丸となって、巴の肉体を狙い済ます。
「おのれ!」
老人の伸ばした腕に突き刺さる指。
同時に伸ばした左腕も、少年の指が貫いていく。
巴の盾となり、老人はその身を傾国のイージスに変えようと……。
「指では埒が明かぬ、つぎは足じゃ!」
どこからか取り出した牛刀で、目玉の妖怪は少年の足を狙う。
ぷつん、と老人の頭の線が一本切れた。
聞こえたのだ、なぜか、ぶち切れる音が。
「──統率の外道」
老人の口と同じ言葉を、俺の口も紡いでいた。
老人は唇を噛み締め、ものすごい形相で何事かを思う気配。
その周囲に守護霊らしからぬ黒い魔力が漂い、巴さえも恐怖して身を引く。
黒い繭の向こう側で、歴戦の大日本帝国軍人が、最後の戦術に踏み出す瞬間を、俺は見た。
所属、大日本帝国陸軍。
軍歴、昭和16~19年。
最終階級、陸軍曹長。
氏名、一条
ハッとして、目の前に現れたイメージの意味を探る。
──我が子孫よ、よく見ておけ。敵軍からも恐れられ、尊敬された一条曹長の、ほんとうの最期を。
そんな声が背後から聞こえた気がして、ぐるり周囲を見回す。
「ひいじいちゃん、か」
霊感のない俺にはっきりと視えはしなかったが、これが先祖霊というやつの声なのか、とは理解できた。
マリアナ、パラオ諸島の戦いにおいて、壮烈な戦死を遂げたとされる俺の先祖。
サイパン、グアム、テニアン、ペリリュー、そしてアンガウル。
地獄のような敗戦をくりかえした、南方戦線。
一条分隊は、昭和19年9月、アンガウル島に着任。ただちにアメリカ軍との戦闘に入る。
──分隊長殿。最後までご迷惑をかけ、ほんとうに申し訳ない。
心の中に響く声。
それが俺の血……一条家に後事を託した小平家の先祖の声であることを、確信する。
──見届けろ。
言われるまでもない、俺は凝視する。
降り注ぐ無数の弾丸の中を、不死鳥と呼ばれた軍人は傲然と突き進む。
巴がなにか泣き叫んでいるが、声は聞こえない。
太平洋戦争のイメージと、目の前で展開する化け物の攻撃が、奇妙にリンクする。
戦争とは、つねに化け物たちの戦いだ──。
米軍の目的は島を占領して飛行場をつくり、日本本土爆撃の拠点にすること。
防衛にあたる日本軍の兵力は約1千名。攻撃側は2万余。
どう見ても負け戦に、孤軍奮闘する一条分隊。
残存兵力を北西の洞窟に集結させ、グレネードランチャーが真っ赤になるまで撃ちつづけ、全身に弾丸を受けながら、不断のゲリラ戦を展開、島の形が変わるほどの激戦を展開した。
地獄の分隊長。戦史に伝説を刻んだ陸軍軍人。
「生き残ったほうが、死んだほうの子孫のために、最大の便宜を図るとしよう」
戦地で交わしたこの約束を、一条家は子々孫々まで守ろうとしてくれている。
「心底、申し訳がない」
それは我が先祖の心であると同時に、俺自身の言葉でもある。
「どうするの、おじいちゃん。なにをするつもりなの。やめて……やめて!」
巴の絶叫が遠くから聞こえる。
本能が、それをさせてはならないと叫ぶ。俺にもわかる。その戦略は、だめなやつだ。そうなんだろ、じいちゃん。
俺の先祖霊がうなずいたような気がしたが、声は聞こえてこない。
戦局は、それを選択せざるを得ない危急存亡の瀬戸際であると認めて。
「
黒い繭のむこう、老人の足元から黒い嵐が舞い上がる。
これまで一度も感じさせることのなかった、気高き守護霊の闇の部分。
それは無数の怨念の記憶、なのか。
出番のようだ。そんな意識を残して、俺の先祖霊も、むこう側へと集まっていく。
それは禁断の「陣」。
永劫の門を開き、ともに無間地獄へと堕ちようとする、必殺の紐帯。
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