久保康幸は罪深い過去と踊る
家族が散らばるきっかけは、地面から生えてきたゾンビの腕だった。
「うわぁぁあーっ!」
その腕はがっしりと、久保をつかんで放さない。
その場に父親を残し、悲鳴をあげて四散する家族たち。
絆、ああ、なんて、脆い……。
「やめろ、おまえ、頼むよ、許して、わたしが悪かった、謝るから!」
悲鳴が山中にこだまする。
もちろん、とうに見捨てられた久保の声に、応えようとする家族はいない。
やがて伸びてきたゾンビの腕が、彼の頭を捕まえ、口を塞いできた。
「もが……っ、ぐが……げっ」
「痛かった、苦しかった、怖かったのよォ……」
しゃべるゾンビは、いまや地面から上半身をむき出していた。
その身体はなかばまで腐り、肉のあいだには蛆虫のようなものが這いまわっている。
「やめろ、ゆるして、殺すつもりはなかった、ほんとなんだよ」
──ただ、おどろかせてやろうと思った。
合鍵を使って彼女の部屋に侵入し、ベッドの下に隠れてやった。
「ベッドの下、そう、あなたはそこに隠れていたのね」
ゾンビが四肢を絡めながら、腐臭たっぷりの息を耳に吹きかける。
「そう……そうだ、きみは部屋にもどってきた。ひとりじゃなかった。わたしは息を潜めた。きみは男を連れてきた……」
──ぎくり、と男は背筋をふるわせて言った。
「なんか変じゃないか、この部屋」
気づかれたのか? いや、そうではないらしい……。
息を潜め、ベッドの下、久保は同じ姿勢を保つ。
「今日子にも言われた。この部屋、なにかいるって。あなたもそう思う?」
「よくわからないけど、気配はあるような」
また彼女の好きな怪談だ、と久保はすぐに気づいた。
男もいいかげんに乗ってやっているだけだろう……。
「こわーい。ひとりじゃ寝られないよー」
「へえ、じゃだれかにいっしょに寝てもらわないとねー」
冗談めかして笑い合うふたり。
──問題は、彼女が男を連れてきたこと。いや、それはべつに、なんの問題もない。
久保には女房も子どももいる。ただの浮気相手であることは、お互い最初からわかっていた。
彼女は久保との浮気を楽しみ、久保もそれなりに楽しませてもらう。
それ以外の時間、彼女がほかの男と楽しんでいたところで、咎め立てをする理由も資格もない。
逆に咎められるべきものが多いのは、久保のほうだ。
わかっている、そんなことは、わかってて……。
「シャワー浴びてくるね」
「俺、テレビ見てるわ」
女の足音が遠ざかる。
どさり、と真上から音がしてビクッとする。
男がベッドに腰を下ろし、テレビをつけたようだった。
視線を横に向けると、男の足が見える。
直後、全身が硬直した。
──テレビ台の下、ちょうど久保の視点と同じ高さに、別の目がこちらをじっと見つめているではないか。
悲鳴をあげそうになったが、かろうじておさえた。
恐怖のあまり硬直して、声が出なかった、というのが正直なところだ。
そのまま身じろぎもせず、じっとテレビ台の下の目を見つめる。
鏡のように、それはまっすぐ、久保を見返してくる。
ほんとうに鏡なのかもしれない、と思い込みたくもなる。
だが、久保が横たわった姿勢のまま縦に並んだふたつの目玉で見つめているのに対して、その目玉は横に並んだ姿勢でこちらを見返している。
──被写体を九十度、曲げて映す鏡など、この世にあるのか?
それにしても、おかしい。
ほんの10センチにも満たない隙間に、人間が隠れられるわけがない。あんなところから、だれかがこちらを見ているなどということが。
あるはずがない。置物かなにかだ。
精巧で不気味なホラーグッズを集めるような変な趣味が、彼女にはなかったか?
そのときベッドの上から、男がなにやらあわてたように立ち上がる気配があった。
ちょうどバスルームから出てきた彼女と鉢合わせ、短いやり取りの断片が聞こえた。
「ちょっと、どうしたの?」
「ごめん、急用を思い出したんだ。また連絡する」
「ちょ、ちょっと待って、どういうことよ?」
どたばたと行きかう足音を、久保はベッドの下の床に耳をつけ、テレビの下の目玉と見詰め合ったまま、身じろぎもせずに聞いている。
なにが起こっているのか、考える能力が失われていた。
ただ九割の恐怖と、一割の好奇心だけが彼を支配していた。
バスムールのほうで起こっていることに一瞬だけ気をとられ、視線をはずし、またテレビの下を見たとき、そこに目玉はなくなっていた。
むしろ目玉を発見したときより大きな恐怖を、そのときの彼は感じていた。
正面からの視線が、こんどは背後から突き刺さるような気配。
いま思えば、あれが久保の「魔」だったのだ……。
「気がつくと、わたしは穴を掘っていた」
脂汗まみれの頭を抱え、呻くように懺悔する。
キャンプ道具として車から降ろして、そのままになっていたスコップが足元に転がっている。
同じ道具で、久保は、彼女を埋めた。
「苦しかった、ねえ、どうしてそんなひどいことをしたの?」
ゾンビの腕が、うねうねと絡みつく。
この呪縛から逃れるために、彼はこの村にきた。
家族を危険にさらしてでも、どうしても逃れたかった怨念の鎖を断つために。
だが、逃げ切ることはできなかった。
彼女は待っていた。久保がここにくるのを。
そして久保を道連れに、地獄への道を落ちようと決めたのだ──。
「あたし、あなたを愛していたのよ、ほんとうよ」
「だが、きみはべつの男と」
「あなただって奥さんがいるじゃない……ねえ、そうじゃないでしょう? あなたは、あなたの心の鏡を見たんでしょう? あたしはあなたが別の女と寝ても、そりゃすこしは嫉妬したかもしれないけど……」
くけけけ、とゾンビの頭が笑うように揺れた。
「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ……」
「だけど、あたしはほんとに嫉妬なんてしないわ、ねえ、あのシャベルよね、あれで相手の身体に土をかけたりしない、それに、ねえ、あのゴルフクラブよね? あれで相手の頭を殴ったりしない。ねえ、見て? 髪の毛がこんなに抜けちゃったから、この穴をもう、ちゃんと隠すこともできない」
ゾンビは久保の目に、自分の頭にできた穴をこすりつける。
その腐った穴からは、かつて脳漿だった液体が溢れ、蛆虫の混ざったスープを、加害者の鼻の穴に注ぎ込んでくる。
「ひいぁあ、やめてぇ、ゆるして、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
久保はぶざまに泣き喚きながら、じたばたともがいてゾンビの
だが、その身体にまとわりついた腐肉は、べっちょりと、糊のように貼り付いて永久に離れそうもない。
──ざしゅっ。
そのとき、意想外に間近で聞こえた足音に、久保とゾンビは同時に顔を上げる。
赤い月の光に照らされて伸びた影を追うと、ちょうど葉叢の彼方にぽっかりと浮かぶ光源との直上、その男の眼光と出会って視線が結ばれる。
「なんだよ、わりーのはオメーかよォ」
ゆらり、と赤い光を背中に受けながら、そこにはひとりの高校生。
不敵な面構えで、久保たちを見下ろしている。
「き、きみは、人形に追いかけられていた……」
ゾンビの現実から逃れるように、久保は目のまえにいる高校生の記憶を掘り起こす。
──彼は、左手に抱いた人形の頭を、すこし乱暴に撫でまわして言った。
「ああ、こいつか? なあに、落ち着いて考えれば、慣れた相手なんだよ」
そんな説明は、久保の耳には届いてこなかった。
ゾンビにつづいて、さらに忌まわしい黒い靄のような影が、自分たちを包み込んでくることに気づく。
「くそ、どうなっているんだ、この黒い靄は」
すると、同じものに包まれつつある高校生は、やや鼻白んだように、
「なんだ、あんたまだルールを把握してないのか。……まあ、どっちみち同じ結果ではあるんだが。あんたはオレと殺し合う。そしてあんたは、その女のところへ逝くのさ」
にやり、と笑う高校生。
わたしは、どうすれば、よかったのだろう……。
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