霧島すずと森崎千夏の友情
黒い水溜りのような靄が、すずと千夏の間に、ぽたり、と雫のように波紋を広げる。
それは急速に広がって、巨大なドームを形作り、ふたりを中心に結界を結んでいく。
「はじまったわ……」
背後からの声に、すずは半眼だけそちらに視線を移す。
もう半分は、目前でくりひろげられている不気味な
「どういうことだ、サダヲ。はじまったって、まさかこれが」
「そう、さっき説明したでしょ。あんたの逃げるターン、アタシの追うターン。それが、このゲームの第一段階。アタシたちの場合、一瞬で終わっちゃったけどね」
「おまえずるいんだよ、いきなり水溜りから飛び出してくるなんて」
口をとがらせて苦言を呈するすず。
あれはまだ、だれもルールさえ把握していない瞬間、一瞬の出来事だった。
「問題はいま、はじまった第二段階よ。それこそ、この村が〝根絶やし村〟と呼ばれるゆえん。村に集まった全員が狂気のように武器を手に殺し合う、そんな恐怖物語が生み出された、これが理由よ……」
サダヲが床に腕をつけると、黒い波紋がゆっくりと広がる。
それは優しくみんなを包んでいるかのようにも見えるが、真綿でくるんで襟首を締め上げられる感覚もともなった。
そこから立ち上る毒気、瘴気のような腐敗臭が甘さを帯びて、中枢神経を汚染していく。
「赤ちゃん、ウチの、赤ちゃん」
ふいに千夏の声を聞いて、すずはそちらに一歩を踏み出す。
そこでは千夏が看護師の押す車椅子に、どっぷりと腰をかけ、その四肢はことごとく小さな胎児の手足のようなものが、しっかとつかんで放さない。
サダヲは目を細めてその様子を見極めながら、
「完全に取り込まれたわね」
「だけど、これは……どういう?」
「お互いが第二段階に達したことになる。──覚悟を決めるのよ、すず」
血色のわるい水死体の表情が引き締まる。
気圧されるように、すずたちは、じりっと千夏たちから距離をとる。
「ウチらは、どうするの、どうしたら、いいの、ママ……」
千夏の肩に載せられたしゃれこうべが、かたかたと動いて何事かを囁いているようだ。
その車椅子の向きが、ゆっくりと回転して、すずたちに向かう。
「あぶない、すず!」
つぎの瞬間、すずの立っていた場所を、猛烈なスピードで車椅子が駆け抜けた。
間一髪、サダヲに手を引かれていなければ、轢死していたかもしれない。
「ちな、つ?」
「ぼけっとしてる暇はないわよ、すず。戦いははじまったんだから!」
引きずられるようにトイレから出て、すさまじいスピードで走り去っていった車椅子の位置を索敵するサダヲ。
すずは眉根を寄せ、脳の中枢に走る鈍痛に耐えながら、
「まさかとは、思うけど、サダヲ、おまえほんとに、あたしと千夏が、殺し合いをするとでも、思ってるのか?」
「因果な話ね、認めるわ、やりづらいでしょうね。でもこれが……現実よ!」
サダヲがすずを突き飛ばす。そうして開いたふたりの真ん中を、恐ろしいスピードで走り抜ける車椅子。
轢き殺すつもりであることは、もはや疑う余地がない。
「待てよ、千夏、おまえ、そんなつもりないんだろ、なあ……っ」
身体を起こし、校庭の隅で反転する車椅子の上、千夏を見つめるすずの表情には、残念ながら、恐怖。
「そっか、それじゃ、しかたないよね、すず、そういうルールなんだもの、しかたないよ」
千夏は言った、けらけらと笑いながら、親友の死を意味する、その言葉を。
「まさか、千夏、あたしを」
「死にたがりのすずなら、ねえいいでしょ? 死んでくれるよね、ウチのために、ウチが生き残るために、あんたは死んでくれるよね!」
まっすぐに突っ込んでくる車椅子。
激突の直前、ざぶり、と身体が水溜りに沈む。
「ちっ、やっかいな水妖め」
骸骨の顎がカタカタと動く。
すぐ横の別の水溜りから、すずはサダヲに連れられて引き上げられる。
サダヲは、自分の身体にまとわりつく黒い靄を見ながら、
「やっぱり、これの外には出られないわよ……すず、ねえ聞いてるの?」
やおら、異変に気づき、サダヲの表情が変わる。
「出られる、わけないよな、この根絶やしの繭の外に、生きて出られるのは、ひとりだけなんだから。両方が死んだら根絶やしにできない、片方が生き残って、ほかのやつらを殺してしまわないと、そのための繭なんだ、これは」
それは触れると、質感を持って押し返してくるが、つかもうとすると指の間からすり抜けて落ちていく。
そして静かに内側の人間にうながす、出口を通れるのはひとりだけ、だからどうしたらいいか、わかるな? ──と。
すずの全身を覆っていた黒い繭の糸が、頭部から髪の毛のようにはらりと落ちてくる。
殺意を残して。
──繭の内、響く根絶やし、歌に染まれば、
かつてこの歌を聴きながら、友人同士、兄弟姉妹、親子でさえも殺し合ったという。
「勝手なこと、抜かしてんじゃねーぞ、千夏」
「やる気なの、上等じゃないよ、すずぅう!」
真正面から突っ込んでくる車椅子を、軽快なステップで躱す。寄り添うサダヲ。
サダヲは距離のある車椅子に向けて、魔力で集めた水滴を弾丸にして放つ。
車椅子は恐るべきすばやさで左右に回避しながら、再び猛然と突っ込んでくる。
その軌道からぎりぎりで飛びのくすずの足を、千夏の右腕がはっしとつかんだ。
「逃がさないわよ、すず、ウチのために、死んでよォオ」
「うぁああーっ」
突っ走る車椅子に引きずられ、手で頭を覆ったすずの上着が引き裂かれる。
「こォのアバズレ、アタシのすずを、返してよォ!」
目前の水溜りから飛び出して両手を広げたサダヲが、そのまま車椅子に轢かれて吹っ飛ばされる。
きさまのものになった覚えはないがな、と内心吐き捨てるすず。
それによって勢いのそがれた車椅子は、回転しながらバランスを崩して、数メートルほど片輪走行する。
その間に、地面に落ちていた木の棒を拾うと、ざくっ、と下側で走行していた車輪に突っ込む。
回転をやめて転倒する車椅子。
円運動にしたがって、左右に投げ出されるすずと千夏。
その身体をうまくキャッチしてくれたサダヲを足蹴りして、大地に降り立つすず。
黒い涙を流しながら、恨みがましく叫んで、ゆらりと身を起こす千夏。
「なんなのよ、すず、あんた死にたがりじゃないの、どうして死んでくれないのよ、ウチのために、親友のためにィ」
その足を胎児の足がつかんで、車椅子のほうに引き寄せようとしている。
すずは首を振り、
「親友? 冗談。死ぬのはいい、だけどな、あたしは美しく、有意義に死にたいんだよ。ふたり以上を助けて。だけどこのゲームは、助かるのはどちらかひとりだろう? それは美しくないし、千夏、そのやり方は汚い、とても……醜い!」
「どうしてよ、美しいじゃない、これが生きるってことよ、これが汚く見えるとしたら、やっぱあんたは死ぬべきよ、すずぅう!」
「赤ん坊を殺した女に、言われたくないわ!」
すずの振り下ろした棒が、千夏の足をたたきつける。
その足をつかんでいた胎児の腕が離れ、千夏は痛みに悲鳴を上げながらその場で丸くなる。
「やめてよ、やめて。ぶたないでよ、お父さん」
一瞬、棒を振り上げた状態で動きを止めるすず。
しかし直後、
「世界がみんな、おまえの泣き言に付き合ってくれると思うな!」
渾身の力をこめて、千夏の上に振り下ろされた棍棒が地面に埋まる。
それは目標の直上、わずかのところで直撃を避けている。
取り囲む位置にいたサダヲと骸骨看護師が、楕円運動を描きながら中心に集まる。
「これだから生きた人間は」
「度し難い!」
化け物たちは叫びながら、原初的な殴り合いのモード。
すずと千夏の真上で、サダヲと骸骨の右腕が、きれいなクロスカウンターを描いてキマる。
ぴたり、と動きを止める二体。
やがて先に崩れたのは、骸骨のほうだった。
「オカマを、なめんじゃないわよ」
期せずして男女の力の差を示した形のサダヲ。
そのまま反対の腕ですずの襟首をつかみ、ぐいっと引き上げる。
「あいつを殺さないの、すず」
「だって、あたしは」
「……甘えんな」
「え?」
「甘えんじゃねえって言ってんだ、生きてるくせによお! いいか、すずぅ、死にたがりだがなんだかしらねえが、薄っぺらな美学宣って、結局なんの決断もできねえ、てめえの弱さを噛み締めて汚らしく生きていけや、カスがぁあ!」
すずが地面をたたきつけて、半分に折れた棒。
その手に自分の冷たい手を添え、大きく振りかぶるサダヲ。
見下ろせば千夏。
その上には骸骨看護師が覆いかぶさるようにして、千夏を守ろうとしている。
サダヲは、すずの握った棒を立て、折れた棒の尖った先端を、体重をこめて突き下ろす。
それは骸骨のスカスカのあばら骨を突き抜け、そのまま千夏の胸に埋まった。
──ずぶしゃっ。
すずの腕に届く感触は、自分の手が、たしかにひとりの人間の生命を奪ったのだという実感。
「いただきまぁす」
サダヲの声が遠くに聞こえた。
ゆっくりと離れる水死体の冷たい手が、千夏の身体を通して骸骨の心臓の位置から、薄く輝く玉を引っ張り出し、飲み込む。
一瞬、周囲が暗闇に閉ざされ、それから弾けるように黒い繭が消えた。
サダヲは、侮蔑的な視線で、地面に座り込んだままのすずを見下ろし、
「おまえが勝てば、オレは強くなる。朝までは共闘関係だということを忘れるな。……その後どうしても死にたければ、アタシが引導を渡してあげるわよん」
語尾をオカマっぽく引き上げて、サダヲは水溜りのなかへと消えた。
残されたのは、千夏の死体と、それを殺した……すず。
しばしうずくまって、唇を噛み締める。
それから、ふいに手を伸ばし、千夏のポケットからぐしゃぐしゃになったお守りを取り出す。
すずは、それを握りしめ、
「ちょっと先になっただけさ、千夏。聞いただろ、根絶やしの歌を──」
唇を引き結び、ゆらりと立ち上がる表情に、もう悲しみはない。
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