第50話 左手で三階建て家屋の階段を上って行く

 僕らは予定通り観光をする。バッキンガム宮殿へ行き近くにあったお店でフィッシュ&チップスを食べる。かなり多くの場所を見て回る。イギリスは季節の変化があまりないのだろうかとか、僕はどうでもいいことをボーっと考えている。それから待ち合わせの通りで僕は男の子に目がいった。背は低く、丈の合った黒い撥水性の良さそうなステンカラーコートを着ていた。彼は黒人の背が高くがっしりとした体格の黒いモーニングコートを着た男性と一緒にそこに佇んでいた。なんだかアンバランスだ。彼は髭が濃かった。そして僕はどうしてその男の子に目がいったのかの理由に気付いた。要するに、男の子の方はどことなく目鼻立ちが彼女に似ていたのだ。彼らが待ち合わせをしていた弟と執事だった。

「ようこそはるばるイギリスまでお越し下さいました。」

彼はゆっくりとした英語を丁寧に話した。

「こちらこそ、わざわざ無理を言ってすみまぜん。」

「こちらに車が止めてあります。」

僕らはその車に乗って三十分程揺られていた。北方面、ハムステッドの上品な高級住宅街にリナの家はあった。幾つかの豪邸と、居心地の良さそうなカフェ、おしゃれなアパレルショップを通り過ぎた。

リナと似てこの家の人は美形だ。家がロンドンにあるのに屋敷が広くてびっくりした。日本を指標に物事を測っている所為でもあるのだろうが。僕らは日の当たるガーデンでアフタヌーン・ティーをしながら世間話をしていた。僕らとリナのご家族。今日はどこを見て周ったかとか、どこそこは行ったかとか、姉さんのこととか。話は向こうでの彼女の生活がメインだった。でも僕はその都度周りの大理石や、プールに目が泳いだ。日が傾き始めると室内に引き返し、リナの部屋はとても清潔で整頓されていた。幾つか僕の部屋にある荷物の分だけ彼女の部屋が空になっていた。僕はその机の椅子に腰掛けてみた。机の上には砂時計だけが置かれていた。僕はそれを何ともなく引っくり返してみた。僕の部屋三つ分くらいはありそうな広さだ。部屋の中は小物の色が華やかだった。定期的に手入れされているらしい。でも詳しく部屋を観察するのは躊躇われた。振り返ると、砂時計はもう元に戻っていた。いったい誰が僕がささやかにこの部屋の時間を引っくり返そうとしたとに気付くだろう?いいや、誰も気付きはしない。トイレから戻ってきた時に僕は彼女の弟と廊下でばったり会った。


「そこにいらっしゃいましたか。」

彼は年齢に似つかわしくない丁寧な言葉遣いをして、穏やかな微笑みを浮かべた。そしてそれはあくまでも自然に振舞われていた。

「姉が本当にお世話になっています」と彼は言った。姉が迷惑を掛けていないかとも。決してそんなことはないと僕は言った。彼女には学ばされることが多々あるし、文化祭でも彼女は大活躍だったと。それは良かったと彼は笑った。

それから彼は違う話を切り出した。まるで小鳥の囀りのように。如何にもなんでもないと言うように。

「ハロー。

君はたしか・・・」

「タナーです。

タナー・アシュフィールド。」

「ミスタ・タナー、こんにちは。

お姉さん以外の御兄弟は今日はいないのかな。」

「?我が家には姉と僕の他に兄弟はいませんよ、ミスタ。」

その瞬間、何かが狂う音がする。

「何か勘違いなさっているようだ。」

それで僕は訳が分からなくなる。弾丸が一発。 僕はそう想像した。一発の硬質で小さく、鉛色の鈍い輝きを持った弾丸。そう、今のリナと同じだ。あの部屋の銃が思い浮かぶ。沈黙が続いた。気付くと僕はリナの歌っていた詩を口ずさんでいた。彼は驚いたようだった。

「へえ、姉さんが…。詩にあるロイヤルブルーですが、これは何を意味しているか知ってますか?」

「王室のカラー。」

ホテルを思い出しながら僕は言った。

「その通りです。

それはイギリス王室の公式カラーとして使用されています。

そして王室には左利きが多かった。

現在のウィリアム王子も元々は左利きです。

チャールズ皇太子は諸説あります。

これも同じく矯正の疑いがあるからです。

吃音で有名だったジョージ六世も矯正されました。」

「英国王のスピーチ。」

「ええ、その通りです。

だけどそれは正しいことではなかったかもしれない。

吃音と左利きの矯正は少なくない相互関係のケースがあるんです。

そして彼と契りを交わした王妃も何の因果か、左利きでした。

遡ればエリザベス女王もそうです。

ビクトリア女王も。

もっと系図を遡ればイギリス・ハノーヴァー朝第二世のイギリス国王、ジョージ二世もそうだったとされています。

こうなるとこの青は左利きの色と言えるかもしれない。

そう思いませんか?

他にも調べれば分かりますが歴史的に見て著名な人物に左利きは多いです。

そしてそれは芸術の世界にも多くいます。

僕は姉の所為で一時期これがトラウマになったんです。

小学校の音楽室に飾ってある肖像画のモーツァルトとベートーベンに睨まれている気さえしました。

どうしてお前はそうではないのかと。」

僕は笑った。あの肖像画は確かに睨んでいる風に見える。

「最早それはコンプレックスではなく一種のオブセッションでした。

アメリカ大統領はアメリカにいる左利きの割合はたった1,8%なのに非常に割合が多いんです。

こうなってくると訳が分かりません。

とにかくそれはロイヤルブルーであると共に、芸術であり、天才の象徴であり、勇気、権力、成功の証でもあるんです。」

「もれなく核のボタンも押せる。

そうえばスペインでピカソの絵画展に行ってきたよ。」

「彼は右利きでしたが、両利きだったかもしれません。

しかし彼が最初に書いた版画は左利きというタイトルでした。」

でも彼はそれを聞くと真剣にそう言った。心ならずも話の転換は簡単にはいかないようだった。ひとつの固定された価値観が数分で覆えるわけもない。 ここまで来ると感嘆する他ない。

「貴方はキルケゴールという作家をご存知ですか?」

勿論知らなかった。

「デンマークの哲学者、思想家です。

実存主義の先駆者とも言われています。

主な主題として取り扱った概念は不条理、不安、絶望、本来性、実存的危機、単独者、例外者、存在でした。

彼はカミュやハイデガー、レヴィナス、サルトル、ウィトゲンシュタインに影響を与えました。羊飼いだった彼の父はビジネスで成功を収めました。

キルケゴールは1840年に十七歳のレギーネに求婚するも、一年後に一方的に婚約を放棄しました。

何故彼が実存主義を対象にしたかというと、彼は抽象観念よりも個々の人間にフォーカスを当てたからです。

彼はコーヒーを愛飲していました。

その飲み方は角砂糖を三十個を入れ、お気に入りのコーヒーカップ五十個の内の一つを召使いに選ばせそれを選んだ理由も言わせるという常識的ではない方法でした。

最初に右手の著作として出されたのが二つの建徳的講和。

左手の著作があれか─これかでした。

彼の著作活動は二つの手で書くようにこの実名著作と仮名著作の二重性の中で行われています。右手は徹底して宗教的であり、左手はこの俗世的でした。

でもその卑属な左手でものを書かなければ彼は旧来の価値観から抜け出せないと信じていました。

彼はそのような哲学的理由から左手こそが自由な手だとしました。

1847年までの前期著作活動は左手の作品を次第に高尚にしていくことによって最終的には右手の作品と結合させる目的で書かれたと言われています。

それは彼の人間理解と密接に関係していました。

今では有名な例えですが、彼は人間を地下室と一階、二階がある三階建ての家に例えました。一番下の地下室は美的・感覚的世界であり、一階は倫理的世界、二階は宗教的世界です。

彼によると、人間はこの三層の家のようなもので、どれも欠かすことは出来ないが、何故か人間は地下室のみ住みたがる。

この三階建ての家の階段を上って行くこと、それが彼の左手の著作活動の目的でした。」

確かにそういうことを聞くと彼の言いたいことも分かってくるかもしれない。場合によってはそれは自由な手に成り得る。また前と同じようになんとも形容の付かない沈黙が続いた。

「でも心配することはない。」

「他の変人じゃない偉人は皆右利きだ。」

彼は淡く微笑んだ。

「left handには、奥の手という意味もあります。

何故そういうのかは知りません。

でも時々の奥の手とやらに想いを馳せることもあります。

いつか貴方にもそういうのが必要なことになるかもしれません。」

「僕に?」

「貴方は奥の手をお持ちですか?」

「ここでYESと言えば、それは奥の手にならないんじゃないかな。」

「その通りです。」

“Ideal of my left hand is breaking my right one.”

「貴方も僕からすれば羨望なのです」そう言って彼は僕の右腕にはめられた時計に目をやった。

「僕はなんでもない。」

「お引止めしてすみません。」

「いや、いいんだ。

・・・奥の手と言えば、」

僕は自分のキー・リングを取り出した。そこには3つのキーが取り付けられている。僕の家のキー、バイクのキー、そして

「これは君のお姉さんと最後に会った時に渡されたキーなんだ。」

「姉が?」

「ああ、でも何のキーかは分からない。」

「お見受けしたところ随分と古いものに思えますが。」

「そう、これは彼女の車と同じくらい古いものに見える。

でも車のじゃない。

僕はそれをこの目で見たことがある。

それに車のにしては長すぎる。

そして彼女はこのキーが該当するような持ち物を何も持っていなかった。

もしかすると・・・」

「もしかするとこの家に姉が鍵付きの何かを持っている、そう思われているのですね?」

「その通り。

何か心当たりはないかな?」

「・・・お連れします。付いてきてください。」

そろそろ行きましょうか。

皆さんもう車に乗っています。

大荷物の方も彼が乗せたみたいです。」





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