第49話 Door’s still opening.
雨野原?
「What?
No, I’m not. 」
「You’re not Japanese?」
「 I’m Japanese. But…」
「There’s only Japanese person here today.
Mr. Amenohara.
この前貴方がここに来てから随分な時間がお経ちになりました。
或いは貴方はそのことをお忘れかもしれませんが。」
僕は首を振った。人違いだ。
「いいえ、人違いではありません、雨野原様。
人違いと言えば一度だけ、少し前に誰かがここにいらっしゃいました。
私達はそれが貴方だと思ったのですが、どうやら違ったようです。
ですが素晴らしいタイミングで貴方はここに来られました。
準備は整っています。」
準備は整っている?
「Wait.」
僕は状況を説明しようとする。今日ここに来たのは偶然で、そもそもブックもしていないのだと。
「その通りです。
貴方はここのことを忘れようとし、見事それにご成功なさいました。」
しかし僕の言葉は伝わらない。
「ですがそれでも尚、貴方は再び偶然の因果によってここにお来しになられたのです。
貴方はいるべくしてここにいるのです。
ですが時間には限りというものがございます。
一切は手の中で過ぎ去り、逆さにしたコップの水は二度と元に戻りません。
ですがまだ貴方様は全ての時間を使い切ってはございません。」
「Wasting all the time? 」
フロントの女性はこくりと頷き言う
「Door’s still opening. 」
「What are you talking about?」
何か誤解があるだろう。僕はまだ十七歳だ。時間が有限というのは分かっていても、いささか実感の沸かない話だ。
「いいえ、誤解ではありません。
それは貴方様の求めていることなのです、雨野原様。
確かに、今の貴方は十七歳かもしれません。
ですが誰に自身の命日が分かりましょう?
十六でこの世を去る人も中にはいるのです。
いいですか?
全ては起こり得るのです。
貴方様が何もせずにいなかったことを、私達は祝福します。
おかえりなさいませ、雨野原様。
しかしそれでも具申させて頂くのなら、そちら側への移行は容易ではありません。」
だから僕は───。
「お水でしたらボーイに運ばせましょう。」
次に彼女はあの歌手の取ったスイートルームの番号を言った。
「後ひとつ、私どもから貴方様にメッセージがあります。」
メッセージ?
「ヒントとも言えるかもしれません。」
ヒント?
「事情を呑み込めないのも当然です。
ですが貴方はそれを覚えておいて下さい。
上手くいけば貴方様の助けになるはずです。」
僕は黙って続きを促した。
「これから貴方の所に見知らぬ客が来ることがあるかと思われます。
貴方はそれに出てください。」
見知らぬ客?それは左手に一杯の水の入ったグラスを持っているんだろうか?
「いいえ」そう言い首を横に振ると彼女は相変わらずの丁寧な物腰で続けた。
「その人は今から貴方様の部屋に水を届けに行くボーイではありません。
従って水の入ったグラスは左手にもなければ、右手にもありません。
そういう予期された来客ではないのです、雨野原様。
来訪者は一人だけではありません。
貴方は彼らがそこに入りたいのだということが分かるはずです。
でも貴方はそれが出来ないかもしれません。
ですが貴方様はここにあっては、もう何かを拒める立場にはおられないのです。
例えて言うのなら、貴方は帰りの桟橋を焼い来られたのですから。」
その言葉は特に明確な三段論法でもなかったにも関わらず、僕の胸を打った。それが出来ないかもしれない?なぜ?でもそれを聞いてもろくな答えは返ってきそうにないという確信があった。僕はとりあえず頷き、180度方向転換し歩を進めた。僕は再びエレベーターに戻ると話の続きを考えた。九十年代のロサンゼルスだ。当時のエレベーターには果たしてエレベーターガールはいたのだろうか?おそらくいた筈だ。でも僕の想像力は限界に来ていた。「彼女」がどんな髪型や服装をしているのかさえ分からなかった。そんな何一つ分からない謎の人物を誰が自分の家に招待するだろう?そもそもどうして人はエレベーターみたいな狭くて、プライバシーなんて皆無の数秒しかいない箱の中で恋に落ちなきゃならないんだろう?世界にはもっと愛を囁き合うのに適した場所が他にももっとあるはずだ。そうじゃないか?でも僕には一人の顔が脳裏に浮かんでいた。それは紫乃華だった。雨野原紫乃華。なぜ彼女の名前がここで出てこなくてはならないんだ?僕は何一つ知らないと言ってもいい彼女を自分の家に招き入れていた。そこでエレベーターはまたけたたましい音を立て、フロア全体に僕の登場を知らせてから止まった。そこで体の感覚が戻ってきた。そして一つ質問すべき内容を思い出した。伝言は誰からのものだったのだろう?
部屋に戻って来て最初に感じたのは体の震えだった。僕の体は冷え切っていた。しばらく動くことさえ出来なかった、上着を取って着ると一度椅子に座る。するともう体が動かなかった。まるで今までに使ったことのない筋肉を使った時みたいだった。手が動かせないのだ。今では水分不足さえ感じなかった。そもそもドアの前に置いてあったペットボトルの水を僕は開けることさえ出来ない。第六感は今すぐにここを去ることを僕に求めていた、でもどうしても体が動かないのだ、そして僕は眠るかのように気を失った。僕の目を覚ましたのは電話の音だった。
朝だ。目を覚まさざるをえないコール音で目を開ければ知らないところにいた。そして隣には知っているが知り合いではないブロンドの有名人もいた。彼女の携帯でも本人は全く起きなかった。まるで聞こえてないみたいだ。連日のツアーがそれだけ過酷だったのだろう。肩を揺すってみても駄目だった。やっとのことで彼女から引き出したセリフは
「貴方が出て」だった。きっと僕がどこの誰だったかさえも思い出してないだろう。でも僕はその執拗な電話の音にもう我慢が出来なかった。
「Hello? 」
「Hello,there.This is~~」
当然英語だった。
「One more please? 」
そこで彼女は完全に起きて自分のスマホをとった。
「今の僕が出ても平気だったのかな。」
「まあね。
相互保険からよ。」
相互保険?
「ほら、昨夜車を駄目にしたじゃない?」
それで昨日のことを思い出した。
「ねえ、貴方はもうここを出たほうが良いと思う。」
「パパラッチが来るから?」
「それもある。
けど貴方は本来の道筋に戻るべきじゃないかしら?」
僕のホテルに戻る前にフロントで夜間の昨夜従業員に日本人女性はいたかと尋ねた。でも日本人も、日本語を話せる女性フロントもいなかった。僕は地図のナビを片手にただ今僕がいるところについて考えていた。そして銃の存在。あまりに不自然だ。どうかしている、僕は彼女の外見を思い出した。やはりあまりに出来すぎている。ここは現実だろうが、馬鹿げている。どうして僕にはイギリスでの思い出がない?そして不意に意味もなく学校の帰路に寄っていたところを思い出した。今ではあの原始的な暖炉が恋しかった。もし過去の一部がトラウマなら僕は逆にそれを忘れられないはずだ、僕は如月さんの言葉を思い出した。トラウマは傷が癒えてないせいで言葉にすることが出来ない。そして傷が癒えるまでずっと記憶、心に残り続ける。次に思い出したのは直近の彼女とのやりとりだった。でも彼女と会ったのは春の一度きりのことだったことを僕は思い出した。気付けばもう秋になっている。
「ゲームのサービス権は、いつだって僕の中にある」そう僕は口にする。本来ならそのはずた。でもどこかで今まで僕の持っていた経験的合理性が機能しなくなっていた。いや、そんなものが機能するようなところにもう僕はいないだけなのかもしれない。
もうボールは手元にはない。いつ落としたのか自分でも分からない。サーブを間違えた覚えさえも。僕はゲームの審判に訴えようとする。でも無駄なことだ。主審席にはもう誰も座っていないのだから。そしてコートの向こうももやがかかったみたいに分からない。でも向こうがボールを持っているはずだ。今は待つしかないのだ。僕は続きの話を思い出す。確かその後に僕らは話をした。……そう、連想ゲームだ。まるで映画に出てきそうなゲーム。僕は彼女が最初に出したクエスチョンを思い出そうとする。でもどれだけ考えても一つしか思い出せない。
「塔。」
今でもこの質問の意図が分からなかった。分からないから、意味がないからこそそれに意味が生じるのかもしれない。彼女は何を指して塔という言葉を持ち出したのだろう?そこには何かしらの意図があるはずだ。ただの突飛めいた不思議な単語なんてこの世界にはいくらでも溢れ返っているはずだ。
「見張り。」
そしてその質問に対する僕のこの答えもいまいち気に食わなかった。人はえてして少し前の自分の言動の真意が分からなかったりする。だからあんなことを言わなければ、やらなければよかったと思う。でも本当にそうだろうか?分かっているのは塔というクエスチョンに見張りと言ったことだけ。でもこの言葉こそ今僕の中で一番引っかかっている。何かが網にかかった事を知る漁師のように、その直感は残り続ける。塔、見張り……。崩壊、そう答えてしまったほうがよかった気さえした。守衛という存在より崩壊なら解釈の間違いがなさそうだ。崩壊、それはどこからどう見たってよくないことだろう。それならきっと僕のカルテ(だかなんだか)には「要観察」とか悪化をやんわりと意味する単語が並んだはずだ。守衛という人間の立ち居地がまず微妙なものだった。彼らは塔を守っているのか、塔から侵入者を見張っているのか、それとも塔の中の何かを守っているのか。どうして彼ら(見張りは一人だけじゃないだろう)はそこに所属しているのか、彼らはどのような立場で、どんな服装をしているのか、そして彼らは素性は分からない。皆同じ格好をし、同じ言動を叩き込まれているはずだ。いわば代替可能な多。そこに個別的具体的個性の入る余地はない。
ホテルに着くとそれは相変わらずビジネスのためのものだと思われた。ホテルの従業員は昨夜僕がここにいなかったことも知らないだろう。普通の人は予約し支払いもした異国のホテルには宿泊するものだ。それはリナだって例外ではなかっただろう。でもタクミはこんなことさえも勘定に入れてここを選択した気がした。従業員たちは僕のことを数秒見てから各々の業務に戻った。機能と同じ服装だったが気付かれているのかすら怪しい。でも僕が余程疲れた顔をしていたのだろう。部屋の中に戻る間に先日のようにオレンジジュースを飲んだ。そして部屋に着くと道中で買った多すぎる量のフィッシュ&チップスを冷蔵庫の中にしまった。僕はしばらくじっとしていたが、昨日と同じ格好をしていたのでシャワーを浴びた。そこで一度全ての考え事を流してしまおうと思った。そうして服を脱いで思考することを止め、ただただ熱い水に打たれた。それを五分ほどしても体はまだ変な感じだった。熱があるのとも違う。そしてバスルームを出てから洗濯物を干していないことを思い出した。トランクから取り出した下着(今までに僕が履いたこともないだろう質が良く、洒落ている)を履くと洗濯機を開けた。中の服はしなびた野菜みたいだった。僕はそれをちゃんと日の当たるところに干した。そしてトランクからチノパンと白地に明るいブルーのキャンディストライプのボタンダウンシャツ、ネイビーのカーディガンを取り出すと一枚ずつ羽織っていった。そして鏡の前に立つと髪をセットし、備え付けのアメニティで髭を剃った。最後に金庫から銃を取り出すとチノパンツの後ろに入れた。そこでやっと僕の中から出て行った現実感が戻ってきた、皮肉なことに。 ロンドン、午後三時。あまりの眠気に襲われ、動けなくなる。ひどく眠いのは昨夜のこともあったからだろう。そのままホテルのベッドに横になる。そして僕は意識を失っていく。深い眠りは、無限に今を引き延ばしているような気分にさせる。そして僕は誰かの腕に起こされる。
夢を見ている。夢では、家の中に若いカップルがいる。僕はそれをどこかから見ている。でもそこに僕はいないし、僕はその女でも男でもない。ただそこでは視点の1つなのだ。女性は今から家に来る人とは絶対に取引をしないようにと、必死で男性に説得するが、なにやら彼にも引けない事情があるらしい。そして宿命的に玄関のベルは鳴らされる。行かないで、そう女が言う。いや、それは懇願と叫びと命令が合わさり、形容のし辛い、切迫した声になっている。しかし男は言うことを聞かない。そして視点として存在する僕には、その二人の内どちらが正しいかは分からない。結局彼は真っすぐと玄関まで進み、ドアを開ける。向こうには男がいる。でも僕の視点からは、その男は見えない。僕の視点は二人の男女ではなく、玄関からの視点になっているからだ。玄関先の男は大柄で見事な体躯だということだけが分かる。でも背丈と体格以外に分かることはない。その男は顔を有していない。少なくとも僕からは見えない。大柄な男はドアを開けるだけではなく、チェーンロックも外すよう男に命令する。これでは対等に話が出来ないと言って。でも僕には対等の意味が分からない。会話をするだけならそのままでも不足はないはずだ。だが男はチェーンを外す。そして僕は更に女の方に同情的になる。この男は何故そこまでしなければならないのかが、僕には開示されていないからだ。そして取引相手の男は案の定憐れな男の方に大きな1歩を進める。彼は大柄なだけでなく怒っていて、男にようやく開けたなと言って彼の両腕を掴む。でも相変わらずその男の姿は見えない。僕にはそこがどこかのマンションの一角だということと、その男の腕はひどく太いということしか分からない。そして彼は男の腕を掴む。それも彼の持ちうる握力の全てを使っているように。その時僕はあることに気付く。それはその体躯の良い男が、僕になっているということだ。僕は目の前の男の両腕を強く握っている。それは女が予め予感し避けようとした出来事の1つだ。僕は僕との意思とは関係なく、目の前の男の腕を強く掴んでいる。なぜそうしなければならないのか、僕には分からない。そして段々、僕の両腕が痛み始める。それは今僕がしているように、誰かに両腕をきつく掴まれ、搾り上げられているという感覚だ。そしてその痛みは現実の僕の肉体から発せられていることに気付く。そう、これは夢なんだ。そのあまりにも強い肉体的な痛みが、僕を夢から追いやってしまう。そして僕は起きなければならないと思う。でも、僕は恐れている。何故ならその痛みは錯覚ではないからだ。それはあまりにも僕の現実の肉体が感じている痛みなのだ。そして僕は直感する。僕が目を開けることで、僕はこの世ならざる何かと相対するだろうと分かっているからだ。恐怖が僕を突き刺す。でも両腕を誰かが握る感覚は一向に消えないどころか、どんどん強さを増していく。僕は決心する。目を開けなければならない。そして僕は意を決して両眼を開く。そして掛布団から右腕が生えて、実際に僕の現実の左腕を強く握りしめている。カーテンから西日がさして、その色白い手がくっきりと見える。僕はショックの余り何も出来ずにいる。そしてその腕が夢の腕とは違いとても細いことにも驚く。それは女のような細さなのだ。誰かが布団の中に隠れてるというよりは、腕と手だけが掛け布団から生えて、訳のわからない強さで僕の腕を握ってる感じだ。一秒後、その手は僕を離し、掛布団の中へと引っ込んでいき消えてしまう。その瞬間、僕のあれだけ痛んでいた腕の感覚も嘘のように消えてしまう。そしてアバウトにしかその痛みの強さを思い出せなくなってしまう。でもこれが現実の世界ということは分かっている。僕はスマホを付け時刻を確認する。それは午後六時を数分過ぎたことを僕に示している。逢魔が時、僕はそう思う。相当体力を消耗していたのと、目の前に班員のいる部屋に戻ったことでの安堵感が一緒になったせいだろう。夢の時間は短かったが場面場面が印象的というか、代わり映えの多い内容だったことは覚えている。というかそれは全くの話、さっきの受付嬢のセリフの延長線上の夢だった。やれやれ。それは最初は六十年代のロサンゼルスだった。そこでの煌びやかな街灯や古き良き車を感心して僕は見ていたのだ。でも次の瞬間夢特有の場面の転換、変換があった。そこでは誰かが貴方の部屋を覗きたそうにしていた。僕はそれを何故か知っているのだ。夢とはそういうものなのだ。そこで僕は漠然と過ちを繰り返さないようにと思う。でもその時にはそれが受付嬢のセリフだったということに思い当たらない。そして僕は自室のドアを開けようとする。でもその時の僕はそれが正しいのかどうか全く分からない。でもドアノブに手を掛ける。逡巡する。だって扉を開いた先がどうなっていて、誰がいるのかなんて、僕には分かりようがないのだ。でも結局僕は扉を開ける。そして丁度その時に目が覚めたのだ。
そこでは誰かが貴方の部屋を覗きたそうにしている。僕はそれを何故か知っている。そこで僕は漠然と過ちを繰り返さないようにと思う。でもその時にはそれが受付嬢のセリフだったということには思い当たらない。僕は自室のドアを開けようとする。行かないで、そう美しい女が言う。それは紫乃華かもしれない。でも僕に分かるのは、それが並外れてスタイルが良く美しい、若い女性であるということだけだ。彼女かもしれないし、彼女ではないかもしれない。でもその時の僕はそれが正しいのかどうか全く分からない。でもドアノブに手を掛ける。逡巡する。だって扉を開いた先がどうなっていて、誰がいるのかなんて、僕には分かりようがないのだ。でも今の僕にはそれが誰だか分かっている。結局僕は扉を開ける。そして向こう側には一面影を身に纏った男がいる。僕には彼の顔を見る資格が、彼と正面から対峙する資格がない。視点は向こう側に切り替わっているのだ。そして僕はチェーン・ロックを外す。
「ようやく開けたな。」
彼は怒っている。そして大きな一歩を踏み出すと僕の目の前に来て、両腕を掴む。でも相変わらずその男の姿は見えない。僕にはそこがどこかの一角だということと、その男の腕はひどく太いということしか分からない。そして彼は男の腕を掴む。それも彼の持ちうる握力の全てを使っているように。その時僕はあることに気付く。それはその体躯の良い男が僕になっているということだ。そして、現実の世界で僕の両腕を強く握りしめている誰かの腕。
誰の腕が自分を掴んで離さないのか、それが分からなかった。そしてそれが通り過ぎた後に、それは恐らく死霊の類ではないだろうという結論に至った。その腕は何かを求めているからだ。でも何を?それは紫乃華の腕なのだろうか?たしかにそれは、視覚を奪われている時に自分の身体を撫でていた手にそっくりに思えなくもなかった。でもそれは確信にはならない。頭の中ではそれがリナのものかもしれないとも思っていたからだ。何故なら彼女は今どこにいるのか分からないからだ。それは彼女のメッセージなのかもしれない。私を離さないで、私を捕まえて、私を見つけて。どこかから彼女は僕を求めているのだ。普通とは違う道筋を通って。そしてその道筋には何があるのだろう。
いつの間にか震えは止まっている。でも左手には掴まれた感触が残っている。僕の手はそのことのひやりとした肌触り、手の温度の変化を訴えていた。そのことで僕は鳥肌が立った。リアルな夢。そして僕はその誰かの腕について考えた。それは誰の腕なのだろう?果たして吉兆なのか?(とてもそうは思えない)しかしとても切実な思いが掴み方の強さから伝わってきた。彼女はあろうことか僕に何かをとても伝えたかった。それは彼女の存在なのだろうか?これは何を意味しているのだろう?
体は硬く強張っていたが僕は椅子から起き、洗面所に向かう。時刻は七時。莉乃はページを全て捲りきったらしかった。彼女はたまに動物のような趣を感じさせる。でもそれは野蛮だとか、本能的な性格だという意味では決してない。彼女の姿は基本は寡黙一辺倒の、クールで小柄な人物だ。でもたまに、彼女を猫みたいだと思う。両者は高貴さにおいて、或いはどうでもいい時の言動の雰囲気が似通っている。でもそれを誰かが指摘するのを僕は見たことがない。しかし彼女はクラスの誰にそう言われなくても、猫みたいな好かれかたをしている。そのようなイデオロギーは誰にも気付かれない時こそ大きく作用する。本人は好きなことを好きにしているだけなのに周りが勝手に好感を抱くのだ。
「それで」彼女はそう口にしてから半目し、僕のほうにだるそうに目をやった。
「樫江は何を考えてるの?」
「どうして君に見張られているのか、いつからこうして僕がここにいるのかを考えてる。」
「体は動くの?」
「もちろん。」
いつも通りの髪型、ジーンズに白く柔らかな、肌触りのいい無地のコットンシャツ、黒い革ベルトに同色のよく磨き上げられたチャッカブーツ。それで僕はベッドのほうに向かった。莉乃がそこで腰を下ろしていた。
「それで、どうしてここに?」
「なぜ昨夜留守にしていたの?」
「少し街を歩いてたんだ。」
「一晩中を少しって言うかしら。」
「言わないね、でも何もしていない。」
「ここにはいなかっただけ?」
「そう。」
「分かった、じゃあ下に降りましょう、皆待ってるわ。」
「一つ質問。
君はここのキーを持ってるのか?」
「もちろん。
でなければ貴方はここに泊まらない。」
首を横に振ってからクローゼットに向かい、紫乃華が僕のスウィング・トップの代わりに渡した灰白色の一枚織りの長いトレンチ・コートを取り出した。彼女の大きな胸をぴったりと覆っていたのだろう、それは僕が身につけるとベルトを絞っても興味深いドレープを見せた。それからもうひとつの僕が意図せず手にした時計に目をやった。金のフレームと黒盤の、左右非対称のもの。僕は左利きで、今何故か女性の香りがまだほのかにする左止めのコートを着ている。時計は右手首に巻かれている。ただの外見的差異。でもそういうのが喉元の奥で小骨がひっかかっているような違和感を感じさせる。息を殺してじっと考える。沈黙は金で、雄弁は銀。そして小骨の詳細を段々と理解し始める。金……。何かが静寂の朝で鳴っているのだ。でもその声は小さい。ガラス一枚隔てたらもう目の前にあっても聞こえないだろう。鏡まで寄りもう一度自身を確認する。鏡越しの僕の左手首にその沈黙はある。その空間では取るに足らない些細な沈黙、金がそこで360°を左向きに回っている。時間だ。そう僕は思う。驚きと共に、過去とまっていたそれは動き始めた。
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