第51話 ディーラーの広告

 ミアの部屋は整っており、余計なものがあまりない印象を受ける。

「あれは?」

部屋の右奥のタンスについて聞くとタナーは答える。

「ライティングデスクですね。」

上のところに鍵穴が付いている。そして取り出した鍵がカチリとハマり一周する。多かれ少なかれ、誰もが秘密を抱いている。

 中はかなり凝った造りで、中段には左右対称の浅い引き出しがついており、その上には4つに区切られた物を奥スペースがある。真ん中は扉が付いている。中を開くと

タロットカードのケースがある。しかし箱の中にはカードがない。代わりにあるのはウーズレーのスペアキーだ。そしてデスク下にある収納の内のひとつにも鍵がかかっており、その引き出しにはノートが一冊入っている。僕はそれを自分の鞄に滑り込ませる。待たせている皆と合流すると一通りの挨拶を済ませた。

「折角の海外旅行です。どうぞ心行くまで楽しんでいって下さい。」

「最近貴方の周りでAだと思っていたことが実はBだったと判明しませんでしたか?

お持ちの高級時計は本物ではなく偽物だった。

自分は上から数えるよりも下から数えたほうが早い存在だった、長年苦労を背負い込み立派なパートナーと感じていた配偶者は他人の淫婦だった。

そして貴方が狙っていた女性のポイントはウェイ・アップ・ハイどころか、ウェイ・アップ・ファーム&ハイだったという経験が。

貴方の中では自分の中の目利きを疑い始めているはずです。

ですがそう思ってしまうのは至極当然なのです。

なぜなら貴方は一流を知らずにオムツを履いたままここまで育ってきてしまったのですから。貴方は早急に今お持ちの下着の全てを捨て、新しい肌触りの良い下着でこの車に乗車しなければなりません。

今貴方に必要なのは時間と金の掛かる離婚裁判や新しい時計や衣服、ウィスキーの瓶ではなく、美しいという言葉だけでは到底表せない高貴な革張りシートの、低車高の一等席にお座りになり、そこでしか生まれることのない、一本線のように過去を明確に捉え直す思考を手にすることでしょう。

そして目から鱗が落ちた貴方は己の審美眼に間違いなかったと納得し、これからの成功にサインするのです。

昨日までの自分と決別するためにも。」

多くの無意味としか言いようのない言葉の中に、たまにひとつの連なりを捉えることがある。今回はそれがちょうどこの時だった。自分では見えていたはずのものが全く違った場合だ。今まで見えていたものが嘘に見えるような体験。


 知らない土地というのは新鮮でいい。僕はそこそこの距離を歩く一行の一人としてそう思った。それがいくら長い距離だろうと一瞬に感じる。まして国が違えば景色なんて建物一つとってもまったくの別物だ。道理で皆疲れを感じないわけだ。それもここでの夜が最後だからかもしれない。僕にはいくつかの考えるべきことがあった。そして僕は誰とも深く話すことなく、景色を見るともなく見ながら、歩を前に進め続けた。現状はどれをとっても曖昧だった。そこに解決の糸口がまるきり見えないというほど絶望的なものではなかったが、少なくともタイムリミットで言えば絶望的だったし、事実僕は絶望していた。明日は帰国の準備もある。これが最後の夜の景色なのだ。そう思えば思うほど焦燥感はじわじわと頭角を現し始めていった。一つ一つの糸口は途中で意図が読めず切れていたし、新しく僕が赴いたほうが良さそうなところも考え直したところで一つとしてなかった。そして車の騒音で僕はやっと景色に焦点を合わせた。目の前は信号で、丁度車が走り始めたところだった。班員たちは信号を渡り次の道へと進み、雑踏に吞まれ、消えていく瞬間だけ見ることができた。そこで急に心寂しさを覚えた。寂しさはあまり気にしていなかった夜の冷え込みを一層現実的なものにした。思わず空を見上げた。でもただただ暗いだけだった。雲さえあるのか分からなかった。僕とは様々な意味で違う人種の人々が通りを行きかっていた。信号の色が変わった。でも僕の足はそこに縛り付けられているみたいに一歩も進もうとはしなかった。何人かの人間が僕の肩に当たり、それより多くの人々が僕を人だかりの中なんとか避け信号を渡った。でもそれらのことはどうでもよかった。そのようにして何度か信号の色が変わった。青のライトが点滅して辺りを照らし出し、彼はブラック・シャドウとブルー・パーソンになるのを繰り返した。その間自分の出自を見出せないまま、今自分はどこにいるんだと自分に訊ね続けた。お前は今どこにいるんだ?スマホを取り出してマップを開いた。GPSは通信が繋がっていなくても見ることが出来ると紫乃華が言っていた。でもそれは先ほどの目の前の風景のように僕の目を通り過ぎていっただけだった。いくら網膜に映っていても、それを判別し行動を起こそうとする機能がなくなっているみたいだった。そうして僕は体の冷えも感じなくなっていった。体温と気温が一緒になった気がした。おそらく何人かの人々は僕を不振に思ったはずだ。でもそれさえ僕は分かっていない。分からない、今僕はどこにいる?


 ロンドン市内には一定区画に多くの地下鉄の駅がちりばめられていた。気がつくと僕はそこの前にいた。なんとかして無意識に足を動かしたようだった。どうやらチューブというのは狭い間隔に幾つも存在しているらしかった。僕はEmbankmentステーションに入り口から出口までの連絡通路を通り過ぎようとしていた。そんなに距離がある訳でもない。せいぜいが数十メートルといった程度だ。そしてその時、僕はある二つの物事に目がとまった。入り口にいた恵みを請う男性はその対象にはならなかった。ただ通り過ぎる時に何か大きな音を鳴らして何かを話すだけだ。どの国にでもそういう人はいるのだ。最初に興味をそそられたのは駅の出口に差し掛かった所にいた女性だった。彼女は驚くほど短い黒のショートパンツを履いていた。それはかがんだりしたら太ももという太ももが全て晒され、他の部位さえ見えそうなくらいの短さだった。そして彼女は同じように黒い薄いダウンジャケットに、足元も黒のブーツ、黒の短いソックスを身に着けていた。そのせいで彼女の白い肌は余計目立っていた。そして大学生くらいに見えた彼女は、眼鏡を掛けた老婆と共に階段を降りる前の直ぐの所であろうことか、しゃがみこんでいた。人体の部位ごとの境界線はどこからだったかを考え込んでしまった。そこで僕は自分が先ほどの何も出来ていなかった飢餓的状態から抜け出していることに気付いた。そして寒さがもう一度体を痛めつけ始め、僕はチューブの中にいると遅れて気付いたわけだ。やれやれ、どうして今更チューブなんだ?そして僕はその太ももの露出した女性から目を離せなくなっていた。彼女の左耳は長いブロンドの髪が掛けられ、右側は完全に隠されていて、彼女からして左後方を見ているその顔はどことなく赤らんでいた。彼女は控えめに言っても美人であり、スタイルが良かった。でも彼女と隣の老婆の関係性や、なぜしゃがみこんでいるのかはしばらく見ていても全く分からなかった。そしてそこに注意を向けているのは僕くらいのものであるらしかった。おかしな話だ。そして二つ目はそこを出た所にいた集団だった。それは何かのツアーに見えた。様々な人がそこに集まっている。時計はそろそろ19時半になることを告げていた。そして僕は不思議なことにそこに何かを感じ取った。つまり、僕はそこに行かなくてはならないという類の直感のことだ。もちろんそんな感情はそういつもあるわけではないのだが。僕は班員に一言断ろうとして、既に静かにグループを後にしていたことを思い出した。やれやれ、僕ときたらまた単独行動だ。キャシー・S・ノーティスってミドルネームが付いてないことを祈るよ。キャシー・ソロ・ノーティス、全ての意味は一人であることから始まる、なんてね。その時の僕には余裕というものがなかった。そして完全に何かに、得体の知れないものに巻き込まれていた。そちらへの足取りは止まらない。何かが僕の足に舵を切らせたのだ。そして僕の口は男にそのツアーが幾らなのかを聞き、(「Hi, Mr.crown!」)同じ体の手からは言われた通りの料金を財布から取り出し差し出している。


 そして時計は十九時半になる。ガイドマンの男は自分の腕時計を目元までゆっくりと持って行き、十分確認するとまたゆっくりと腕を元に戻して言う。

「Time for start!

Let's moving! 」

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