第48話 Sala misenn
目を覚ますと時刻は八時前だった。三十分弱で支度と荷造りをしてから朝食を取りに降りる。もう部屋には戻らないでチェックアウトする気だったので荷物も持ってきた。僕の服装は一昨日と同じものだった。丁度人々は朝食を済ませて上に上がっていったようだった。ロビーのスピーカーからは近年注目を集めているイギリス人アーティストの曲が流れていた。バイキング形式だったので僕は好きなものを片端から取っていく。パンやヨーグルト、果物、オレンジジュース、パンケーキ…悪くない品揃えだ、十分すぎると言ってもいい。それらを端から完食していく。
十時前にチェックアウトするとシャトルバスで空港まで戻った。そこでオイスターカードとロンドンまでのバスチケットを購入した。一時間半後にリヴァプール駅の近くで降りると、小雨のような霧が出ていた。霧の街だ。僕はレドンホール・マーケットを見に行った。どの店も外観はシックで雰囲気があった。そこを後にするとロンドン塔で衛生兵の写真を撮ったり、ロンドン橋に入場した。ベルファレスト号やゴールデン・ハイント号が見えた。その二つは同じ船でありながら時代の壁によって大きく外観が異なっている。だが名のある船であることに変わりない。その後ダブルデッカーバスに乗るとホテルに向かった。集団行動の前に一人で好きにロンドンを観光出来たのは良いことだったかもしれない。
学校のホテルと僕のホテルは一ブロックの距離しかない。僕は先にチェックインだけしにいった。僕のホテルは立派な外観をしていたが、中は普通のビジネスホテルだった。チェックインを滞りなく済ませるとフロントの女性が僕宛ての手紙を渡し、荷物を既に預かり僕の部屋に届けたことを教えてくれた。グランドフロアにはビジネスセンターがあった。そこでは飲み物が好きなだけ振舞われていた。僕は紙コップにホットコーヒー、シュガースティックを二本入れるとそれを持って部屋に上がった。そこはキングサイズのベッドが一つとキッチン、バスにトイレと洗濯機、乾燥機、冷蔵庫、テーブル、テレビの置かれた適度な部屋だった。認証番号のある小さな金庫もある。僕はそこに日本円を入れたベルトポーチを入れた。手紙を開くとそれはタクミからのメッセージだった。日本語で書かれたいささか堅さのある文字。最初はあいさつと気軽なジョークだった。そして最後に思い出したようにコードについて言及があった。
「異国の土地ではちゃんとした靴を履かなければならない」文章はそう始まっていた。
「ただ靴を履くことなら誰にでも出来る。
この国では名の知れた靴がいささか多すぎるくらい存在するが、現在のそれらを履く人間と私は心の底から肩を組むことは出来ない。
デッドストックで君に合うものを探すのは少々手間が掛かったが、海軍仕様のタフな奴を一足用意しておいた。
ドレスコードに適応できるだろう。
この国では何度も靴を脱がないだろうし、これを履くように。
君はバイクの免許を取ったと聞いた。
こちらは寒いだろうし付けるといい。」
最後の文章は手袋についてだろう。黒いペリカン皮の、いかにも上等な薄い手袋が入っていた。でもそれがきつめなりにせよ彼なりのジョークなのだ。そして僕はスーツを着る機会がなさそうだということを再び予定表を確認しながら思った。そこでやっと上等なスーツケースにゆっくりと目をやった。ネイビーとブラックレザー。三十インチくらいあるだろう。そういうところからもこの手紙と同様、彼からの期待とプレッシャーが入り混じったものを感じた。中を開くと僕が指定していたもの全てが入っていた。まだ時間がありそうだったので今着ているジーンズとシャツを脱いで洗濯機の中に入れた。鏡を見るとそこには四月と比べて少し体格だけが良くなった自分の姿があった。そしてそれ以外の変化は何ひとつなかった。自分は自分だ。そしてビジネスバッグに必需品を入れ替えた。おまけに窓からは高校の宿泊先の正面玄関が見えた。そして服を着替えた後にスーツケースから一足の黒いチャッカブーツを取り出した。靴磨きに出したみたいに綺麗に輝いている。そしてそれは硬かったがサイズはぴったりだった。しかしタクミのバッグには間違いとしか言いようのないものが入っていた。それは手触り良いライトブラウンのスエードレザーに収められた、文化祭の時に用意した拳銃だった。
M92F、ケースからそれを取り出すと銃の確認をした。セーフティの確認、銃弾の確認……。どうやらイギリスのレプリカは日本と同じかそれ以上に精巧な造りをしているらしい。でもそんなことは問題ではない。これはいったい何の真似だろう?でもいくら考えてもその理由や答えは今朝歩いた霧の街のようにぼやけ見えなかった。仕方がないのでそれを金庫に入れると洗濯物を乾燥機にかけ、ワードローブに吊るした。まずまずな滑り出しだ。荷解きが全て終わったのを確認すると僕は窓の向こうを見た。グランドフロアのビジネスセンターへと向かう。
バレンシアでオレンジを飲んだ後に同じものを飲む気にはどうしてもなれなかったので再びコーヒーのお代わりを作り、ホテルのパソコンの座席に座るとスマホを充電した。そして自分のアカウントにログインすると言語を日本語に変え、ディエゴ・ベラスケスについて調べた。バロック期のスペインの画家。彼はスペイン絵画の黄金時代であった十七世紀を代表する巨匠だった。スペイン南部の都市セルヴィアに生まれ十九の時に師匠の娘と結婚した。宮廷画家として活躍し名画を残した。二度のイタリア旅行や公務での国内出張以外を殆ど王宮内で過ごした。だが残念なことにラス・メニーナスの記事はどれも紫乃華の説明程丁寧ではなく、詳しくもなかった。それからベラスケス作のラス・メニーナスを見た。
「何だ、これ。」
僕はそのオリジナルに違和感を抱いた。いや、順序が逆になってしまったが正しくは、ピカソの絵の翻案の仕方に驚きを新たにした。僕は何も分からなかったし、分かっていなかった。まずオリジナルの色彩に注目した。単色のごりごりとした勢いと違い、ベラスケスの絵には精緻に描かれた滑らかな色があった。それらは注意深く配色されていた。そして僕はあの時、この作品の構図に注意すべきだったのだ。いや、最初からそれらの配置には目を奪われていた。特に後ろに位置していた、逆光で見えない男。ベラスケスの作品では彼はちゃんその容貌の全てが明らかになっていた。ポジションや陰のある存在なのに変わりはなかったし、依然何か「つもり」というものを抱えているようには見えたが、それは何かの思慮、思考を持った外部の骨身ある人間だった。でも僕はその男の目に引き付けられた。表情は冷静沈着なのにも関わらず、目だけは本音を、つもりを語っていた。でもそれが何かまでは僕には分からない。
ピカソは構図には弱い作家だった。紫乃華の言葉。こと彼に関する彼女の言及において唯一ポジティブでない意見。彼は絵画における構図というものに長年興味を抱いてなかった、そのほうが話がまとまるかもしれない。
オリジナルの作品は横長の絵ではなく、縦長の絵だった。そしてキュビズムを差し引いても、ピカソの絵は原点と比べるのならあまりに配置に、それらのキャラクターの大きさに差がありずぎた。
大きさは高さが3,18mで、横幅は2,76m。やはり大きい絵だ。そしてそれくらいでなければ女官達は収まらなかったのだろう。その絵画の中にあるキャンバスも見事な大きさだ。半分以上が横は途切れているが、縦の長さだけ言えば天井くらいまである。ここに彼はたった二人の国王夫妻を描き込んだ。並大抵の苦労ではなかったはずだ。それに空間の遠近法も必要とされる。写実的なタッチで登場人物の一人一人は克明に描かれていた。カラフルだが調和があり、落ち着きのある暗く静かな絵だ。他にはマルガリータ王女のベラスケスが描いた肖像画を見た。年代順に表記するなら彼女は最初にピンクのドレスを着ていて、次に白銀のドレスを着て、最後にやはりブルーのドレスを着ていた。
次にピカソについて調べた。画家、素描家、彫刻家。1881年にスペインのマラガに生まれ、91年間の生涯に渡りおよそ一万三五〇〇点の油絵と素描、十万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を製作した。まるで宇宙のように膨大な数だ。それについて考えると軽く眩暈がした。僕は彼のそんな多くの作品の内のほんの一握りをあそこで目にしたのだ。ギネスブックでは最も多作な美術家と書かれている。そして多才だ。彼は作品の製作期に名前が付いている。青の時代と、薔薇色の時代、アフリカ彫刻の時代に、様々なキュビズムの時代。他にも新古典主義、シュルレアリスムの時代があり、有名なゲルニカの時代、最後に晩年の時代がある。ここでやっとラス・メニーナスは製作が始められた。二十世紀最大の画家。そこで僕はそれ以上調べるのを諦めた。そろそろ皆が到着してもいい頃だった。それにここまで来て調べごとで日を沈ませるわけにはいかない。
ホテルを出て向かい側のホテルロビーに向かうと丁度皆が到着したようだった。そこには千紘も莉乃もいた。それは僕を安心させた。生徒は皆はしゃいでいた。驚きを隠せない感じで写真を撮る生徒も多い。部屋の確認をしてからは自由時間だったのだが、僕らは早速予定を入れていたので貴重品を金庫に入れて鍵をするとフロントに集合した。これから近くにあるビッグ・ベンまで散歩をして、後はゆっくりしようという手はずになっていたからだ。僕は千紘の服装が前とは全然違っていることに気付いた。どれも若い女性なら一度は欲しくなるようなものを彼女は付けていた。そしてそんな外見の彼女は、もう四ヶ月前とは別人だった。そこにはもう微塵も地味さはなかったし、とても綺麗になっていた。だが僕はそのことがたまらなく悲しかった。それはもう昔の彼女じゃないみたいだった。道に迷うことはなかった。道中僕とリナはどれだけ光晴が飛行機で酔ったかの話を聞かされていた。スマホはWi-Fiポケットを空港で借りておいてくれたらしいのだがとても使いやすかった。割り勘でいいし、余計なデータ制限もなければ、電波が立たないという事態にも陥らない。動作不備もない。一応空港のコンビニでSIMカードも買ってはおいたが多分これは使わないだろう。ビッグ・ベンの隣にあるウェストミンスター大聖堂の見学も終えた後、少し公園を歩いた。ロンドンの秋はそのようなところさえ魅力的にしていた。
そのライブに気付いたのは通りを歩いている時だった。ロンドンにはいくつか地元で有名なナイトクラブがあるわけだが、通りすがりにそのライブ告知の紙が僕の目に入った。それは最初何でもない初めてのイギリス、ロンドンの景色に過ぎなかった。しかしそこを通り過ぎた瞬間何かが僕を通り過ぎた。歩を止めて何が既視感を刺激するのか辺りを見回した時、その街角に張られた告知のビラだと気付いたわけだ。そこにはニューヨークを中心に活動しているバンドが来英したことを告げていた。そしてそのバンドは日本ではとてもマイナーだった。僕自身知ったのはごく最近だ。それは文化祭のBGMとして使うレコードを地元の専門店で探していた時、たまたま見つけたLPだった。段ボールの中に詰められ、捨て値で売られている中からジャケットの表紙に惹かれてなんとなく買ったのだ。そしてそれは僕の心のある部分を的確に打った。そのような衝撃もそのような心の有り様も音楽で喚起されたことは僕にはなかった。でもそれはたしかに、僕のために作られた音楽だった。何の気なしにとりあえずターンテーブルに載せて流しただけだったが、曲は最初から最後までどんどん素晴らしい緩急で進んでいった。それは限定された僕という人間の中である意味100%の音楽だった。裏面はなかったが、そのA面が終わった時に僕はそのことを漠然とだが気付いた。そしてその音楽を繰り返して聴くうちに、その心の震えとか、僕の思っていることとかが的確に表現されているその歌に興奮し、僕のこの一枚のレコードに対する確信は確かなものへとなっていった。しかし僕にはその経緯といったようなものがまるきり分からなかった。僕の手の中にこのレコードはしっかりと収まっている。でもどうしてそのようなことが起こりえたのだ?なぜニューヨークで活動している一流とは言い難いバンドのレコードが、あの日あの場所で二束三文で売られていたのだ?弱い現実、そう僕は思った。これは本来であれば起こりえなかったとしてもなんらおかしくない未来だった。むしろそんなことは想定されえないほうが普通なのだ。でもそのバンドの叫びは僕にとってとても正しいものだった。次にレコードに入っている歌詞を僕は見てみた。そしてその後翻訳にとりかかった。その歌のヴォイスは僕がずっと思っていたけれど、周りの人間が誰も言わなかったことのうちの1つだった。たしかに僕はそう思っていた。でも周りはそうは思っていないかもしれないなと僕が個人的に諦めつつあった個人的な感情だった。それを何故か海の向こうの大都会のどこかで、彼らが声を大にして歌っていた。そう、それは僕の求めていたものだった。僕はその作詞・作曲した人間に対し共感を抱くことが出来た。何故ならその歌詞とリズムの持っていき方には、ある特定のやり方で現実が困難になった人間にしか作りようのないものだったからだ。そしてそれが僕に分かるのは、僕もまた「ある特定のやり方で現実が困難になった人間」のうちの1人だったからだ。その困難さ、問題についての理解と熟考がなければ生み出し得ないものだ。人々は結局祝福によって傷つき損なうし、呪いで救われるというのが未熟なりに経験を通して僕が学んだことだった。そしてそのような人生観は僕の基本姿勢となった。苦悩に苛まれるだけ祝福の時が近づいているという呪いが最も確実な祝福の道であるという理解、悲劇は歓喜の印でもあると、そう信じるようになった。会ったこともない母語も違う相手に対しここまで理解を示せるものなのかと僕は驚いていた。言うなればそれは文化祭のBGMではなく、僕という人間の過去のBGMだった。何が何でも聴きに行かなければ。会場は一般的なライブハウスで、観客もほどほどの人数だった。そしてそのライブが始まった。女性ボーカルを中心とするコズミックロックバンド。でも僕が彼女の最新のアルバムで最も好きだった曲はBlack umblelaという曲だ。それはこのバンドの中では静かな、どちらかと言えば稀なものだ。でもその短い歌は必要なのだ。単調でエフェクトやシンセはあまり使われない。元来彼女はこういうのを好むのだろうか。彼女の曲に惹かれるのはその純粋の中に潜む若干の暗示であり、彼女自身の想いはしっかり込められていても、そこに実体験を匂わせる固有名詞がないところだ。だから僕は何度でも彼女の曲を聴けるのだと思う。そういうのは個人的にすぎるから僕の心に残り、メジャーヒットを避けるのだろうか。僕らの席からでも彼女の姿はよく見えた。そしてそのライブは僕の心のどこかを癒し、励ましてくれた。
ライブが終わった後僕らは周りの観客に紛れて大移動をしていた。そしてやっと人の流れから出られるというところで、僕は危うくひき殺されそうになった。なぜか分からないがその車は車道でもなんでもない僕の前に姿を映していた。それはメタリックピンクとパープルカラーで彩られた特徴的なアメ車だった。というか、それはホットロッドだった。辺りの人は僕たちだけだった、と言いたいところだったが生憎僕だけだった。僕はトイレに寄った後迷ってしまい、一人この通路でスマホを取り出していた。
「Sorry, Are you OK? 」
「Seriously? 」
僕が言えたのはその程度だった。何故ならその車の持ち主は問題のあるドライブテクニックと外聞で、おまけに先ほどライブを完遂させた主役ご本人だったからだった。
「Ah…,」彼女は僕が英語を話せないかもしれないことを考慮したのかもしれない。次の言葉は至極シンプルで要領の得ない言葉だった。
「Get in now. 」
その古い癖にしっかりと手入れのされた車の助手席に、訳の分からないまま乗り込んだ。少なくとも僕に分かっていたのは彼女の表情の見せる緊急性だけであり、その青い瞳には邪悪な意思が介在しておらず、また彼女自身も危機的状況にあるのだろうということだけだった。じゃなければどうしてライブを終えたばかりのアーティストが自分で車を運転し、あまつさえファンの佇んでいる歩道の前に飛び出してくるだろう?結局何がどうなってるかなんて分からないほうが当たり前なのだ。
車は海岸線沿いを走り続けた。しばらく沈黙があった。僕は現実に思考をならせるので精一杯だった。
「Sorry about that time. 」
先に口を開いたのは彼女の方だった。
「気にしないでください、もしこれが盗難車なら貴方のミュージックビデオみたいですけど。」
「まさか。
そんなわけない。
だって私は」
「 Sala misenn 」僕は彼女の名前を代わりに言った。
「今貴方のファンって言ったじゃないですか。
ただの冗談です。」
「それってほんと?」
「もちろん。
今回のライブに来られたのは偶然だったけど。」
「運転中は考え事が出来ない性分なの。」
「それに見知った通りでもないし、何かに巻き込まれてるみたいだ。」
「その通り。
でも貴方が混乱している私を避けてくれてよかった。
お陰で世界中にいるとは言えない自分のファンを一人失うところだった。」
「何があったんです?」
「話すと長いんだけど、狂暴なファンの一人に追われていたの。
パパラッチみたいでうんざりする。
そういうのって基本どこの国でも変わらないわ。
まるでステート・トルーパーね。
貴方は雨の日の暗い夜に、ニュージャージー・ターンパイクを運転したことはある?」
僕はゆっくり首を振った。姉なら知っているかもしれないが。
「私は一度だけあるわ。
そういう歌もあるくらいよ。
無名だった頃、私はその大きく暗い川と、石油精製所が無反省に暗闇を炎で照らしていた所を一人運転していたことがある。
彼らはそこをたくさんうろついているの。
サングラスとグロック拳銃を腰に下げて。
そういう敵から隠れるゲームってあるでしょう?」
「ああ、ありますね」と僕は曖昧に思いながら相槌を打つ。そして彼女は当然知らないが、僕の腰にもM92Fが下げられている。
「ファンから逃げて、ファンを拾うとはね。」
「なんだか現実とは思えないな。」
「それが現実的なことかどうかは置いておいて、現にそうなってる。
貴方、こっちに暮らしてるわけじゃないわよね?」
「スクール・トリップです。」
「へえ、チケットはどうしたの?」
「当日券を買いました。」
「それはなによりね。」
「Black umblela.今回のセットリストの中で一番好きでした。」
「懐かしかった?」
「それに意外でした。」
「ロンドンは霧とか小雨が降るでしょう?
だからやったの。
あの頃がふいに懐かしくなって。
そのころ貴方はいくつだった?」
「ジュニア・ハイスクールに上がるかどうかくらいでした。」
「 umblelaの語源は知ってる? 」
「ノー。」
「小さなという意味のellaに、影という意味のumberがくっついてるの。」
「小さな影?」
「比喩的な意味合いなの。
保護する力とか、権限とか、責任みたいな意味を暗に持つの。」
「それは作曲当時の貴方も知っていました?」
「オフコース。
だからこの曲にはもう一つ意味があることになる。」
「何事にももうひとつの意味がある。」
「そうかもね。
なかなか興味深い仮説。」
「僕は今貴方に会っている。
それは普通ありえないことだけど、今の僕からすればそのようなシチュエーションは当たり前のことなはずです。」
「黒い傘をさして貴方の事をずっと待っている」予告なく彼女は小さくチャーミングな声でハミングし始めた。そのおかげか車内にいたからかは分からない。僕はすっかり温まっていた。
銀色の車は雨のせいで輝きを増してる。私はどう見える?
空が暗い。数時間前から雨が降っていたんだった。
一人で静かな夜の中、貴方の事をどこか遠くでずっと待っている。
もし貴方が来てくれたなら、私は隣の車なんか目じゃないくらい輝くのに。
そして世界中のルールを全てぶち壊してしまう
全ては私たちの中の、二人だけの秘密
ねえ、その声で私のことを呼ぶだけでいいのよ
どうしてそれが出来ないのよ?
そして私たちがどういう関係で、どうなりたいのかを私に示してよ
ずっとこのままじゃなくて 貴方の気持ちが知りたいだけなの
ねえ、準備はいい? 1919年に私を連れ戻して
そこでは今日見たいに雨が降り注いでいる
そして貴方は雨の街をキャンバスに、私とのダンスを描き出す
だから私は貴方の全てをそっくり丸ごと奪ってしまう。
しばらく僕は余韻に浸っていた。そしてそれの意味するもうひとつのところについて考えを巡らせてみた。輝きを増した銀色の車、ぶち壊した世界のルール、1900年代について…。でもそれは具体的なようでいて何も話していないに等しかった。いいや、もしかしたら抽象的なようでいて、彼女にはありありとした具体性を持っているのかもしれない。おそらくそのはずだ。その出来事についての彼女の感受性が、今も雨の街で当時を思い出させるのだ。そしてその消えない思いがこうして曲を聴く僕のほうまで揺さぶりをかける。その結果今日のライブの中で一番素晴らしいと感じさせる。大したものだ。
「素敵なプレゼントをどうも。」
相変わらず彼女の服装は素敵だった。感受性はファッショニスタとしても現前に顕れていた。
「お陰でこの一連の出来事を僕は死ぬまで語り継げます。」
「ねえ、何か食べましょうよ。」
「ここは詳しいんですか?」
「まあね。
生まれはここじゃないけど二十歳の頃からこっちで暮らしてる。」
「じゃあお任せします。」
それから何度か直進とカーブを繰り返し、僕らはある店の前の駐車場に止まった。彼女はエンジンを止めてライトを消すと、大きく息を吐いた。僕もシートベルトを外すとダッフルコートを脱いで彼女に差し出した。
「コート、着てください」
「ありがとう。」
幸い僕は下にGジャンを着ていたのでそれほど寒くはなかった。車を降りて店に入る。
「何が食べたい?」
「オムライスとウィスキーがあるなら有難いです。」
「オーケー。」
「貴方は?」
「ライブの後にお腹は空かないの。
ウォッカをコークで割ったやつとフィッシュ&チップスだけ貰おうかしら。
貴方も食べるわよね?」
ウォッカ・コーク、そういうのはアハトワも好みそうだ。
「いただきます。
でも車なのに平気なんですか?」
「置いていくわ。
実はさっきからあんまりブレーキがあまりよくきかないの。
相互保険に引き取らせるわ。」
「家は近いんですね?」
「幸運にも。」
「貴方、名前は?」
「My good friend calls me Cathy・Notice.」
「Cathy?」
「Yup.
It’s just a nickname.」
店では、静かなジャズがピアノを主旋律として演奏されていた。
「何してるの?」
「今流れてる曲が知りたかったんです。」
「This is “On Broadway”.」
「貴方はジャズにも詳しいんですね」 僕は感心して言った。
「リズムについて知ることはとても大事なのよ。
でもここに来る本命は別。
もともとアメリカ調の曲を流してくれるお店で落ち着ける。
オーナーは懇意にしてもらっていていつもこの席に案内してくれるし、お陰で私でも目立たない。」
誰かの一番になるというのは僕の知らない苦労をかなり思わせた。遠くを見ればタワーが見えるかもしれない。僕は表通りを歩いている。そこには深夜だというのにたくさんの店が開いている。ネオンサインは曇り空の星数より多く、強く鮮やかに輝いている。街は二十四時間ディナータイムで、二十四時間ジャズを流す。外からは盛り上がる人々と演奏家たちが見える。そしてその光も目に優しく、弱く、暖かく輝いている。店ではウィスキーを中心としたアルコールがあり、次いでコーヒー、最後に水とコーラがある。奥のほうから竈で焼かれているピザのこおばしい香りがする。ライトダウンされた照明、音楽の邪魔をしないよう静かに賑わう人々のささやき声。そうして段々と意識がまどろんでいき、自分はこの町の生まれだったと思い始める。そこまで来れば大体の困難は頭から切除されている。通りからはもう排ガスの匂いもしない。深夜だからだ。トレンチコートに身を包んだ男性もいる。もう秋も本番だ。僕のように通りを見る客はいない。彼らには何かしらの用があるから。本当に用事のない者は飲みすぎた酒のおかげでカウンターやテーブル上に突っ伏している。彼らは永遠に目覚めなそうだ。ここの夜は永遠に寒いのかもしれない。たまに僕はその感覚を思い出すために窓を開ける。最初に十一月前の風の音が聞こえ、次に肌が冷える。通りには黒色のラグジュアリーカーのSUVだけが主人を待つ忠犬のように止まっている。それは自宅の前でも見た風景だし、千紘の持ち部屋を見に行った時も周囲を走っていた。音楽は終わったかと思えばアップテンポのを始め、次はダンスを踊りそうなものをやる。順序があり、決まりがある。そして待ち侘びたようにトランペットが長くて深いソロを、肺という肺を使って演奏する。それが永遠に繰り返される。いつの間にやら僕はどこかの舞台の、どこかの第二幕に移動している。そこでふと目の前の彼女のことを思い出す。そして秋の葉が流れる。ニューヨーク・ニューヨーク。彼女も安堵しながらつまみを食べている。 少なくとも僕にはそう思えるというだけだ。
「貴方はたしか、ロサンゼルスにも暮らしていましたね。」
「ええ、家があるもの。」
「そういう生活ってどういう感じなんだろう?」
「最初は楽しい。
まあ今ももちろん楽しいけど」そう言い彼女ははにかみを浮かべる。
「派手なパーティーはそんなにしない。
歌はたまにルールを破るようにと私を誘う。
それは段々と日常になっていく。
家の造りと機能美にはいつも感心するけど、それも慣れるわ。
そういうことってあるでしょ?」
千紘もきっとそうなっているのかもしれない。感覚が麻痺しちゃうのよ、と彼女は最後に言った。
「こんな美味しいオムライスは初めてです。」
「それは良かったわ。ここは食事も美味しいの。」
一時間弱した後店を出て僕らはタクシーを拾う。そして十分後あるホテルの前にそれは停まった。とても伝統的な造りの外観だった。それは私費旅行でまずお目に掛かれないであろうレベルだった。
「Nice sneaker. 」
そう言われて僕が今履いているのが彼女のものと色も何もかもまるきり同じということが分かった。もちろん彼女のブランドロゴは装飾が施されていたが。
「貴方こそ。
じゃあ、僕はそろそろ帰ります。」
「帰る?」
彼女はありえないという顔と声で言った。
「こんな時間に一人で?」
「まずいですか?」
「やめたほうがいいわね。」
「でもここはロンドンですよ?
別にイヤホンしながら帰るわけじゃないし。」
「私の歌を聴きながら帰りたくないの?」
「もちろん貴方の曲を聴きたい。」
「光栄ね。」
「貴方はどうするつもりだったんですか?」
「ちゃんと責任くらい取らせて。」
「責任なんて。」
「貴方がいたらまずいんじゃないかって?
ねえ、貴方はそういう気があるの?」
僕は立ち止まってしまう。何を言えばいいか分からない。
「ほら、ないでしょ。
それにここにもストゥーム・トルーパーはいるかもしれないじゃない。」
「でも僕には宿泊先が既にあるんです。」
「貴方がパパラッチされたらきっと世間に刺し殺されるわよ。
それでもいいなら別に構わないけど。
おいで、キャシーちゃん。」
僕は車内に戻り、結局はその言葉に甘えることにする。そんな下らない理由でまだ死にたくはない。正装のドアボーイが二人回転式の入り口を開け、笑顔で我々を迎え入れる。若いフロントマンが僕らに挨拶する。彼女はサングラスをしながら急なチェックインだけど頼めるかしらと言う。この手の営業で鍛え抜かれているだろう受付の女性は困ったような微笑みを浮かべ、次にそれを驚きに変えた。当然彼女がサングラスを外したからだ。失礼ですが少々お待ちくださいと彼女は言うと、こちらのセレブがもちろんと返し、そのスタッフは裏側へいささか駆け足気味に飛び込み、一分もしない後に最上階のスイートを取った。こんな夜更けにも関わらず。きっとどこかの石油王が当日キャンセルでもしたのだろう。彼女はサングラスをかけ直すと領収書にサインをして受付に返した。僕は彼女に一部屋だけはまずいんじゃないかと言おうとした。でも彼女は僕の耳元に顔を近づけて
「黙りなさい」と言った。それで僕の進む道はこのホテルの最上階のスイートルーム以外になくなった。
エレベーター・ルームというのは誤りじゃない。その赤レンガの外観と同じものはエレベーターの待合室にも見られた。荘厳で古臭い眺めだが、もちろんそれをエレガントと言うのも可能だ。でもここはただのエレベーターホールなのだ。なのに深緑色のソファも置いてある。そこで人々はエレベーターを待つ。やがてエレベーターガールが到着して僕らをスイートに案内してくれる。部屋は白と青を基調としている。ロイヤル・ブルーだ。一方に白色には名前がないように思える。白は白だ。ただ真っ白なだけ。フロアの様々なところでイギリス国旗もある。新婚旅行とかで使われる部屋なんだろう。 彼女は大きく息を吐き、靴を履いたままベッドに倒れ込んだ。クラリッジというのがそのホテルの名前だった。そして部屋が幾つかあるのを見て僕は安心した。高価そうなポッド脇には紅茶の袋が置かれている。それは夏休みの終わった翌日にリナが僕に淹れてくれた紅茶と同じ銘柄だった。
「ねえ、今日のことは黙っておいてよね。私も黙っておくから。」
僕は彼女の方を見て頷いた。それから彼女は冷蔵庫からシャンパンを取り出すとグラスを二つ持ってきた。僕もそれを飲んだ。このタイミングでシャワーを浴びるわけにはいかないし、かといって広すぎる一室の探索やテレビを付ける気にもならなかった。彼女も相当アルコールが回ってきたようだったが、僕のほうがひどかった。そのお酒は思いの外しっかりとしたパンチを浴びせた。ソファに座った。そこで眠るつもりだった。少なくとも僕は酒も高級に関しても経験があまりに乏しい。
「今から貴方は様々なものを見つけて、思い出さないといけないのよ」いきなり彼女は僕の耳元でそう言った。
「ステート・トゥルーパーとパパラッチには十分注意して。」
そうして僕は眠りに落ちた。でも覚醒までの時間は思いの外早くやってきた。まるで誰かに起こされたみたいに。
目覚めると辺りは真っ暗だった。時計を確認しようとしたがスマホの位置が分からなかったのでまず起き上がろうとした。でもバランスを崩し、再び倒れこむところだった。体に何かが巻きついている。でもそれがさっきまでお酒を入れていた彼女で、それがただの思い過ごしなんかじゃなく、ここがベッドなんだとうことを僕は察することが出来た。最初にそれはミアに見えた。でも違う匂いの、違うブロンドだった。でもそんなことは懐かしさを僕に思い出させた。彼女を起こさないようなんとかバランスを立て直す。頭に鈍い痛みがあり、それは丁度アハトワのパーティーの時みたいに響いた。全ては繰り返しに見える。喉はからからに渇いていた。でもこんな時間にルームサービスがあるはずもない。僕はなんとかしてスマホのライトをもとに冷蔵庫を探し出したが、中のボトルはアルコールしか入っていなかった。彼女が僕が寝た後水を全て飲んだのかもしれない。僕は諦めるとゆっくりと部屋を後にした。
エレベーターは鋭い音を立て僕を迎えた。その音はフロアの端から端まで響き渡りそうだった。それに乗り込むと一階のグランドフロアを押した。流石に丑三つ時にエレベーターガールはいない。その間僕はこの前の文化祭について考えていた。ハリウッドをもじったテーマに、ホラーパーク、どこからか湧き出てきた巨大オブジェ。最優勝賞……。エレベーターの中では静かに「サイドウォークス・オブ・ニューヨーク」が掛かっていた。何故ロンドンでニューヨークの曲を流さないといけないんだろう?でもそれを考えるにはあまりにも頭が痛かった。それから僕は文化祭の元となった現実の舞台を考えてみた。ロサンゼルス。僕の住んでいる退屈で死にそうな街の対極にありそうだ。そしてこんなことを今更考えているのは彼女がそこで暮らしているからだった。何もかもがどこかで繋がりあって、その糸を意図して引っ張り合ってるみたいだった。何かがどこかにそうさせるからくりを仕組んでいるのだ。それは一旦作動すると、後は止めることは出来ない。ただ物事はその規則にそって動き続ける。その糸を切ることも止めることも適わない。そしてサラの顔を思い出した。その顔はもう実物の生として僕の中にインプットされていた。彼女の高い背と、ほっそりとした体。彼女は僕の頭の中で1900年代に戻してと歌っていた。それで考えていたロサンゼルスがモノクロになった。それがこの説明の出来ない人生の流れと、ルールのないこのゲームの自然な流れのようだった。文化祭のステージで披露したモチーフ。それは実行委員の考えたであろう愛らしいパステル・カラーを帯びたものではない。ある時に世界は想像だけで形取ることがある。そしてそこは随分と不確かで、怪しく輝いている町に思える。臭気や、不潔さ。高級ホテルよりも安ホテルのモーテルが頭を過ぎり、椰子の木が風で揺れている。そういうのもの何かの前触れみたいに思えてくる。行ったことのない海外の土地を想像するのは砂時計が横に置かれている世界を想像するくらい難しい。そう、重力が違うのだ。もしくはその世界にあってはもう時という概念はないか、無為無用とされている。でもどうして?
「それを考えることが想像するということだ」そう声が聞こえる。
1900年代のロサンゼルスでは時というものはもう意味を持たない。そして当然そこに残り留まることを選択した魂も、意味も形も持たない。魂?頭痛がする、まだアルコールはたっぷりと頭に残っている。深く考えるな。しかしその声は僕に言葉の意味を考えさせない。そこでは……、脳内に木霊する言葉を無視して考え直す。そこでは輝きを放つ32、3年では新しかった、センセーショナルなクーペが現役で、色彩のない濃淡な町を走っている。色はないがコントラストや明るさはある。その車は31年以前では古く見え、34年以上では新しく見える。モノクロの世界……、そこにいたってはそれは黒く見えるが、まさかユーリスの車のようにピンクというわけでもないだろう。物事には正確さが必要とされる時もある。今回にあってそれはフロントタイヤから垂直に低く垂れるランニングボード、高く位置するラジエーターグリルを有した二十年代にある。真っ暗闇のサンタモニカ・ビーチ、白く光り輝く観覧車……。看板にはアローカラーシャツを着た紳士がいるかもしれない。そして街を上に上がっていき通りを抜けると、そこには高級住宅街であるビバリーヒルズが広がっている。資産家やハリウッドスターがそこでは自分とは比べ物にならない幸福や、その対義を抱え込んでいる。それが彼女の言ったことだ。
「きっと全ての夢は叶わないから価値があるのね。」
いくつか忘れしまったアルバムに入っている哀しいラブソングの歌詞だ。それらはもう彼らの資産で解決することは出来ない。そこではハリウッドの看板を見ることも容易だ。そしてそんな街の何処かから贈られてきたギターのことを思う。僕の生活はそういう所で繰り広げられるのが正しいのかもしれない。そういう可能性だって僕の中にはちゃんとあるはずだ。だってそうだろう?
「どんな人間にもそれを想像することが出来るのなら、絶対に叶えられる可能性はあるじゃないか」同じく誰かの声だ。
「ほら、想像を、創造を続けて。」
僕はその白黒の世界にあってはまだ手付かずの白み始めた朝に誰かの電話で目が覚める。グラスの底には琥珀色の液体がまだ何センチも残っている。幸い明かりは消されているが、ブラウン管の画面は小さいが立体的で、角ばったテレビからは映像が流れている。僕はそれをただ網膜に映そうとする。それはもちろん白黒だ。そこには奇天烈な動きをものの見事にやってみせる道化師の姿と、当時のセックス・シンボルとでも言うべきキャラクターがいる。でもそれは当時の流行だ。彼女の髪は短く、変にカールしている。目や顔は大きくそこには肥大したアメリカの精神さえ思われる。しっかりとでっぱった胸のラインはコーク・ボトルのごとく綺麗なカーブを描いている。そして視点が定まると同時に、自分を叩き起こしたベルの音の意味するところをはっきりと理解する。それは不吉な音を鳴らし続けている。丁度先程のエレベーターの到着音を繋ぎ合わせたようにそれは執拗で容赦がない。昔懐かしい黒電話。それは警官からの電話かもしれない。或いは誰かに命令することを心得た金持ちかもしれないし、妖艶なブロンディーかもしれない。そこで鳴るのは何も電話だけじゃない。そう僕は思う。その通り、そこではドアベルもなるのだ。 そしてそこでは古き良き時代の拳銃、古いベレッタがジャケットポケットの中で使命を果たされるのを待っている。
ベレッタM1915?
そんな名前を僕は知らなかった。でもベレッタというからにはそれは彼女が僕に渡した銃であり、あの部屋にあった銃だ。そこで僕はだしぬけにこんな頭痛がしていた時に父の書斎を開けたことを思い出す。一度僕の居場所があやふやになる。
「そんなままならない生活……。
そしてそこには何かの謎の一角が見え隠れしている。
そしてそこから物語は始まる。
そして、貴方はそこにいるのよ。」
気付くとエレベーターはグラウンド・フロアに着いている。エレベーターの曲はいつの間にか終わっている。そしてそこは明かりが点いていないことで、僕は少し混乱する。エイ、君は混乱している。僕は向かい側に僕を作って、鏡に話しかけるみたいに現状を確認する。君は営業時間について考えてみる。でもここはホテルのはずだ。ホテルというのは二十四時間体制で明かりが灯されているものだ。君はフロアに向かう。目の前のフロントにはちゃんと昼間とは違う女性が立っている。彼女は黒縁の眼鏡をかけ、黒髪を後ろで束ね、皺一つないスーツを着ている。彼女のように一目で有能そうと分かる人もこの世には低いわずかな確率であれ、ちゃんと存在する。彼女はそこでまばたき一つしていないように見える。まるで銅像みたいに、何年も前からずっとここにいたように。そして気付けば、君は声を掛けている。
「Excuse me. 」
強張っている硬い声だがそれは確かに自分のものだ。そう、それは気付けば僕の声帯から発せられた僕自身の声だ。すると彼女は僕のほうに、体ごと向きを変える。静かな微笑みもセットで。ここはそういうフロントのいるホテルなのだ。そしてその微笑みは深夜だからといって程度が変わるものではない。そういう意味では普遍的微笑みと言えるだろう。
Hello.そうその女性は言う。それがヘロウではなく、ハローだったことでここがイギリスなんだという当たり前の事実を再確認する。そう、君はここが白黒のロサンゼルスだった可能性だって十分あったのだと、心底から思っている。今回ばかりはたまたまここが舞台というだけだったのだと、そう君の体は訴えている。認めよう、僕はささやかな物事の少しずつの決定的なずれによって、大きく混乱している。だって僕は本来こんな所に来て最上階で寝泊りするような人間じゃないのだ。でもそれを言えばユーリスも自分だって借り家があるのよと僕に言うかもしれない。貴方が車内にいたから私はここの最上階に来ることにしたのよ、と。それから僕は脈絡もなく彼女が日本語を話せるのではないかと思う。そして実際に君は日本語を話してみる。
「水を貰えないでしょうか?」
でもその女性は何も答えない。やがて彼女は僕の質問には丸きり無視して言う。それがこのホテルで教えられた、決まりきった常套句であるみたいに。その言葉は何年も前から用意されていたと謂わんばかりに。
「We’ve been waiting for you for long time.
Welcome back, Mr. Amenohara.」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます