第47話 窓からの逆光 [U.K.] Stansted

窓からの逆光が全てを覆い尽くしていた。


「リナの妹?」

「ええ。

お姉さんがいなくなって、はるばる日本まで探しに来たんですって。

悪いけどその日は仕事なの、迎えに行ってあげて。」


「カシエさん?」

そう呼ばれて振り返ると、そこには可憐な女の子がいる。

「初めまして、リナの妹です。

姉を探しに、きました。」

「初めまして、妹さん。

ホストファミリーの弟です。」

その可憐な容姿は、この場には随分と場違いなと言ってもいいかもしれないものだ。

「おとーとさん?」

「ブラザーって意味だよ、妹さん。

僕には姉がいるんだ。」

「私もです。」

「お腹は空いてる?」

「少しだけ。」


バイト先のカフェに入ると、副島が注文を取る。

「樫江君。

貴方、誘拐に手を染めたりはしてないわよね?」

「少し訳入りなんだ。

アイスココアフロートとコーヒーを」


「君の探しものは僕と同じだ。」

「貴方もお姉さんを探してるの?」

「その通り」アイスコーヒーにガムシロップを入れて一口飲んだ後で言う。

「急にいなくなられてはこちらも困る。」

「そして少しばかりは傷つく?」


僕は顔を上げる。

「うん、そうだな。僕は傷ついているんだと思う。

…君はお姉さんに似ていると言われる?」

「ええ、言われるわ。」

まるで彼女をそのまま小さくしたみたいだ。

「おとーとさんは、お姉さんの行きそうなところに心あたりはないの?」

「残念ながら。

それに行けるところはもう行ったんだ。

申し訳ないけれど、君に出来ることはあまりないかもしれないな。」

「それはとてもざんねんだわ。」

「わざわざ来て貰って申し訳ない。」

「いいの、貴方があやまることじゃないもの。」

いくら店内の冷房が効いていても、やはり夏に違いなかった。セミの声は終わろうとも、残暑は相変わらずだった。

「とりあえず、今日はウチに泊まるとして。

君には何か計画があるの?」

「プランのひとつは、今じっこうしているわ」アイスクリームをスプーンですくいそう言いながら、彼女は僕に目をやる。

「なるほど。」

事情聴取というわけだ。

「他にも何かてがかりはない?」

「おそらく一番知っておいた方が良いのは、彼女には自分の足があるということだろうね。」

「足ならわたしにもあるわ。」

「そういう意味じゃないんだ、君のお姉さんは車を持ってるんだよ。」

「くるまを持ってるの?」

「そう、君のお国の、なかなか素敵なクラシックカーだよ。」

「お姉ちゃんの車ももうないの?」

「その通り。」

「他にもお姉さんの知り合いを紹介してもらえる?」

「出来ないことはない。

というのも、僕の知る限りで彼女の知り合いは、僕のクラスメイトしかいないからね。」


「と、いうわけなんだ。」

「……」

「ここ、あんまり日本みたくないね。」

「ここのホストはロシア人でね。

家の造りは洋風だよ。」

「私のおうちと少しにてるかも。」



「何をしてたんだい?」

「絵をかいてたの。」

「どんな絵だい?」

それは莉乃の家だった。間違いない、景色はロフトから見たもので、上の天窓がある。手前のローテーブルにはノートパソコンが置いてあり、右奥にはモニターが付いている。

「これは別のお姉さんのお家だね?」

「そう、あの後連れて行ってもらったの。

お姉ちゃんはこのベッドでねてたんだって。」

お姉ちゃんはこのベッドで寝ていた?

「ええ、そうよ。」

初耳だった。何か言おうとしたが、上手く言葉が出てこなかった。皆が一つずつ嘘を持っている。いや、それは真実なのだ。おそらくこちらが目をそらそうとしているから見ることの出来ない真実だ。絵に目を戻すと、それは夕景らしい。窓からは強い西日が差していた。そして階下にはクラシックな四脚の椅子が描かれており、そこには誰かが座っていた。

「これは誰なんだい?」

もちろん、そこにいるのは莉乃のはずだった。そこはなんといっても彼女の家なのだから。でもそこに座っている人物が誰なのか分からなかった。年の割に精緻で才覚の感じる出来栄えだが、その椅子に座っている人物は黒一色で描かれていた。窓からの西日が逆光となり、全てを覆い尽くしているようだ。

「わたしなりに、ここに来てからわかったことをまとめてみようと思ったの。」

「それで描いたの?」

「そうよ。

私にとって、ものごとはメモをとるよりも絵にした方が分かりやすいから。」

暗記や物事の整理の仕方には色々あるが、絵を描くというやり方を知ったのはそれが初めてだった。たしかに出力という意味では同じことかもしれないが。

「その家の人は、他に何か話してた?」

「うん。

近くにある公園は、ジャックと豆の木をモチーフに作ってるんだって。」

ジャックと豆の木?

「クリスマスのパントマイムでよく上演されるの。

でも私、あの話はそんな好きじゃない。

「君のお姉さんも、どこかで誰かと豆の木を交換したのかな?」

「牝牛がなくても交換出来るものはいくつかあるわ。」

「例えば何を交換したんだろう?」

「例えば、さっきお兄さんが話してた車とか。」

「もしそうなら、僕たちは彼女の足取りをより一層掴めなくなる。」

「それでお姉ちゃんは、遠いところに着くの。」

「そこに巨人が?」

「ううん、お姉ちゃんはそこでへびを見るの。」

蛇?

「さっきのお姉さんが話してたの。

かげとりって言うんだって。

その池の中には大きなへびが住んでいるの

『Fee-fi-fo-fum,


見よ、食べるのに丁度良いもの、私の空腹を満たすのに十分だ!


I smell the bones of an Englishman,
Be he alive, or be he dead
I'll grind his bones
And get his dough.』

だから寝るまで動けないの。ただどこかに隠れてるしかないの。

誰にも見つからないどこかに。」

「それで君のお姉さんは行方をくらませた訳だ。」

「ええ、でも意外と近くにいるかもしれない。巨人がジャックを探すみたいに。」



「樫江君?」

「話があるんだ。」

「何について?」

「君の街の蛇について。」

なら、私の街で待っている。そう言うと彼女は通話を切った。


「貴方は影の話とリナの失踪について、関係があると思っているのね?」

「ただの直感だ。」

「面白い話よね、影を取る蛇。

どうしてそんな物語が生まれたのかしら?」

「君はそれがいると思うかい?」

「この街にかつて存在した池に潜む、人の影を食らう蛇が?」

僕は頷く。

「おそらくいるんでしょうね。」

それは予想としていた答えであると同時に、どうにも忌々しい答えだ。

「君は、随分と簡単に現実から外れてくれるんだな。」

「樫江君、現実を外れるかどうかはあまり問題ではないかもしれないわよ。」

「というと?」

「影を食われて人が死ぬ、

飢饉の最中食料に飢えて人が死ぬ、或いは親子共々飢え死にを前に、仕方なく親が子を殺す。この二つにはどんな違いがあるのかしら?」

「人が死ぬという意味では変わりはない。」

「そうでしょう?

そして飢饉だろうが土地の神社の境内に潜む蛇神だろうが、どちらも天災であることに変わりはないと思わない?」

「つまり、リナの説明のつかない失踪をどう説明するかって事か。」

「人がいなくなる、または死んでしまう。

随分と説明のつけられない、またはつけ難い物事を、その池の蛇はいとも簡単に解決してくれる。」

「だから君はリナの妹に、この街の伝承を話したわけだ。」

「帰ってこない軍人の子供に、戦場へ行ったというのは酷でしょう。

遠いところへ行ったというのが一般的な言い方ではなくて?」

「この街の蛇は、人にとって重大な問題である存在の消滅を引き受けてくれる。

人が一人で抱え込むには大きすぎるそれを、池の底の蛇が食べてくれるのよ。」

「池がなくなった今も?」

「池がないなら別のどこかに行けばいい。

時代が変わったところで、人の存在の重みというのは変わらないもの。」

「帰ってこない親を前にして、その子供が貴方に尋ねる。

パパとママはどこって。

貴方なら真実を話す?」

「蛇に影を食われたと言うのか?」

「真実は目に痛い。

でも蛇はいるわ。」

「比喩ではなく?」

「姿形は違うかもしれない。

でも誰の心にも、それは潜んでいる。」

「よく分からないな。」

「それは貴方が池まで足を運んだことがないからよ。」

「心に潜む蛇は、いつも貴方の心に暗い影が落ちるのを待っている。

そしてそれを食べて、超え太ることを目的としている。

時に人はその蛇に、己の抱くあまりにも大きな影を差し出したくなるものよ。

身軽になることを求めてね。」

「君にはそれがよく分かっている。」

「なぜなら私にも影がないから。」



「言ったでしょ?

人はあまりに大きすぎる影を前に、

その絶望を前に、簡単に楽になることを望むものだって。」

「君が?」

「世界にはありとあらゆる禁忌が存在する。

行ってはいけない場所があり。

してはならないことがある。

「その罪を犯した人は、己の影を捨てることになる。」

「貴方はリナさんが失踪したと言う。

けどどうかしら。

彼女は日本に来た時点で失踪しているんじゃない?」

「それは言い過ぎだ。

あくまで学校の留学プログラミングで、ホームステイだろう。」

「さっき蛇の存在の話をしたでしょう、樫江君。

それに私達だって、文化祭のシナリオをそうやって書いたじゃない。」

「…観客と演者、二人が持つ別の思惑。」

「ある人物の取った行動というのは、あくまで物理的な物であるべきよ。

左へ向かった、銃を構えた、エトセトラ。

でもその行動にどんな意味があるかということを考えれば、選択肢の数はキリがない。

実際にリナさんは、イギリスから日本へ行くという意味で、何かから逃げているとも言えるでしょう。」

「一体何から逃げているんだろう。」

「蛇でしょう。」

「それは蛇の形をした何を意味するんだろう?」

「蛇は彼女の影を吞み込んでいる。」

「君にはそれが分かる。」

「時として大きすぎる影を前に、しばしば人は逃げようと思う。

たとえそれが逃げきれなくても、先の見えた一時的なものだとしても。 

さて樫江君、貴方は気付いたかしら?

あの妹さんを名乗るお嬢さん、影が無いわよ。


体温が冷えていくのが分かった。

「言ったでしょう?

影は持ち主を追い続けるものだと。」

「おそらく、彼女にはその年で何かがあった。

人には簡単に説明の出来ない、得体の知れぬ何かが。」

「それはやはり君にもあった?」

「私にもあった。

けれど私はもう影を持たない。」

「そこまで知っておいて、僕はもう一度彼女と話すべきなんだろうか?」

「少なくとも、今私たちが会えるリナ・アシュフィールドは彼女だけよ。

そして影というのは従来、本人の語れない引き出しの奥から話をしてくれたりもする。」

「君はリナをこの家に匿っていた。」

「そして影はそれを見事に察知してみせた。」

「そして彼女の口から何かを聞いた。」

「貴方も何か聞いてみればいい。」

でもリナの妹はもう家にはいなかった、そして僕の姉も。


樫江君?

あなた、こんなところで何をしているの?

配達員の真似事をしていてね。どうやら、今回の配達先は知り合いだったらしい。


「やあ、配達ご苦労さま。」

髪が染めていない金髪で、背は僕より10㎝ほど高い。名前にはTakumi Tachibanaと書かれていた。どうやら日系らしい。

「商品はこちらになります、ありがとうございました。」

「まあ待ちたまえよ、カシエ君。

カシエ・リョーシ君。」

もちろんその男性が僕の名前を知っていても驚く必要はない。彼も僕が確認したように、クーリエの名前を見ることが出来るからだ。でもその名前の呼び方には癖がある。あからさまに僕を知った人であると言っているかのような話し方だ。

「失礼ですが、どこかで会いましたか?」

「以前君に別のものを運んでもらったことがある。

まあ覚えていなくとも無理はないだろうが。」

「貴方は私がここに以前配達に来たことがあるという。

しかし解せないですね、ここに来たのは初めてだ。」

「君は記憶力に自信がある方かい?」

「少なくとも、私は自分の走った道を地図に線として引く習慣がある。配達場所や依頼人の名前を確認するようにしてます。」

「Routine never lies?」

加えて、この家はいささか豪華すぎる。

忘れる方が無理な話です。」

「気に入ったよ、カシエ君。

実に周到な受け答えは、こちらの望むところでもあるからね。」

「良ければ次の配達に伺いたいのですが?」

「まあ待ちたまえ。

別にまだ、次の依頼は入ってないだろう?」

その通りだった。

「別に今はピークタイムじゃないんだ。

こちらの依頼を受けてくれないか。」

「失礼ですが、急いでいるので」僕は回れ右して玄関の階段を降りた。

「その急ぎとやらは、リナ・アシュフィールドよりと重要な案件かい?」

しかし、その数段を降りることが出来なかった。


「紅茶でいいかな?」

「お気遣いなく。」

玄関を通り廊下を進んだワンルームの空間のソファに僕は腰掛けていた。

「外の雨はまだ弱くはなかっただろう。

コンディションが戻るまで小休止すればいい。

休息は誰にとっても大事なものだ。」

男はそう言いながら陶製のポットに茶葉を入れ、お湯を注いだ。

「さあ、暖かいうちにどうぞ。」

男の一挙手一投足に不自然なところはなかったが、信用するのも無理な話だ。

「素晴らしい警戒心だ、カシエ君」そう言いながら男はティーカップを自分のと入れ替え、それを一口飲んだ。それを見て僕も仕方なく、ティーカップに口をつけることにした。

「私の方から話すと随分と長話になるし、それは君も望むところじゃないだろう。

君が好きな角度から聞いてくれたまえ。」

「貴方はイギリス人ですか?」

「ああ、一応ね。

日系イギリス人というやつだ。」

「貴方はリナのことを知っている。

彼女とどういう関係なんだろう?」

「君からはどう見える?」

「分からない。

貴方と彼女は知り合いだが、それがどのような繋がりかは見えない。

「彼女は車を持っていただろう。」

「ウーズレー・mk2。」

「そう、その車だよ。

元々は私のものだ。」

「失礼ですが、余計話が分からなくなりそうだ。」

男は薄く笑った。

「いや失敬、別になぞなぞをする気はないさ。

ただ君がどんな人間か、興味があってね。」

「あの車の所有者は今はリナで合っていますか?」

「合っているよ。」

「なぜ彼女に車を?」

「それは彼女が免許を持っていて、見知らぬ土地を走る必要があったからだ。」

「貴方は彼女のパトロンなのですか?」

「確かに支援していることは認めよう。

でも答えはノーだ。

彼女には留学という目的があり、私にもまた別の思惑がある。

それがたまたま一致しただけさ。」

「彼女とはどこで知り合ったんだろう。」

「実は、彼女とは知り合っていない。

向こうが知っているのは私の名前とポジションだけだ。」

「ポジション?」

「階級と言ってもいい。」

「貴方はリナと同じ機関に所属していて、彼女よりも階級が高い。」

「まあ、ざっと言えばそうなるかな。

カシエ君、君はタバコを吸うかい?」

「残念ながら、日本ではまだ吸えません。」

「そうか、本当に残念だな」男はそう言うとタバコを取り出して火を着けた。

「そんなに階級が離れているんですか?」

「まあ、そういうことになる。」

「彼女の階級は?」

「一番下だ。」

「貴方は彼女と連絡を取る際に、別の階級の人間を通している?」

「そういうことになる。

どうしても必要なら、私が彼女に電話をかける。」

「そして貴方には、彼女の居所が分かっている。」

「大体はね。」

大体?

「君はアハトワのパーティーに参加していたね。」

「・・・貴方もそこにいた?」

「そういうことだ。

彼女もそのことに気付いてはいないがね。

驚いたよ、どうして君がいたんだ?」

「それはあそこの令嬢が、同じクラスに在籍しているからです。」

「俄かには信じられない話だ。」

「今度はこちらが貴方の機関とアハトワとの関係を聞く番ですね。」

「それは説明し辛い入り組んだ話になるが、敵対関係ではないと言っておこう。」

「貴方だけが僕らのことを前もって知っていた?」

「そうなるね。」

「いつから僕は認知されていたんだろう?」

「大分前からになるかな。」

「僕と彼女は会うべくして会った?」

そこで彼は笑った。

「失礼、別に馬鹿にしたわけじゃないんだ。

私は運命の二人、というやつがどうしても苦手でね。

シンデレラとか白馬の王子様といった手合いを信じていないんだ。」

「だからこそ貴方が偶然ではなく、意図的に手を回したのでは?」

「残念だが、私に出来ることは私に出来る範囲までだ。

彼女が私の指揮下にいること、君が留学生の交換プログラムが盛んな高校にいること、この二つはどうこう出来る範疇にはないよ。

逆に私が尋ねたいくらいだ、カシエ・リョーシ君。

君はいるべき時に、自分のいるべき場所にいると思うかい?」

「経験上、一本の道だけが光り輝いて見えるということはまずないですね。

ただなんとなく、気になる道を進んでいるだけで。」

「私は人に対してあまり好意を持つことがない方だが、君は気に入りそうだ。」

「そいつはどうも。」

「そんな君に、ひとつ届け物を依頼したいんだが。」

「届け物?」

「中身を明かすことは出来ない。」

「中身を開けることも?」

「普通のやり方では無理だろう。

また君が開けてしまった時、君は永遠に彼女とは会えないと思ってくれ。」

「それで、それをどこに届けるんですか?」

「もちろん決まっている。」

男は紅茶のカップをソーサーに戻すと言う。

「君が彼女に届けるんだ、彼女がいる我らが故郷まで。」





帰り道、僕は彼との会話を反芻していた。


「私と彼女の繋ぎ役を君に紹介しよう。」

「その繋ぎ役というのは、彼女の居場所を知っているんですか?」

「我々が知っているのは車の在りかだけだ。

それを君にも共有しよう。

彼女に届けてもらうまで、君がこれを開けないように監督し、君に同行してもらう。」

「それは僕が届ける必要があるんですか?」

「でなければこんな面倒を外部委託したりしない。

不幸中の幸い、君はまだどこにも属していない。

この取引で我々は互いに目的を叶えることが出来る。」

「貴方は届け物を渡し、僕は彼女に会うことが出来る。」

「そういうことだ。」



「Dear Lina.Ashfield


What you're after is the man in front of you who carried this.

Achieve your purpose.

T.T」






物語の辿る凄惨な結果は

この物語の辿る陰惨の因果は

でも僕はまだ全てを諦めたくはないんだ


リナは鏡の国の住人と言い、莉乃は影を取った人と言う


街を案内してほしいの。そう彼女はウーズレーのキーリングを回しながら言う。

「この街の何を知りたいの?」

「まずは海が良いわ。」

そうか、ならまずは134号線を走ろうか。

暑すぎるきらいはあるが、やはり夏だからね。」

車は467号線を出ると南下して真っ直ぐと進む。ウーズレーのエンジン音はおとなしい部類で、リナの足の動きに合わせてゆったりと進んでいく。江ノ電の線路を超えて少し進むと海岸線の突き当たりを左に曲がる。僕らはそのまま立石の方まで車を走らせる。


さて、そんな訳で、樫江君。

貴方は、自身の影を取った。

貴方はリナさんの影に会った。

両者共にそうせざるを得なかった。

では樫江君の影はどこにいると思う?

僕の影はどこにいると思う?



quit in a fit of rage


to make a trifling remark-make a trifling remark-make a trifling remark


どこまでも得体の知れない感情があることを、樫江陵史は自分で認めないわけにはいかなかった。そしてその感情を有した人間であることを、周囲の人間が察知していたのであろうことに気付かない訳にもいかなかった。ある種のタイミングで自分が他者と適切なやり取りを出来ないことが、まざまざと彼に思い出された。別に自分が意見を求められている訳でもない、相手が何か話題を出しているわけでもない。そんな時に彼は好んで自ら話し出すタイプではなかった。それはできなかったと言ってもいいが、そもそもそうする気が殆どの局面において、彼にはないのだ。彼はそのことを今でははっきりと自覚出来ていた。彼にはそこで生じる大なり小なりの他者との関係を築くことが出来なかった。そして今でもその必要を認めていなかった。もちろん皆が皆そんな彼の性格を嫌悪し遠ざかる訳ではない。むしろそのような特性は距離を置く人間の数に反比例し、好ましい他者からの興味を惹くことも出来た。実際に細やかな小噺が大きな他者問題を引き起こすことはない。秘すれば花なりというくらいだ。彼の寡黙はそれなりに余計な失望やトラブルから距離を置くことが出来た。しかし彼は今自分でそう自覚するその直前まで、自身のそういった傾向を深く見つめたことがなかった。しかし人間関係というのは小噺が積み重なって深みのある領域へと導かれるものだ。誰も彼もがあった初日から意気投合し、互いの抱えている自分でも気付かないような深淵の世界を曝け出したりはしない。今ではそのことが彼にもよく分かっていた。たしかにどんな友好関係が良いとしても、人はそのような世界を誰にも見せることなく墓標へと赴くからもしれない。しかし今の彼は、それがある種の偽りに塗れた仮の関係であると思われた。そしてそれが、ただ1人も自分が誰にも深く魅了されることなかった本当の理由だった。もちろん外見が優れた異性がいて、内面の優れた異性が周囲にはいた。それぞれの資質はたまに雲に隠れた満月が夜空を照らすような深い感銘を齎すこともあった。そしてそれは彼自身だってある程度同じことが言えたかもしれない。しかしそれは「あぁ、綺麗だった」と一時の感動として奥深くの物置小屋に置かれ、再び彼の手に取られることも稀だった。なぜ俺は今更になって、こんなことに気付かないといけなかったのだろう?

しかし彼にはその答えが理解出来ていた。それはまた彼と似た道化の心を有した、しかし彼とは遠くにいる、1人の英国からの転校生と出会い、そして彼女が彼の元を去ったからに他ならなかった。


 彼女が彼に齎したのは、10代に抱くような憧れや激情とは異なる類のものだった。もちろん時として彼女を前に、そんな思いは露一つとして抱かなかったと言えば嘘になるが(もちろん彼女は一般的に、また個人的にも魅力的な人物だったから)しかし彼の目に映る彼女の姿は、歪な鏡として機能することの方が多かった。もちろんそのことに気付くまでに多くの時間がかかった。日頃隣を歩いていれば、それはどう見ても全くの別人だったから。国も違えば性別も違うし、性格だって(当たり前だが)相違点の方が目立つ。けれども彼女のある種の姿や言動が、彼に自分自身を客観的な鏡として見つめることを要求していた。それが彼女が傍にいる実体でなくなったことによる効能だった。それは実に歪な合わせ鏡だった。彼が彼女について知ろうとすればするほど、そこには彼に関する物事も少なからずあった。それは異性に対してというよりも、同じ致命的な欠落を抱えた人間を見た時に抱く同感であり、同情の念だった。同時に不思議でもたった。こんなに上手くやれているのに、根っこのところで似たものを感じたりもするのだな、と。ただ違うのは彼らがそれを上手く隠せるかどうかだけの違いだ。人によっては自分でも永遠に隠し続け気にしないその存在を、眩しい美貌を携えて彼女だけが、彼だけに分かるような形で目前に提示した。彼女の抱えている何かしらの内面の問題が自分にも代入出来ることを知った。そういう意味では僕らは互いを分かり合うことも、相手の中に見える己自身を想い自己憐憫に浸ることさえ出来ただろう。それは見方によっては甘美でさえある。思春期の最中にいる男女が、ある意味では互いのことを、互いの抱える負の側面から理解し合うことが出来たのだから。

そして彼には彼女を心の奥底から求められない心当たりがあった。時には彼女のある内面のみを、時には彼女のある外見のみが目についた。何もかもそっくりそのまま魅惑されることはなかった。それは彼女があまりに完璧に見えたせいかもしれない。けれど大部分の問題はこちらにあった。それは彼もまた自身の人生を半分で暮らしているということだった。残りの手付かずの自身の影がどこあるかさえ彼には分からなかった。それは元から存在しなかったのか、それとも途中で莉乃のように、意図的な儀式によって失ったものなのかさえも彼には不明だった。

しかし莉乃が銃を構えそれを彼に向けた時、そこには既に撃ち捨てるべき彼の影がなかった。跡形もなく、だ。それは莉乃を、そして自分自身をも混乱させた。

「貴方に捨てるべき影はない」そう彼女は言った。

「わざわざこちらまで来てもらって、少なくない犠牲も要求したけれど、貴方はもうそれを持ってないわ。」

そこで判明したのは不在の実在だった。先の問答を繰り返さないわけにはいかなかった。一体俺はいつから自分自身を十全に生きてないんだ?それは他人の人生を他人の欲望に沿って半分生きるようなものだ。感動も失意も観客としての同情程度しか持ち合わせない。それが何故か、リナ・アシュフィールドの一挙一動だけは、より大きく強く彼の心を揺さぶることが出来た。特に幼少の彼女、その影との交流は深く残るものになった。さて、と彼は思う。俺はこれからどうすればいいんだろう?この無感動な自身と世界とを容認すれば、この先に待ち受けるのは他人の敷いたレールを規則的に移動する、無感動な人生だけだ。それとも、と彼は思う。初めからなかったか、或いは自分でも気付かないうちに何処かへ落とした半身を探せばいいのだろうか?その時彼女が転校してきたことの顛末を、彼は彼なりに思いやることが出来た。だから彼女はここまでやって来て、いなくなったのだ。しかしそれは、彼が影取に足を運んだという要因もあるかもしれない。彼女がそうしたように、彼も莉乃の助けを借り、この街で一晩を過ごして夜明けを迎えたわけだ。彼らが寝ている間夢を通して、今はなき影取の池から蛇が姿を見せても不思議はない。彼は今ではその蛇が池から頭を出し、こちらの水面に映る影に近寄ってくる様を、目の前の光景よりも鮮明に思い描くことが出来た。それは絶望かもしれないが、彼が思ったことは少し違う。そしてリナの心が瞬間、垣間見えた。私たちは今、正しいところにいて、正しいことをしている。

それが彼ら2人がその無意味なように思える旅程を経て得た結論だった。無駄な物事は何一つない。彼らは彼ら自身がその片っぽの心で有らん限りの力で望んだように、望んだ場所に今立っているのだ。

俺も行かなければならない。それが彼の指針となった。全ての物事は北極星の如く、コンパスがその向きを伝えんばかりに提示されている。イギリスに行くのだ。たとえそれがどんなに自分とは無縁の場所に思われたとしても。それでもきっと彼女と彼女の影は、俺には無縁じゃないはずだ。彼女達の存在は、俺の存在についても同様に何かを照らし出すはずだ。


それで、どうなの樫江君。

貴方はどこかで精神の跳躍をした覚えでもあるの?


「それで、樫江君。貴方はどちらが良い?

私の心と、私の身体と。

「最悪な選択肢だ。」

「最悪なのは私であり、貴方よ。」

「選択肢は各人の器量に左右されるから?

「まあ、そういうことね。」残念だけど、と彼女は言う。

「実のところ、今の今まで僕は心を得れば肉体が手に入ると思っていたんだ、子供ながらにね。

「残念だけれど、私たちは大人になる上で選択をしなければならないのよ。」

「しなければ子供のままでいられる?」

「良くも悪くもね。

しかし選択による痛みを伴わない大人というのは、果たして大人と呼べるのかしら?」

「その論点でさえ、肉体よりも魂の優位を諭しているように聞こえるね」

「魂にする?」

「でも君の肉体はどうなるんだ?

どこか知らない男のとこに肉体だけが行ってしまえば、それによって結局僕の心は苦しむことになるんじゃないか。

「でも肉体とも貴方は言わない」

「そこには選択による痛みがない。

誰もがただの快楽主義者である同時に、その心はそいつを否定している。

なあ、どこかに両方手に入れる方法があるんじゃないか?

「それは、貴方が自分の影を見つけることに他ならない。

そうしなければ手を変え品を変え、影は貴方の前を彷徨き彷徨い続けるでしょう。

貴方が片方のみを手にして満足しきったタイミングで、彼らは最悪な登場の仕方をするでしょうね。

「そしてその時、僕は大人として過去の選択の責任を、痛みを強いられるわけだ。」



樫江君、いつぞやの夜に貴方は言った。この人生で自分が幸せになることはない、って。

あぁー…うん、言ったかもね」そう彼は目線を左にずらしながら答える。

あれはどういう意味なの?

そのままの意味じゃないかと思うけど。

貴方が望むと望まないとに関わらず?

そうだね…僕が望むかどうかの問題ではないかもしれない。おそらくそれはある種の器用さが求められる話なんだ。器用なことが僕の自信になってる訳じゃない。

 たまに何億光年も離れてると感じることさえあるくらいだ、と彼は言う。私は思わず考え込んでしまう。

そこまで分かるものなのね。

そうだね、意外と分かるものだよ。自分と他者を隔てる壁はかなり高く、堅牢だったりする。僕はそれを超えることが出来ないんだ、いつもどこかでしくじってしまう。しくじるという他にはないような失態をするんだ。

でも人はその手の失態を重ねて正しい時に正しいことが言えるようになるんじゃいかしら?

そうだね、君の言うことの方が筋が通ってるかもな。そして一般的だし、正論だよ。

貴方は一般論に当て嵌まらないわけ?

残念ながら、昔からその手の話は共感を覚えることが少なくてね。人々が言わずとも理解し合えるような事や距離感が、僕にはかなり朧なんだ。世間一般に興味がないと言えばそれまでなんだけど。

でも僕としてはそのような世間を理解したいとも思ってるわけだ、それで話が複雑になる。

貴方の前に壁が立ち塞がる?

まあね。



そうして数年が経ち、目を開くと鏡の前には二十歳の自分の顔が映っている。その日を僕達はブリティッシュパブのチェーン店で祝う。そこで僕は初めて酒を飲む。

「それで、こんなところを選ぶあたり、まだ固執してるわけ?」

あの頃と比べて頬は痩せて削ぎ落とされ、目には見たことのない光が宿っている。


8月が終わる前に台風が上陸し、夏の暑さを全て奪い去った。降り止まない雨が1週間の内半分を占め、雨の降り始めは僕の17歳の1日目となった。その情景は今でも覚えている。これからどうなるかを漠然と考えながら、降りしきる雨を窓際からぼんやりも見つめるのだ。そして8月31日になると。ああ、このまま今年の夏も終わるんだな、と思った。果たして僕はこの夏にやるべきことを、この夏にしか出来ないことを為すことが出来たのか。さあどうだろう。しかしやるべきことはいくつもあった。そしてやるべき事とやるべき事の合間でさえやるべき事はあった。別に多忙という感じもしなかったが。

しかしその8月の最終日に吹く風の初秋の初めを思わせる感じは僕をいたたまらない思いに駆り立てた。夏の作品は山程あるが、秋の作品はそれほど多くない。そしてこの、丁度夏の盛りを終えて迎えた残暑の中に時折顔を見せる秋の気配について語った作品を、寡聞にして僕は聞かない。誰かがそういう話を作るべきなのだ、と思った。誰もがある作品で夏が来るのを待ち侘びるように、誰かが8月31日の秋風から始まる物語を書くべきなのだ。そして過ぎ去った夏への後悔を置いて心を前に進めるべきなのだ。


では樫江君に質問だ。

君が話したそれぞれの人物のそれぞれのファンタジー、全て本当だとしたらどうしてくれる?


29 OCT


 異国の土地であろうと規則正しくちゃんと目を覚まし、朝がやってきたことを確認する。自分はどこに属しているのだろう。ここは日本の僕の家ではない、もちろん。何かが変わり、その反動でまた一つ何かが変わったのだ。それは春の終わりに見知っているはずの光景ではない。何かを得て何かを失った、ということしか分からない。こんなことを進歩と言えるだろうか?時計は六時半過ぎを指していた。遮光カーテンからは暖かな日差しが射している。それらの僕の居場所と呼べそうな場所は何故か空気が薄い。それでそんなところじゃないという気がしてくる。そんな乖離の感情が僕を違うところに連れて行こうとする。静かにベッドから起き出し、洗面所へと向かう。顔を洗い歯を丁寧に磨くと時間をかけて外見を整える。髪に櫛を通す。結局のところ自分について他人が分かるのは外見なのだ。そしてそういう古風なスタイルの中に何か意味が見いだせないだろうかと鏡を見ながら思う。そこから緊張感を持とうと試みる。居間に戻り紙袋の一つからゆっくりとシャツを取り出して着る。


 さて。思考が木霊して脳内を埋め尽くすより先に、スケジュールを思い出す。今日は短い付き合いだったこの国との別れの日だ。僕は本来の道のりに戻ることになる。修学旅行に。そのためにすべきこと…。スマホをコンセントから抜くとスペインで有名なバス会社を検索し四苦八苦しながらもなんとか十時にバレンシアを出るバルセロナ・ノード行きのチケットを購入する。いくつかの考えるべきことより直面している義務のほうが多い。何よりもまずそれを無心にこなす必要がある。 タクミとの通話を思い出す。当然僕は日本初のロンドン行きのチケットでは行かない。僕はビジネスクラスで今日そこへ行く。スーツを着るのはそれほど大変なことではない。革靴に履き替えるほうが良いのだろうがないものはない。それと昨日着ていたシャツとジーンズをビジネスバックに入れると夏よりはまともにネクタイを結び、ジャケットを羽織る。鏡の前に立つと違和感が僕を見ている。それでも上から下まで、全て僕の為に用意されたものだし、それはちゃんと揃えられている。時間の手は僕は掴んでいる。 時計の針は朝食の時間の一時間前を指している。 脈絡は何もなく突然ピカソの翻案した絵画にだけピアノを弾いているマルガリータ皇女の姿があったのを思い出す。広くはない一室に導入されたピアノのことも。そして幼い少女のことも。 あれは幻だったのだろうか?


 ラウンジに行くと朝食を食べ、ホテルを後にする。バスの出発地まで歩く。それに搭乗するとバスはまた長い道のりを走り始める。その間僕は紫乃華にしかけた行為についてずっと考えている。腕や太もも、それに耳に昨日の感触がまだハッキリと残っている。あれは何だったんだろう。けれど答えは出ない。それでも考えることを止められない。僕はずっとそのような宙ぶらりんな状態でバスが目的地に到着するまでを過ごす。四時間後の、十四時過ぎまで。随分と無意味で長い道のりだ。小さなテレビは何も退屈しのぎにはならない。でも僕は地下鉄へと向かう。端の座席が一つ空いている。そしてそのタイミングで、捉えようのない眠気が来る。それはただの眠気ではない。睡魔という言葉を実感として納得させる眠気だ。僕はどんどん無感覚になっていく。そして僕は夢を見る。夢の中には道化師がいる。


 それはピカソの絵画で見た道化師だった。紫乃華の説明に実態を持ったかのように彼は生き生きとしていた。まず彼は黙って大げさな一礼をした。見ていて気分が少し良くなるくらい立派なお辞儀だ。

「こんばんは、樫江様。

お名前の通り辺りは樫で茂っておりましょう。

これだけあると随分と豊かな緑ですねえ。

私のような瑣末なものの心にも一時の休憩は必要です。

もちろんどんな身分の人間でも同じように心があります。

そしてそれは同じものです。」

同意を求められてるのか、僕は黙って頷いた。

「樫は貴方の国ならずともこの国でもこのように茂るわけですな。

貴方は見られましたか?」

いいやと僕は首を振った。なんだか声が出ないみたいだった。そうえば自然というものをあまり見ていない。

「ここではロブレ(roble)という男性名詞で呼ばれています。

しかしそれとは関わりなく、一三八億年前から宇宙はずっと正確に、莫大な暗闇を維持して来ました。」

それはあまりにも唐突な話だった。

「貴方様の今までの人生と同じです。

舵は唐突に切られたでしょう?

そして今貴方が沈んでいる反面、別のどこかで貴方は浮いているのです。」

「君はカフェにいた男のことを知っている?」

「ええ。

ですが貴方が本当に知りたいのはあの扉のことではありますまいか?」

「そう、その扉のことです。」

彼は首を横に振った。

「あれは見ての通りです。

非常に頑丈な扉で、いつの世もたまにああして顕れます。

そして中については分からない。

だからどこに繋がっているのかという貴方のご期待には答えられません。

私はそのような聡明さは有していないのです。

誠に申し訳ありませんが。」

「扉があったのはカフェだけじゃない。」

「もちろん、世界に扉はいくらでも溢れています。」

「でも普通じゃない扉はそんなたくさんあるわけじゃない。」

「ええ、そうですとも。

私や貴方が今までこの二対の目で見てきたように、それはそうでしょうとも。

ですがどんな扉であれ開くかどうか選択するのは貴方ご自身です。」

「僕の家の地下の扉と関係があるんでしょうか?」

「ああ、それはあのオークで出来たワイン樽の並んでいたドライセラーですね。

あれも随分と豊満な樫の香りでした。」

この男は嘘を付いてはいない。でも本当のことを全て開示しているわけでもない。道化師として生きてきたこの男は何か普通ではないものを持っているはずだ。でもそれをこの男は明かそうとしない。ずっと正しく一般的で無力な男を演じている。その推測というよりも所感が、ピタリと彼との話し合いから一致した。でも僕はそれには気付かないようにした。今ここで彼と揉めるつもりも、彼の正体を暴くつもりもなかった。そして僕が不信感を抱いていると気付かせないように僕も正しくおどけている。

「特殊な扉を開くには、特殊な資格のようなものが必要となります。」

「僕の知らないことは貴方にも分からない。」

「残念ながら。」

「でも貴方はわざわざ僕のところまでやってきた。」

「ご明察だ。

私は注意しに来ただけなのです。」

「注意?」

「お伝えと言ってもいいです。

貴方は今深みにいます。

そして貴方はもっと深みまで行こうとしておられる。

膝の位置までならズボンが少し濡れるくらいでしょう。

胸元まで行っても心臓が冷えるくらいです。

それは致命傷ではない。

でも貴方は今ご自分がどこにいて、果たしてどのくらいまで沈んでいるのか、正しく理解しておられますか?」

彼は一区切りして、僕が何か言わないかをじっと待った。でも僕には何も言えなかった。

「つまりはまあ、そういうことです。

頭がすっぽり沈んでから物事を考えるというのは、あまりお勧め致しかねますな。

そして一歩先の深さなんて当然私にも分かりませんし、貴方にもお分かりになられないでしょう。」

僕は頷いた。

「私は明かりで、明るく旅する。

私から言えることは一つだけです。

辺りをよく確認してみて下さい。

目立つ看板よりも大切なことがそこにはあるかもしれません。

見知らぬ名前も知らないようなどこでもない街で死ねば、貴方はどこにも行けなくなってしまいますよ。」

「貴方はいったいなんなんですか?」

「私は深いところにいるが、私は私であり、私でしかない。

そして私は名前の通り、ただ愚かさに留まり続ける存在です。

そして私は貴方の知るところまでしか言及出来ません。」

そして唐突に眠気は終わりを告げた。僕は自分の意識が上がっていくのが分かった。


 知らない街の、知らない駅に僕はいた。ゆっくりと目覚めるというよりははっと目覚めた。そして僕は急いで背筋を正し、自分の服のポケットのあらゆるところに手を入れた。それから僕はほっと一息付いた。どうやら奇跡的に、何も盗まれてはいないみたいだ。ショックから開放され落ち着くと、異様に眠った感覚があることに気付いた。そして頭は霧が晴れたようにスッキリとしていた。丁度レム睡眠に切り替わったところでタイミング良く起きたみたいに。それは隣にいた誰かに痛みなく叩かれたような目覚めだった。悪意なき揺すり、そして夢の時間は現実の時間と一切関係がなかった。問題なのは眠りへの深さだ。そして腕時計に目をやる。まだ目的地まで着いていない。それから軽い違和感を覚えた。軽くても見逃せない違和感だ。それが何かを知るために、僕はじっと待っていた。その間に少しずつ時間が経っていくという当然の感覚もあった。乗車中の電車は間違いなく次のどこかの駅に近づいていた。どこかで落ちる水滴の音を聞き、どこかで鳴っていた音楽の終わりを認めた。薄くラベンダーの匂いもした。理解が追いついたのはその時だった。僕は右腕をもう一度自分の顔に持っていった。自分の感じている違和感の種類は本来あるべき正常性に対しての違和感だった。何が当たり前に異常ではなかったのかはその時計を見れば分かった。時計が動いている。そして時間は夢の中とは違い手元に見ることのできる確かなものとして存在していた。でもいつから動き始めていたんだろう?昨日僕は時計を見ていなかった。そしてそれはただの今までの延長上にある続きの時間ではないということが、その時計を見てはっきりと分かった。同じ延長にあっても何かが切り替わっていた。まるで時空が歪んだように。腕時計が治ったというよりも、この世界ではこの腕時計は動くのだ。今まで僕がいたのは腕時計の針が進まない世界だったのだ。そう思うほうがその時の僕には自然なことだった。時間というのは今では黒の文字盤に黄金の針で進められ刻まれていくものだった。そしてその時計は僕が手にするもっとずっと前から動いていたのだ。そこには流れがあった。僕はその時計をしばらく眺めていた。そして左に座っている乗客が僕の方によろけ、肩に顔を預けるまでそうしていた。

「私から言えることは一つだけです。

辺りをよく確認してみて下さい。

目立つ看板よりも大切なことがそこにはあるかもしれません。

見知らぬ名前も知らないどこでもない街で死ねば、貴方はどこにも行けなくなってしまいます。」

僕はまだその夢の道化師の言葉を覚えていた。この世界で僕は辺りをよく確認するべきなのだ。それは乗り換えの駅で次の電車の時刻を確認することより明白なことだった。そして駅を降りるために僕は隣の乗客を、さっきの自分の覚醒のようにハッキリと、でも痛くないようノックした。その時夢で嗅いだラベンダーの香りは彼女の髪を発端としていたのだと思った。その女性もまた僕のようにこんこんと眠っていた。でもいくら外国人と言えどもここで眠るのは危なそうだ。少なくともここはそういう街なのだ。女はまだ眠そうにしていたが、ノックには気付いたようだった。女は一度姿勢を曲げ、熟睡していた人間が起きた時によくやるように顔を少し歪めているような気配が伝わってきた。そして僕に掛かっていた彼女の重みはあるべき場所に戻っていった。駅を降りようと席を立ち、周りの景色を見渡した。そこにはもう観光客から演奏でチップをせびろうとしている大道芸人もいなかった。僕のような旅行者はそんなにいないようで、皆スペイン人らしかった。手始めに自分の属している世界を念入りに見つめようと思う。僕はちゃんと鍵のかかったバックパックを抱えている。電車が止まったところでさっき隣に座っていた女性にも目をやった。彼女はその時やっと姿勢を正し、顔をあげるところだった。その女性はミアだった。僕は足を動かし、降りるべき駅で降りることが出来なかった。数秒が経ち、ドアは締り、また電車は動き出した。間違いない。彼女だ。どうして彼女がここにいるんだ?時間が一瞬動きを止めたみたいな気分だった。どうしてこの時この場所にいるのだ?いくら考えたってそこまでの経緯みたいなものを解するのは不可能だった。僕はさっき時計の針が動き出したことを考えた。辺りをよく確認してみて下さい。と道化師は言った。そこにあるのはこの時計がしっかりと針を刻み、彼女が目の前にいる世界だ。そう思うほうがどんな経過や理屈を聞くよりもやはり自然で、納得ができた。でも彼女からしたって、いきなりスーツを着た僕とこんなところで会うのに理解出来ないだろう。この世界で僕はスーツを着ている。でも気付くのが遅かった。今では彼女は名前も知らないスペインの駅で降り、僕は彼女不在のイギリスへ向かっている。そして今から彼女と再び会うことの困難さだけが、理性的ではない頭の中で、不可能だと訴え続けていた。


 電車は午後二時半前にエルプラット空港に到着する。


 搭乗手続きをギリギリで済ませると僕らは搭乗口へと行った。だが飛行機は遅れているらしかった。飛行機が早めに行かなくて良かったと言うべきだろう。僕はどこに行くのか本当には分かっていない。でもそれとは別に目の前の確かな世界で、僕はスペインの空港の硬い椅子に座り、出国を試みている。それは日本の出国と似ているが、明らかなズレだってもちろんちゃんとある。本日午後3時55分のフライトの席に僕の名前はしっかりと載っている。そして僕はもう万能ナイフを持っていない。それは紫乃華の着ていたスウィングトップの中に入っている。最初に彼女が頭を過り、次にサクラダファミリアの警備員が思い出される。もうリトルナイフについて英語で尋ねられることもない。だからそれは悲しむことじゃないのかもしれない。むしろそれを持っていたら、僕はこの国を出られなかったかもしれない。でも飛行機は本当に出るだろうか?黒いバックパックはもうない。僕はリトルナイフ以上に様々なものを必要としていなかったのかもしれない。結局今目の前にあるケースにだけ本当に必要なものは入っている。この移動が何を意味するんだろう。エイ、お前は長い時間を掛けて、少しずつ自身の影を薄めていったのさ。


 予定していたフライトは午後五時になってやっと到着する。それまで僕は今日泊まるホテルを予約してユーロを全てポンドに両替し店を見て回る。でも何も買わない。恐らく日が暮れてからの到着になるだろう。幸い北英高校の到着は明日の昼。それまではゆっくり出来る。後は僕が飛ぶかどうかだ。もちろん原理的には、僕はこれに乗らないという可能性や選択が出来るはずだ。でもそれには、何の意味もないことに思える。だから僕は下らないホットコーヒー片手に飛行機に乗り、心地良いとは言えない座席に腰を下ろしている。でもそんな味の薄いコーヒーだって、ちゃんと体を温めることは出来る。機内は特に面白いものはない。四千円程度で買ったフライトチケットなのだから当然だ。もちろんそれはヒースロー空港に発着したりはしない。離陸が終わり、景色が一定になると睡眠を取る。どうかまた下らない、救いのない夢を見ませんように。飛行機はいくらか揺れたし、世界も半分ほど揺らいでいた。なにより僕という存在がぶれている。全く定まっていない。眠りが堅牢な門番のごとくやって来る。そこではまだ前夜の延長線上にいる。そう、それはもうこれ以上進まない世界なのだ。そしてそんな場所でまだ火祭りは続いている。きっと目を凝らせば赤いラベルの缶ビールを持ち、葉巻を巻いている学生だって見えるだろう。夜は変わらず動き続けている。民衆の祝祭という形の火を前にした嬉々とした表情、関係者は一体一体一番になれなかった蝋人形達を燃やして歩いている。どう考えてもすごい祭りだ。道端では爆竹の音が聴こえる。それがまず僕を迎えいれ起こしたのだ。そして僕は焼かれている。勘違いなんだと僕は言う。それは僕の形をした蝋人形なんだと。でも人々は日本語が分からないのだろう。そして炎は薄いコーヒーよりも強く体を温める。いや、温めるなんて言葉は生易しい。

「このように持つと後ろ足が綺麗にうさぎのようでしょう」そう誰かが言う。

僕という蝋は火中、大きい黒煙を身に纏っている。誰かが長い夜に火を灯したのだ。そして紫乃華は僕をじっと見ている。彼女は僕が僕だということにもちろん気付いている。

「私が火を着けてあげたの。

嬉しいでしょ?

こんなこと滅多にないんだから。

光栄に思いなさい。

貴方はカジノの賭けには負けたけど、もうひとつの賭けはなんとか悪くない線まで来てるのよ。」

「どうして僕が喜んでると?」

「だって貴方。

よだれ、垂らしてるもの」と言って彼女は言う。そして確かに僕は涎を垂らしている。あのことが思い出される。 それは焼かれる痛みと同じくらい確かな触覚としてある。その火は僕の顔の左半分を綺麗に包み込んでいく。


 そこで目が覚める。僕は口元を触れてみる。でも何てこともない。ただ肩で息をしているだけだ。


 十八時半に無事ロンドン・スタンステッド空港に着陸すると僕は入国手続きを書く。

「スペインはどこに行ったの?」

バルセロナとバレンシア。

「いいねえ、楽しかった?」

もちろん。

「いいね、今日はここに泊まるんだね。」

Yup.

「明日は何処に泊まる予定?」

ロンドンだと言うと彼はにっこりした。それは如何にも懸命かつ妥当な選択だと謂わんばかりに。

「イギリスに来た目的は?」

School trip.

彼は僕の書類を見た。おそらく年齢を見たのだろう。僕は片手に軽音部の活動用に買った機材ケースを持っている。それは使い慣れている割には新しく、コンパクトで頑丈で鍵が掛かっていて、何より優秀そうなサラリーマンに見えなくもなかったからだ。いくつかの短い単語の組み合わせはそれらしく聞こえるように感じないこともなかった。それで入国審査は終わった。審査員から足元が見えなかったお陰か、話に説得力はなくても、服装に説得力はあっただろう。普通の高校生は高価なスーツを持っていないはずだ。ヨーロッパ圏の方のゲートに知り合いがいないか淡い期待で目をやったが、それは何も意味をなさなかった。所持している日本円の1/3をポンドに両替すると僕は空港を出た。外はもう真っ暗で、ひんやりとした風が吹いていた。この国では一足早く冬が来ようとしている。近くにあるホテルのシャトルバスに乗る。道中はロンドンにも関わらず田舎の景色で僕は驚いた。ハロウィンパーティーはこういうところなら雰囲気も出るに違いない。暗闇と道路、畑。そういうのも雰囲気があって良かったが寂しさを感じないといったら嘘になるだろう。僕はどうしようもない孤独を相手にしなくてはならない。そして僕はリナが、単身来日する際にきっとそういう感情を抱いたのだろうと思った。彼女からすれば僕の想像し得る範囲の事柄は既に経験済みなのだ。


 安価で過ごし易そうなチェーンのホテルには、十分もしないで着く。シンプルで小洒落ている。スタッフの対応は丁寧だ。あるいは僕が身なりを整えすぎていたからかもしれない。でもそうではないだろう。ここは空港前のホテルで、僕のような人間が来るのは想定済みなのだ。彼らはそのために、最初にイギリスで泊まる人の不安を和らげるのを目的としているのだ。イギリス人と話すのは、あまり日本で話す時と変わりないように感じる。理解出来ないことや予測出来ない会話をする奴もいるし、そもそも相手の会話が聞こえない時だってある。何か周りが騒がしかったり、自分が注意散漫になっていたり、相手の声が小さかったり、自分の耳が良くなかったりと理由は様々だが、どちらにせよ会話は文脈を予測して無難な返答をするしかないという点では同じだ。部屋に入り真っ先にしたことはスペインのガイドブックを捨てることだった。出来るだけ不必要なものを持たずに身軽でいたかった。部屋はダブルベッドしかなかったが好都合だった。長く暗い廊下には誰もいなかった。どことなく沈黙が降りたその空間はホラー映画に出てきそうな感じだった。 実際にどこかで不気味な音が不定期に聞こえた。こんなに綺麗なホテルなのに誰もいないみたいだった。少なくともエレベーター以外で誰とも出くわしていない。荷物を置くとコンビニで夕食を買った。それから風呂を済ませると、テレビを無意味に眺めた後、眠った。外気は寒いがちょうど良くも感じた。誰もいない閑散とした廊下を歩き部屋に戻ると僕らはピザのような食べ物とサンドイッチを片手にアメリカのドラマを観ながら夜を過ごした。外では僕の知らない鳥の鳴き声が聞こえた。

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