第46話 機関

 しばらく音がなくなったかと思うくらいの時間があった。ここはどこだろう?そして僕らは部屋に入った。彼女は僕をソファに誘導した。いいや、それはベッドだった。

「まだ外しちゃだめよ。」

「ねえ、いったい何が」

「目が見えない効用は何か分かる?」

僕は何も言えなかった。僕の上に彼女が乗っかったのが分かった。 確かにその通りだ。 次に彼女の体の感触があった。でも彼女がどんな表情をしてそうしているのかさえ分からなかった。

「ねえ、チャンスをあげる。」

僕は黙っていた。彼女は能力が高く、ルックスも優れていた。感心させられることは多々あっても、苛立ちや落胆させられることはなかった。そんな彼女を月に例えてもいいだろうし、種々の花々に例えてもいいはずだ。でも僕は黙っていた。

「どうしたの?」

「貴方の尺度。

ここまではセーフで……、ここからはアウト。」

「問題なのは」

「僕の中に存在しているその公平性というやつが、他人からは随分と奇異に見えるってことだね。」

「それはおどけてるとか、悪ふざけに映ったりしないかしら?」

「まあね。

でもそれは僕が経験的に身に着けた唯一の資産だ。

それしか持ち合わせていなくてね。」

「でも周りを見てみると誰もそんな独自のネットの下でゲームをしてないみたいだけど。

少なくても彼らのコートは大きすぎたり、小さすぎたりするし、そのラインはひどくぐちゃぐちゃと引かれていて、曖昧じゃないかしら。」

「中にはネットを張らないで生きてるんじゃないかと思わされる人もいるしね。」

まあそういうのも愉快なのかもしれないよね。それは大きな単一の窓しかない家みたいに不自然だ。

「公平性なんてものがあると思ってる貴方の手の中のボールはいつ上に上がるのかしら?」

僕は何も言わない。

「その手触りはもう充分過ぎるくらい確かめたと思うけど。

そうえばこれ、とても可愛いニットね。」

「どうも。」

でもそんな抗議は当然とばかりに無視された。

「特にこの袖口」そう言いながら彼女は僕のニットを捲くっていった。

「こうするとオートクチュールみたい。とっても可愛い。」

そしてむき出しになった前腕を彼女の人差し指の腹が撫でていった。

「思ったより細いのね。」

紫乃華の髪からシャンプーの匂いがする。心拍数が上がるのが分かる。そして彼女もきっとそのことに気付いている。随分な距離間だ。そして手のひらを何も言わずに触り、優しく握られる。それでもものたりないのか彼女のもう片方の手がそっと、滑らかに耳をなぞり始める。彼女の髪が首元にぴたりとくっつくのが分かった。そして肩に手が置かれる。

「こうされたかった?」

次に耳をなめられる。それは優しくねっとりと僕の皮膚を舐め回す。彼女は、そしてキスする。

「ケイビングってしってる?」

知らない。

「洞窟探検のことよ。

素敵な洞窟を知ってる?」

素敵な洞窟?

「そういうところがあるの。

島の端に位置する隠れた名所で、洞窟内の水は澄んでいて、その時の天候によっては神秘的な風景が見られる。

道路と洞窟の間に高い丘があるからアクセスは容易とは言えないかもしれないけど、その分そこは誰にも知られてはいない。

それに多くの一般的な人々はそんなところまで足を運ばない。」

洞窟探検。それから僕はケイビングをしていく。どんどん自分が分裂していくのが分かる。そしておかしなことに、世界のほうだって僕に合わせて分裂していく。それは相互的分裂なのだ。でもそれが関係していても、どちらが先かまでは分からない。でも「ミアのいる世界」があり、「ミアのいない世界」がある。でも、と僕は思う。どうして彼女がいるかどうかに左右されているんだ?どうして彼女の存在で左と右を分けているんだ?俺の価値基準や判断基準はいったいどうしてしまったんだ?一年前までは彼女のことすら知らなかったのに。よせ、どうして紫乃華がいるのに彼女のことを考えなくちゃならないんだ?だが今目の前にいるのは本当に紫乃華なのだろうか。

「こういう悪戯にはなれてないんだ。」

そして僕の後ろに回り込むと彼女はジーンズの太ももをなでる。

「ぴったりしたジーンズ。」

独り言みたいだ。そして彼女の胸の感触をニット越しに感じる。わざとだろう。そして唐突に彼女はもう何も服を着てないことに気付く。彼女の上着もニットも、ヒートテックも下着のブラも、彼女は今何も着けていない。そしてまた手が耳元に触れる。そして耳の直ぐ側で優しく声音がする。でも紫乃華が右耳を刺激しているのにも関わらず、リナが右耳から話しているのが聞こえる。そして僕は彼女にこの近くに湖があると話す。

「ほんと?」

「ねえ、これ?ここなの?」

「lakeの語源は、水たまりだ。」

それからくぼみ、池、湖、・・・貯水池ってね。目の前にあるのは貯水池だ。僕だって、本当は高校からそこそこ歩いたところに、知る人ぞ知る大きな湖があればなって思う。秋になると周りの木々が紅葉で赤く色づき、人々がその下のベンチで心穏やかに過ごすんだ。でもここではこれが精いっぱいだ。クライ・イン・ザ・レイク。

「貴方は、社会的な人物だと思う。

ただ誰とでも接するというわけではないわよね。

どころかかなり限定されている。どうしてなのかしら?」

どうしてなんだろう?

「私は初心な男の子が大好きなの。」

「初心でシャイな男の子、自己顕示欲ばかりの成人男性の対極。

でも自分の男性本能には逆らえない、素直な年下の男性。

私がこの体にぴったりとした服を着て伸びをするだけで、本能で私を見るような、でも私が見返すと視線を逸らすような、そんなのがいいの。

ねえ、貴方にそういうのって分かるかな?」

どうだろう?納得出来ても理解は出来ない。

「でもそういう男の子は、向こうから声を掛けてはこないのよね。

まるで反対車線を走ってるみたいに。

だから目があうだけ。

そして私に出来ることもまた隙を作ることだけ。」

「それで、貴方が好きそうな外見と、雰囲気、人間関係をあつらえておく。」

僕も他の俗物同様だ。

「だって貴方のことを言ったのよ。」

「理想の相手。

そのためにも、礼儀正しい人が望ましい。」

「私は十八歳になった。」

彼女は耳を触った。胸に耳をつけて僕の心臓の音を確かめた。長い髪が優しく触れた。外で僕の知らない生き物が鳴き声を上げるのが聞こえた。

「貴方について話して。」

「こんな状態で?」

「目が開いてる時の貴方は、何も話してくれないでしょ。」

「何が知りたい?」

「嫌いなものは?」

「地下鉄の匂い、工事音と渋滞、小さい傘と解けやすい靴紐。」

「貴方は普段地下鉄に乗るの?」

「いや、この旅行中に思ったんだ。」

「他には?」

「冷めた浴場のお湯、現在地の書かれていない町案内の看板。」

「どうして?」

「なぜ現在地の書かれていない看板が嫌いか?」

「それは、僕が今どこにいるのかが分からなくなるからだよ。」

目隠し越しに右手を見ると、血が流れているのが分かった。その洞窟の、どこかの暗闇は今はなき廃校舎へと繋がっていた。ここに来るのは随分久しぶりみたいに思える。だってそこは現実にはもう存在しないのだから。そして、ここは僕だけのどこかなのだ。今はもうここにしか存在しない。そして僕は気付かないうちに、そういう行き場のない風景をいくつか持っていたみたいだ。どうして右手から血が流れてるんだ?

「それは」左耳から答が話される。

「貴方がここに入る時、ガラスの破片で切ったからでしょう。」

窓ガラスのことだ。テニスボール、壁打ち、不慮の事故と、弁済書。動脈はそれているが、血はどくどくと流れ続けている。なぜなら僕は生きているからだ。窓ガラスが割れたのはきっかけだったが、今では僕は賭けをしている。賭け?どうしてそう考えるんだ?でも右耳は答えを言わない。

「休日の雨の日に貴方はどうしてるの?」

一日中ベッドで考え事をしている、進歩がないんだ。

「どうして私のことずっと考えてるのに面と向かうと何も言ってくれないの?」

君は僕の目に兆しを与えてくれる。君がいなくなったら、きっと僕は深くて暗い海の中で、一人さ迷うことになる。君はこれからどうするの?

「プラド美術館にでも寄ろうかしら。」

僕は黙っていた。それがどの程度の信憑性があるのか分からなかったからだ。消えようと思えば人はいつだって目の前から姿を消せる。そんなのは造作もない。マジックよりも遥かに容易だ。どこかで発砲シーンが流れる。モノクロの世界だ。夏に観たか、一人で秋の夜長に観たかが思い出せない。そもそもこれは何の映画だ?観客が阿鼻叫喚の騒ぎを呈している。僕の右手からはまだ血が流れている。僕が撃たれたのだろうか?

「そう、ある意味では貴方が撃たれたのよ。

そのモノクロの世界で。」

三十九夜。映画の名前だ。ザ・サーティナイン・ステップス。僕は三十九段の階段を昇っている。そしてそれは数日前の塔でもある。

「貴方も来る?」

「明日のフライトに間に合うの?」

「その代わりに修学旅行以上に良い思い出を与えてあげる。」

「自信あるんだ。」

「もちろん。

一度考えてみて。

貴方にはどうすることだって出来る。」

僕にはどうすることだって出来る。

「十字路では、曲がれるうちに曲がっておきなさい。」

それが君の座右の銘?

「貴方もそういう素敵なフレーズは持ってないの?」

困難を喜べ、難題に嗤え。それを聞くと彼女は笑う。

「それは贈り物に相応しくないんじゃないかしら。

どちらかと言うと、貴方に必要な言葉ね。」

そう誰かの声が聞こえる。誰の声だ?分からない。それは左耳からでも右耳からでもない、どこかで話されている。しかし明瞭なボイスだ。黒い小さなフェドーラを被った、ショートボブの髪形をしていた。前髪は作らず、白いスーツパンツに薄い青のシャツを着ている。黒い革靴が心地よく響く。細部まで上品で洗練されているが、タイやジャケットもないところから堅い印象は受けない。ただそれはフォーマルじゃないというだけで、気が緩むという訳でもないのがポイントだ。そして美しいクラシックカーに乗っている。その雰囲気は現代ではもう息絶えているとさえ言える。そして彼女は僕のほうを向くと、挨拶もせずにこう話し始める。

「肉体的苦痛を超えられない者に、精神的苦痛を超えることは出来ない。」

「貴方は今、島の手前にいる。

どうかな、貴方は向こうのアイランドに行くのかな。」

「定数改善剤は?」

定数改善剤?

「道端でたまに見かけることがあるでしょ。

薬を飲むみたいに効果があるから、人はそれを定数改善剤と呼ぶの。」

でも薬ではない。

「もちろん。

定数改善剤には服用期間がしっかりと定められている、ただそれは世界に一定の改善をもたらす何かなの。

constant improver.

敏感で内省的な魂。

自分自身の空間と自由を持つことを楽しむ深い個人。

内向性と乱流。」

理解の内、理解の外、そこにいないのはだあれ?

でもそこで僕は一連の流れを見失ってしまう。乱気流と嵐が僕を跡形もなく遠くに追いやってしまう。I lost my train of thought. 船はどこにも進まない。個人的な航海と、個人的な後悔。流れに逆らう船。黒いレスポール・ギターにはグリーンアップルの色のピンストライプが書いてある。それと同じ模様がクラシック・ホットロッドに書いてある。そしてその助手席にはウェイアップ・ファーム&ハイなピンナップガールが座っている。その風景は僕の心のあるキャビネットにピンで留められたままになっている。様々で無意味な、どこにもたどり着かないイメージ。精神的な独房、そこを出るための意志と言う鍵。

「If we shadows have offended

我ら役者は影法師、

think but this, and all is mended

皆様方のお目がもし、

That you have but slumber´d here

お気に召さずばただ夢を

While these visions did appear.

見たと思ったお許しを。」

それは驚くほど生々しい夢だった。右耳はパックリと深く切れていた。下部は血で膨らみ重くなり、今にも落ちてしまいそうだった。床は真っ赤になっていて、血を止めるために僕は自分の右下の耳たぶを持ちあげなければならなかった。その本当に滑稽な姿にも関わらず血は溢れ止まなかった。そして床の血をティッシュで拭き続けた。現実でさは流したことのないほどの、リアルで赤い出血、貧血と体温の低下、身の震え、しっかりとした痛み。夢の中で女性は鶏の首を切ったみたいな出血と言った。鶏の首を切るとこんなに血が出るのかは分からなかった。でも起きてからも右耳には痛みが残っていた。その痛みは僕を出し抜くように、するすると違和感に変わっていった。そんな感触や感覚は起きてから十分経っても消えなかった。それはとてもそうとは思えないほど濃くて激しい三時間だった。


 眼が覚めてから、紫乃華から聞いた自画像の話のせいだと強く思う。彼女はあらゆる手段によって、僕の中にある何かのかなてこを反対方向に向けて押し倒したのだ。


 そこにはもう誰もいない。それは視覚を失ったせいで研ぎ澄まされた他の感覚で分かった。僕は上に被せられたものとアイマスクを外す。それは買い物した際に付いてきた紙袋だったらしい。その紙袋は人の肌みたいに茶色く、しわが深く刻み込まれていた。袋は大きめで、目の位置にも二つ丸い大きめの穴があり、口もとに二本の横線が引かれているが、そこに穴は空けられていない。目元…、眉間の位置には「を九十度回転させた文字と、Tが口元と同様太く黒い油性ペンで直線的に引かれていた。きっとそれが眉と鼻なんだろう。でもそこにもやはり穴はない。穴は二つの目に大きく用意されている。ペーパーバック・マスクマン。仮面を着ければ仮面の人になる。それが仮面の意味だ。自己を失うこと、欺くこと、隠すこと。首元で半分に折り返された茶色い紙袋。テーブルの上には午後にバルセロナで購入した物と、明日のフライトチケットが入った封筒が置いてある。そしてそこには二枚入っている。彼女は何を考えていたのだろう?気を取り直し辺りを見渡す。部屋はかなり広い。時計は三時過ぎを指している。僕は服を着ると念の為周りを歩く。部屋は四つに分かれている。ここはホテルらしい。でもどこにも誰もいない。


 ホテルを出るとEタイプは消えている。その美しい車に心の中で別れを告げ、僕は知るはずもない道を歩く。数多くある色々な大きさ、種類の路地裏を通り抜ける。そして何かが頭の中に引っかかり、離れなくなる。でも分かりはしない。しばらくするとそれなりに賑わった広場に出る。そこから荘厳なゴシック建築の大きな教会を目にすることが出来る。まともに歩くことの出来ない老婆が足を引きずりながら観光客に慈悲を求めている。それを見ていると不思議と自分の中に静かな感情の渦が出来ていくのを感じた。そう、僕はそこで何かに対して怒っていた。でも何に?そこまでは分からない。そして彼女の姿はどことなく絵画「ラス・メニーナス」の道化師に似ている。彼女はたぶん、その愚かさを自覚しているだろう。一瞬真剣にその女に硬貨を渡すかを考えた。それはあの地下鉄にいたオルガン奏者にも思わなかったことだった。でも彼らのどこに硬貨一枚分の差があるのだろう?分からない。僕はそこで様々な感覚が落ち着くまでじっとしていた。時間に切り離されたような、或いは時間と混ざり合っていくような感じがした。今日は何処か近場のホテルに泊まる必要があるだろう、そうぼんやりと冴えない頭で思った。そしてそのぼんやりとした渦に呑まれている時に、僕は先程の心の取っ掛かりを思い出した。そうだ。あの路地裏は父の書斎に掛けてあった写真とそっくりだ。明るい青空と路地裏の影のよく効いているコントラスト。死者は、どこまでそのことを把握しているだろう。全ての物事を知っているのかもしれない。そして僕はまた周りの風景を眺めた。どこをどう見たってこの時間のここでしか見ることの出来ない景色だ。灰色の町の、灰色の広場。


 僕は立ち上がって振り返った。そこにもう老婆はいなかった。ホテルのフロントまで行き、僕のさっきいた部屋について確認を取る。どうやら今日までの代金が前払いされているらしかった。僕はひとつ理解する。僕は僕自身に対して怒りを燃やしている。


 そして爆発音がする。僕が今目を開いて足が立っているところここの目の前で。気付くと日は沈んでいる。僕は曖昧に目の前のヨーロッパ的建築物を見ていただけだった。そして爆発音というのはいささか乱暴すぎるアラームだった。誰かが寝起きの僕の頭をどやすみたいに、その音は鳴り続いた。誰かが僕の耳元で目を覚ませと叫んでいるみたいだった。いったい何が起きてる?でも周囲の表情は段々と微笑みとなっていった。いったいなんだというんだ? このどこだか知らない街の人間はどこかずれているのか?そして辺りはところどころ火で燃えていた。燃えている。そう思った。でも辺りは馬鹿みたいに賑わっていた。無礼講といった感じだ。でも本当にそれは奇異な出来事として僕の目に映った。火を前にしては暖かさ以上の熱を肌で感じたし、そこには恐怖があった。しかしそこには祝祭性も含まれている。いったいいつの間に辺りは火で包まれていたんだ?町は喧騒と爆竹に満たされている。他にもあちこちで何かが燃えていた。 そこで燃えていたのは家ではなかった。それは大きな蝋人形のようなものだった。 見ると売店が多く並び、ホットチョコレートとチュロスが売られていた。何だか文化祭みたいな光景だ。そう、まるで世界の誰かが文化祭のやり直しを図ったみたいなのだ。それだけではない。僕らはその後海辺に行って流木を集め、実際にこの手で火を焚いた。あのリナのいなくなった日が違う形で再演されているのだ。それは疑う余地のない直感的事実だった。


 僕はその一ヶ月前のことを思い出そうとした。砂丘のせいで浜辺側は壁が出来て死角になっていた。海は黒々として今にも何かを飲み込みそうだった。その火は遠くからでも綺麗に見えた。下の砂もかなり熱くなっていて、僕はそれで左手の指に軽い火傷を負った。力強い炎のせいで写真は何枚かフィルムカメラで撮ったみたいに赤い光彩が入った。そして火は良くも悪くも原始的で、強固な思いを有していた。そして全ては繋がっているんじゃないだろうかという気がした。あの時の炎が大きくなってこのような景色を作り上げたのだという気が。でもどうしてこんな辺境でそのような繋がりを感じるのだろう?それは紫乃華の計画なのだろうか?いいや、彼女はチュロスのことなら知っているかもしれない。でも焚き火のことは知らないはずだ。僕が勝手に何かと繋がっているのだ。今に知り合いが向こうの街角からサプライズと言って出てこないだろうかと僕は思った。だがいつまでたっても街角から見知った顔は顕れなかった。当然だ。僕はここでは異邦の人なのだから。そのチュロスを買い、チョコに浸して食べる。出来たてで暖かく、素材の味がする。文化祭でやる気のない一年生の出店で買ったチュロスよりははるかにましな品物だ。いいや、あれは俺が1年の頃の話だったかもしれない。その下級生は、一年前の俺だったかもしれない。俺はあの時果たして本当には何をしていたんだ?でもその一年の出し物が重なったお陰で、その頃には僕もこれが何かの祝祭だということを理解し始めていた。これからどうなるのだろう?街が燃えるのだろうか?まさか。僕はマップを出してここがどこか調べた。GPSはバレンシアを指していた。携帯が正しければ、僕は今そこにいるということだ。随分と遠くまで来たものだ。 多くの爆竹が消耗されている。 そして辺り一面の人形が燃えている。立派な造りのそれらは今日が命日らしく一つ残らず燃え尽きそうだ。随分と豪勢なものだ。きっと売り物にしたら良い値段になるだろう。そんな燃えかすにするくらいなら僕の家にも一つくれればいいのに。 僕はしばらくその野蛮とも言える炎を見ていた。 そしてその野蛮な炎から見えるのは、ふつふつとした僕の苛立ちだった。火は僕の想いを反射している鏡のような存在に過ぎない。バレンシアは燃えている。僕は幼い頃を思い出す、今もそうだが、より僕は何も出来ず、無力でいる。まるで誰かが与えた機会を棒に振っているみたいな気分だ。でも僕は昔と違って今目の前が見えている。バレンシアは燃えている。心の中には穴が空いている。今では穴の大きさや形までしっかりと捉えることが出来る。それは気付いた時にはそこにある。それは致命的なブラックホールで、深い穴だ。女性の形をした蝋人形の服と顔がまず溶けていった。最初は化粧を落とすように、そして次にチークそのものが溶けていった。段々とそれは顔として必要なパーツも流していった。そして右腕が落ちた。両足は今では炎となっている。一昔前の拷問や火炙りのようだ。そんな姿は両親の死体についての当時の想像と驚くほどよく似ている。そして僕はこの前の焚き火で流木を集めている時に鳥の死骸が落ちていたのを思い出す。それは白い羽毛で囲われていた。そして下には白い骨があった。羽毛はふさふさとしていたが、それは見事な死だった。綺麗な死とも言えるだろう。僕は黙ってそこに携帯のライトをあて、手元の流木で逆さにした。骨は規則的な造りをしていた。当然だが一本の白い棒なんかではない。二本の中程度の骨の間にごつごつとした四角と丸の中間のような形の骨がひとつひとつ入っている。上のほうには顔の骨格だって認めることが出来る。それは何かの顎のようだったが鳥らしく小さい形をしていた。この死骸はどれくらいここにあったんだろう?でもその時僕が抱いていたのは両親のようなことではなかった。ただそれは死んで白骨化し、皆に忘れ去られ、何度も陽と月の光を浴びて胴体と羽だけになり、時間が経過した元生物だった。どこかの宗教が長い修行のもとで断食し、ミイラ化したみたいな出来映えだ。そこには厳しさや節制も伺えた。この鳥は何に食われたんだろう?鳥は鳥の死骸を食うのだろうか?これは何の鳥なんだろう?でもここらで僕の知っている鳥なんてそう多くはなかった。大きさからして鳶かカラスか、そこら辺だろう。僕はコンビニで貰ったビニール袋に二本の木の棒を用いて全部入れていった。顔骨と胴体の骨の部分が離れて再び浜辺に落ちた。まるで僕が殺したみたいな気分がした。骨は体温がないどころか冷え切っていた。骨は思ったよりもごつごつとして重かった。そして火の下に戻った。皆は辺りの流木を探しているみたいだった。でも莉乃だけが戻ってきていた。

「何それ?」

「鳥の死骸。」

「どうするの?」

「こうするんだよ。」

僕は二本の流木ごとそれを火の中に落とす。羽毛はあっという間に火が着き消えていった。まるでそれをずっと待っていたかのように、一瞬の出来事だった。

「そんなことして大丈夫なの。」

「少しの間煙には近寄らないほうがいいかもね。」

それ以上彼女は何も言わなかった。そして僕も皆が戻ってくるまで口を閉ざし、その弔いの煙を眺めていた。帰ってきた皆はそこに鳥の骨があるなんてことは気付かなかった。骨は案外脆かったようだ。そこでは死もまた繋がっている。


 次に曲がり角を出たところに高飛車な痩せた老人の蝋人形があった。ペール・フェイス、紫の眉毛、高く赤みがかった鼻、ピンクパープルの唇、真ん中が禿げ上がりシワの寄った頭、首から上の銅像でかなり大きい。辺りにはそれよりは断然小さいキューピッドや椅子に座った蝋人形、スーツの男などがいる。そしてペール・フェイスの老人は少し上のほうをキッと見つめている。右手にはリボルバー銃が、自身の頭に向けて握られている。彼は何を企んでいるんだ?次に祭りにいた群集の中で、一人の男性が僕の目に付く。彼は大学のパーカーを着て、アムステルダムビールを飲んでいる。でも僕が彼に注意がいったのは二つ理由がある。ひとつはその顔が特徴的だったからだ。いや、ただ特徴的と言っても分からないだろう。事実彼の顔は奇怪な類でもなんでもなかった。だが僕からすればその目は大きくぎょろりとしている風があった。見方によっては少しラリっているという感じがした。不思議な感じのする目だ。でも男は仲良さそうに同じ仲間たちと話していた。そして第二に彼が吸っていたタバコは手巻きのものだった。彼は中くらいの丸い容器から葉っぱを取り出し、一枚のあぶらとりのような紙をどこかから出して、それを何度か舐めて湿らせてから、真ん中に葉っぱを丁寧に、丁度一本分長方形にしてそれを巻き、最後にまた何度か薄紙を舐めた。そしてそこに火をつけ煙をはいた。やっぱり彼の顔はどこか狂いがあるように感じられた。でもそれは仲間たちとの会話になんら支障を来たしてはいないようだ。ただ僕が彼にだけおかしさを感じているだけだ。ここは今現実の世界と少し離れていることだけは確かだった。多くの群衆の中に一人、何かを見落とさないようにじっと周りを歩き目を凝らした。でも僕に見えた少しでも意味のありそうな景色は、その2つだけだった。アムステルダム・ビールの若い男の顔と、リボルバーを頭に向けた老人。そしてその大きな体を目にした。大きな時計塔が0時を差し、一番上等な蝋人形が同じ目にあうまで、僕はそこに立ち尽くし全てを見ていた。

 

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