第45話 車は市街地を走り続けた
彼女の暗示的な夢の話を聞いた後すぐに眠りについたからかもしれない。あるいは慣れない旅の疲れが僕の眠りを深いところまで落としたからかもしれない。その日は僕もまた夢を見ていた。夢というのは不思議なもので、自分が生み出したにも関わらずたまにとても僕には生み出せないような、感情を刺激するものを見させる。僕は都会じゃないうらぶれた郊外にいる。そこで僕の姿かたちをしているであろう一人称視点の誰かは、スタイルの良い美人に声を掛け約束を取り付ける。でもそれから何を思ったのか、彼はもう一人知り合いのスタイル抜群の美人に声を掛ける。またしてもここでも承諾が降りる。彼は自身の手にしたそのようなマジックタッチを試してみたかったのかもしれない。それとも後者の美人を前にした途端、現実を上手く見られなくなったのかもしれない。二人とも体にぴったりとくっついた質の良さそうなポロシャツを着ている。確かその時は夜だった。しかし問題が生じる。その約束の日時は僕の上がる舞台の時間と同じになっていたのだ。その時の僕は何の舞台があるかは分からないが、それは外せない用事だと識っている。僕はその二人を探しにさっきいた円形の芝の上にテーブルが幾つか並んでいるパーティー会場に引き返すが、彼女達はいない。そして場面が変わる。それは舞台当日になっている。そこでは現実の能力の高い誰かが三人くらい僕を遠目に見ながら陰口を叩いている。それは僕の脆弱さについての話で、彼らは笑い、僕のことを屑だと見做している。それで僕は情けなさで体が急に熱くなるのを感じる。そう、彼らの話していることは、全く的外れのことじゃないのだ。それで僕は自分の能天気さがひどく嫌になる。そして僕と彼ら、他の人々(全員男性で、黒のスーツに白いワイシャツを着ている)は集会の時よろしく長方形に集まる。隣の男も現実世界で強い力を持っていることを僕は識っている。彼は背が高く、ごつごつとした黒い上等な皮で出来、綺麗に磨かれた細身のブーツを履いている。そこにはブローグ等の装飾も程よく、しかしゴージャスに取り付けられている。それで彼は余計背が高く感じる。僕はシンプルな赤茶のローファーを履いている。そこに先生がやってきて、今日のダンスについて一通り話す。そこで僕は今から自分が踊るのだと分かる。そして先生がタクミ・タチバナであることを知る。でも驚きはない。彼は相変わらず怜悧な、良く切れそうなナイフみたいな顔をしている。だからその話は緊張感がある。そしてそういう彼はダンスに精通したプロのコーチ以外の何者にも見えない。彼はカメレオンのように、あまりにも自然にそのポジションに収まっている。そして彼は僕の後ろの中央からネクタイを皆にそれぞれ配っていく。それは全部黄色の無地のシルクネクタイで輝いている。それを貰いながら僕らは本番のフォーメーションに移動していく。僕もネクタイを貰う。それも無地で、艶がある。でもそれは黄色ではない。
それは本当に明るい艶のあるパープルのネクタイだ。その時、僕は先頭に一人で立っている。そうか、僕は今日の主役だから、昨夜彼女達との約束を優先してはならないと思ったのだと分かった。
「踊るんだ」そうタクミ・タチバナが言う。彼はいつのまにかそこでも司令塔のポジションにいる。でも僕はそれに驚かない。それはこの世界では当たり前のことなのだ。
「蝶のように優雅に、しかし確固とした鋭さを持ってステップを踏むんだ。
今から私達はこことは全く違う新たな舞台に上がっていく。
決してステップをやめるな。
そこで君達は違う君達になるんだ。」
そしてそこで夢は終わる。
目覚めてからしばらくの間頭が混乱していた。でもあの鮮やかなパープルの色合いはそこにずっと残っていた。
幾ら僕が日々を消化してこんな100回程度の腕立て伏せをしたって、一発の9mmパラベラム弾には適わない。いくら鍛えてもそれを通さない肉体なんて原理的に有り得ない。これは一つの物理的事実であり、重大なテーゼでもある。
でもここで一つ問題が生じることになる。それは武器の前では無力であり、文明化・技術革新した現代では無意味だからと言ってそれをしないか、ということだ。そこで僕は考えてみる。人はどれくらい信用出来るかについてを。僕は鏡の前に立っている。僕は君に問いかける──────。
君は僕に問いかける────。
「君は他人を、人を信用することが出来るか?」
その問いは鏡を屈折する光のように、僕の所に帰ってくる。
僕は紫乃華の肩を柔らかく揺する。
「起きなよ、朝だ。」
きっとスペインに来たからこんな夢を見たんだろう。今頃皆はイギリスの準備をしているはずだ。一人だけ違うことをして、違うところにいる。そういうことだ。元気の良い樫の木は見事に葉を茂らせ、どんな人間が通りかかっているのかを見届けてやろうと道路に向かって身を乗り出している。バラ色の頭の雀たちがひょいひょいと跳ねながら何かを、雀にしか価値を見出せない何をつついている。どちらかと言うとその夢に僕は好意を持てなかった。
朝食をとりながら僕らは話をする。
「ここにはプールがあるらしいわよ。」
「でも水着がない。」
「それが貸し出しているみたい。」
「今日はとびきり良い日になりそうだ。」
それから僕は頭を下げ、バルセロナ一豪華なホテルのプールへ行くことになった。
そこは屋上プールだった。気持ち良いと言うには日差しが強すぎたが、風が流れていた。プールサイドにはビーチ・チェアが並んでいる。そこで寝転んでいると誰かが飲み物を手に持って僕の元にやって来た。彼女はこのホテルで売られているアニバーサリーティーシャツを着ていたが、それは彼女には大きすぎた。きっとメンズのもので、日本ならXLみたいなサイズになるだろう。それを彼女はワンピースにしていた。そして僕のところに来て、黙って飲み物を置くと僕に日焼け止めを渡した。そして彼女は僕の目の前で準備運動をするかのように大きく前向きに屈み込んだ。でもそれは準備運動なんかじゃない。それは僕に対するあてつけの続きであり、安い挑発でもある。しっかりと腰を使ってかがむことで、彼女の水着がビキニタイプに近いものだということが分かった。そしてもし彼女が地元の海岸にいたのならば、確かにゆっくりと過ごすことは出来ないだろうと思った。彼女の屈み込む姿は一瞬だったが永遠にさえ思えた。そして細い腰、へその線まで彼女は見せていた。そんなものが海辺で歩いていたら男なら誰だって自分をコントロール出来ないだろう。皆その大いなる北半球に夢を見ることになる。そして大半かどうか分からないが、実際にその南半球まで全てを我が物にせんと、彼らは持ちうる能力を全て使うだろう。そして彼女は僕の目を見てから裾に置いていた片方の手ともう片方の手でゆっくりとその白いシャツを脱いでいった。そして惜しげもなく全てをさらけ出し、隣のビーチチェアに座ってから仰向けに寝転ぶことでそれが生きることなのだと僕に思わせた。どんな多くの死が転がっていようと、この光景を貶めることは出来ない。
「どうせ借り物ならいつも身に着けないようなものが良いじゃない?」
「その通りかもしれない。
とてもよく似合っている。」
「本当にそう思う?」
それはいささかサイズがぴったり過ぎたが、その心情に嘘はなかった。
「まだ誰もいなくて良いわね。
完全なプライベートじゃない。
私、本当は海とかプールに行くのが嫌いなの。」
「あんな近くに海があるのに?」
「あそこは特に観光客が多いじゃない?
人目が好きじゃないの。
だから私はここで貴方と二人で泳いだ方が楽しいだろうなって思ったわけ。」
「じゃあこれが最初で最後の僕が見られる君の水着姿っていうことになるね。」
「もしかしたらね。さあ、泳ぎましょう。」
三十分くらい僕らはそこで体を入念に動かした。それからまたビーチチェアに寝転んだ。
「貴方はどんな人がタイプなの?」
「自分にないものを持っている人、かな。」
「勿論貴方も嫉妬とかはするのよね?」
「ああ。
というか、人よりそういうネガティブな感情は強いと思う。
本当に隣の芝生がロイヤルブルーみたいに青々としている」そう言うと彼女は笑った。
「貴方は私にはないどんなものを持っているのかしら?」
「さあ。
たぶん、ほとんど何もないよ。」
「じゃあその逆は?
私にしかないものってなんだと思う?」
それについても僕は考えみてみた。でもぱっとしたものは思い浮かばなかった。
「君には謎がある。
そして少なくとも僕みたいな嫉妬心はないだろう」僕は彼女の水着姿を見ながらそう思う。そこにはある種の女性がどんなに望んでも手に払いないプロポーションがある。彼女は日焼け止めをポーチから取り出して僕に手渡した。かなりちゃんとした日焼け止めだ。よっぽど肌を焼きたくないのだろう。「真夏のヴィーナス」みたいなタイトルでルネサンス調の、こういう絵画がどこかにありそうな雰囲気だった。彼女の体の曲線美だけが売りのやつが。その作業をしていると彼女は口を開いた。
「そうえば」それは彼女のなんでもないように物事を見せようとする話の切り出し方の一つだということに僕はもう気付いていた。
「明日から貴方はイギリスに行く。」
「そういう予定だ。」
「スペイン旅行の最終日になるまで、貴方は私に一度も手を出そうとはしなかったわけね。」
「目的はリナ・アシュフィールドであって、君じゃない。
しかし彼女が本当にここにいるのかな?」
「というと?」
「何もかも、分からないことだらけだ。
手がかりもないに等しい。
僕には彼女の居場所に確信が持てないでいる。」
「もしそうだったとしても、試してみたくならない?
本当かどうか?」
その目はギャンブラーのそれだった。10か0か。
「だからここまでやってきた。
しかし、最終日だからといった安直な理由で君に手を出すとは限らない。」
「でもその割には貴方の手、さっきから遠慮気味よね。」
「君には釣り合わないよ。」
「でも私は貴方の体つき、好きよ。」
「励まされるよ。」
僕らはもう半時間程そこでゆっくりと羽を伸ばした。なんだか想像の付かない事態になっているなと僕は思った。全てが僕の手の中から離れたところにあるみたいだ。
そこから離れて僕らは私服に着替えた。紫乃華は生地が薄くぴったりとしたパープルのVネックのニットを着ていた。それはもちろん今朝の夢を思い出せた。下は黒のスキニージーンズに短めのブーツ。今までのパーティーライクで華やかな服装とは打って変わって、そこには実用性という新たな要素があった。ベルトだって相変わらずちゃんとしたものだったが、それはローラーコースターの米軍が採用していそうな代物だった。きっとよくアクション映画でお目に掛かる高層ビルとビルの間を空中で行き来するロープの役割だって果たせるはずだ。その無骨な実用着は華やかさを損なうどころか魅力を増していた。彼女は何かに備えている。そしてそういう服装とアンニュイな表情をした彼女を見て、僕は彼女のそういう面を再確認するはめになった。組織という緩やかに見えるが実は綿密に手の込んだ、計算高い釈迦の手の平の上で僕は転がされている。彼女の背伸びに合わせて(彼女は実によく背伸びをした。体が凝りやすいのか、ただ単純に伸びが好きなのかは分からなかったが)紫色の薄いニットは体の動きとその運動によって線を強調させていた。僕といえば、父の動かない腕時計にギンガムチェックのシャツ、下は黒革のベルトを通したブルージンズ、白いハイカットのバスケットシューズという出で立ちだ。
僕はフロントでバックパックを自宅に送るよう手続きをした。ホテルをチェックアウトすると紫乃華は目の前に駐車してあった車に乗った。それは銀色のクラシックスポーツカーだった。シルバーボディはしっかりと洗車し磨き上げられ、見事なまでに輝いていた。ボンネットが長く後ろへと丸まった二人乗りの車体は独特のボディラインが美しく人目を惹いた。ワインレッド色の座席の運転席。そして僕らはカタルーニャ広場から少し先のブティックを見に行った。
「これがスロットの景品?」
「三日間貸し切りですって。」
「すごいな。」
「この車は外見だけじゃなくて性能も良いのよ。」
それは運転している様子を傍から見ていても明らかだった。彼女は相当なスピードを出して運転を楽しんでいた。
「ロードスターじゃないスポーツクーペの方だけど、私はこっちのほうが好き。
1961年にジュネーブショーで煌びやかなデビューを飾ったシリーズ1。
当時最高速度が時速240kmというのは驚異的だった。
半世紀が経ってもこのようにしっかりと走る生きた名車。
直列六気筒の3,8リッター・エンジン。
オリジナルの2シーター。
世界で最も美しい車。」
「まるでデュポン社の出したナイロンの広告みたいだ。」
「何それ?」
「魅力的で、非の打ち所がないって意味さ。
真心と意思と愛情から作られ、蜘蛛の糸より細い足を持ち、髪は絹より美しく、眼差しは鋼鉄よりも強い。
充実した外聞と明かされない内実。
でもとても綺麗だ。」
やれやれ、そんな人間がこの現実の世界にちゃんといたわけだ。
「それってほめているのかしら?」
「もちろん。」
彼女は絵画だけは無く車にも詳しいのだ。そしてこの席からはそんな彼女の少し堅い微笑みが見えた。そんな物事の全てが嘘っぽくて怪しく思えた。
通りには様々な一流ブランドの旗艦店が並んでいた。大体のものを紫乃華に選んでもらうことになった。彼女は事実センスが良かった。最初にグレーのスラックスを買った。明るめの茶色のビジネスバッグもすぐに見つかった。
そこで僕は金に青いストライプタイとネクタイピン、ソックス、青のカフスシャツを購入した。次に僕らはその通りと少し先にあるファストファッションのお店に入った。辺りはエレクトロニカルな曲が響いていた。その曲はある程度の人気を博しここまで辿り着いたのだろう。曲調は今まで何度か耳にしたことがあるような感じだった。逆に言えばその種の耳障りの良い音楽はタイトルを持たずにこんな所で定期的に垂れ流されているのかもしれなかった。でもそれらはやっぱり同じ曲ではないだろう。
そうして明日の身支度が済んだ。
車に戻るとトランクに購入物を入れ、僕らは席に着いた。紫乃華は席に着くとしばらくじっとしていた。そして車にエンジンをかけるとこう言った。
「もしこれが逃走車だったらどうする?」
「ここからすぐ逃げるよ。」
彼女の目隠しは紙袋を被せる事だった。
「この先長いドライブになるの。
だから今のうちに休息を取っておいて。」
車の中で僕に出来ることは何もなかったし、その話の切り替え方は不自然なほどぶつ切りにされていた。でも僕はその言葉に甘んじて受け入れ、余計なことは話さなかった。それから彼女に貰ったペットボトルの水を一口飲むと僕は最後に時間を確認した。でも時計は壊れていた。だから僕はその美しい文字盤を鑑賞し、オレンジの屋根に白い壁の社会の教科書に載っていた地中海のページを思い浮かべながらアイマスクを下げた。
車は市街地を走り続けた。まあもっとも僕にはそうだと思うとまでしか言えないのだが。それがよく整備された広い街なのかそうじゃないかさえ分からなかった。一時間半後、車は停車した。
「起きて。」
僕は目を覚まし、アイマスクを取ろうとした。
「待って。
前回のドライブを覚えてる?」
「またサプライズ?」
「ここがどこかはじきに分かるわ」そう言うと僕の頭に何かを被せた。厳重に僕から視界を奪いたいらしい。 彼女は先に降りて僕の席まで回り込むと僕を車から降ろした。そして彼女の手が僕の手と絡みついた。それが現状では唯一の僕とこの不確かな世界を繋ぐものだった。彼女がどこかのドアを開いたみたいだった。そして何歩か歩いた。
「階段を上るわよ。」
それは一階分程度のものだった。それから僕らはまた少し歩くとどこかで止まった。特徴的なノックの音が聞こえた。それから数秒間、何かを確かめる様な沈黙があった。それから、ドアの鍵はカチリとだけ硬質な音を響かせた。
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