第42話[SPAIN]Ticket to ride

「スペイン?」

その声は疲れているように聞こえた。でも彼がそんな声で話をするのを、今まで聞いたことがなかった。だからそれは電話の方に問題があるのかもしれなかった。

「話すと長くなる。」

「ロンドンの間違いじゃなく、お前は修学旅行の前に別の国に行こうとしている。」

「悪いけど」僕は言葉を続ける。

「急遽予定が変わったんだ。」

そう言う僕の声もどこか疲れて聞こえた。あるいは本当にお互い疲れているのかもしれない。

「こっちは途中から合流するしかなさそうだ。

申し訳ないけど。」

しばらく電話越しで、相手が僕の言ったことについて考えている気配があった。

「分かった。

向こうで会おう。

幸ちゃん先生には?」

「さっき言ったよ。」

「随分急だな。

せいぜいスリには気を付けろよ。」

礼を言うと通話を切った。紫乃華はそれらの会話を聞くともなく聞いていた。僕らはあの後急いで荷支度をすると(彼女はキャリーケースを既に駅のロッカーに預けていた。つまり僕の荷造りを手伝ってくれたわけだ)JRで横浜まで出てから京急に乗り換え、羽田国際線まで行き身体検査を済ませると円をユーロに両替した。後は搭乗ゲート前の椅子に座っていた。ちなみにシェナと白フクロウはそれぞれ専門のペットシッターに電話を入れ預かって貰うことにした。僕はそこまでくるとようやく開き直る気になっていた。全てがいきなりの展開だが、少なくとも船は前に進んでいる。


 まず冬服の準備をした。スペインはコートがいらないとしてもロンドンでは必要だろう。でも自分のクローゼットの中にロンドンで着たいと思えるような服はなかった。

「何を探してるの?」

「イギリスに来ていくコート。」

「ああ、それならいらないわよ。」

「どうして?」

「こっちで用意してるから。」

一瞬彼女の言う意味が分からなかったが、それは時間が解決するだろう。僕は分かったとだけ言うと自分の服一式とスウィング・トップを用意した。


 夜に飛行機に乗るのは初めての経験だ。機内の映画は比較的新作も上映されている。中には夏休みにわざわざ借りて観た古い映画もだいたいは観られるみたいだ。機内食とオレンジジュースを飲みながら僕は映画に没頭した。映画越しに見る生活というのは本当に優美そうだった。そこでは役者というフィルターを通して時間も場所も現実には見えなくなっていた。彼らの一つ一つの所作は僕のと比べゆっくりとなされ、品があった。本当はそんな仕草をする余裕なんてありはしないはずなのにだ。フィルムパーソンは時間の扱い方というものをよく心得ている。


 映画に飽きると外のどこかも知らない夜を眺めた。そうしているとまるで世界に1人だけで、暗い海を航海に出ている感じがする。一抹の後悔も夜にはいくらでも膨らみ上がった。僕は自分のためだけの時間を失いつつある。そして来年になればもう卒業が近い。いったい僕は高校に上がってから何を成し遂げただろう?下るとは言い難いことばかりだ。テニスのルールを一通り覚え、今はギターコードを覚えつつある。それだけだ。でも隣で聞こえる寝息は確かにあった。結局僕は眠った。睡眠は数時間しか取れなかった。


 ドーハ空港で朝日が僕らを出迎える。それは地平線から丁度半分が出てきたくらいで、辺りにはまだ夜の切れ切れが残っている。そこには寒さがある。真っ赤な生命力の溢れる眩さに照らされながら、シャトルバスで荷物検査の建物へと向かった。検査を比較的早く済ませるとトイレに行き、搭乗時間までゆっくりしていた。そしてその時に、僕は右手にはめている時計に気付いた。その黒とゴールドの時計をしばらく見ていた。洗練され、凝縮されている。でも時計は十二時三十九分三十八秒で止まっている。僕はこれから行くのはただでさえスリで有名な国だという、数時間前に買い求め読み終わったガイドブックの新鮮な一言を思い出していた。どうしてこんなものを付けてきたんだ?それを人目のつかないように盤を裏返した。


 バルセロナ空港に着いたのは昼ごろだった。同じように身体検査とパスポートの提示をし、入国書類のチェックを終えるとスペイン語で何かを話されたが全く分からなかった。でもなんとかゲートは通れた。エル・プラット空港からは往復のバスチケットを買ってカタルーニャ広場で降りる。スリの宝庫だから気を付けろと彼女が教えてくれる。特にこの広場を始めとしたランブランス通り等は人混みも凄く、注意が必要らしい。紫乃華はタクシーを停めると

「M Barcelona,Please」と言った。そして車は走り出した。


 十五分後に僕達はその高級ホテルに到着した。海辺に建っているそのタワービルを見渡してみる。上の方は二つ横に突き出た階がある。VIPルームなのかナイトクラブなのか判断つきかねるが、恐らく前者だろう。迷わずホテルのフロントへと向かう。

「We made a book」そう言って紫乃華は自分の名前を告げた。受付はようこそはるばるお越し下しました、みたいなことを口にしてから一通りの設備の説明を僕らにして、ボーイに荷物を運ばせた。それから僕らは部屋へと向かった。

「ねえ。」

「どうかした?」

「なんでこの部屋は一つしかないんだ?」

それはスイートルームだった。

「よく考えても見なさい、こんな高級ホテルで急に隣越しの部屋が二つも空いてるわけないでしょ。

それとも何?

私と一緒じゃ不服?」

滅相もない。

「ならもっと態度で示して。

そろそろ時間になるからクローゼットに掛けてある貸し出しのスーツに着替えて。

あとこれ」そう言い彼女は何かを僕に渡す。

「これは?」

「カフスボタンよ、シャツの袖口に付けるの。」

左右に一つずつだろう、同じものが二つ僕の手のひらに収まっていた。金色の縁と、輝く貝殻のような色合いを見せる小さな正方形の白色。シンプルでバランスが良さそうに見えた。

「それだけ?」

「貴方がその豊かな感性で何を想像しているかは分からないけど、ボタンは付けるものよ。

それ以上でも以下でもないし今更だけど、それが私たちのシンボルなの。」

こうして僕らは部屋を後にした。


 そのVIPしか入場を許されない階層での食事は、長く続いた。それはダンスや見世物やシャンパングラスに立食が付随しているという印象を受けた。勿論料理は不味い訳なかった。地元料理のパエリャにサングリアの組み合わせも合った。ドレスコードのせいかアハトワのパーティーが思い出された。紫乃華といえば彼女は自身のスタイルの良さを(そしてその使い方も)よく心得ている。黒の艶のある、ソリットの深いサマードレスを着こなしている。そして同じくらい艶とボリュームのある長い黒髪を上手いこと纏め上げていた。ピアスや化粧のせいもあって誰も彼女を18の女性と扱おうとはしなかった。そのシルバーの八芒星の先を丸くして、中に模様を入れたようなそれには、三つの黒く光るアクセサリーが取り付けられていた。彼女は僕と目が合うと目線で後ろのほうを見るよう促した。そっちはこのホテル専用のカジノルームになっていた。それに対して僕は文字通り上から下まで全て借り物を着ていた。

「冗談だろう?」

そういう顔をする僕を楽しそうに見た後、彼女はそこへと入っていった。

 

 紫乃華は歩きながらよくあるスロットに目をやった。僕も見たことがある。そして時々上の画面のメニュー部分をタッチして僕には知る由もない何かを見ていた。 他にもブラックジャックやポーカーがあり、ルーレットが見えた。そして奥ではレイズの額が違うであろうペースがあった。ジャズ奏者の早いテンポのライブも聴こえる。それは胸を揺さぶっている。低く唸るトロンボーン、短く鳴くトランペット、バスドラムとシンバルの織りなす一定のテンポ、そして静寂を打ち破らんと欲するメロウで再現ない嵐のようなギターソロ。

「うん、これにしましょう」そう言うと彼女は座り込んだ。仕方ないので僕も隣に腰掛けた。それはハッピージョーカーと書かれていた。この国で製造されたわけではないらしい。彼女は最初に千円札(くらいの紙幣)を挿入し銀球を取り出すと、手際よくゲームを始めていった。僕は最初の十分間黙って彼女を観察していた。最大限の賭けと書かれた左端のボタンを押し、スロットルを下に向け、最初に真ん中のボタンを押し、次に右、最後に左を押した。それが何度か繰り返され、気付くと彼女は俗に言うフィーバータイムに入っていた。

「これで回りやすくなった。」

空中ブランコに乗った金髪のレオタード姿の女性がグッドラックと光っていた。それを指差して彼女は僕に言った。

「これは私。」

僕は肩をすくめた。

「貴方もやってみたら?」

こういう時に断る術を持たないのが僕の悪い癖だった。結局いくらか失った後で彼女は僕にこのゲームのやり方を教えてくれた。中央に来たりんごと右斜め下に来たりんごがあれば左端上は何をしても必ずりんごが来て揃うとか、逆に真ん中の中央以上に何度か7が入らないと絶対当たりは来ないといったことだった。打ち方があるのだ。彼女の理論では真ん中のボタンを押したら右のを押し、最後にチャンスなら一拍あけてから左を押すらしかった。そしてその理論は実際に成功していた。賭け事か、そう僕は思った。今までやったこともない代物だった。それからも彼女はバー二つに7のスロットを見事導き出し、BIG CHANCEを招きだした。

「こういうのは台によって当たり外れがあるの」そう彼女は艶やかに言った。

気付くと銀球はカゴいっぱいに収まり、2ケース目へと突入していた。

「数字の7は『運命』や『宿命』、『変容』などと大きく関わる数字であると考えられている。

創世記に記される創造行為は7つ(6つの段階と1つの休憩)でありサイコロの向き合う面の和は全て「7」であり、スロットの大当たりの出目は普通7 7 7となっている。」

その後も色々な果物や動物が一列をしめ、銀玉はますます増えていった。それで陵史は周りの景色に目をやった。その間にも紫ノ華の画面ではたまに何度かジョーカーが並んだりもした。そしてそのゲーム機には誰にも気づかれずひっそりと、だが確かにこう書かれている。

「The joker is one of the key person in the circus performance show.

His eccentric appearance can help to keep the show smoothly and fun.

Let's play exciting game with me. 」

彼女の猛攻撃が収まりを見せるまで僕は彼女を見てなんとかこのゲームで負けた分の釣り合いを取ろうと努めていた。それは中々絵になっている光景だったが、絵としてはあまり売れなそうにも思えた。何はともあれ彼女はそこに実在し、僕ももちろんそこにいた。一人の店員がやってきて僕に長時間の着席はご遠慮願いますと言った。それが潮時だった。二万というのがそのゲームの報酬だった。2000するものがいて、二万勝つものもいる。良く出来たゲームだ。

「Do you try again?」とスロットが言い、僕はイエスと答える。そして三人の道化師が僕と目を合わせ笑った。そしてこれだって契機の始まりとして捉えられる出来事だった、もちろん。障害をものともせず乗り越えるパワー、考えの主張、思い通りに動かす、着実な歩み、勝利、前進、短期集中、有言実行と成功、目標への作戦実行のチャンス、満足の結果、障害が闘志を掻き立てる、考えを見透かされるな、克服、勇気ある行動、征服、独りよがり、勝利、強い意志、事故、服従、困難を乗り越える、困難孤独をものともせず障害を乗り越えるたくましい若者、多くの努力と忍耐、志と精神を失うと衝動的で無謀な行動の恐れ、コントロール、女性と二羽の白黒のアヒル、光と闇、精神と肉体、バランスの難しさ、課題を諦めるな、努力の継続、勝利、征服、援軍、行動力、成功、積極力、突進力、開拓精神、独立・解放、体力無限大、負けず嫌い、視野の拡大、ゾーンの発動、優勢、自己暗示。台座に取り付けられた車輪は横向きであり、このままでは物理的に動くことができない。つまり、この若き王は車輪についても、真下に生える草木が踏み折られることも気にしておらず、自分の見つめる目標以外の何ものにも意識を向けていない未熟な若者を示している。さらに、この「戦車」に手綱が付いていないこと、車輪の向き、馬と台座が一体になっていること等から、“地上を走るための乗り物ではない”といった解釈が行われる。


 部屋に戻ると彼女がシャワーを浴びている間に置いてあったパジャマを着る。バルセロナは日中は日差しが特に強いが夜も暑い。僕は彼女が出てくるのをドリンクを片手に待っていた。他にすることもない。今回において主導権は僕の方にはない。僕は諦めて、可能なことならできるだけ肩の力を抜きながら、それに従う他ない。彼女が出るとシャワーを浴びてバスローブを羽織ると髪を乾かし、僕はそのままソファに横になった。どうして彼女がわざわざこんなホテルに泊まろうとしたのかというのは結局分からないままだった。



─────────────────────



「本当に言ってもいいのかしら?」

値踏みするような目で彼女は僕を見ていた。そんなことが出来るなんて僕は知らなかった。

「確かに問題は貴方にある。」

そして彼女はそんな悲しそうな顔をして話すことも、勿論ちゃんと出来るのだ。ただそれをしなかっただけで。いくら短い時間だったとは言え、僕は彼女を知らなさ過ぎた。だから彼女はこのように慈悲を与えている。

「だとしてもだ。

僕のために君が孤軍奮闘するなんて納得いかない。

僕は出来るだけ早い内に言うのなら、血を流す必要があるように思う。自分の為にだ。

それは他人の血では駄目なんだ。だってそれは僕のことだからだ。」

彼女はため息をついた。

「最初私は貴方のお姉さんに助言を求めた。

そして貴方に鎌倉の案内をしてもらった。

彼女はそれくらいなら問題ないだろうと言った。

でも彼女がそう言わなければ私はそれをしないつもりだった。

だって物事には順序というものがあるでしょう?

それで貴方は何を考えているのか分からなかったし、暖かさも全く感じられなかった。

ねえ、こんなのっておかしいと思わない?

それは貴方の利点でもある。

少なくとも貴方は今、こうしてちゃんと転んでくれたわけだもんね。

……繰り返すようだけど、問題は貴方にある。

貴方の中には、独りよがりなところがある。

それがあなたを含めた皆を傷つけたし、皆が離れていった原因よ。

全て貴方が悪い。

ここまでは理解できた?」

「なんとかね」とにかく僕はそこで肯定した。

「貴方のお姉さんがどれだけ貴方に尽くしたか、そんな貴方に本当は分かるはずないのよ。

もし年齢が逆だったとしても、尽くすのは彼女のほうでしょうね。」

その通りだ。それは全て自分で気付けるし、改善できることだったはずだ。自覚がどこまでも足りてないんだ。でも、本当に僕はそのことに自力で気付けただろうか?

「私に対する態度を見ていてもそう思うことが度々あったわ。

貴方隣の席なのに、徹底的に不干渉よね。

ただ貴方がそういう人だって分かった。

そうやって貴方は死んでいく。

まるで余所者みたいな空気を吸って……そんな貴方は死者でさえちゃんと弔えたのかしら。」


死者?


「そういう貴方の性格が、あなたの周りを苦しめる。

こんな男に好意を持ったら最後、ひどい目に遭う。

言葉を尽くせば皆幸せになるのに。

本当に全て自分が悪いと思ってない。

けど愛憎はどうやらあるらしい。

欠点を欠点だと思ってないから自己修正能力も弱い。

だから周りの人も貴方からすれ違ってく。

誰もが貴方にヒントくらいは残していく。

なのに…、挙げ句の果てにはこの様なのね。

ねえ、どれくらい貴方が立派だっていうの?

自分が一番大事って顔に書いてある。

貴方より格好悪くて性格が悪い人なんていないわ。」

「今もそう。

まだ若いのに、誰かを好きなはずなのに。

だから切り離されて標的になった。

貴方が引き金を引けないから、変わりに影がそれを引く。

貴方は旧態依然、自分の殻に閉じ籠っている。

貴方の前におこぼれだとしても幸せなんて来ないわ、絶対に。

心しなさい。私は貴方を助けない。

日本へのフライト中も何度も辞めようとした。

だから貴方は私にだって大きな借しがあるのよ?

貴方に与えられた最後のチャンスが今だって私には分かってるのに。

絶対に全てを取り戻しなさい。」

どうやら、彼女の言葉の意味するところは僕が長きの間滞納し、油断し、ふ抜けていた末に送られた督促状だった。今までの自分でこれから先の人生を渡り歩いてはいけないという最終通告。そして今までの借金の引き落としだった。僕が過去に恐らくは、選ばないことで請け負うことになってしまった責任の所在だ。そしてその出来事は、まだ終わってないからこそこうして連綿と続いているのだ。恐らくは僕の見逃した視界外から侵食され、弱い所から蝕まれている。どうやらこの現象を僕は止めなければいけないみたいだった。

「貴方はとてもリアルな世界に生きているのね。」彼女はそう言ったのだ。

「私を楽しませたくない?

たまに貴方が分からなくなる。

貴方はいったい、今どこの世界に属しているの?」

「少なくとも、この現実の世界ではないだろうな」そう僕は搾り出すような声で言った。

「過去に何かあった?

普通人は、自分よりどんな点でも優れた人を見たら、その人に憧れるんじゃないかしら?」

まるで自分が何か間違えたものを飲み込んでしまったみたいに。

「じゃあ、貴方は何もかもが平等な世界が良いの?

例えば…、能力も外見も全部一緒の世界が良いの?

その世界で貴方は誰を彼女にするの?」

手っ取り早く手に入れられそうな子から?

「いまひとつ分からない。貴方は大好きな人を手に入れたいと思うのかしら?」

当然だろう。

「なのに自分に足らない部分を明るく補い、改善しようとはしないの?」

「貴方は私に興味がないのよ。

つまり貴方は、自分だけが恵まれていたい?

でも考えてみて。

もし貴方が何一つ不足なく恵まれていたとして、そんな世界で貴方は自分を磨き上げようと思う?」

人は困窮した状況でしか、ある種の鋭さを維持することは出来ない。今のように。

「じゃあ、貴方は私が誰かを羨んだり、嫉妬していないと本当に思う?」

そんな訳ない。

「そう、そんなのは当たり前にある。

でもだからこそ人は鋭さを保ち、それを研ぎ澄ませていくんじゃないの?

そして貴方は、果たして私に本当に興味があるのかしら?

つまり、もしそうなら私と同じくらい質問をして、深く話を掘り下げると思うの。

でも貴方は浅い穴を幾つも掘っていく。

まだ水脈も見つからないままに。

まるで潮の流れが読めない漁師みたい。

ただ流されていく。

でもこれだけは覚えておいた方が良い。

それは、貴方は他の誰かとしてその人生を生きていくことは出来ないということよ。」

ずっと黙ってじっとしていても、誰も何も教えてはくれないし、僕は強くならない。彼女の決意の目が、僕を睨む。

「貴方はこれまでの人生の可能性の触れ幅の中にいるのね。

そしてそれに貴方は───────、満ち足りている。」

そんなことはないと言いたかった。そして事実そう思っていた。でもその言葉はなかなか口から出てこなかった。僕は思いの丈を紡ぎ出そうとした時、いやもしかしたらそれはそうかもしれないということに気付いたからだ。そしてそう思った瞬間、自分の真下に落とし穴が開いているような気がした。そのまま僕はその何もそこに見えない、ただひたすらに黒く虚ろな穴に落ちていった。



─────────────────────



 そして僕は紫乃華の声で目が覚めた。

「大丈夫?

うなされてたみたいだけど。」

ああ、大丈夫とだけ僕は言う。変な夢だった。始めにひどい違和感を感じた。特にいつもよりリナが積極的な性格だったのが印象的だ。だが、その夢の一番の問題は、何処か本当染みていたということ。それは奇妙にリアルだった。そして僕はリナがいなくなってから、あの海岸の夢を見なくなっていた。 それから僕はその夢をただ思い出すことに努めた。最初は脳のどこかがそれに抵抗を示した。しかし次第にそれは障害にならなくなっていった。段々と僕は夢の断片の細かく、あまり意味を持たない部分を思い出し始めた。そしてその思い出す量に比例して僕は一番大切な部分がごっそりと失われていくことに気づき始めた。それが夢の嫌なところだった。


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