第39話 Ahatowa
30th,September
翌日の放課後、僕はスーツに着替えると千紘の邸宅へと向かう。だが話相手は彼女ではない。玄関先では黒のパンツスーツにグレーのネクタイ、同色の長袖のシャツを捲ったロシア人が僕を待っていた。彼は僕より十五センチばかり背が高い。その目は光のない湿った、暗い洞窟のように大きく窪んでいた。男は僕を見るとゆっくりと微笑みのようなものを浮かべたが、そこには彼の持つであろう残忍性しか感じ取ることは出来なかった。正しくは微笑みではなく、社交的威嚇とも言えそうな、やや硬い握手のようだ。そういう種類の男だった。そして顔の動きに合わせて額に皺が出来た。口に咥えていたタバコをくいっと器用に横にずらしてそれを捨てると彼は大きく息を吐いた。でも彼は何も言わなかった。彼はこんな若者がと言いたそうな顔つきで僕をみた。その通りだった。彼のボディチェックの時に僕はその事実を噛み締めないわけにはいかなかった。大きな手と、シャツ越しに分かる筋肉の塊。
しばらく前回同様の道を歩いた。そして豪奢なドアを開けると、目の前にはアハトワその人がロシアンブルーを膝に乗せ、心地良さげなソファに腰を降ろしていた。前回は気付かなかったが彼の部屋には古い本、高価なウィスキー以外にもガラス製のチェスセットと、プロチェッカーの譜面があった。そして何よりもビリヤード台があった。そう、彼は今では引退し年を取った只の老人だ。でもそこには全く面識がないのにこんな密室で対談なんて参ってしまう、充分な凄みがあった。
「いくら時代が変わり文明が進歩したと言え、この辺りはまだ誰ともなく穴を掘っては、王様の耳がロバの耳だと叫ぶ奴らばかりだ。」
「お聞きしたいことがあって来ました。」
「尋ねたくらいで鼻はぶたれない。
言ってみたらどうだ?」
そこには長い間悪を通して来た人間特有の貫禄があった。そしてその目は僕を押し量っていた。気が重いが仕方ない、僕は話し始めた。
「アシュフィールドというクラスメイトがいなくなりました。」
「誰だ、そいつは。」
「夏休み前にうちのクラスに来たイギリスからの転校生です。
千紘とも懇意にしていました。」
「そういえばそんなことを娘は話していたかもしれないな、それがどうした?」
でもそれはおそらくてきとうな一言だろうと僕は思った。
「姉は僕と彼女は幼い頃イギリスで会っていた。
けれど僕にそんな記憶は全くなかった。
でも今回の修学旅行に際して僕はパスポートを申請すると、確かに十四年前に発行した経歴があった。
貴方から送られてきた招待状には当時の僕の家族の写真が入っていました。
貴方は何か僕に語ることがあるはずだ。
じゃなきゃそんな写真は焼いてしまえば良かった。
違いますか?」
「アシュフィールド。
パーティーで見たな。」
「彼女が何処にいるか知りたいんです。」
沈黙。彼は沈黙の扱い方を良く心得ていた。そしてその沈黙の取り方はあるいは話よりも雄弁に何かについて語っていた。僕は彼の話すことと、話さないことによる沈黙の落差に惹かれ始めていた。
「煙草を無償に吸いたくなる時がある。」
僕は一瞬彼が話を逸らそうとしているか、ただのニコチン中毒なのか判断がつきかねた。
「または強い酒を一口飲みたくなる」そう言いながら彼にしては穏やかな顔つきでこの部屋のウォッカの置かれた棚に目をやる。そこで何をこの男が、僕に対して抱えているんだろうと、思う。そしてここには間違いなく立場や年齢の問題が関係している。
「そして一口、一服した後に鑑賞したり、美しい女と話し始めるのが何よりも心地良い。」
「鑑賞?」
「何でも構わん。
しかしその作品が本当に美しければ美しいほど一口の効能と快楽は大きい。」
これ以上は墓穴を掘りそうで何も言う気にならなかった。
「ロシア・ソ連の歴史を紐解いていくとコネが如何に重要だったかが痛い程分かる。」
もう空気は変質している。そして当然ここは彼のホームになっている。部屋の緊迫感も少し上がっている。そういう話を彼はしていたのだ。
「私には二人の娘がいる。
長女はもう結婚し、嫁入りした。
問題は次女だ。
色々あって彼女は生まれたときの顔しか見てない。
どこかで十六歳の少女として暮らしているはずだった。
しかしそれでも彼女は私の跡継ぎにもっとも近いということになる。
私は血縁と金しか信用しない。
千紘は私が一番好んでいた愛人との間に出来た子だ。
娘は私ともう一人の推薦を受け後継者になった。
当然総会で可決されたことだ。
このシステム自体は1930年のスターリン時代に完成した。
そして当時の私達はソ連の一般社会を支配する共産党よりも道義的であり民主的であると自認していた。
そこには仁義もあった。
奴らのように血も涙もない連中ではなかった。
現代人はすぐに歴史を甘く見る。
その上に自分がバランスを取っているとも知らずに。
そしてお前の父親はいなくなった。」
何かが静かに、舵を切る音が聞こえた。目の前の人物は何の話をしているんだ?それはとてもじゃないがジョークには聞こえなかった。
「アシュフィールド。
私は彼女を招いていない。」
その顔をじっと見つめる。
「存在さえ知らない人間を、なぜ、どのように招待出来る?
彼女は呼ばれていない客人だ。」
「では誰が呼んだんでしょう。
千緋炉?」
「あくまで今回の主催は私だ。
娘はあそこに立たせていただけさ。
説明が付かない。」
話が思いも寄らない所へ捻れていく感覚があった。
「だから調べることにした。
アシュフィールドについて。
しかし思いの外何も出てこない。
可能性は二つだ。
一つは何もないから何も出てこない。
一つは何かあるから、誰かが巧妙に偽装している。
お前はどっちだと思う?」
「前者なら、あの日彼女は僕といないはずだ。」
「どうしてわざわざ私の所に来た?」
「パーティーへの招待と、その時の非礼の謝罪です。
後千紘のことや、僕の知らないいくつかのことについてです。
事実がどうであろうと、僕はこの件について違う視点からでも真実を叩き込んでおいた方が良いように思います。」
「まあいい。
一つ貸しにしておこう、娘に返せ。」
僕は感謝を述べた。
「まずお前が記憶にないと言ったそのイギリスの話だが、私はその家もプロフィールしか知らないし、知る必要はなかった。
しかしそれらは氷山の一角だった。
事態はより複雑で、ややこしい所にこの私を運び始めた。
それは私の様な種類の人間でさえ直面しなければ気付けないことだったのだ。
要はパンドラの箱だ。
それで、お前はまた逃げるのか?」
また?
「ハハ、お前は未だにぬるま湯に浸かっている。
よく考えたらどうだ?
今逃げてどうなる?
お前の影は一回り大きくなるだけだ。
そしてその場しのぎは出来ても逃げ切れはせん。」
「影が自分自身だからですね。」
「そしてそのお前は対置の足を二本伸ばし確立している。
そんなお前がお前の逃げ腰を見たらどう思うかな。
もう少し頭を働かせたらどうだ?」
「ご忠告痛み入ります。」
「今お前がいなくなって誰かが悲しむと思うか?
お前にはもう家族もいないだろう。」
陵史が姿を消した後にアハトワは葉巻を取り出し火を付けた。本当は強い酒が呑みたかったが、それにはまだ日が高過ぎた。彼はガラス越しに映る高価そうなブランデーに微笑みかけながら言った。
「あの調子を見るに、少々荷が重いようだ。」
だがまあいいだろう。せいぜい若い内に苦労しておけばいい。最初私が興味深く思っていたのはあの小僧を中心に回り始めている、いささか奇妙な世界についてだとばかり思っていた。だが今になって、私が本当に興味をそそられているのはあの小僧だという気がしてきた。そのことに対して私は笑った。私が仕事以外に興味を持つのは本当に久しぶりだった。ましてこの年になると、世界に溢れていることはあらかた経験済みになる。それはあるいは大事な愛娘が好きな男だからかもしれない。そういう点でも当然親として興味はある。私はその後の話を思い出していた。
「お前は来月英国に行くんだろう。
娘から聞いた。
急遽変わった旅行先、その国から来た転校生。
なあ、お前はそんな私でさえ出来ないようなことが、一体誰によって仕組まれたと思う?」
「僕を彼女と鉢合わさせ、そこまでしたのは・・・。
姉さんだ。彼女が向こうでミアと会い、僕の家に来るよう手回しした。だが・・・。
「せいぜい足元を救われないよう励めばいい。
楽して得るものなどたかがしれている。」
そこで私の回想は終わった。
「俗にいう試練というやつだ。
この言葉は嫌いだが、お前に降りかかるのは特に困難な試練だろう。
それは私と面識があり、それが正々堂々裏の道から来たわけじゃないからだ。」
「はあ。」
正々堂々裏の道、ね。
「ひょっこりと奥のドアをたまたま覗いたらここが見えた、なんてのは私が最も警戒しているものの一つだ。
本来であれば私はそんな奴が私には会えないように、システムをこしらえたわけだからな。」
一見さんお断り。
「どのような経緯であれ、それはありえない。
そういう意味で、私はお前の所属している現実の生活世界の住人ではない。
朝家を出てあいさつする近所の人々とは訳が違う。
だから当然こっちだってお前におはよう、余ったボルシチがあるけど食べていくか?
なんてことも言わない。
ここはもっとクールでタフな世界だ。
だがお前は侵入してきたという割には自然すぎるし、ここで説明する以上の道理を知っている風にも見えない。」
「そう、僕は何も知らないですよ。」
「だから余計に危険だ。
お前は知らないがお前の隣人は知っている、ということもある。」
僕は黙っていた。彼の言うことは当たっていて、今ここで僕しか知りえない情報があるという風にも思えなかった。また彼ならば、どの道その情報もおそらく入手するだろう。
「私の見たところ、お前は少々勝手が過ぎる。
バランスが取れないと言うことは、気付かない内にどん底の沼地にはまっているということだ。
そして自覚のないままてっぺんにも立つことになる。
頂点に自分が位置していたと気付くのは、全てが終わった後だ。
人は自分が何を求めているのか意識的に考えると、いくらか本心とそれることがある。
しかし潜在的に求めるものは決まっている。
その実現性は低いかもしれないが、低いほどその過程は重くなる。
本当は軽々と行わなければというところでにもかかわらず、それは重くなってしまうわけだ。なぜ私の商売が面白いか?
それは相手に対して自分が本当に恐れることをしなくてはならないからだ。
そして自分が一度それをすれば、夢の中で自分は誰かに同じことを──いや、それより上のことをされることになる。」
「諸刃の剣。」
「成りあがったのと同じ経緯で私たちは落ちぶれてゆく。
そして物事は抑制が効かない。
過剰になっていく。
過剰なしには成り立たん。
前よりも良いなりをして、前よりも派手に、より多く血を流していく。
しかし過剰はしょせん過剰でしかるまい。
誰もが気付いているようにな。
新しく豪華な家であればあるほど、そこには大きな崩壊と崩落の予兆がある。」
中々含蓄ある言葉だ。不測の事態というのはいつでも起こり得る。ボディガードとは莉乃のことだろうか。僕は短い相槌を打つとその大きな広間を出て、アハトワの元を後にした。僕は彼を憎むべきだったのかもしれない。彼は何と言っても僕や姉から父を奪った張本人なのだ。そしてそれは母の死に関係していたって少しもおかしな話ではない。僕は終始彼を憎もうと心掛けてみた。でもそれは無駄な試みだった。どうして僕は彼を憎めないのだろう?千紘の父親だからだろうか?或いはこうして僕に確かなヒントを与えてくれているからだろうか?でもそれらの理由はイマイチ説得力に欠けた。まあそんなことを考えていても仕方がない。それに、やるべきことはもう決まっている。
「で、どうしてかし君が家にいるのかな?」
「や、千緋炉。
お邪魔してるよ。」
「見れば分かるよ。
学校にも来てなかったじゃない。
どうしたの?」
彼女の邸宅には大きなのっぽの古時計がある。ドイツ製のもので、まず普通の家ではお目にかかれない代物だ。文字盤の上には1から29日の文字が書かれたムーンフェイズがあり、その月には厳かだが安らかな顔がある。時計はスモールセコンド付きで、秒単位で時を刻んでいる。その時計は十五分毎にチャイムを鳴らす。午後六時。一時間が経過するとより長めの郷愁の音色を奏でる。その音に、僕は耳を済ませる。
「少し君の父上に用があってね。」
「父に?」
「ああ、それで時間を作ってもらったんだ。
もう済んだよ。
でもせっかくだから、幼馴染の顔でも見て帰ろう、と思ってね。
それにしても、相変わらず立派な邸宅だ。」
「それはどうも。」
「本当にビリヤードがあるんだね。」
莉乃があんなに上手いわけだ。
「これはスヌーカーだよ。」
「スヌーカー?」
「ビリヤードの親戚。
今度教えてあげる。」
「僕だったらここに住むよ。」
「…それ、どういう意味かな?」
「そのままの意味だよ。
この前のパーティー会場は、あくまでパーティー会場だよ。
僕が君なら、ここで生活をし、余暇として国道一号線沿いに、あそこへ運転手に向かってもらえばいいと思うだろうね。」
「そう思うんだ。」
「都会の夜景より、ここからの夜景の方がずっと好感が持てる。
それに裏山ではたけのこだって取れると言うじゃないか。」
「リナは、ここに車を駐めていたんだね?」
千緋舮はため息をつく。
「うん、そうだよ。
私が匿ってたの。
その車庫に、彼女の車が駐まっていた。」
随分と立派なガレージだ。やろうとすれば、そこで生活だって出来るだろう。良い車は良い所にあるものなのだ。必要の法則。
「莉乃も共犯だと聞いてる。
そろそろ失礼するよ。」
「明日は学校に来るの?」
「ああ、そのつもりだよ。
僕に出来ることは、これ以上はないみたいだから。」
僕はオレンジ色の瓦で出来たその邸宅を出て、円状になった道を門へと歩く。このサークルを通してミアは自分の車をガレージへと入れていたわけだ。昔ここにアメリカ人の建築家が住んでいたからこそのデザインだ。今の日本ではよほどのことがなければお目にかかれない。そして今は、そこにロシア人が住んでいる。玄関の開く音がする。見ると莉乃がこちらに歩いてくる。
「どうかした?」
「いえ、貴方とまた話しておこうかなと思って」そう言うと彼女は僕に鍵を渡す。
「アシュフィールドさんに貸してたやつ。
ここからすぐのところよ。
もう知ってるでしょ?」
「影取。」
「先に入って、お茶でも淹れておいて。
私はもう少しであがるから。」
立派な門が残されている。レンガ造りに鉄の門扉がある。思わずここに門衛がいたっておかしくないと思うほど、立派な門だ。まるでその門をくぐる前と後では何もかもが少しずれてしまうかのような代物だ。
歩道橋を歩き、坂を登って下る。二階の一番奥の部屋に着くと鍵を取り出し、玄関を開ける。部屋に入ると木製の机の上に鍵を置き、立派なカーテンを開く。夕日が眩しいくらいに差している。IHの電源を入れると鍋に水を入れて沸かす。その間にその小振りな台所に置かれたままになっている幾つかのグラスを洗う。彼女も忙しいのだ。時間は誰に対しても、平等に不足している。ロイヤル・コペンハーゲンのティーカップを二つ取り出し、ティーバックのものを淹れる。机に座るとそこに置かれている砂時計を逆さにし、時間になると紅茶に口をつける。そしてベランダに出る。西日の強い日差しと温かい紅茶で僕は体を温める。横には小振りな洗濯機と、キャンプ用の椅子が置かれており、僕はそれに腰掛ける。そこに灰皿が置かれているのに気付く。窓からすぐの本棚を見ると、そこには昨夜彼女が吸っていた細いタバコと葉巻に、真鍮の金のジッポが置かれている。シガーを一つくすねると、彼女のライターで火を着ける。
室外機の上にはゴムの木が置かれている。僕はそれに水をやる。
その仮面を被った男は紫乃華の写真を持っていた。そしてそれは証明写真のような公のものなんかではなくプライベートな写真だった。彼女は誰かと海かプールに行っていた。後ろの砂浜を見るにおそらく海だろう。その仮面の下から荒々しい興奮しきった声が何かをまくし立てていた。まずそいつはこれは俺のなんだと言った。そこには当然間違いがあった。彼女は誰のものでもなかった。強いて言うのなら彼女は彼女のものだし、誰が誰かのものになれるだろう?でもその時その男が被っていたのは欲望の仮面だった。そんな仮面の前では倫理観はおろか、僕の思いなんてものはまったくの無力で儚いものだ。もちろん僕はそんなこと知っていた。それは嵐を前にした藁の家みたいに無力だった。そこには四枚の紫乃華の写真があった。男はその写真を穴が開くほど見つめながら話していた。その男の持つイメージは避けがたく、豊潤だった。欲望の仮面は止まらない、そしてそれは本人も把握していた。仮面を被った男たちは雪だるま式に膨らんでいった。そして段々と周囲の仮面が欲望の仮面になっていることに僕は気付かないわけにはいかなかった。そしてそれは怒りを有する僕の仮面に対してさえ関係ない話ではなかったのだ。不快感はピークに達していた。慣れない仮面を着けたせいで僕は若干の呼吸困難を起こしてもいた。でも誰も救ってはくれなかったし、気付きもしなかった。そこでも僕は一人怒りの仮面をつけ苦しんでいた。僕は昔の家にあった広く大きな納屋のことを考えた。木製の小屋で、日陰で湿っぽい感じがした納屋だ。そこには昔住んでいた人達の置いていったものがたくさんあって、子供の頃好奇心でそこを歩き回った。中にはタンスや机、古い椅子なんかも置いてあった。それは昔誰かの家だったのだという感じがあった。そして僕は目に見えて落ち着き始めていった。玄関のドアが開く音がする。激しい動悸と共にその夢から覚める。
「…何をしてるんだ?」
「あら、見て分からない?
貴方の肩で本を読んでるの。
最初はごつごつしていて不便極まりなかったけれど。
これがなかなかどうして、意外に広々としていて。
まあ、住めば都というやつね。」
「僕の肩に住むな。」
紅茶を飲む。日は沈んでいる。
「おかえり。」
「…ただいま。」
彼女は制服のままだ。荷物を机の脇に置くとそこに座り、紅茶を淹れる。僕は本棚の横の椅子に座るとじっとそんな動作を、何ともせず眺める。夢の中で感じた怒りは激しかった。でも見落とせないこともあった。それは僕だって例外なく欲望の仮面を身に纏っているということだ。
「…貴方、タバコを吸った?」
「そこのシガーを頂いたよ。」
「そう、なら一服付き合って。」
ベランダに出て彼女が椅子に腰掛け、慣れた動作で火を着ける。
「そんなことをして、匂いが付いたりしない?」
「シャツなんて、洗えばいいのよ。」
「僕が言ってるのはそのスカートのことだけど」そう言いながら、彼女の組まれた二本の白いふとももに目をやる。
「気にしないわ。」
「辺り一面が畑だ。」
「千紘のところほどではないけれど、良い眺めでしょう。
下の方に行けば果樹園なんかもあるわ。
少し歩いてみたことがあるの、川の流れを頼りにね。
でも果物の木が階段の下を歩いた先は、行き止まりだった。
果物の木しか生えていない。
ねえ、樫江君。
貴方は本当の痛みというのが、何かはご存知?」
本当の痛み?
「本当の痛みというのはね、貴方を瞬間に貫いたりはしないものよ。
それは全く逆のものなの」そう言うと彼女は紅茶を一口すする。
「本当の痛みは、貴方を成している一番重要なコアを、目に見えないほどの小さな針で一刺しするの。
最初、貴方は自分がその針に貫かれたとは気付かない。
そして日々を概ね平穏の内に送る。
でも確かにその針は、貴方の中の核心の真中を、確実に貫いているの。
貴方が気付かないだけで、貴方は深い痛手を負っている。
しかしなんともない。
なんともないからなんともなく日々を送る。
しかし崩壊は始まっている。
一つ一つの支障のない細胞が、そこで日々破壊されていく。
もちろん貴方は気付かない。
周りの誰も気付かない。
でも気付いた時には──」莉乃はそこで一区切り置き、僕の目を真っ直ぐと見る。思わずその目を見返すのを躊躇ってしまうほど強く。
「貴方は動きを止めてしまう。
いいえ、動くことはもう叶わない。
もう全てが手遅れになってしまっている。
後の祭り。
それが本当の痛みというものよ。」
そう言われて僕はその無形の針が、裸眼では見ることの出来ない小さな穴を僕の核心に空けていることに気付く。
家に帰ると久しぶりにちゃんとした夕食を作った。体を鍛え、風呂に入った。時計は午後の十時を指していた。この家は静か過ぎた。僕が一人でいた去年よりも。僕は自室の本棚を眺めてみた。そこにはお気に入りの作品や作家のものが腑分けされ並べられている。まだ読んだことがないものや、繰り返し読んでいるものもある。格段に好むものとそれ程じゃないものがある。そして左半分はリナのものになっている。真ん中には件のチャンドラーの本が置かれていた。僕はそれらを眺めてみた。大体はあらすじを読めば結末まで思い出すことが出来たが、そうでないのも二作ばかりあった。一冊はハードカバーで、もう一冊はペーパーバックだった。僕はそれらを取り出すと手にとって見た。ハードカバーで高校生になってから購入したものだ。ブルーグレイと茶色の装丁で、タイトルのプレイバックという英語がぼやかされていた。それはこの物語の暗示とも思える。プレイバック・・・・・・、物事の再生、或いは再演・・・。僕はページを開いた。
日付が変わる頃には三割ほどを読み終えていた。話はテンポが良く、読み易い。100ページと少しの所で手が止まったのは、見慣れない栞が挟まれていたからだった。いや、それを栞と言うのは難しいかもしれない。何故ならそれはとても栞の役割を果たせそうにはなかったから。円形と長方形の間のような形をした数cmの紙切れだ。現に僕はそのページに行き着くまではその存在にさえ気付かなかった。その生地がしっかりした紙は何かの紙片にも思えた。上の方が千切られていて元々なんだったのかは分からない。下の方には小さな穴が付いていた。でもその必要性は皆無に思えた。そこには「have a nice day」という筆記体と共に碧色の鳥の絵が描かれていた。それはリナのだった。
冠婚葬祭にも使えそうなブラックのベストとスラックスにネクタイは、黒のチェックの入った茶のジャケットと、グレーのビンテージのトレンチ・コートによってカジュアルな装いとなっている。強い雨風、あおられる傘。風向きはあっという間に変わり、タバコの火も消える。各々が異口同音に口にするのは
「適応!!」
そこにスタイルはない。スタイルというのは、深夜の強い雨風の中、傘を持って出かけるスーツ姿によってこそ生み出される。僕は橋を焼いた!自ら望んで。
その通り、あんたは最も得難いものを望み敗れ去る経緯を楽しんでるんだ!実際にそれを手に入れることじゃなく。僕は部活のことを思い出す。特にサービスを。左手でボールをまっすぐと上に投げ、膝を曲げる瞬間の高揚感。うらぶれたテニスボールが陽光の眩しさと重なるあの瞬間、右手に構えたラケットと僕の体は、獲物にフォーカスしている蛇の如く、今か今かと待ち続けている。そしてその時はやってくる。曲げた膝をばねのように伸ばし、体をしならせ、一番高いところでファースト・サービスを繰り出す。その瞬間の焦燥と、与えられた枠から生じる自由の感覚が、僕を捉えて離さない。いつ跳躍し、ラケットを振るかは僕が分かっている。
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