第35話
別に僕が何をしていてもよかったと思う。でもそれはたまたまビリヤードだった。そこには様々な偶然の因子とでも呼ぶべきものの介入があった。
目が覚めると空腹も相手にせず私服に着替え、直近の記憶に従い外に出ることにした。黒のジーンズ、ネイビーのシャツ。徒歩で目的地まで行く。雨が続いたのと僕が顔を出す時間が遅いのもあったせいか、店内はオーナーの男性しかいない。そもそもいつもはこんな時間までやっていない時もある。最初に短いやり取りをすると彼は対称の席に座り、事務関連やらボール磨きなんかをしていた。だから実質一人でここの音楽と場内を貸し切っていた。それもまた長く退屈で、地続きな夜の潰し方だった。店内はオータム・ジャズが流れていた。そう、街は秋になったのだ、驚くことに。ビリヤードを打ちながら頭はぼんやりと何かを考える。でも大体が大したことじゃない。ニュースでやっているどこか遠い地の知らない誰かのことみたいに、それはすっと浮かんでは消えていく。逆に身の回りのことを考えるわけにもいかない。いろいろと事情が複雑になっているのだ。そんなこと…例えばお嬢様とお付きのことや、素性の知れない年上の女性、いなくなった転校生のことなんかを考えながらボールをまっすぐに撞けるほど器用でもない。色々な人間や背景がある。家柄の良い家庭があり、シェパードを飼う家庭があり、高級車に乗る家庭がある。そしてそれらには複雑に思えるそこに至るまでの過程だってある。でもそういうことを忘れようとしても、完璧な無はやってこない。むしろイメージは一人歩きする。ボールとボールがあたるたびに惑星直列や、人と人の繋がりみたいなものに思いを馳せる。きっかり深夜の時半から半時間僕はそこにいる。彼女が来るまでの間、エイトボールを一人でプレイする。左手と右手が交互に撞き、勝敗を競う。そこに本当の勝敗は存在しない。便宜的な競争において、僕は誰とも戦わない。右手の型を左で必死に真似ようとする。しかし左は右の精度に追い付かない。でも多少なりともそこには成果が出ることになる。
彼女は約束通りの時間にやってくる。つまり深夜に。もちろん僕は遠回しに彼女と会わないように時間を提示したつもりだった。でも「夜中に女子高生が一人で歩くこと」について、彼女の方はあまり気にしていないようだった。レイニーソングがかかっている。一時ピッタリになると店のドアのベルが音を立てて開けられる。普段ポーカーフェイスの店の主は莉乃の姿を見てどう思うだろうかと、一瞬考える。当然彼女は私服姿だ。でも黒と白のギンガムチェックのスカート以外は高校のワイシャツと思われる白シャツに、黒いカーディガンだ。履いているのはチャコールグレーのバンプスで、その若干のヒールの高さが僕の日々抱いている印象をほんのわずかに変える。彼女は挨拶もなく僕のいるテーブルに近づくと、ハンドバッグを置いて長椅子に腰掛ける。
「あっちに女性用のキューがある。」
彼女はしばらく黙っていた。そしてハンドバッグからポーチを取り出し、そこからタバコとライターを自然に出した。慣れた手つきで彼女は火を付けた。そして一口吸うとそれを灰皿に置き、じっとビリヤードテーブルを見た後、視線をついでみたいに僕に移した。そしてふと思いついたように席を立ち、向こうからキューを取ってきた。彼女は何も言わなかった。僕は部活を辞めて以来、久しぶりに誰かとゲームをした。そのゲーム中に会話と呼べるべきものは何もない。ただコミュニケーションは、白い同じ玉を別のキューで撞くことによって成り立っているようだった。読み書きもなければ話す聞くもない。そして段々と彼女とゲームをしているという意識も薄れてきた。さっき考えていたことはなんだったっけ……。そう、人と人との繋がり。思えばそういう意識がいつの間にか僕の中にはなくなりつつあった。いったいいつからだろう?それとも無邪気な頃からずっとそういう傾向があったのかもしれない。でもそこで僕はそれについて考えるのを中断し、目の前の課題を一つ一つ片付けていくことに意識を戻した。優秀なアソシエートのように、一個一個のボールをポケットすることに。それは現実的な問題から目を逸らす良い機会で、物事を上手く考えられない時でもある。
彼女のビリヤードの腕前は僕よりも数段上だった。いいや、もっと上かもしれない。それでゲームが終わると彼女は席に着き、半分ほど残ったタバコをまた一口吸った。そしてやっと話そうと決めたみたいだった。
“Праздность - мать всех пороков.”
「どういう意味だろう。」
「無為はあらゆる不道徳の母。
暇な人は無益であることをするばかりか、自らを損なう。」
「日本では、小人閑居して不善をなす、という。」
「こんなところでずっと何をしているの?」
「ご覧の通り。
不善を為してるんだ。」
「月曜の夜からこんなところにいたって、どこにも行けない。」
「月曜の夜からタバコを吸うのと、火曜の朝に満員電車に揉まれることにさほど違いが?」
「ないでしょ。
ただ社会的なだけ。」
それから何かを思い出したように付け加えた。
「INTJ。」
「秘密の暗号でも言いに来たの?」
「クラスメイトも知ってるわ。」
もちろん彼女はこの前僕が受けたMBTI、十六性格診断の結果について言っているのだ。
「あの組み分け帽について言えば、ある程度合理的な見地から作られたものだろ。」
「かなり合理的見地」そう彼女は穏やかに訂正した。
「たしか現代の大学生が就活の際似たことをするから、って触れ込みだったはずだ。」
「でもそのことに対して高校生中で疑義を呈した人はいなかった。」
「僕や君も含めて。
あれは一種のお祭りだよ。」
「皆、何かの集団に属したくて仕方がないみたいね、あなた以外は。
こんなことをして飽きない?」
「飽きないよ。
ビリヤードより僕の方が退屈な人間だからね。」
「それを聞いて安心した。」
「安心は悪いことじゃない。
でも、出来る限り早く自分をタイプファイすることで、いったい何が得られるんだろう。」
「その方が効率が良いし楽なのよ。」
「その通りだ。
効率と便利。」
僕は指を鳴らした。そういう世界が、とうとうファンファーレを鳴らしながら到来したのだ。
「そんな世界では人は夏場にキッカリとした服装もしないし、わざわざ古いレコードも買わないんだろう。」
「回帰と幻想。」
それらは不便で非効率だし、そういうものはもう愉快の対象ではないのだ。そしてそういうクラスメイトのはしゃぐ様を見ていると彼らと少しずれていくのを感じた。
「これほどまでに違っていても同じ集団に属しているのは、なんて言うんだろう。」
「貴方をめげさせる?」
「それに、素直に感心もさせられるんだ。
うん、ほんと感心するよ。」
「貴方の人間的傾向。」
人間的傾向。その五文字の中には不思議と小さいボールに一人を丸めて詰め込むことが出来そうな響きがあった。
「読んでないんだけどね。」
「捨てたの?」
「今頃ロッカーの一番下に埋まってるんじゃないかな。」
「貴方は四つのアルファベットが示す意味も分からない。」
「そうなるね。
ただNTだけは知ってるよ。
僕の登場人物に背負ってもらったから。
他はただの無意味な記号だ。」
「建築家タイプ。」
「君の家でも建てようか?」
「私に家がないから?」
「ねえ、重い話はしたくないんだ。正直な話。」
もちろんそんな軽口に彼女は乗らなかった。ただ首を横に振り、黙って明後日の方向に煙を吐いた。彼女が意図して作ったスモーキーな沈黙が辺りにゆったりと広がった。
「そのタイプはクラスで貴方だけだった。
であればこそ貴方は脚本の執筆に割り当てられたのよ。
そしてこれは毎年うちの高校の文化祭が成功する傾向がある理由の一つとして考えられている。」
「適材適所。」
「そういうこと。
独創的で革新的。
問題解決能力が高い。
独立心が強く、自分の考えを貫く。
でも他人に自分の考えを理解してもらうのが苦手な場合も。
向いている仕事は研究者、エンジニア、コンサルタント、経営者。
また、芸術家や作家としても活躍する人もいる。
建築家は、自分の能力を最大限に発揮できる仕事を見つけて、社会貢献ができる。
二人とか三人の人ならいたけれど、一人だけは貴方よ。
建築家は世界人口の2%しかいない。」
「世界に1.5億人もいれば、ずいぶんと色々な家が建つだろうな。」
「そして実際に建っている。
私たちがパーティーで見たような家が。」
「あれは家なのか?」
「色々な家庭があるわ。」
「そして色々な過程がある。」
姉の話すビバリーヒルズの豪邸を思い出した。ああいう家は誰が建てて、誰が売って、誰が住むんだろう。
「でも多くの人はそうは感じない。
実際クラスにいる確率は0.8人よ。
クラスにいない確率が二十パーセント。
五クラスの中に一人はいなくてもおかしくないわ。
さて、ここからが本題。貴方はこんなところで何をしているの?」
「去年公民の授業で習ったろ、モラトリアム。」
彼女はもう一度煙草の煙を吸うようなことはしなかった。ただそれが燃えてゆく緩やかな後退をじっと静かに眺めていた。
「今はこれが好きなんだよ。
うるさすぎず節度があり、多すぎない。
ルールを尊重し、陰口もなければ安物のショッピングについても語らない。
そんな規則的で紳士的な空間が。」
途中までは僕のセリフではなかったが、どちらにせよそれは僕の今思っていることだった。
「そして誰もいない。」
それには頷きで返した。それこそが貴方が求めているものなのねというふうに、莉乃の言葉は静かに力強く聞こえた。
「単純さは時に手綱になる。
目に見えてシンプルなことが必要になる時がある。
そして目の前のボールはタスクを一つ一つ片付けていくような快感をもたらしてくれる。
それが例え錯覚だとしても、全てのボールが台上の地平線から消えた時には、少なくない快感や開放感を感じる。
その振れ幅は大きくそこまでの経緯がどうなるかで作用するけど、少なくとも没頭できる。
他に何も考えなくていい。
夢中になっている間全ては蚊帳の外だ。
でも君がいるならそうはいかない。
どうせ全ては死ぬまでの暇つぶしなんだ。
もっと肩の力を抜いていい。
・・・君は鳥の死骸のことは覚えている?」
「焚き火の時に見た。」
「僕の両親の死について君は知っているだろう。」
「さあ、それはどうかな」しばらく黙り、一言が付け加えられる。
「少しはというところね。」
「ならその死体を僕が見ていないことは?」
彼女は何も言わなかった。ただその深い目で僕を見るだけだ。
「あの時僕はあれこそ棺の中に入っているべきもので、僕が焼くべきものだと思ったんだ。」
「実際にそうしてみてどうだった?」
そう私は彼に尋ねる。でもその言葉はひどく空虚に響く。そして私はこんなことを言う気は少しもないと思う。でも誰かがこの問いを求めている。そう思う。それがどのくらい遠くにいる誰かまでは分からない。でも平日の深夜二時、行き場を失った男子高校生に向けてその問いは発せられる。とても遠くから、ストレートに。
「もちろん両親の火葬と同じというわけにはいかない。」
彼の声には乾きがある。
「だってそうだろう?
葬儀場も貸し切ってなければ…、カラスの親戚も呼んでいない。
文字通り赤の他人が勝手に、フリーの流木とジッポの火で焼いただけだ。」
彼は話し続ける。
「でも不思議な感覚があった。
僕は君と会った時もそう思ったんだ。
つまり全ては繋がっているってことだ。
君が打ったボールをここで僕が引き継ぐみたいに、ある意味であのカラスは僕が骨を焼くためだけにあそこで死んで、自らを海風やなんやかやの元にさらけだしてくれたんだ。」
その君という存在は私ではないのだということに、ほどなくして気付いた。彼の言葉から違和感を覚えたのはそれが初めてだった。彼もまた私を通して話すことで、誰かに何かを打ち明けようとしている。私はただ彼の言葉を通すだけでいい。後は今、自分の中に浮き上がってきた言葉をそのまま拾い上げることしか出来ないくらい、なにか切実な状況にいる。
「カラスの死骸だったの?」
それを聞いて彼は驚いた顔をした。
「カラスの死骸?」
「だって今あなたはそう言ったじゃない。」
でも彼は本当にそんなことを言ったつもりはないようだった。それが彼の混迷振りを際立たせていた。
「分からないな。
でもそうかもしれない。
それはカラスの死骸だったかもしれない。
でも生命という点では全部同じだ。
全てのものはいつか壊れてしまう。」
「暗く湿ったところから、貴方がそれを救い出した。」
「そして地割れの大地の狭間のように奥深く暗い。
たまたま僕がそういう番だったんだろう。
だから君がいなくなって怖かったよ、すごく。」
「今ここにいるじゃない」そう私は微笑んで言った。でもそれは私じゃない。私じゃない誰かはここにいないがそう言うことが出来る。彼は硬い表情をしている。
「君も分かっているだろうけど、人はある時急にいなくなるものだ。」
それで私は何も言えなくなる。
兄のことを思い出す。そして彼は当時の私の気持ちでいたのだ。そしてそのことは私が過去を忘れているということと同義だった。なぜ私は笑ってそんなことが言えたのだろう?急に私は泣き出したくなった。今目の前にいる彼が当時の私の姿と何故か重なって見えたのだ。
「なんだか私は自分の半分を失っていたみたいね。」
「その骨は実態のある、形ある死だった」彼はそう静かに言った。
「でもとても奇妙な感じがした。
それについては今度言えたら言うよ。
今でもまだよく分かっていないんだ。」
「私は貴方とは真逆ね。」
「どういう意味?」
「つまり両親を自分で殺したのよ。」
そこで言葉は自分のものになっている。ハードなタバコをもう一本取り出して火を着ける。それも私の手だし、私のライターで、私の炎だ。全てここにあり。
「今日はエイプリルフールだっけ?」
「この世界にはなんだってあるのよ。」
僕は彼女との話し合いを思い出す。
「あれは何だ?」
「あれって?」
「僕が修正した文化祭の脚本のこと。」
「共有フォルダはチェックしているのね。」
「見ての通り、他にすることもないものだからね。」
「どうしてあんな筋書きにと貴方は思っているでしょう。」
「あれじゃ年齢制限がいる。」
青いビュイックリビエラ、無数のタイヤ痕、隣で倒れた女性、血痕と、誰かの影。結局それは採用されなかった。でも倒れている女性、クラシックカー、無数のタイヤ痕、血痕と影は採用された。つまり彼女の案の持つスリルや恐怖感は実用的であると執筆班が認め、クラスが容認した。
「あの話は君のお陰で然るべき影を獲得したみたいだ。」
それは彼女の過去に根付いた原風景の入り一つなのだろうか?
「嘘であれ本当であれ気にしないけど、僕はその言い分を信じるよ。
じゃないとああいう風にフィクションが立体を獲得しない。」
だから文化祭の出し物として拳銃という小道具を使うことになった。そしてそれは今僕の家にあった。通りがかりの地元にあったモデルガンを班の了承を得て買ったのだ。それがM92F。そして僕は机の上に置いているそれを行き詰まると手に取り、その銃に考えられる殺人現場や持ち主、莉乃のアイデアや生い立ちなんかに思いを馳せた。そういうのはあるポイントまではかなり有効的だった。やはり実態があるものから展開させていくのが自分には向いているらしい。そしてその話について考えている間、僕は余分な物事を忘れることが出来た。
「そういうのは起こり得るでしょう。」
「どういう意味?」
「貴方の身にも起こりうると言っているだけじゃない。」
そして現に犯行は起こっている。そして僕は回想をやめて彼女に言う。
「青いクラシックカー、タイヤ痕、血を出しアスファルトに横倒れの女性、誰かの影。」
彼女はそれに頷きで返す。それはあり得るのだと。
「あの脚本は、所詮エンターテイメントだったね。」
「ねえ、それって当たり前じゃない?
この世界は基本はああなっていると思われているのよ。」
「でも君は彼女がどこに行ったかについては知らないだろう。」
「でも今私たちは、あるいは貴方は少しずつ本来とは違うところへと足を踏み外している。」
「推理小説みたいなことを言うね。」
「一つは実際に貴方自身に起こった筋で…、もう一つは起こったことのように見える筋。」
それはまるで平行世界について聞かされるようだった。もしかしたら僕が高校を飛び出てリナの住むロンドンの屋敷に言っていたかも知れない。両親は生きていたかもしれない。いや、そもそも僕がロンドンに生まれたかもしれない。この世界にはかもしれないが多すぎる。そして紫乃華が僕を呼んだように見える筋もあれば、アハトワが嘘をついている筋だってあった。皆が騙し合う筋や、僕がペーパーバックマスクの男を見たと思いこんでいる筋。僕はしばらく黙っていた。そこには大事な物事の響きがあった。そしてそれについて一度考えてみた。言いたいことが分からないわけではなかったが、それはいささか考え辛いと言えば考え辛かった。そして今の僕には、その二つの違いが分からなかった。起こったことのように見える筋?それは目の前で起きていることじゃないのか?
「つまり君の言いたいことは、どのように生きて行動してもそこには自分の思わぬ反面の通路があるってことかな。」
「それを貴方は気付こうとしない。
貴方は何度も無意識でそこに立っている。
そしてとうとうその道が道であると知らず、歩き始めている。
こっちからしたらそんなの驚嘆に相応しい。
そして貴方自身は世間一般的な道のりを歩いたつもりになっている。」
「違ったかな。」
「少なくとも貴方は今月、学校を何日か休んでいる。
そして貴方が何かから逃げようとしているふうに私には見える。
そして貴方の歩く道はどんどん細くなっている。
でも貴方が本当に気付いているのか、私は本当に分からなくなる。」
「何から逃げるんだろう?」
「さっきも言ったけれど、貴方はあるべき所に戻らざるを得ないのよ。」
そしてそれこそが今度の文化祭で求めていることだった。
「それで君はアハトワと知り合ったんだね?」
私ははっきりと頷く。
今は何かを通して莉乃の話に切り替わっている。カチリ、そうレールの切り替わる音が聴こえる。僕は自分があまりマトモな思考が出来ていないことに気付く。いや、実際にはそのことに気づき始めたのは少し前からだ。僕は今まで当たり前とでも言うべき日常の中にいた。そこにイギリスからの転校生が来ることや、年に一度のビッグイベント(高校生はそれを文化祭と言う)があったくらいで、日常は日常である。そこに多少のカーブなり緩急が加わったとしても、ゴールは同じだ。それはあの穏やかな春に感じた列車の想像と同じかもしれない。でも目の前の光景が完全にガラリと変わってしまってから、つまり複雑な女性たちが現れ始めてから、僕は同じ毎日を歩いていない。学校に通わずこんなところにいるのは脱線とさえ言えるだろう。そして目の前がいつもどおりじゃないほど胸は躍り、考え事が出来ない。一人になってから思うのは過去のことだ。両親の死によって僕が変えられてしまった部分というのは、おそらくないだろう。でも人間にはどこかしらでターニングポイントというものが存在する。それは個人差があれど確実にある。そして僕はまた単線の車両を思い浮かべ、レールのスイッチが変わる音を耳にする。それはカチリと音を立てる。わずかだが確かに。それは目を開いても存在しない。でも確かにカチリという切り替わった音は、僕の耳に確かに聴こえる。それはだんだんと乾いていき、最後には無意識と一緒になってしまい、果たしてそんなのは聞こえたのだろうか、あるいはそれは疲れから来るデジャブのようなものか、ただの空耳なんじゃないかと思い始める。でもそれはここに足を立てている僕の常識が一応声を上げているようなものなのだ。もちろん確かにレールの切り替わる音は聞こえている。カチリと、容赦なく、過去の進路など一考だにせず、あくまで時が来たとばかりにオートマチックにそれは変わってしまう。
でも多くの人はそのことには気付かない。それが僕がその音を聞いてから思ったことだ。普通ならそんな音は誰にも聞こえないし、本来僕にも聞こえなかっただろう。ただ逆説的に、その時丁度両親がなくなったお陰で、僕はその切り替わる音に実際的な生活の変化を割り当てることが出来ただけだ。偶然の産物。よほど優れた人間でない限り、(そしてただ優れただけでは足りないだろう)そんな音は聞こえはしない。その分岐点は人生を良い方向に変えるわけでもない。ただそこまでとそこからの自分は表面上変わらなくても、何かが変わってしまっている。それは季節が変わるのと同じようにどうしようもない。でも季節みたいに一巡し戻ってくる保障はない。貴方は夏が好きだから後一ヶ月海で泳げる季節にしてあげましょう、なんてことにはならない。それを人は固定とも言うかもしれない。でも固定だけではない。それは何かを失うことでもある。日々は続いていっても、何かにはタイムアップがあるからだ。
「僕だって何が変わってしまったのかということに全て気付けているわけじゃない。」
「当然ね。」
「そこまで自覚的で鋭い人間ならこんな人生は送っていないしね。」
自虐的な微笑み。
「強いて言うなら、そのタイミングで僕は一人になるということを身につけ始めた。」
「誰かに両親を殺された時から。
私たちはそういう意味で対称的ね。」
「僕は殺されて、君は殺している。」
「だからこそ私たちはよく似ている。」
「一人になるのに親がいないのは当然楽だった。
でもそこで一人になるというのは、精神的な意味合いのほうが強いだろうね。」
「千紘と貴方は馴染み深い。」
「周囲にいた人々にも僕がそんな状態にいるとは気付かなかったんじゃないかな。
見かけが変わるわけじゃないし、そこまで人は他人を注視出来るわけでもないしね。
ただ僕はひょんなことから深いところに入っていくようになった。
そして少しずつ自分は自分で、自分以外は全て他人だっていう、当たり前の意識を抱いていった。」
「悲しくはなかった?」
「そんなことなんでもなかった。
元来そういうものだと気付いただけなんだ。
今もたまに誰かが僕の意識のレールをがちゃんと外してしまう時があるよ。
でもそれが誰なのかは分からない。
そしてそれがどのような合理的理由に基づくものなのかということさえも不明だ。
おそらくそこに合理的理性なんてないんだ。
当然それで支障を来さないわけはないだろうけど、僕にはそのことで実際的苦労をした覚えが殆どと言っていいほどない。」
「ある種の防衛なの。」
「そうかもしれない。
一度完全に意識を抜くこと、或いは何も考えないか、何かを考え続けること。
そんなことが起こるたびに僕は少しずつ現状の立ち位置を見誤っていく。
この言い方は正しくはない。
僕はそこには立っているけれど、そこの空気に合うわけではないと気付いていく。
でもじゃあどこが合うのかということになると僕にもさっぱり分からない。
違和感は覚える。僕はそんな物事について誰かに話そうと試みたことさえあった。
でもこんなことは見ず知らず程度の仲とは話せなければ、親密な人間とも話せるようなものではない。
そもそも自分にさえ上手くこのことを説明出来るとは思っていない。」
「だから私になら話せるのね。」
「君は信用がおける珍しい過去の持ち主で、君にも独自のベクトルの、違う事情があるから。それにこんなことで一々心配もしないだろう。」
「だから今まで黙っていたし、今お互いこんなところにいる。」
でも莉乃には、彼女にはその明瞭で明白、明確な音がはたして聞こえているだろうか?
「その表現はいささかなまぬるいけど。」
「何が君をそうさせたんだ?」
「きっと外から見たらマトモな家に見えたでしょうね。」
「虐待?」
「いいえ、そういうのは一切なかったわ。
この国で言うところの児童相談所が乗り出すようなことは。」
「でも何かがあった。」
「これさえあれば上手くいくのにって確信を持ったこと、貴方はない?
でもそれが有り得ないのは万有引力の法則くらいはっきりとしている。
貴方はそれがどう駄目か分かっているけれど、どうしようもない。
そしてどんどん臭っていくの。
貴方にはそれが分かる。
そして対策は一つだけ。」
「良く分からないな。」
「つまりね、たまに止められなくなるの。」
「何が?」
「なんて言えばいいんだろう。
強いて言うのなら…、破壊欲求?」
「…莉乃?」
彼女の目は血走っていた。足は一歩ずつこちらへと近づいていた。そして僕の目と鼻の先のところまで彼女が来た。でもその目はもう僕を見ていなかった。
「ある時期を過ぎれば物事は完璧に損なわれる」そして彼女はゆっくりと僕の左手を取ると、仔細にそれを眺めた。僕の手の一本一本が彼女の指と絡まっていった。そして僕の火傷の後が残る左手の薬指に彼女は優しくそっと、短くなったタバコを押し付けた。じわりと熱が僕の体を打った。相変わらず彼女の顔は何も見ていなかった。まるで鍼の治療でも受けているみたいだった。痛みはじりじりと僕の体を焦がしていった。それはあの焚き火よりも部分的で直接的な痛みだった。おそらく莉乃はタバコなんか好きじゃないのだろう。なぜ彼女はこんなことをしなくてはいけないのだろう?
「火災の発生には何かしらの原因が、火種がいる。
山火事みたいに」そう彼女は一字一句を味わい確かめるかのように声に出す。そしてその語感を確かめた後に続ける。
「貴方は今ささやかな火種を待っている。
薄く線香のように細い煙かもしれない。
荒く激しい怒りのような火災かもしれない。
それは私にも分からない。
でもそれは確かに天へと昇っていく。
そして段々大きくなっていく。
半分悪魔で半分救済者、最後は滅びるか矯正されるか変容するしかない。
それが私たちみたいな人間の末路よ。」
「ねえ、アハトワとはどういう人間なんだ?」
「それは貴方が実際に彼と会って話さなければ分からないと思う。
それにそんな容易に状況が好転するなら、それは致命的じゃない。
その程度の物事なら乗り越えるに値しない。」
「誰しもある程度はそういう傾向を抱えているものだ。」
「貴方もそう?」
「僕の場合、時効だ。
そういう時期に接触する機会がなかったから。」
「じゃあこの感じは全く分からない?」
「そうとも限らない。
要は想像力の問題だから。
きっと僕は頭の中では君みたいに振る舞うだろう。」
「頭の中だけ?」
「どっちがましとは限らない。」
「現実ではどうなるの?」
「きっとひどくなるだろうね。
だってそうだろう?
僕は殺してやりたいと思っていて、それ以外は全て意味ないんだから。」
「そうね。
かなり正しいわ。」
「だからきっと家を出ることになったりするんだろうね、遅かれ早かれ。
でも僕はもう一人だけの持ち家があるし、なんとも言えないよ。
結局のところそういうものなんじゃないかな。」
彼女は黙っていた。
「破壊衝動について、他に打ち明けたことは?」
「一度だけ。
一番驚いたのが、全然そんなこともない人が私に理解を示したことね。
貴方のそういう部分は僕や私にもあるって。それって本当だと思う?」
一時間で打つのをやめて会計をした。彼女との玉撞きはとても勝負にならなかった。
「どうですか?
上手くなりましたか?」
「さあ、どうでしょう。
でも感覚はなんとなく掴めてきました。」
「キューを打つスピードというのはその人により様々ですが、その人によって打ちやすいスピードというのは確かに存在します。」
僕だけのスピードで歩けたら、もっと人生は過ごしやすいんだろうな。
「次からはもう少し意識してみます。」
「是非」そう彼はニコリと言った。
店を出てから、彼女と少し通りを共にした。訳もなく物悲しい深夜だった。街路のライトは相変わらず僕には眩しすぎた。
「家の前まで送るよ。」
「そう?」
「こんな時間に呼びつけたのはこっちだからね。」
「急に連絡をしたのは私だけど。」
それ以降会話は続かなかった。向こうも普段からそんなに話したがるタイプではない。また僕は今目の前の人物と会話して歩くより、先ほどの会話が尾を引いていた。だから
「貴方の求めているものって」と莉乃が話した時、それは最初どこか遠くでの出来事みたいに聞こえた。
「僕の求めているもの?」
「大体の人にはそういうものがあるじゃない?」
「理想ってことかな。」
「欲しいものとか。
それで、貴方と話していて貴方の欲しいものが影になってちらつくことがあるの。」
僕は黙っていた。一つには彼女の言うことの予測が付かないからであり、もう一つには自分がポーカーフェイスで、少なくとも普段通りの表情で彼女の話を聞くよう注意したからだ。
「僕との会話で、僕の欲しいものの影が君には見える。」
「まあ、漠然とはあるし、じゃあ何かなんて今聞かれても分からないのだけど。
ただなんとなく、通りの向かい側の歩行者みたいな感じで、その貴方の影が通り過ぎるようなだけだから。」
思わず僕は向かい側の通りに目をやった。でもそこには誰も歩いていなかった。この通りだって僕ら以外は見えないのだ。でも彼女の話し方はただ僕が今見逃しただけで、彼女の目の端にはたった今まさに僕の影が会釈もなく他人事のように素通りしていったのだと思わせる説得力があった。
「それを見て何か感じた?」
「うん、まあ印象くらいは。」
「あまり良くない印象だろう?」
彼女は黙っていた。
「気を使うことなんてないよ。それに自分のことだ。」
でもその言葉は理由にはなっていなかった。自分のことだからどうだと言うのだ?
「貴方の求めているものって、手に入らないわよね。」
彼女がこちらに目をやり、その長いまつげは綺麗に並んでいるのが見えた。
「うん、そうかもしれない。」
「それ、よく考えた方がいいかもね。ここよ。」
気付くと、彼女の家の前に着いていた。
玄関のすぐ左にコンパクトなIHのキッチンがあり、右手にはトイレとバスルームが併設されている。それらを横目に短い廊下先の扉を開くとワンルームの部屋が現れる。引っ越してからあまり経ってないのだろうか、まず外の明かりが部屋を薄く照らし出しているのが分かる。カーテンがないのだ。奥に長い長方形のそのワンルームを、彼女は真っ直ぐ薄闇の中を進む。そして左奥の角にある一脚の間接照明の灯りを点け、窓前に置かれたアンティークの一人掛けソファに腰掛ける。
「好きな所に掛けて。」
そう言われて座る場所は、左壁に設置されたソファベッドか、右手前の一人掛けソファということになる。ソファベッドの前には長方形のローテーブルが置かれている。バンドメンバー皆が座るスペースはないが、少数の気心知れた関係なら丁度良い塩梅と言わんばかりの家具の配置だ。彼女がそうしているように、革張りの低い四脚のソファに腰掛けることにする。
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