第36話 That news to you?
僕らは川にかかった橋を渡り、ガソリンスタンドを通り過ぎ、遊行寺のある坂を登る。莉乃の家は千紘の住む別邸からすぐ近くだった。店を出てから半時間ばかり経っただろうか。
「君は千紘の家には住んでいないのか?」
「ええ、別のところ。」
十分ほどで彼女の家につく。慣れた手つきで投函をチェックすると、彼女は二階の一番奥まで進み、ドアを開ける。
「おじゃまします。」
玄関は狭く、右手にはIHの簡素なキッチンが付いている。どうやらこまめに自炊をしているらしい。食器は必要最低限が置かれている。左手にはバスルームがあり、真直ぐ進むと6畳間ほどの空間に出る。
「好きなところにかけて。」
右の壁には横長のデスクが置いてあり、学校の課題や参考書が置かれている。その前にある革張りのオフィスチェアと、左奥の角にあるLC4の仮眠がとれそうな椅子があり、僕はオフィスチェアに座る。
「コーヒーでいいかしら?」
「どうも。」
「少し待っていて」そう言うと彼女は上着を脱ぎ、部屋の手前にあるクローゼットの中にかけ、廊下へと進む。僕は手持ち無沙汰になり、梯子の先にあるロフトに目をやる。どうやら上階が彼女の寝室となっているらしい。敷布団でも敷かれているのだろう。女子高生の部屋というよりは、引っ越して少し経った社会人の部屋に見える。そこには彼女の匂いがしない。ロフトがある影響か天井は高く、それが思いの外部屋を広く感じさせる。上の方には天窓が付いている。限定的な空間だが、居心地は悪くなさそうだ。ロフトに続く階段には三段構えの木製机が置かれている。彼女はコーヒーの入ったポットと、無機質な白いマグカップを二つ持ってくる。
「住心地の良さそうな部屋だ。」
「まあね。」
「あまり荷物は持たない主義?」
「そうね、多い荷物は人を疲弊させるから。
もっとも、俣野の別邸にも使用人として私の部屋がある。
ここに置いてあるものが全てとは言えないのだけど。」
「なるほど。」
「いわばこの部屋は、私の秘密基地みたいなものよ。
一人になりたい時が、あなたにもあるでしょう?」
「隠れ家。」
「そういうこと。
一人暮らしはね、本当の自分の心と向き合うためには不可欠なものなの。」
「本当の自分の心?」
「誰もいない自由な時間と空間の中で、私は普段の生活では蓋がされている自分の心持ちを嫌でも知ることになる。
それがどんなに醜いものであったとしても、それから目を逸らすことは出来ない。」
「その醜さは自分特有の醜さで、自分自身でもあるから?」
「人はそれを影と言ったりする。
どう、樫江君。
貴方には影がある?」
「あるよ。
濃厚な影が、たっぷりと一人前。」
彼女の淹れたコーヒーを手に取って一口すすると、デスク上のコースターに置く。彼女は椅子にゆったりと腰掛け、コーヒーカップを置く。莉乃はリモコンを手に取ると、右奥の角に置かれたモニターの電源を入れる。そこには──が映っている。
「こんにちは、樫江君」そう彼女は言う。
「こうしてビデオレターを再生しているということは、もう私は貴方の所にはいないと思う。
貴方の立場からすれば、理解が及ばないところも少なくないと思う。
たとえそれが普通に考えてみれば当たり前のことだとしても。」
一拍置いて彼女は続ける。
「だからこうして、最後にさよならを言おうと思ったの。
貴方が混乱しないように。」
もう充分なくらい混乱している、と思う。そして彼女は今どこかにいる。周りの音から、おそらく彼女は車内のドライブレコーダーを切り取ったのだろうということが想像付く。
「私はテストを終えて夏休みを迎えた時点で、もう高校に通う必要はなかった。
でもどうせ母国も夏休みだから、せっかくなら日本に残ろうと思った。
そうしたら、貴方達は修学旅行の話をしていた。
そしてある思いつきが浮かんだ。
つまり貴方達が渡英するタイミングで私も帰ろうって。
でも修学旅行は10月の後半で、私の留学には元々そんなプログラムもない。
学校側に掛け合って滞在を文化祭までにしてもらったとはいえ、私が校舎に滞在出来るのは9月の半ばまで、貴方達の渡英までまだ一月ある。
貴方のお姉さんには夏一杯までいれば良いと言われていたけれど、結局は文化祭までの滞在になった。
だから貴方の家を出た後、どうしたものかと思ったわ。
車のトランクケースにはスペアタイヤと、着替えの入ったキャリーケースが入っている。
ザッツ・オール。
どこに行くべきかも分からないまま、異国の地で一人、無目的に一月を過ごすというのは、中々簡単ではなかった。海中の渦のに沿って無意味に流されるクラゲ、それが私だった。
結論から言えば、千紘さんの邸宅にしばらく車を置かせて貰っていた。」
アメリカの邸宅を思わせる玄関、ロシアン・リムジンの隣に置かれた彼女の車。
それはなかなか簡単に思い浮かぶ景色ではない。歪な景色だ。あるべきでないところにあるべきでないものがあるという直感。
「ある日の夕食後、莉乃さんから相談があると言われたの。
千紘さんのビリヤード・ルームで私たちは話すことにした。」
僕は夏のいささか出来過ぎたパーティーを思い出していた。
「彼女はこちらの近況を聞き、私はそれについて答えた。
彼女はグラスに一口つけたあと、しばらく黙って考えていた。
もちろんそんな長くじゃないわ。チェスの序盤から中盤に切り替わるフェーズで、次の一手がどう流れを変えるか、大枠を頭でさらうみたいな、そんな感じ。
そして彼女は一度頷くと(きっと問題ないだろうという感じで)素敵なオファーを提示してくれた。
それはつまり、住み込みで彼女専属のドライバーにならないかってこと。
それが彼女の提案だった。」
僕は彼女の方に視線をやった。彼女はただ僕に向かって、その目で頷くだけだ。
「もちろん私はその誘いを断ったりしなかった。
これで見通しが立った。」
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