第34話

「失礼します」学年とクラスと名前を名乗る。そこは職員室だった。

「2-6担任の幸恵教諭はいらっしゃいますか?」

しばらくすると彼女本人が出てきた。

「改まってどうした?

修学旅行の話か?」

「それに関わる話にもなるかもしれません。

今時間を作って頂くのは可能ですか?」

「そう堅くなるな、時間なら作ろう。

自分の生徒だ、隣の会議室の鍵を借りてきてやる。

そこの前で待っていなさい。」

礼を述べると僕は言われた通りにした。彼女が鍵を開けると、僕らは中へと入った。一番近くで都合は良かったが二人で使うには随分と広い部屋だった。

「それで、話って?」彼女は椅子に座るとそう切り出した。

「アシュフィールドさんについてです。」

彼女はため息をついた。

「彼女については私よりも君の方が良く話を承知しているものかと思っていたんだが。

何せ君だけが朝のホームルームで無表情だったからね。」

「先生にとっても急な知らせだった?」

「ああ。

正直に打ち明けて、朝言ったことくらいしか私は知らないんだ。

手続きも全てが最低限のものだ。

彼女はもう既にこちらでの短期留学に必要な単位を取り終えている。

だが本当に帰国したかは眉唾ものだな。」

「というと?」

「そうですか。

…そういえば先生は、彼女の住所をご存知ですか?」

「あいつの家だろ、書類に書いてあった。」

「あいつ?」

「君のお姉さんのことだ。

帰国するらしいということだったので口出しは控えたがね。」

「どうしてそのことを知っていたんですか?」

「おや、知らなかったのか?」

彼女は訝しんだあと、悪役がやりそうな笑みを漏らした。

「私と君のお姉さんはこの高校の同期だよ。」

今度は僕がため息をつく番だった。

「まだ世界は、僕の知らないことだらけみたいですね」そう言うと彼女は笑う。

「それはそうだろう。

君は今いったい自分がいくつだと思っているんだ?」

「もう十七歳になります。」

「まだ十七だ。

君のお姉さんと私は今年で二十六になる。

それはもうあっという間のことだ。」

彼女は自身の高校時代を回想しているらしかった。

「その様子だと君は知らないかもしれないが、君のお姉さんと私は二年生の頃同じクラスだった。

その頃の私たちは君ほどではないかもしれないが、それなりに羽目を外していたよ。

まあ、君はそういう年頃なんだ、一般的に言ってね。

そして目を閉じて次に開く時、大方の物事は既に過ぎ去っている。

それが二十五になって思ったことだな。」

「十年後のことなんて想像もつきません。」

「当たり前だ。

十年前、私は今のお前と同じ立場だったんだぞ?」

信じられるか?と彼女は笑った。その言葉には妙に説得力があった。この人はどのようにして母校で教鞭をとるに至ったのだろう。

「奇妙なものだよ。

十年前は私は中学三年生で、別の高校を第一志望としていて、この熾烈な競争社会のスタート地点にいたんだ。

それから人並みに大学に行って、教職を取って、ストレートで教員になるなんて思ってもなかった。

君も知っての通り、生徒から見たら禄な職業じゃないからね。」

「今の僕より年下ですね。」

「笑えるよな。

私は君の姉さんと放課後の帰り道、よく話したものだった。そ

の頃君は・・・ああ、七歳か?」

僕は頷いた。

「あんなに小さかった子供がもう大人になっているときた、やれやれだね。

これから君は実に多くのことを知っていくんだ。

ああ、でもこういうのはなんだか年寄りの説教臭くて駄目だ。

そんなこと聞きたくてここに来たんじゃないだろう?」

その通りだ。

「ありがとうございました。」

失礼しますと言うと僕はその場を後にした。


 僕は姉のセリフを思い出していた。

「イギリスでのことは何か思い出した?」

相変わらず何も思い出せなかったが、僕はそれに対してなにかしら関わるべきだったのかもしれなかった。例え記憶がなかったとしても。

「貴方も頑張りなさい。

せいぜい手遅れにならない内に。」

あれは最終通告だったのかもしれない。だから彼女はあの日あんなにお酒を飲んでいたのかもしれない。だから両親のことを彼女は思い出したのかもしれない。可能性は砂時計の砂が落ちていくようにどんどん手から零れ落ちていくかもしれない。制服を脱ぐとそのままベッドに横になった。そして眠りがやって来るまで考えた。もしかしたら姉は僕の知らない人生を送っているのかもしれない。それはリナという一人のイギリス人が転校してきたことからも、今となっては有り得ない話ではなかった。手元には文化祭で手にしたM92Fがある。まどろみの中で1Lのバケツにいっぱいの「かもしれない」が入ったのを確認してから、僕は眠りに落ちる。


 目覚めたのは数時間後だった。丁度夜の到来から少しした、落ち着きのある時間だ。だがその日の夜はいつもと違っていた。随分静か過ぎる。こんな日は年に数回ある。誰も帰ってこないし、この家には僕しかいない。あらゆる生命が息を潜めたみたいな静寂。外は弱く、音のない雨でも降っているのかもしれない。車道を走る車の音だけがたまに断片的に聞こえたが、それも完全になくなってしまった。それらは海に向かっているのかもしれない。或いは家に向かっているのかもしれない。フィクションの描写に出てきそうな静けさだ。何もかもが全て去っていった後の、凪のようにひっそりとしている。それを僕は海から3kmほど離れたここにいても、ありありと感じることが出来る。そしてそれからあることに思い当たる。あの夢の海の静けさと、驚くほどに似ている。というか、だからこそ離れた海のことが分かるのだ。それは全く一緒と言ってしまっても支障はないかもしれない。たまにバイクの騒音も混じって聞こえたし、人の声みたいなものだって聞こえはする。もちろんこの時間帯だからとは言え、一人きりになれるわけなんかない。でもそれだけだ。夏に皆と行った海を僕は思い出した。今があまりに静寂すぎて、対極を考えたくなっていた。文字通り青い空、それが反射した海、暖かな海風。生き生きとした十七歳。インフレータブルボードと焼けるような日差し。サングラス越しでもわかるぎらついた太陽。


 でも今は全てが逆転している。風もなく太陽も出ていない、月の見えない夜。波風一つ立たない海の上に、漕ぎ手は一人。普段と変わらず誰かの援助もなく、一人で物事が進行していく。どこに漕いでるのかさえ分からない。四方八方同じ景色だ。方角も分からない。僕は今どこにいるんだろう?その海の下には生き物がいるのだろうか?そして彼らは凶暴だろうか?何かが僕の立っているボードの直ぐ下にぴったりと後を付けている気配があった。しかし海面を覗き込んでも、そこには何も映らない。それは大きく無害な魚かもしれないし、サメかもしれない。エイだってここらには生息している。それから僕はレプリカの銃を取り出し、セーフティを確認したあとにガラス棚の姉の土産品を並べているスペースに置いてみた。やってみるとそれは存外悪くない試みに思えた。ダミー、複製品、コピー・模造品…。次に思い浮かべたのは書斎の絵だった。 そして部屋の一角に置いてあるそれに目をやった。文化祭の後それをまた持って帰り、自室に置いていた。この絵の幻覚を僕はまだ忘れられないでいた。それは間違いなくこの絵画の人物ではなく見知った顔だった。でもそれはいくら考えてみても何にもならなそうな話だった。


 それからの一週間は恐ろしく何もなかった。どこからか工事の音がした。人々の営みの音であり、生活の音だ。それは何度も頭の中で響いた。長く執拗で、工具を用いた労働の音。今まであった何かが跡形もなく取り壊され、取り除かれる。そしてまた新しい、いつかは取り壊されることになるであろう何かが造られていく。ただそれを永遠に繰り返す。何も僕を何処かへ連れて行こうとはしない。そして僕はここからどこかに連れて行ってくれと心底思っている。何も起こらない日々だろうが起きなくてはならない。体を秋や冬の寒さに慣らしていくように、何も起こらない退屈さに慣れないといけない。そして相変わらず定期券が改札を通る単調な音を鳴らし続け、電車に乗り続ける。行き先の決まった電車、いつも同じだ。


 そんな僕を救ったのは夜の静寂だった。朝にはない静寂がそこにはいくらでもあった。僕は現実を一切忘れ、ただ黙ってその無限に思える夜がどう消えていくのかをじっと考えていた。


 その頃の僕は上手く眠るということが出来なくなっていた。だから眠くなければ何時間でも起きたし、眠ければすぐに眠った。当然平日は学校があったので僕は一睡もしないこともあった。でも教室に着けば放課後まで眠る機会なんていくらでもあった。当時はそれについては少しも疑問を抱いていなかった。むしろそれは当然だろうと思っていたふしがあるくらいだ。でも何も対策を取っていなかったわけではない。まず僕は強い蛍光灯の明かりを避けるようになり、間接照明を一つ使うようになっていた。そして夜の長さに耐えられなくなると有意義だが脳を使う必要のない番組を探し、ソファで寝転んだ。結局その時の僕はバラエティーとか映画、音楽の持つ緩急や音量の機敏な変化にうんざりしていた。外の工事も原因のひとつだったと思う。このめくるめく騒々しい世界に対し頼むから静かにしてくれ、と僕は願っていた。そしてクラシックカーをひたすら修理する番組を見続けた。生産的で有意義だが、かなり前の車だ。その時々で出てくる車たちは一つの時代を表していたし、それは手にとって触れる時代だった。僕はその短期間で35台のクラシックカーがレストアされていくのを見た。それはリラックス出来たし、いきなり「何か」が持ち上がるというようなこともなかった。ただ彼らは己のスキルと心情や好みによってぼろぼろの旧車を買い求め、それをレストアし高い値段で売った。舞台はイギリスだったがそれがいつの時代のイギリスかは分からなかった。そして一つの旧車につき最低一人は何かとてつもなく需要の低そうな職人の手が必要になっていた。だから一時間に一度は良く分からない分野のエキスパートが備品を造っていた。彼らは共通して男で、幸福には見えずとも根は良さそうに見えた。こんな人達とはまず地元で会うのは難しいだろう。確かに彼らのような人達は英国(だかどこか)の片田舎で仕事をしているほうが納得できた。それはひどく遠くの世界の出来事に見えた。彼らが番組の終わりでレストアされ光り輝く旧車に乗り、エンジンを吹かして英国の田舎道を飛ばすのはなかなか見応えのあるものだった。そしてその度に後少しで僕もあそこに行くんだという、実感の沸かない思いが頭を過ぎった。自室でない部屋の利点は、模様替えを五回行い、四回行うような愚かしい行為をしないで済むことだった。いや、正確にはもっと多くの回数だ。それはひどい時にはほぼ毎日変更された。どの家具をどのように配置しても納得は続かない。自分が神経質で、落ち着きがないからではない。その行為は僕にとっては極めて自然な、当然の手順だった。目の前の岩を押して退けるようなものだった。ベッドをどかし、タンスをどかし、あらゆるものを移動させること。僕はそれだけを必要としていた時があった。その一人で行うには大掛かりな作業は、しかし行えば行うほど洗練されていき、また機能的な部屋へとなっていった。それは全て自分の采配で思うようになり、全て自分のものだった。僕はひたすらあらゆるものを移動していった。そしてそれによってすぐに汗だくになった。肉体を使うことは思いの外心地よく、喜ばしいことだった。大体の場合は一枚だけ着ていたシャツも半分くらいまで作業が進んだところで脱いでいた。それは肉体労働であり、あるポイントでは完璧に見えたものでさえ結局は完璧ではないということを僕に実感として納得させた。僕はただある部分で何かの美点を決めただけだ。そしてそれを眺めながら常に価値観はもうひとつ上を更新していく。現実では完璧というのは短く、限定された場所でしか作用しない。それは掃除を何度もしたはずなのに残っているほこりのようなものだ。過去のある点でそれは永久に完全性を保持している。でも少し先になれば現在の自分がそれに納得することはない。でもそのようなある種の一般性が通じないものもある。僕はこの文化祭までの間にリナのことが放って置けるような存在ではなくなってしまっていた。果たしてそれを恋とは呼べるだろうか?それは難しい質問だった。でも何かを求めて、あるいは何かから遠ざかろうして彼女はここまできたはずだった。でも別れの言葉もなしに消えてしまった。そして僕が変えたいのは部屋の模様じゃなくて、彼女が確かにここにいたという空気だったと今更気付かされる。数秒が経ち、自責の念から一人僕自身に向けて恨み言が述べられる。絵だけは永遠に同じだ。いくら見ても位置をずらそうとすら思えない。僕はその部屋で長いこと過ごす。でもそれは体感的に長いだけで、時計の針に操られる日々に変わりはない。ただ登校し帰宅する。そしてこの部屋でただ何も考えずに絵を前にする。そして擬似的だが先の見えない永遠が顔を出す。それは徐々に体に纏わり始め、次第にこの場所に根を下ろしていく。気がつくと目が閉じられていて、気がつくと目が開かれている。チャイムは毎分鳴っていたり、一日に一度だけ鳴ったりする。少なくとも何も変わってはいない状況だろうが景色だけは変えられる。ギターを出してもよかったがあまり何かを弾く気分にはなれなかった。全ては過ぎ去っていく。多くの生徒達は次の修学旅行に向けてテンションを維持していくことに決めたらしかった。修学旅行、イギリス。落差は日に日に増していく。思い出したかのように雨が連日で降る。これはいったい何なのだろう?ただ細部が違うだけだ。僕は文化祭のレコードを聴いた。初めは素通りしていたがその存在に僕は段々と興味を持っていった。そしてその内それとウィスキーボトルを父の書斎から拝借し、自分の部屋に移した。そのレコードジャケットには

「豪華版 <世界音楽大全集>クラシック篇 第八巻」と記されていた。姉と夏に車の中でクラシックを聴いていたのが頭に残っていた。最初の曲はゴルドベルグ変奏曲<BWV988>だった。表紙にはいかにもクラシック音楽だとひと目で分かるような小さなブロンドの女性の肖像画が書かれてあった。まずレコードを取り出すと手始めにそれを専用クリーナーでホコリを取った。僕はチェンバロの音に耳を澄ませた。次にライナーノートを読んだ。1802年にロシア大使だったカイザーリンク伯爵の発意で作曲された。体を崩し夜眠れぬ伯爵の為にゴルドベルグは主人に何かを弾き続けてやらねばならなかった。伯爵はその時のゴルドベルグ用に何か作るようバッハに依頼した。こうして普遍的芸術が生まれた。バッハはこの作品の場合ほど多額の謝礼を貰ったことが一度もなかっただろうとそこには書かれていた。伯爵は100ルイ貨幣(それがどれほどの大金か僕には当然知る由もなかった)を山盛りにした金のカップを送った。その曲は基本和声がいつも同じだった。既存のアリアに三十の変奏がなされている。そして十六小節の二つのグループを繰り返す。同じ繰り返しでも僕の日常の対極みたいに聴こえた。飽きることのない、完璧な循環。このレコードの中ではいくつかの繰り返しは尺の都合上省略されていた。伯爵が眠れぬ夜に幾つかの断片を聴いただけみたいに。チェンバロ奏者はドイツの女流クラブサン奏者、ピアニストと書かれていた。それを聴きながら腕立てをした。そのお陰かこんなことに意味なんてあるのだろうかという思いも少しずつ薄れていった。それは当然やった方が良いことなのだ。だが100回の腕立ては苦痛以外の何ものでもなかった。最初の一回を機械的に行うには僕は疲れすぎていた。でもなぜ?高校生というのはまだ人生を如何様にも変更できるはずだ。もちろん一般論だ。でもそれは26歳とは違う心境のはずだ。僕は何を疲れ切った顔をしているんだ?タイマーを取り出すと十分をセットし一分間に十回を繰り返した。全ては見慣れた風景だった。その間紫乃華とも会わなかった。学校の授業と辛うじての室内トレーニング、時間だけが規則的に前に進んでいった。僕は徐々に15kgのダンベルを持ち上げることに慣れていった。それは世界に僕を合わせていくような感覚だった。でもそれに対する限界は変わらなかった。それは何かを扱うことのように僕には思えた。そしてあまり外に出なくなった。確かに僕は違う世界にいるようだ。一人部屋は昔より居心地が良く、こういう日常こそ僕が送るべき日々だったかと考えもした。彼女一人がいなくなった程度でどうしたっていうんだ?そして彼女は僕にとって誰でもないじゃないか。せいぜいがよく晴れた日曜日の、お隣の芝生程度のものだ。家族でさえなければ彼女でもない。友人?そう考えて一人脱力した笑みがこぼれた。互いの友情を確認したことなんて(たとえそうする必要があったとしても)しただろうか?そもそもそれを言ってしまえば本当に友人と言える人なんて果たしていただろうか?なぜこんな下らないことばかり考え、動揺するのだろう?あの絵画のせいだ。全てその日を境にしているかのようだった。僕はそれには気づかないふりをしていた。でもその死角にあった小さな、小さな黒いしみは日々大きくなってきている。僕はあの絵に何かを見ている。でもそれが何なのか分からなかった。そういうのも随分とストレスだった。ひとつは僕と何ら関わりないと言っていい彼女の喪失が僕に落としていった、欠落という名の影だ。異常な生活環境、そう莉乃は言った。ミアの存在がこの家で自然な形になりつつあった。そして彼女の姿はどこか寂しさを思わせた。彼女はどこかに私を連れて行ってくれと思っているようだった。そして何かが彼女を決定的に連れ去ってしまった。それが何かは分からない。彼女が存在していることはおかしくなくても、彼女がここで暮らしているということは人々に首を捻らせる。でも彼女はホームステイとしてここで生活していた。僕と彼女の関係ではなく、姉と彼女の関係だ。でも彼女は姉の部屋にはいなかった。彼女はここにいた。


 レコード屋は当時の僕にはまたとない居場所となった。当然深夜の客足は少ない。確かに踊りたいという気分ではなかったし、前述したようなコルコヴァドの中で音を絞って聴くならクラシックやメロウなジャズが中心になるだろう。僕は意味もなく初めてかけた件のレコードを再びレコードテーブルに載せて針を落とした。腕立てをしたり、ベッドで横になりながらそれを漠然と聴いた。段々と無意味だと思っていた様々な流れ…過剰さや単調さにも意味があるのだと分かってきた。それらに歌詞はなくとも言いたいことは分かるようにさえ思えた。僕は再びライナーノートに目をやった。シューベルト作曲「死と乙女」。死だ。時間も死も僕を待ってはくれない。それは彼の数多くの室内楽中、最も優れた作品と言っても差し支えないということだった。また最も規模が大きく、最も重要な作例とあった。同じく彼の作品である絃楽四重奏曲第十三番(ロザムンデ)とほぼ同時期の第十四番となる今作も作曲された。タイトルの通り暗い曲調だ。でもメリハリがあった。緊張感と優美さ、主題といくつかの変奏、それが聴き飽きることなく耳に届くように感じたのも長く無意味な夜の効用だ。内容は病床の乙女の前に死神は現れるというものだ。救いがない、乙女は死を受けないが死神は貴方を苦しめるつもりはないと言う。セールスのように陳腐な台詞回しだ。貴方に安息を与えに来たのだと死神は言う。それは恐ろしい苦痛とは対極の、永遠の安息として描かれている。死は眠りの兄弟というわけだ。両親もそうであったことを僕は祈った。乙女の緊迫した拒絶の出だしが死の安息を際立たせている。それらの僕とは関係なかった物事を頭に入れるのは悪い気がしなかった。ひとつひとつの和音と言葉が素直に入っていく。


 学校に行く必要は当然なかった。いや、修学旅行についてだけは知るべきことがあった。どちらにせよ眠りたいだけ寝た。本当は昼夜を逆転させたかったくらいだった。でも例え丸きり意味のない日々でも、最低限はちゃんとしておきたかった。どの道どこでも寝られるのだ。それは嫌に時間が経つのが遅い一週間だった。それは一ヶ月にも半年にも感じられた。その間に文化祭のクラス内での打ち上げがあった。僕らのクラスは茅ヶ崎駅からすぐの店を予約していた。僕はいつものメンバーと駅前で待ち合わせてそこに向かった。誰かと話している時だけ僕の心は穏やかだった。でもあまり話をしなかった。でも僕はそこで自発的に、デザイン班とだけはやり取りをした。

「文化祭のマスクのことだけど、あれ良かったよ。」

「それは何よりだ。

もともとはお前のアイデアだったけどな。

陰湿で怪奇的だったろ?」

「もちろん。

僕が観客として見られたのは最終日の午後休憩の前の回だけだったけどね。

正直想像以上だった。

度肝を抜かれたと言ってもいいくらいだ。

今ままでのと随分絵のタッチを変えてきたなと思って。」

「ああ、そうだろうな」彼は神妙な顔つきになって言った。そこで一度会話に溝が生まれた。彼は少し斜めを向いてじっと考え事をしているみたいだった。僕は気になって訪ねた。

「何かあったのか?」

「いや…。」

それから彼は一度逡巡したあとにため息をついて言った。

「オーケー、元々はあれはお前のアイデアだ、樫江。

俺も正直に話す。

実はあの時のマスクは俺の作ったものじゃないんだ。」

「つまり部活の奴に作ってもらったのか?

それくらいいいじゃないか。」

「いいや、俺はあれに関しては全て一人でやったよ。

別にデザインと趣旨のある程度決まったマスクを黒の油性ペンで書き上げるなんて面倒な作業じゃないからね。

だから建前上はあれは俺の作品ということになってしまう。」

「何が言いたいんだ?」

「だからね、あれは俺の知らない別人の作品なんだ。」彼は誰かに聞かれぬよう声を潜めて言う。

「誰かが作ったんだよ。」

「でも誰の仕業かは分からない?」

「ああ。

あの後俺はクラスの何人かに聞いたけど、誰も知らなかった。

もしかしたら他クラスの悪戯かもしれない。」

「でも他クラスがわざわざあんな小道具に細工なんてすると思うか?」

「そこだよ。

もし舞台を失敗させたいなら、もっと別の有用なやり口が、きっといくらでもあっただろう。

実際俺達はあんなマスクを用意しても入賞をきっちり果たしたわけだしな。

おかげでこの盛り上がり様さ。」

「でも確かにあれで泣き出す子たちがいたのも事実だ。

もし一位を取りたかったなら、あれは使うべきじゃなかったね。

本人は本番が始まってからそのことに気付いたのか?」

「いや、実を言うとあの仮面のゴー・ノーゴー判断は俺に一任されていたんだ。

といっても自主規制するかどうか、ということだけなんだけどな。

そういう意味じゃあれは確かに悪手だったし、失敗だった。」

「君だけはあの仮面に気付いていた。

いつから?」

「劇が始まる前のセットの時さ。

そりゃあ驚いたなんてもんじゃないぜ。

考えてみろよ、俺が作ったはずのもののところにまったく違うのがあるんだぜ?」

「他のを使うわけにはいかなかったのか?」

「あれしかなかったんだ。

紙袋なんて一回使えば耐久的にお役ごめんだし、役が変わるごとに用意するからね。

でもそんなのは言い訳にすぎない。

描こうと思えば、俺は新しいのを描くことができただろう。

でもあれを見たあとではもう駄目だね、手が動かなかった。

あれより凄みのある犯人は俺には創れなかったよ。

そして俺はあんな犯人が登場したらどうなってしまうのか、どうしてもこの目で見たくなってしまった。

物語や観客はあれの導入によってどんな反応を示すんだろうってな。

マッドサイエンティストと同じさ。

結果が知りたいがためにやばそうだけどゴー判断をしたんだ。

それに俺が黙っていることで余計な問題を起こさずに済んだしな。

皆がパニックになるのだけはごめんだろう?」

その通りだ。

「俺はあれを折りたたんで役者に渡すだけで良かった。」

「そうえば演技も凄く良かったな。

あれは誰だったんだ?」

「本来は新垣の番だったよ。」

本来は?

「詳しくはあいつに聞いてみてくれ、俺の口からは何とも言えないし、それにお前は信じてくれないかもしれない。」


 それからはして文化祭の感想、あの脱出ゲームの成功について皆が各々語り合い、来る修学旅行に向けてクラスをより団結したものにする会として機能した。それは二次会と称した近場の公園でのミニゲームまで及んだ。皆随分と楽しそうだった。帰り際になって僕はようやく新垣を捕まえると先程竹田との会話の真相について確認をした。

「ああ、あれか。」

それまでのクラスの盛り上げを一役買っていた姿とは一転、彼もまた神妙な顔つきになった。

「本番前になって急に腹痛がしてさ。

ほら、あの教室冷房がガンガンに効いて寒かっただろ?」

確かに。

「それに緊張だってしていた。

だから俺はジャケットだけ脱いでトイレに行ったんだ。

皆には迷惑掛けるかもって思ったけどさ、実際それ以外にどうしようもないよな。

それで俺はそこに一時間弱いたんだ。」

「そこって、トイレに?」

「馬鹿みたいだろ、脂汗垂らしてずっとうんうん言ってたよ。

戻ってきたら劇もクソもないぜ。(僕はそこで久しぶりに笑った)

全部終わってたんだ。」

彼はそこでようやく気分を取り戻したみたいだった。

「結局誰がお前の代打をしたんだ?」

「分からずじまいなんだ、それが。

肝心の話を知ってる奴が裏方だろ、でもあいつは俺が役をやってると思ってたんだぜ?

お前は見てて誰か気付かなかったか?」

僕はその時人生初めてのライブで緊張しすぎていたことを告げた。とても劇に集中出来る状態じゃなかったのだと。

「なんだ、お前も緊張してたのか。

もしかして、俺達トイレのお隣同士だったかもな。」

「気付いたらあのマスクマンがいたんだ。

それで我に返ったよ。

声だって僕が知らないやつみたいに聞こえた。

低くておぞましいとさえ言えるくらいだった。」

その時新垣が盛り上がっている最中のクラスメイトに呼ばれたので、話はそれきりになってしまった。そこにはただ不気味さと理解のしがたさだけが残った。そしてそのことを他のクラスメイトは気付いてもいなければ、さほど気にしてもいないようだった。しかし今の話をまとめると、あの場には我々の知りえない誰かがいた。彼は一人で勝手にマスクを用意し、勝手に表舞台に立った。本当にそんなことが可能なのだろうか?しかし彼は実際に、巧妙とそれをやってのけたのだ。まるでタイムテーブルを全て把握しているかの如く。


 今でもよくこの時のことを思い出す。大体は夢の中で。しかも夢の端切れと端切れのコマーシャルみたいに、それは唐突に顔を出す。どこまでも先が見えないのだ。例えばブロンドの女性が準備はいいかと僕に尋ねた瞬間、その夢に切り替わる。そしていつもここに僕は戻ってくる、どんなにあの時から時間が経っても。そしてそこは相変わらず袋小路のままで、僕はどこにも進めないまま、ドアは開かないどころか一枚もなく、己が詰んでいることをたまらなく自覚させられた末に目が覚める。そしてそういう夢を見る時は決まって良くないことがあった日か、よくない一日になる。しばらくその時のことを思い出そうとする。その日の朝が静かで時間に余裕があるなら、それについて考え直し、幾ばくかの後悔ややるせなさを胸に思い直す。

「本当の袋小路に陥った時は、自分の選択が最適解なのか考え直すことだ。」

そしてそれはいつも最適解には思えない。ただ僕にはそれらの物事に対して、そう対処せざるを得なかったというだけのことなのだ。敢えて言うなら、いつも全て間違っている。


 放課後になると家に帰り古い白黒の映画や、新しいカラフルな映画を見た。白黒の世界では若きフィルム・パーソンが波止場に立っていた。フィルム・パーソンは僕が年を重ねても変わりはしない。その人物は実際にちゃんと年を積み重ね、皺は増えていく。映画を見ることや本に目を通すのに疲れると仰向きになり、日本の建物にしてはいささか高すぎる天井を眺めた。それはあまりに遠く感じられた。だから僕は起き上がると壁に体を持たせかけ、雨が物静かに降るライトアップされた庭に目をやった。そこからは夜花が見渡せた。深い色合いの緑が目に優しい。明るくなったら花のいくつかを切り取って部屋に飾れば気分も変わるかもしれない。そうしてしばらくじっとしていた。やがて財布や鍵を引き出しにしまった。そういう日頃のルーティンしかする気が起きなかった。機械的な動作。そして僕は起き上がり部屋を出て一階へと降りた。僕が向かった先はガレージだった。そこにはもうクラシックな英国車はなかった。彼女が一人で音楽を掛けていた景色を不意に思い出した。the hepburnsのアコースティックが静かに流れていた。そこにはある種の荘厳さがあった。それがその車を半死半生の状態にしていた。それはただじっとそこに鎮座し息を殺している反面、明らかに新しい主を求めてもいた。その車がまだ確かに息をしているなんてことはドアを開かせヘッドライトを点けさせれば容易に分かることだった。それに相変わらず車の座席とは思えないくらい座り心地がよかった。その車は人生が一度きりだということをこれ以上ないくらいに分かり易く噛み砕き、僕に対して真っ向から説明しようとしているふうにも見えた。現実の音は何一つ聞こえてこなかった。ただ車だけが僕に選択について語っている。


 自室に戻り引き出しを開けた時、視界に金色に輝くものが映った。しばらく日々の忙しさにその時計の存在をすっかり忘れていた。こんなに美しい時計なのに針は止まっていた。時間は冷たい。それが僕がなくしていたそれを最初に手首に着けたときの感想だった。


 時間は冷たい。


 それから僕は財布とスマホと鍵だけを持つと家を出た。


 向かった先は駅前の家電量販店だった。僕の時計に対する0に近い知識が、確かここは時計も扱っていたはずだという結論に結びついた。それにここが自宅から最も近い場所だった。エレベーターで最下層から目的の5階まで上がった。その間にエレベーターは一度も止まらなかった。 奥の時計売り場に着くと店員に事情を説明し、カウンターへと案内して貰った。そこには一人だけ白衣を着ている店員がいた。恐らく時計を扱うプロだということだろう。

「電池交換をしたいんですが。」

「畏まりました。」

その後彼は外国製の場合の料金を提示し、それで構わないかと聞いた。それで大丈夫だと言うと番号札と時計を引き換えた。店員は20分程掛かることと、料金は後払いだということを告げた。いつもなら上の書店を冷やかしに行くところだが生憎そんな気分ではなかった。どうしようかと思い悩んだ末に僕は目と鼻の先のバイト先に落ち着いた。

「サンドイッチとアイスコーヒーのMサイズ一つ。」

ついてない時はとことんついてないもので、店員は副島だった。

「バイト先で夕食?」

彼女の美点は協調性があり、人の事情に軽々と突っ込んでこない所で、この会話なんかが特にそうだと言える。 

「まあ、そんなところ。」

「今日は無料でサイズアップが出来るけど?」

そうだった。僕はそんなことすら忘れていた。それは僕とは全く係りない世界のキャンペーンみたいだった。彼女は夕飯はこれだけなのかとか、今日は家にご飯がないのかとか、そういう面倒事は一切口にしなかった。ただ微妙な間や目線でそれとなく語ってみせるだけだ。僕はスタッフルームの鍵を借りると二階に上がった。途中例の非常階段が目に入った。店内の客がとびきりうるさいわけではなかったが、一人でスタッフルームで取る食事は安心感があった。サンドイッチを機械的に咀嚼し、定期的にコーヒーを流し込んだ。ガムシロップ2個が消費された。そして少し頭がまともになるとため息をつき、何も考えまいと努めた。でも頭は非常階段のことを考え始めていた。想像力を止めることは誰にも出来なかった。そしてあの日も夜だった。そこで僕は初めていなくなった彼女について真剣に考えてみた。リナ・レフィール・アシュフィールドについて。僕が唯一知っているブロンドの女の子について。上品だった。品のない人間を軽蔑するとも言い換えられるかもしれない。でも状況によっては貴方なんてくたばってしまいなさいくらいは言い出しかねなそうだった。そういう雰囲気があった。でも表面的にはひどく落ち着いた性格だし、分別があるように思える。事実その通り、周囲の人間は誰もそのようには思わなかった。でも時々何かがあって一瞬、僕はパブリックではない彼女の感情を伺い知ることが出来た。それもホームステイの効用だった。


 僕を現実の世界に引き戻したのはドアのノックの音だった。後ろを振り返ると副島がいた。

「ずっといるみたいだけど?」

僕は目で彼女を見返しただけだった。ずっとというのがどの程度か分からなかったのだ。

「そろそろ出た方が良いわよ。

貴方のシフトの日でもないし。」

「そうするよ、じゃあ」そう言うと自分のトレイを持って立ち上がった。そして副島は出し抜けに僕に話し掛けた。

「私、ここを辞めるの。」

彼女のその言葉にどういう落差があるのか分からなかった。そしてそれに対して僕は悲しむべきだったのか、喜ぶべきだったのかさえも。でもおそらく喜ぶべきではなかっただろう。それくらいは分かっていた。彼女はそれからしばらくの間僕のことを見ていた。彼女は子供の頃に戻ったみたいに見えた。そしてそういう彼女を見たのは随分と久しぶりのことだった。そこには彼女に現実に対する鋭さや強さよりも、脆さが伺えた。それで僕は漠然と彼女と同じ小学校だったんことを再認識した。 そして彼女がとびきりチャーミングな女の子だということも。

「そうか。

僕もしばらくいないから大変になるね。」

でも彼女はそれに対してうんともすんとも言わなかった。


 先程の店員に会釈すると番号札を渡した。

「35番の方ですね、少々お待ち下さい」そういうと彼は後ろからそれを持ってきた。

「針の方は・・・おや、止まってしまっていますね。

さっきまでは動いていたんですが」そう言いながら彼は時刻をアジャストし直した。

「これはオーバーホールの必要があるかもしれません。」

「外国製だから値段は三万といったところでしょう。

この時計は最近使っていなかったんですか?」

「実は親戚から使っていないからということで譲って貰ったんです。」

「そうですか。

昔はよく見ましたよ。

型番は6250ですね。

今はもう買えません。

良い時計だ、最後を飾るのに相応しい。」

最後を飾るのに相応しい?

「今日は貴方が最後のお客様です」そう言うと彼は淡い微笑みを浮かべた。僕はその息を吹き返した時計の針を見てみた。確かに閉店前の時刻だった。ということは、だ。僕はサンドイッチを少なくとも映画一本分の時間をかけて食べていたことになる。道理で副島がわざわざ様子を見に来るはずだ。

「たまに秒針が一秒戻りますね。

まるで時間を元に戻そうとするみたいだ。

これはこれでユニークですが、オーバーホールのこともどうぞご検討下さい。

ああ、お代は結構です。

その時計は結局正常に動いていませんから。」

僕は礼を言って家に帰った。僕が注意してそれを見ている時は一度しか秒針は時間の流れに逆らわなかった。時間を元に戻そうとするみたいに。

 

 何も考えないでいようとすると頭は少し前のことを思い出す。姉の影響もあって僕は古着を見るのが好きだ。安くで良いものや珍しいものが買えるし、まるでその服が人を選んでいるかのように、その服を見た瞬間に誰かが頭を過ることがある。確かにそんなことは古着じゃなくても起こる場合はあるだろう、でも僕について言うならそれは古着だった。大半は自分の服についてだが、全く関係ないレディースを通り過ぎる時に横目で見るだけでも驚くことにそういうのはあった。それらを見ると僕はこれらは極低い可能性の確率を乗り越え眼前に現れたのだと思わないわけにはいかなかった。それは何もない深海で感情なく、ずっと一人で漂うクラゲを想像させた。それらの服は普通には着こなせないし、普通に着てもあまり良くは見えない。だけど脳裏を過る彼らだと、それは実によく映えて見えた。その服たちは彼らについて、彼ら以上に自分はこういう人間なのだと雄弁に語ってみせる。だがそれが誰を意味しているのかということになると皆目見当もつかなかった。そこには重い蓋が被せられているように感じられた。でも、それは僕の知っている誰かのはずなのだ、間違いなく。僕はそれが誰だったのかを未だに考えているが、やはり謎のままだ。でも今日古着屋に足を運ぶと、似て非なる事件に遭遇した。レディースコーナーにリナの服が一式並んでいる。最初は何かの勘違いだと思う。しかしそのヨーロッパのブランドの衣服は、僕には強く見覚えがある。横浜や東京でも見ることの出来ない色使いと、デザイン。シックでいてシンプルなのに、そういう代物は持ち主と共に鮮やかに記憶に残る。一度それらの服の何枚かを手に取り、リナの姿を思い浮かべる。今この瞬間だけ、あの日の延長の彼女が目前にいる。やはり彼女のものだと僕は確信を持つ。僕の彼女の残存記憶の切れ端を服がまとめ、一人のありありとした立体的な姿を思い浮かべさせる。そこでは彼女に表情さえある。驚きが僕を捉え、彼女の半分の幻影を見ながらしばらく立ち尽くす。何も考えられなくなる。ただ何をするでもなく、僕はその服につけられたタグを見る。店の名前がうっすらと一番上に書いてあり、真ん中にブランドが記載されている。最後に値段が黒のペンで書いてある。その値段は一介の中高生が買う服の値段ではない。おそらくこの街の大学生や若いキャリア・ウーマンがこの服の引き取り手になるのだろう。少なくともこの街の主婦はこんな古着屋に顔を出さない。そういう意味では古着というのは興味深い空間でもある。段々と頭では色々な物事への納得が付き始める。多くの「かもしれない」に説明が付く。彼女は大切にしていた一切の服を売り、まとまった金を手にしたのだ。いや、本当に全てを売ってしまったかは分からない。でもほぼ全てを売っただろうという強い確信が僕の中にはあった。今彼女は何を着ているのだろう?必要に応じて彼女はこの国のファスト・ファッションを買い足しているのだろうか?そういう彼女の姿を想像するのは困難だった。でもまとまった金を手におそらく金のかからないシンプルな(しかしそれでも洒落気のある)装いでどこかの街を歩いているはずだ。その左手だか右手に収まった札束の枚数が多ければ多いほど、彼女の足取りと行方は限定されなくなっていく。また行き止まりだ。それは今までに見たことのない道すじだが、袋小路であることに変わりはない。文化祭の時の脚本を練っている時の気分を僕は思い出した。推理小説なのにどうしても流れが見えない。探偵は行くべき所に行けず、見るべきものを見られない。どうしてだろう?でもその答えは分かっている。僕が不完全だからだ。


 それらの服を見ていると、思わず僕は一着だけでも買い戻そうかと思った。それくらい今の僕の部屋のクローゼットはさみしいものだった。僕だって服はある程度きちんとしたものを、そこそこの量を所有している。にもかかわらず、もうあの部屋のクローゼットには華々しさを感じることが出来なかった。でも彼女の服を僕が「買い戻す」というのも不自然な話だ。それにそんなことはどう見ても常識や倫理に沿っているとは言えまい。どちらかと言えばその逆だ。どうしてそんなことを悪くないアイデアだと思ってしまうのか、自分でも説明が付かなかった。そしてその服たち(あるいは服を通した彼女の影)は無言で強く何かを訴えていた。その言葉なき訴えの強さは僕に何かを思い出せようとしていた。同じではないが、似たようなベクトルで、似たような絶対値とでも呼ぶべき経験が僕にはあった。そしてそれが何かのフィクションを通した体験でもないことを、僕は確信していた。もちろんノンフィクションの、僕の身に起きた出来事だ。そしてそれは、ちょうど一年前に僕が、レディースの服を一枚だけ買ったことだった。一応断っておくが、それは当然自分のために買ったのではない。というのも、僕はレディースの種類の豊富については羨ましく思わないわけではないが、だからといってそれを着たいとは思わないからだ。でもだからそれは自分のために買ったのではないと言えるのかといえば、そこで僕は明確な返答に窮することになる。つまり、それは具体的なレディースの服であるにも関わらず、具体的な誰かのために買われたものではないからだ。自分や他人が着るわけでもなく、ただ僕のための純粋なコレクションとしてそれは購入されたわけだ。でもその経緯を客観的に見直してみれば見るほど僕は自分が分からなくなっていた。それは説明は出来ても合理的ではないし、原因や理由がない。そして普通か異常かと言われれば、異常だ。実際に起こった一連の出来事だということさえ不思議に見える。そしてそれは僕の出来事だと言うことさえが。それはサイズ5の黒を基調とした、ノースリーブの襟つきワンピースだった。所々にひまわりの黄色い柄が入っていた。それは様々な大きさの細かく、芸術的な刺繍だった。配色と生地の良さ、その類まれな刺繍の妙こそ僕がこれを買い求めた理由かもしれない。そこに使われている色合いはただのひまわりの色合いではなかったが、それは確かにひまわりそのものに違いなかった。その数も多すぎず少なすぎず、丁度良い大きさが丁度良く並べられていた。一部同じように、葉や茎の緑色の刺繍も品よく入っていた。生地も夏服の割にはしっかりとしていてシックだった。黒く艶のある小さなボタンが前に付けられていて、トレンチコートのようなベルトがあり、膝上丈のスカートよりも少しだけ長くなるようなデザインで、如何にもチャーミングだった。たぶんこのベルトのお陰でサイズ5の誰かは上をゆったり着て、腰をキュッと細く絞り、腰からお尻までのその優雅なラインを見せつけ、最後に風に揺れて捲れるスカートによって露わになる美しい足のラインによって数々の人間にため息をつかせて来たのだろう。きっとそれを見たら鳥だって朝日の前のように鳴きだし、雲も太陽を切れ間から覗かせるだろう。僕はそれをありありと思い浮かべることが出来た。その服はそれくらい芸が細かく、普通じゃない手間のかかる立体裁断によって作られ、十点中十一点を付けたくなるような服だった。100パーセントの服だ。僕はそう確信した。こんな服は一流ブランドの旗艦店に足を運び、大金を積んだってまずお目に掛かれはしない。しかしあるところにはあるのだ。それが僕に古着を覗かせる魔力のようなものなのだ。この偶然の邂逅は色々なものにあてられるだろう。例えば偶然買い求めた安いレコードの中のとびきり素晴らしい曲。偶然出会った誰か。しかしそれは限定的な奇跡だ。当然だが大金を積めば積むほど良い服に巡り合えるわけでもない。そしてそれは若く美しい女性の為に仕立てられたように感じられた。それは染み一つなく、状態もかなり良かった。それは新品とまではいかないにしても、新品同然の綺麗さを保っていた。きっと前の持ち主もその服の価値を認め、注意深く大事に扱っていたのだ。でもそれはどう考えてみてもおかしな話だった。だってそこまで大切な服が自分のワードローブに奇跡的に存在しているというのに、なぜそれをわざわざ手放すのだ?自室の壁にかけたハンガーに飾ったそれを眺めながら、僕はそう思わないわけにはいかなかった。女はよほど金に困窮していたのだろうか?でもそれはあまり現実的な話には思えなかった。まず第一にこういった服は金にどんなに困窮しても手放さないものだ。第二に、こういった服を買い求められる見識と力と運を備えたそれなりの富豪が、一夜にしてそれほどのどん底に落ちるものだろうか?そのいきさつが僕には上手く思い描けなかった。そしてブランドタグのところには「LAINFIEL」と書いてあった。その服を買うことにやはり抵抗があったが、僕の手はそれを掴んで離さなかった。それに値段だって(驚くべきことに)いつも買っている服よりも心持ち高いという程度だった。そこには「とりあえず高い値段をふっかけておいて、素人から金を巻き上げよう」というような心持ちさえ見られなかった。もちろん安くはないが、上品な服に与えられた上品なプライス・タグだった。その時誰にもこれを渡してはいけないと、ただ強く思った。それは直感に似た何かだった。姉に贈りたいのだがどう思うかと女性の店員に聞いてみると、彼女は素敵ですね、良いチョイスだと思いますと笑顔で言った。だけど彼女の思ったであろう良さと、僕の中にある一種形容し難い感動には何億光年もの差があるように感じられた。それはその程度の服ではないのだ。そして僕はその一般的見地からは安いとは言えない額を出し、その服を引き取った。僕はその後家に帰るとありとあらゆるひまわりの柄のワンピースの画像を検索し、同じものがないかを探してみた。でもそれは無駄な試みだった。一流ブランドからファストファッションまでの様々なデザイン、パターン、色合い、大きさのひまわり柄のワンピースを見たが、それらを見るたびにため息をつかない訳にはいかなかった。このワンピースがナンバーワンだ。そしてブランドを検索しても何もヒットしなかった。僕はその服を夢にまで見た。そこでは誰か僕の知らない人がそれをさらりと優雅に着こなしていた。文句なしにそれは美しかった。でも朝になり目が覚めると、僕は彼女の顔を全く1ミリも思い出せなかった。それどころか肌が黒かったのか白かったのか、太っていたのか痩せていたのか、顔立ちや髪型はどんなだったのかさえもだ。果たしてそこには眉さえあったのか僕には思い出せなかった。でもたぶんあったのだろう。何故ならその夢を見ている間僕は何かに対して驚いた感情を抱いた覚えがなかったからだ。ただ僕はその夢で、美しいとだけ思い立ちつくしていた。彼女を絶賛することさえ僕には出来なかった。それは自分が信仰している唯一神を前にした一神教徒みたいな有様であったのではないかと思う。やれやれ、それだけ手放しに素晴らしい服に、これからの人生であと何回で会えるのだろう?

 でも分かることもある。僕は(そしておそらく姉も)この経験のために古着屋に通ったり、運営したりしている。何か一つのとびきり素晴らしいものと出会うため。


 あの服は今どこにあるのだろう?僕は記憶の糸を手繰り寄せる。今でもそれはクリーニングのビニール袋にパックされたまま、自室のタンスの一番奥深くに丁寧にしまってあるはずだ。僕はそれをクリーニング屋に出している間、そこがアイロンか何かを原因に火事になり、その服が燃えたりしてしまわないだろうかと気が気でならなかった。本当に美しいものはその対極に存在する消滅や死を連想させる。きっとそんなに素晴らしいものには普通はお目にかかれないからだろう。僕は時々それを取り出して広げては安堵し、もやもやした。そしてそこに変質的な感情は微塵もなかった。純粋な感動と葛藤の連続だった。そしてそれが果たして何を意味するのだろう。


 それはミアの着るべき服だったのだろうか?


 一度そうだと思い始めるとなかなかその妄想を払うのが難しかった。でも確かにその服は目の前の数着よりもリナに似合うだろう。でもそれが本来は彼女のものだった、なんてことは原理的にありえない。おとぎ話の世界だ。でもそれとはまったく違うベクトルからそれが確かに、ある意味ではミアの服なのかもしれないと思うようになる。いや、既に心のどこかではそう思っている。その説明のつかなさは彼女の失踪とよく似ている。説明のつかなさこそがこの一連の経緯を説明している。でもどうして僕は今までその可能性を思いつかなかったんだろう?あまりにも日々が忙しなかったからかもしれない。いや、その言い方には語弊がある、あまりに日々の持つ意味が変わってしまったからかもしれない。そして気付いた頃には彼女は僕の前から消えている。あの服は彼女が持って行ったのだろうか?でもあの服はクリーニングに出して以来、ずっと袋を被せたままのはずだ。それを彼女がもし見つけたとして、何も言わずに黙って持ち去っていくということが(今の僕にはあのワンピースが消えた理由はそれしか思い浮かばない)果たしてありえるだろうか?しかし二つの存在が別々によく分からない理由で消えてしまうよりも、そっちのほうがまだ現実みがあった。でも現実みとはいったい何なのだろう。あの服を前にした時の僕という人間と同じくらい、それは曖昧で不確かだった。


 そんなことを思い出しながらコンビニに寄り、家へ帰る。生活サイクルは逆転し始めている。そして買うのは大体チョコミントのアイスとエナジードリンクだ。空腹を感じればサンドイッチも買った。そして映画を観ながらそれらを食べ、目が疲れるとレコードに針を落とし、眠らないように腕立てをした。日が昇るとシャワーを浴び、昨夜の食事のバランスを補うかのようにキャベツを切ってチーズを下ろしサラダを作った。でもその気力も湧かない日にはヨーグルトだけ食べた。そして学校に行って睡眠時間を確保した。そしてそういう日々に僕は段々と慣れていった。風呂に入っているのか睡眠を取っているのか、それとも何も考えたくないだけなのかすら分からなかった。だが消えたものはミアだけではなかった。部屋のタンスの引き出しにもうそのワンピースはなかった。


 家につくとタイマーを十分にセットし腕立てを始めた。その日は100以上をやっていた。それから僕はこの部屋は腕立てに相応しくないと思った。それは文字通りの意味で、ここは僕には窮屈だったのだ。でもだからと言って部屋を変えたするわけにはいかなかった。それで僕は何も考えずに机とベッドを動かした。さきにかさばりそうなものは全て部屋から搬出した。ベッドは無理に動かした所為でスプリングから悲鳴が聞こえた。でも僕はそれを辞めなかった。小一時間で模様替えは完成した。やっと体を動かすスペースを確保したわけだ。開け放した窓からはいつもと違い涼風が吹き、部屋は久方振りに清潔さを取り戻した。そして新しい机の位置からは窓が、外の景色がよく見えた。といってもそれは緑で囲まれ月しか見えなかったが。それで僕はいつもと違う気分になっていた。まるでこの家がエミリ・ディキンソンの詩の中にある、可能性の家みたいに感じられた。それからバスルームへと向かうと熱いシャワーで全てを丹念に洗い流していき、バスタブに浸かった。もともと長湯はしない性格だったのでそこまでゆっくりと入浴したのはずいぶん久しぶりのことだった。そして自分の部屋同様バスルームさえいつもと違うように僕には見えてきた。まるで世界の解像度が一つ一つ上がっていくみたいだった。ただのグレーのパネルと白い壁さえ僕にはいつものものには思えなかった。それはロンドンのバスタブかアメリカのバスタブみたいに思えた。でも何故そうなったのかなんて僕には分からなかった。目に輝きが戻ってきたと言っても良いくらいだった。しばらく僕はその十七年間変わることなく、むしろ何かを失っていった世界が上書きされていくのを湯船の中でぼんやりと確認していた。そしてふと、深夜四時過ぎの当たり前の連続が日々を腐らせるんだと思った。それは単調で味気なく、面白みに欠ける。風呂から上がると自室の本棚からミアのペーパー・バックを一冊取り出した。父の書斎にも同じ作品の日本語訳が置いてあったのについ最近気づいたからだ。二十世紀の代表作とされるくらいの名文があり、流麗な英語が使われている。それから高校に入ってから買った、新品同様の分厚い辞書を持ってきた。高校受験の余りものの単語帳と、大学受験用の高校の英文法単語帳も一緒だ。そして一日ごとに気が済むまで英語の文を日本語へと置き換えていった。何も生み出さない日々が永遠に続くと思われても、それで僕が無感覚でいても良いという理由にはならない。そして順当に行けば僕だって二年後には大学生として、社会の歯車の最終フェイズへと移行するはずだ。時間は誰も待たない。もちろん僕は様々なやり方でその決断や過程を保留できるが、英語くらいは好きなやり方で学んでも良いはずだ。それに語学は向こうでも役に立つかもしれない。僕は昔から気の乗らないことは滅法弱い。物事にはモチベーション、原動力が必要になる。そしてその間誰からも連絡はなく、電話もなかった。周りからはリナがいなくなったことと文化祭から開放された所為で落ち込んでいるのだろうと思われていた。つまり秋音が僕を勧誘し忙しなくさせたのはあの文化祭のためだったからだし、それくらいしか僕はクラスメイトの目に留まるようなことはしていないからだ。翻訳の真似事をしていると途中で

「It was lonely for a day or so until one morning some man,

More recently arrived than I, stopped me on the road. 」

という文章を見つけた。今の僕のことだ。思わず弱い微笑みが浮かんだ。僕の場合、それがどのような人物なのかは全く見当がつかなった。そしてそれが本当に人なのか、孤独なのかさえも良く分からなかった。ただ停滞と停止の渦が途切れなく僕を追い込むと、それは永遠に続いた。いや、それは永遠ではないはずだ……物理的には。しかしそれは本当に長い期間の出来事だった。往々にして僕は一人だった。窓のない部屋を想像した時に人が感じる印象を、そのまま僕に当てはめてくれればいい。ミスター・ナッシング、でも「some man」はちゃんと現れた。


 携帯は急にコールを鳴らした。それがリナではないだろうということは分かっていた。姉であるとも思えない。彼女は確かに連絡を不定期に寄越すが、そこにはある程度規則性があった。僕はやるせなくそれを手に取った。いったい夜の一時を回った段階で誰が連絡なんてしてくるんだ?

「莉乃?」

「貴方最近学校に来ていないでしょう。」

「そうみたいだ。」

僕の声は妙な響き方をした。

「そうみたいだ」そう繰り返す彼女の言葉には抑揚が感じられなかった。

「何かあった?」

「ええ、少し話がしたいの。」

「僕に?」

駄目なのかと言う気にすらならなかった。何もしたくないのに目は覚めてる気分だ。

「でなければ、面倒を承知で今の貴方に連絡は取らない。」

「言ってくれるね。」

「じゃあ近所のビリヤードに来てくれ。

夜一時に」それだけ言うと電話を切った。何かを話す気にはなれなかった。果たして一時に彼女はやって来た。彼女は会うと決めれば必ず来る、そういう性格なのだ。

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