第32話 二重の意味、全く不可視のものを中央に見せる

 秋風に郷愁を思わなくなったのは去年からだった。いや、それは郷愁ではなかったかもしれない。でもそういう類のものだった。いくら経ってもそれは戻っては来なかった。何か誤って一つの季節を飛ばしてしまったのではないかと不安になったくらいだった。あの風は様々な感情を抱かせた。ある時には気持ち良く、ある時には落ち着きがあり、ある時には爽やかな諦めだってあった。それはこれからもどうにかやっていけるだろうと僕に思わせもした。そんなことは秋風にしか出来ないことだった。でも秋風に問題があったわけじゃない。僕に、自分の心に問題があったのだ。その心の微妙な動きで、秋風は僕の知っていたものではなくなってしまったというだけのことだった。いつも風は変わらないが、僕の心が微妙に違う。毎年それの到来を密かな楽しみにしていた。でもそれは行ってしまった。そこには折り目正しい時候のあいさつもなければ別れの一風もなかった。でも去っていったのは何も秋風だけではなかった。僕は様々な人とすれ違っていく。そして秋風がその確定申告に判を押したみたいだった。僕はもう琴線に訴えかけてくる何かを感じることは出来なかった。それは生きていれば誰しもが感じるであろう乾きとは対極のものだ。そして理由はどうであれ今度は僕のもとから同居人もいなくなった。そのことが分かるまでに数日を要した。秋風の代わりにやってきたのは、静寂だった。彼女の部屋(つまり僕の自室)のスペースは大体がそのまま残っている。彼女が消える前と消えた後での差異は、難易度の高い間違い探しのように見分けがつかない。おそらく数日の着替えを始めとした、スーツケース一つに収まる程度の生活必需品しか持って行かなかったのだろう。ある日のミアはそのテーブルの机をコンコンと叩いていた。

「Touch wood.

不吉な影を追い払い、幸運を木の中にいる妖精に祈る。」

僕は自室のその机を叩いてみた。しかし木の中の妖精は返事をする気分じゃないらしい。もっとも僕の方も今は妖精と挨拶を交わす気分ではなかったのだが。


 ミア・アシュフィールド が学校にいないことが分かったが、その時は不思議に思っただけで、そこまでのことは考えも付かなかった。何か事件性があるということも考え辛い。もちろんその可能性は0ではないが、僕の家から北英高校の道のりとなると、彼女は電車通学だし、事件の起こりようは皆無に等しいとしか思えないのも事実だ。そうなると考えられるのは

「彼女には何らかの思惑があり、それを行動に移した」というくらいだった。でもその思惑というのが何なのか、そして何故今日でなくてはならなかったのかが、僕には分からなかった。スマホの方も連絡が繋がらなかった。でも自宅には姉もいなかったので、おそらく2人でどこかに行ったのだろうというのが僕の推測だった。姉のような人物と行動を共にすれば、連絡が付かないというのも、学校を無断欠席したことも説明が付く。しかし予想に反し、姉は翌日に帰ってきた。それでリナの行方不明が発覚した。僕は久しぶりに彼女を問い詰めたが、そこには何の成果もなかった。

「りょうくん、見て。」

僕の自室のクローゼットを指しながら彼女は言った。リナの服が一式なくなっていた。

「見たところ、下着も靴下の1足もないようです」そう女中が言った。

「完璧な消失。」

「でも不思議ね。

どうして服だけがないのかしら。」

最もな疑問だった。服だけが一番上から下まで消えている。もしこれから警察を呼んでも、彼らは僕の部屋に彼女がいたことには気づかないだろう。でも僕のクローゼットにはちょうど半分だけ、前のシーズンの服をクリーニングに出したみたいな空白があった。その不在の実在性が何かを訴えかけていた。でもそれは何を意味するのだ?服だけがあれば、彼女はどこにでも行けるだろう。生活というのは金があればどうにでもなるし、外国人である彼女なら昼間に外をうろついても周囲は怪しまないだろう。でもどうして彼女は服を一式持って行ったのだろう?下着ならまだ説明がつくが、洗濯のことを考慮しても割に会わないし、手間だってかかるはずだ。何より冬服も持っていく説明がつかない。それとも彼女は旅行の前にクリーニング屋に寄っただけなのだろうか?

「もう少し様子を見ましょう。」

その姉の提案も最もだった。それからリナが戻ってくるまでの間、僕は何かに集中すること困難を覚えていた。多くの考え事の最中にふと彼女の顔が浮かんでは離れなくなってしまった。意識しないようにすればするほど、それは悪化していく一方だった。そして例の書き置きを何度も読み返した。そこから分かるのは彼女の嘘のない気持ちと、また僕と会う気でいるということだ。それ以外にはなんの示唆もほのめかしも感じられない。


 代休の月曜、火曜を終え、水曜になっても彼女達は帰ってこなかった。そして朝のホームルームで幸恵教諭はリナは家庭の事情で急遽帰国したと告げた。それは両親との告別式の時の親戚のもの言いと酷使していた。

「貴方のお父さんとお母さんは、遠い処に行っただけよ。」

それは嘘ではない。僕らから見れば果てしなく遠い。あの時の気持ちをまさか今更になって理解するとは。実感なく目の前に空白が出来たような感じだった。何も彼らが亡くなる現場に遭遇したわけでもなかった。そして死体安置所で彼らを目にした時だって、棺の中でも、焼かれる前でも、僕には実感が湧かなかった。ただ誰か若い男が僕の前に来たことは覚えている。僕が既に亡き父の息子であることを確認した彼は、短く哀悼を述べ、父について何かの話をしていた。でも僕はその部分もやはり空白みたいになっていてよく思い出すことが出来ない。そしてそんな空白を今も僕はこの事態を通して感じることとなった。あの日、彼女と片瀬江ノ島駅まで一緒に歩いて電車に乗ったことや、隣で疲れたのか眠ってしまっていたその横顔を思い出した。そして別れの手紙を読み返しながら僕は自分の昔から変わらない他人への無関心さに思いを馳せた。全ては充分な時間を代償に、振り出しに戻った。そして訳もなく喫茶店での出来事が頭を過った。弾装にあった弾丸と、彼女がその一発に選ばれる可能性。勿論まだそうと決まったわけではない。でも彼女と交わした最後の会話が僕には遺言のようにしか思えなかった。あの言葉には違う響きも感じられた。この世界では人はいつでもいなくなってしまうなんてこと、誰よりも僕が一番知っていたはずだ。僕は彼女を取り戻さなければならないのだろうか?分からない。分かっているのはそんな責任・義務が僕にはなく、権利を有しているかすら怪しいということだ。そしてあの日の喫茶店が向こうの世界の一部になっていたことにも気付いた。そう、あの部屋はどうしようもなく乾いて風化して、干からびていた。どうしてあの日、あの扉は開かれたんだろう?僕は前日に何があったかを思い出そうとした。しかし至って普通だった。現実では何一つ違うことなんてなかった。現実では。それは夢が違った。不思議な話だ。頭と心と体が同調していない気がした。



 年老いたパチェコがその若い弟子ベラスケスにあたえたという忠告を、裏返しにして、しかも文字どおり、ベラスケスは適用したわけだが、それにしても奇妙な適用ではなかろうか?セビリヤのアトリエで仕事をしていたパチェコはこう言ったのである。

「イメージは枠から外へ出なければならない」と。

                      

                      ミシェル・フーコー「言葉と物」


                               <第一部完>

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