第31話 touch wood

 この世界で人はいつでもいなくなってしまう。

「なぜ私なんですか?」

部屋は清潔だったが私好みの匂いではなかった。

「君の心が読めるようだよ」男は続けて言った。

「やっとあの改革から戻ってこられたのに。

そうだろう?」

しかし私は何も言わなかった。しかし、何が改革だというのが正直な感想だった。

「あれはいささか素晴らしい改革でした。」

「もっと気楽になってくれて構わない」そう言いながら男は戸棚からスコッチを取り出して注いだ。それが私の好まない匂いの元凶のひとつでもあった。

「今日は車で来ていますので。」

「誰かに送らせよう。」

昼から酒にありつけるというのも、考え直せば悪くないかもしれない。そう自分に言い聞かせないと胃腸炎にでもなりそうだった。

「私はもう三十の半ばを過ぎました。

今までに色々と思うこともありながら、ここにきちんと勤め続けています。」

男はただグラスに二杯目を注いだ。

「どうしてなんだと言われても私にも分からない。

でもこの十年間は、ただただ流れていったというのが素直な感想です。

控えめな表現としてもこれはなんだと思わないわけにはいかないでしょう。」

「そしてその十年間は本当に無意味なものだった。

それは私に危害こそ加えませんでしたが、十分に私の可能性を潰すことは出来た。

その程度は周りを見て学習すべきだ。」

「私は彼に会うのに適任な者を探しているわけじゃない。」

「本心は?」

「もっともあの件と遠い所にいて、それでも当時のことを知っている者が望ましい。

それにこれは押し付ける気で話しているわけじゃない。」

「そうでしょうか。」

「大体の奴らは勘違いしている。

物事というのは本質的なものだということに気付いていない。」

「今回の物事はどこに通じていると言うんですか。」

「君には見えない?」

「ただの袋小路だ。

私から見れば全部が済んだ話です。」

オールレディ・ダン。

「でも君のこれからには繋がっているとしたら?」

「嫌かね?」

「さあ、どうでしょう。」

「だがこれが君が一番人生で甘美に、能率的によく動ける十年を賭した結果になる。

少なくともそれは私が命令したわけじゃない。」

この年になっても一番聞きたくない台詞が次に流れることになった。

「君が選んじゃないのかね。」


 オフィスを出る途中のエレベーターで同期の女性と通りすがった。

「やあ。」

「調子はどう?」

「どうだろう…、実は帰り方に困っている。」

「まるで子供ね」彼女は悪戯な笑顔で言った。

「行きは車で来たんだ。

だが帰りは使えなくなった。

誰か車を出してもらうよう言われたんだが、君じゃなかった?」

「違いますね。

その話じゃなくて、貴方からの呼び出しですから。」

確かに彼女に連絡を取ったのは事実だった。

「もしかして覚えられてないんですか?」

「そのようだ、申し訳ない。それがいつ頃かさえ記憶してない。」

「でしたらそちらの手元の雑誌を見ればよいかと。」

雑誌?それは確かに私の部屋の私のデスクの上に置かれていた。表紙には美しい女性がいかにも仕事が出来そうなスタイルで写っている。

「もしかして、君は今回の件が秘書官の任命だと思って来たのか?」

「より正しく言わせていただくならヘッドハンティングに近いかと。」

「止してくれ。

君はあまり関係がなかった人物だったかもしれないが、丸きり部外者なわけがないだろう。

ここはそういうひとつの機関さ。」

「でも結局はチーフとして良い頃合なのでは?

それに今時の秘書は車も出せる者がいるみたいですよ。」

「君の希望は?」

「貴方の要望には応えます。

だから必要のない時は奥にいさせてください。」

「ここでタイムアップまで羽を伸ばしたいだけなのか?」

「いいえ、さっき言った通りです。

やれることを片付けます。

もともと個人的なほうが本領発揮しやすいので。」

「なるほどね。じゃあ早速だが送っていてくれ。

本日付けで君は個人秘書として私の管理下に移ってもらう。」

「はい、よろしくお願い致します。」

彼女は丁寧に頭を下げた。おそらく彼女の能力で言えばあまりに消極的ポストだろう。


 車は私のものよりも小さい、赤色のものだった。そのコンパクトカーは彼女に似合っていた。

「貴方、どこに住んでいたっけ?」

私は住所を言った。

「近くはないわね。」

「遠くもないだろう?」

「それでどうして私に白羽の矢が立ったのかしら?」

「男友達がいないんだ。」

「確かにそうかも。でも女友達が多いわけでもないでしょ。」

「どうして?」

「私に車を出させてる。」

「君の運転を見込んだんだ。」

「嘘、自分で車を運転するのが一番信用出来るって顔よ。」

「少し込み入った話をしてね、自分のを出せなくなった。」

「事故にでも遭った?」

「そういう意味じゃない、言ったろ、指令と話をしていたって。」

「私が聞いてもいいこと?」

「君のいなかった頃の思い出話さ。

劇で新しい役を振ってもらう少女の気分だ。」

「良かったじゃない。」

「その筋書きがシンデレラだったらね。」

「昔何かあったことはなんとなく知ってるわ。

名誉挽回のチャンス?」

「僕はあまり汚名を被ってはいない。」

「もうここではベテランですもんね。

おかしいと思ったわ、指令以外の職員で最年長が貴方だなんて。」

「お陰で人を顎で使うことだけ上達した。」

「それは私もそうよ。

貴方となぜ同僚なのか今でも不思議だわ。」

「また今度話すよ。

いささか長い話なんだ。」


 家に着くと酒をもう一度飲み、眠ってしまう。朝になるとシャワーを浴びる。ここは都市部に近いが、自然がないわけではない。ガレージに行くとアイボリー色のクラシック・カーに乗り何度かキーを回してエンジンをかける。それに乗って近くのコーヒーショップに行くと、サンドイッチとコーヒーを飲む。トイレを済ませ、会社のあるロンドンへ行く。車をパーキングに停めて会社に入ると、指令の部屋をノックする。

「どうぞ、」

「おはようございます。」

「君か。よく考えられたか?」

「中には考えようがない問題もあります。」

そして私はそのプロジェクトを引き受け、引き継ぐことになる。

「何から始めるんでしょう?」

「とりあえず合流するまではこちらから動くことは限られている。」

「合流?」

彼は一人の少女を連れてくる。若い女性だ。

「リナ・レイン・アッシュフィールド 。今回のプロジェクトにあたる。」

「まだ未成年じゃないか。」

「だからこそ出来ることもあります。」

「口は達者みたいだ。」

「日本語も話せますよ。」

「学校はどうする?」

「日本にある姉妹高に留学する手はずになっています。」

二足の草鞋を履くわけだ。

「彼女が目標をこちらまで届ける手はずになっている」そう言うと彼はもう一枚の写真を見せる。同じくハイスクール程度の年齢の男子だ。

「彼がロンドンに来るまでは何も出来ないし、することはない。」

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