第27話
彼女は彼に、喫煙席である一番奥に連れていかれる。
「丁度一番角の席で後ろに換気扇があるから、一番煙が来ない」彼はそう言う。
「そして知り合いもまず座らない。」
「素行不良な知り合いでなければね。」
私は一番奥に座り、彼も一つ空けて隣に座った。それが荷物を置くスペースだったのかパーソナルスペースだったのかは分からない。
「どうしていつもコーヒーにガムシロップを三杯も入れるの?」
「いつも入れるわけじゃない、なければシュガースティックで代用する。」
「でも貴方、ブラックで飲めるわよね?」
「家では牛乳で割るようにしてるけどね。」
「鎌倉で貴方はケーキとコーヒーのブラックを頼んでた。」
「ケーキは甘いから。」
「甘いのが好きなの?」
「甘いのは好きだよ。」
「どうして三つなの?」
「昔好きな人がそうやってコーヒーを飲んでたんだ。」
「ご家族のこと?」
「いいや。そもそもこの世界にいないんだ。」
「フィクションの人物。」
「作品までは言わないけど」そう言って彼は楽しそうに笑った。
「女性?」
「男性。」
「良い人?」
「悪い人。」
「どうして好きなの?」
「彼は物語の繋ぎ役なんだ。
でも彼が独立してアウトローな強さでのし上がった設定が好きだった。
だからコーヒーの味の好き嫌いとか健康かとかじゃなくて、気付いたらそうしてる。
よく考えなもしないで。」
「貴方は影響されやすいの?」
「ミーハーかもしれない。」
「でも不味かったらそこまで習性になるものかしら?」
「一理ある。
でもこのコーヒーはこうやって飲むのが最適じゃないだろうな。」
「貴方から借りてる本の主人公はブラックよね」私はそれを思い出して尋ねた。
「彼には影響されなかったの?」
「されたよ。
ケースバイケースだね。」
「でもガムシロップ三つよ?」
「悪を排除するのは善の持つ悪徳にも思える。
それに皆が善を渇望しているというのが怪しい。」
「偽善?」
「本当にそれを求めるなら悪がいるはずというのが僕の考えだ。」
「というと?」
「悪の影が善だからだよ。
切り離せない。
そうやって細部から自分の影を作ってくんだ。」
「正しくなるために?」
「自分の頭で考えて、出来ればタフになるために。
タフな探偵はコーヒー、天才は紅茶。」
「昔のいいところは?」
「今ではできない事ができた。」
「小切手偽装とか?」
「パスポートでもいいわね。」
彼は文化祭のストーリーを自分の人生よりも真摯に考えているのだ。
「貴方ってたまにとても冷たく見えるわ。
一体いつからそうなってしまったの?」
「両親の件があってから、と言いたいところだけど、たぶん違うだろうね。」
「どう違うの?」
「姉さんを見てれば分かる。
彼女はタフになった。
君の言葉を借りるのなら、冷酷になるのとは訳が違う。」
また他人の話だ。自分のことを話すのに他人を必要とするなんて、興味深い人。
「貴方について知ろうと思えば思うほど、それは他の誰かの話になっていくみたいね。」
「るつぼ」そう彼は言う。私は頷く。
「つまり貴方はそれこそが自分の人間性と言いたいの?」
「人の性格は一朝一夕でなるものじゃないだろ。」
「それで?」
「何かしらのきっかけがあるだけだよ」そう言いながら彼は拳銃を取り出す。
「文化祭で使う小道具。」
「またの名を拳銃。」
「もちろん実銃じゃない。」
「レプリカだけど、実物と構造はよく似ている。
つまりここにはちゃんとした引き金がある。」
「引くとどうなるの?」
「弾が出る」そう言いながら僕は人差し指を手前に引く。カチリ、そう乾いた音がする。
「もし弾が入っていればだけど。」
「何が言いたいの?」
「どちらにせよ誰かが引き金を引けば、その後には引き金を引くという動作の後に達成された世界がある。」
彼女はそれについてしばらく考えていた。
「それは哲学の授業の影響かしら?」
「どうかな。
持論だと思いたいけど。」
今考えても、高校で有能と思えるような授業はないに等しかった。しかしひとつだけ有意義と感じられたのは初老と言っても良い、上の世代に位置する男性講師による哲学の授業だった。彼は僕がその高校に入学する前から名物講師として塾の高校案内で紹介されていた。
「彼のためだけにこの高校を受験するべきです」と。その時の僕には哲学なんてものはかけらも分からなかったが、何がその文章を書かせるに至ったのか僕は興味があった。そしてその名物講師の存在のあるなしに関わらず、僕にはこの高校がベターな選択でもあった。彼はもともと東京の大学で教授をしていたのだが、別の事業に手を出していて忙しかったためこのように高校で週二回ばかり授業をすることにしたらしい。そういうところから言っても彼は普通の教師(つまり学校を出て直ぐに社会へ出ず、学校で指導する立場になる連中のことだ)とは全然違っていた。その授業は一年生の選択授業でも取れたのだが、美術を選択授業にしていた僕は2年時に回さなければならなかった。だからその年に初めて彼に習うことになったのだが、そこにはストーリーがあった。でも今では彼が話した彼という人間に関するいくつかのストーリーが出てくるだけで、哲学に関する話はあまり詳しくは思い出せない。それらの物語は外国の話であり(大体が彼がその学問に心血を注いだ大学院時代の話だった。そして彼はそのことが昨日起きたかのようにありありと、時に克明すぎるくらいに話した)また普通の人間ならまず体験しない話だった。そしてそれはかなりの量があった。例えば戦時中に戦車に乗って町へ買い出しに行ったことや(今の御時世なら軽自動車で十分だろう)、ある美術館で日本人の有名女優と会ってお茶をしたこと(その話はオーストリアの有名美術館という触れ込みで始まり、とても良い匂いの柑橘系の香水が、ブリューゲルの名画を観ている私の背後からしたと続く。素敵な物語だ。彼らはまた会うかもしれませんねと笑い合いながら美術館に併設されたカフェで別れたが、結局未だ会えないでいるのだと、彼は笑って話した)ある島で世界的に有名な大女優の別荘にお世話になったこと、イタリアで最後の晩餐を見たこと、僕でも名前の聞いたことがある著名な哲学者に師事しにドイツへと渡ったこと、ドイツでは向こうの手違いで哲学ではなく神学科の所属になったこと(そして牧師の資格を手に入れたこと)等……。それらは全て限定された僕の世界とは違う重みと輝きを有していた。それは彼が自分の人生について話すと同時に、人間が若い内に無限とある可能性の一端をどれほど結実することが出来るのかといった話でもあったし、時には秩序を軽んじなければならないし、人は身を踊らせて何かひとつの、自分が大切にしたいというものに飛び込まなければならないのだということを教えまでした。つまり彼はその学問をするためにかなり戦っていたのだ。まず親ともめたせいで彼は勘当を食らい、一人暮らしをしなければならなかった。そして大学の学費も自分で賄う必要があった。それらは同じ十代の目線で言うならばかなりハードな人生である。学食で一番安いうどんさえ食えずにいたということだ。でも彼はそんな話の後に平気でオランダの大学制度について話した。それは大学の授業料と宿代が無料な上に、月十万程の小遣いが国から充てがわれるといういかにも幸せそうな大学生達のことだ(実際に彼らはおおらかでいかにも幸福そうな顔立ちだったと彼は話した)。しかしそこは安楽死が認められている面白い国で、結局のところ甘やかされてはいけないのだと彼は言った。そのような人間が言うとそれは説教臭く聞こえなかった。だがもし彼に語学力や事業を起こすような才覚がなければ、今頃路頭に迷い込んでいただろうか。でも彼がそうなることはなかった。(逆に言うなら、そのような異様な能力を持っているせいで彼は哲学に巻き込まれたのかもしれなかった)そして彼のプロフィールには大学院時代があり、おそらく大学からの学生時代を十年以上送っていただろうというのが僕の推測だった。いくら起業していたとは言え、今で言うところの「モラトリアム」の最中に彼はいたのではないか。そこで彼は度重なる留学を経験したのだろう。そして彼が
「授業なんてさぼってもいいからこういう名作は観なければならない」と映画を勧めるところからもそのような人種であるだろうということが伺えた。そして僕もまたこの時期に哲学のない日に学校をさぼり、深夜から朝まで元教授の話していた映画を観た。だからということもあるのだが、彼の授業で出てくるのは大学院当時の彼についてであり、その年齢の近さは僕に親近感を抱かせもした。しかし彼は一年間(実際に教わった期間はもっと短い)授業をした後に、最後の授業で定年退職をすることを伝えた。それは三年も彼の授業を取ろうとしていた僕からすれば衝撃だったし、ショックだった。彼は事業のことがあり海外に飛ぶのだと言った。(大学時代の彼は日本で企業した会社の税金を払うのはとても困難であるため、免税制度か補助制度のある国で起業したのだ)だから彼は
「最低限の出席と提出物が出来ていれば余程のことがない限りこの授業は通ることになります」と話した。それは楽な授業だと僕が教えてやったお調子者からすれば有り難い話だった。その授業は僕の知り合いも何人か取っていた。一年の時に千紘と莉乃が取っていたし、僕とリナがその授業を受けていた。でも彼の話を聴いていたこともあって、秋の修学旅行は僕を興奮させた。そこには何か僕の体験したことのない、素晴らしい何かがありそうに思えたのだ。
「貴方はイギリスが楽しみ?」
「もちろん。」
「それって人並みにってこと?」
「もちろん人並みにも楽しみだし、個人的にも心待ちにしている。
修学旅行だし、海外だ。」
「海外旅行は不安?」
「そんなでもない。
一人旅でもないし。
でもまあ、おそらく僕の語学力は通用しないだろう」そう言うと彼女は笑う。
「君はここまで来て不安じゃないの?」
「さあ、どうかな。
やっぱり最初の一歩を踏みだすまでは、そうかもね。
実際に蓋を開いてみれば、それほどでもない。」
「日本語も上手だし。」
「ありがとう。
でもやってみたいこともあるの。
もしよければ手伝ってくれない?」
「それはもちろん構わないよ。
でも何を手伝えばいいんだろう?」
「そろそろ車を動かしておきたくて。
日本の道路にも慣れてきたし、明日は祝日でしょう?
今日のディナーの後は空いてる?」
「いつも通り空いている、用意しておくよ。」
夕食後、ミアはスーツケースをガレージに持ってきていた。
「もしかして、それが今夜の支度?」
「ええ、もちろん。」
「少し待って貰えるかな?」
「構わないわよ。」
僕はそれを聞くと自室に戻り、例の三十リットルのリュックを取り出す。そこには例のお誘いを考慮してジーンズを二本、靴下と下着、髭剃り、タオル、二枚のシャツと黒い丸首のニットと一冊のハードカバーを入れ、グレーのジップパーカーが入っている。必要の法則。
「お待たせ、行こう。」
「ジャケットはある?」
「ジャケット?」
「用意しておいて。」
もう一度部屋に戻り、姉から貰った件のジャケットを羽織る。
彼女がトランクを開け、僕はそこにキャリーケースとリュックを入れる。
「素敵なトレンチコートだ。」
「ありがとう。
ヴィンテージの一枚織り、気に入ってるの。
向こうは冷えるかもしれないから、一応ね。」
「車といい、君はグレーがよく似合う。」
「車内では脱ぐんだけど」そう言って彼女は黒いデニムに同色の薄い半袖のタートルネックのニット姿になる。
「この車はエアコン付きなんだ。」
「もちろん。」
僕も彼女に倣ってジャケットを後部座席に置く。彼女はスマホを固定しナビのアプリを起動する。どうやらかなり遠くに行くらしい。
「どうして深夜に?」
「昼にこの辺りは何度か運転したから。
それに夜の方がわくわくしない?」
「あのパーティーのことかい?」
「あんなことがあるとはね。」
僕は笑った。
「それに車が少ない方が練習にはいいでしょ?」
「なるほど。」
ちゃんと考えがあるのだ。
「まあ、これほど高速道路がトラックだらけとは思わなかったけど。」
僕らは手始めに三百キロの移動をした。その間リナはずっとUKミュージックをかけていた。選曲について僕が疑問に感じるようなものは皆無だった。途中三回サービスエリアに寄るとトイレと飲み物を買った。ウーズレーは年代物だがどこか故障をするということもなく、スムーズな走りをした。
「相変わらず、昔の車と思えない居心地の良さだ。特にシートが。」
「それに、君の家から車で十五分ほどのカー用品店にこの前行ったの。
三角停止版、バックミラー型のドライブレコーダー、ETCの取り付けに、ホイールとタイヤの交換をしてもらった。」
「準備万端ってわけだ。」
だから前回よりも振動が少ないのだ。
「初めての異国の地での長距離移動だからね、スタッドレスにしてもらったの。
それに年代物の車だし、点検も一通りしてもらったわ。」
「たしかに夏は終わりかけてるけど、少し早いんじゃないかな。」
「店員にもそう言われたわ。
でも寒い所に行く予定がないとは限らないじゃない?」
「備えあれば憂いなし。
君は車が好きとか、詳しいのかな?」
「いいえ、そんなんじゃないわ。
でもこういう美しい車が突然自分のものになると、初めてサンタクロースからクリスマスプレゼントを貰った時のことを思い出すの。」
「非日常的な高揚」そう言って僕は微笑んだ。
「貴方は?
車は好き?」
「そうだね。
人並みかそれ以上に好きだし、詳しいと思うよ。
こういう車が世界にあるってことは今まで知らなかったけど。」
「まあ、辺りにこんなの走ってないしね。」
「それに今までは、辺りにイギリス人の同級生もいなかった。」
彼女は笑う。
「案外、スピードも出るのね。
今140km弱出てるけど、右端まで振り切れそう。」
「わお。」
「貴方は眠れない夜ってある?」
「もちろん。」
「そういう時どう過ごすの?」
「レコードを小さな音量で聴くんだ。」
「何を聴くの?」
「シューベルト」そう言って彼女の顔を見る。彼女は不満そうな顔をしている。
「眠れない夜は、死と乙女を小さい音量で聴いている。」
「death & maiden? 」
僕は頷く。
「どうして?」
「大きい音で聴くとうるさ過ぎる。」
彼女は笑う。
「シューベルトは三十一歳で死んだ。
ベートーヴェンと同時代的にウィーンで活動していた。」
「随分と驚くべき時空ね。」
「僕らだって彼らに負けてないさ。
普通こんなことは起こらない。
彼は短い生涯の割に、作品の数は一生分あった。
彼がこの作品、d810を仕上げたのは二十八歳の一月末だった。
しかし前年の暮から病気と貧苦が彼を襲っていた。」
「だから死なのかしら?」
「かもね。この曲の暗い気分は彼本人のものなのは、まず間違いのないところだろうな。」
「だから貴方もそういう気分として聴くの?」
「そうだね、眠れない午前三時に楽しい想像はあまり出来ないしね。」
「後で聴きたいわ。」
「もちろん。
君が乙女の頃は何をしていた?」
「ロイヤルブルーのドレスを着てたわ。」
「どうして?」
「さあ、どうしてだったかしら。
でも自分のために着ていたわけではないのは確かね。」
彼女の運転の仕方は慎重そのものだった。トラックに追いついた時だけ追越車線に入り、用を済ませると走行車線に移動した。前方に程よい速度で走る乗用車がいればその速度に合わせて彼女も運転した。前方に車がなければライトをハイビームにし状況を確認した。そして高速道路の後半で夜が終わり、向こうの空が白み、太陽が遠くからゆっくりと顔を見せた。朝だ。高速道路の景色もその頃には自然が目立つようになっていた。午前六時頃に高速を降りて那須高原に着くと、コンビニに寄って小し休み、その後また三十分程山奥まで移動した。山の中腹にあった道の駅でも休憩をとる。後はかなり急なカーブがあり、おそらく小型車では苦戦が強いられそうな急勾配の坂もあった。
「高速を降りてから景色がとても澄んでる。
こうして見ると日本って本当に山だらけね。」
「ほっとする景色だ。」
これ以上は行けないというほどの山奥には、細長い入り口があった。門をくぐるとイギリス国旗がいくつも道の両端に並んでいた。
「着いたみたいね。」
彼女はそこに表示されている速度の標識通り20kmで運転し、car parkと書かれている所へ向かった。辺りはどれも日本とは思えない景色だった。建物も中世イギリスのものだ。
車を降りるとレセプションのあるマナーハウスへと向かう。そこで一泊の手続きとマナーハウスの案内、スヌーカーのクラスを予約する。朝の日差しの中、僕らはその小さいイギリスを一周する。端の展望台からは湖を見下ろすことが出来る。辺りは一面紅葉している。
「なんだか、こういう景色をずっと見たかったような気がする。」
「分かるような気がする、なんとなくだけど。」
辺りを散策してもまだまだ時間があったので、一時間ほど車で休憩を挟む。彼女は後部座席をソファベッドの要領で横になり、僕は助手席で本を読んで過ごす。十時にアラームがなり、僕らは早めのティータイムを取ることにする。
店内に入ると白人の男性店員が僕らを迎える。彼は二人での利用かと英語で聞き、僕は右手を二本出しながら、イエスと答える。
「さてと、何にしましょうか。
お腹は空いてる?」
「そうだね、割に空いてるほうかな。」
「私はアールグレイを飲もうかな。
貴方は?」
「クラブハウスサンドとダージリン。」
「クラブハウスサンド?
お洒落ね。
でもそれなら三段構えのティーセットをシェアしない?」
「マイプレジャー。」
注文だけで緊張するが、なんとかそのティーセットとやらを頼むことが出来た。下の段にはサンドイッチが三種類、真ん中にはプレーンとブルーベリーのスコーンとケーキの形をしたミートパイがあり、上段にはデザートのスポンジケーキにクリームが乗ったものとジャムのタルトが置かれていた。下の段のサンドイッチを僕が、上段のデザートをリナが食べ、真ん中のスコーンは二人で一個ずつ、ミートパイは半分にして食べた。
「君の立場で見るとどうなんだ?」
「貴方がイギリスに行って日本らしい場所に行くのと同じよね。
よく出来てると思うわ。
気候もこれだけ標高が高いとイギリスに似てくるしね。
ホームシックという気分もあったから、悪くないわ。」
スコーンをちぎり、バターナイフでジャムをつけながら僕は質問する。
「会計を頼む時はなんて言う?」
「Can I have my check please?」
「なるほど。」
僕らはそれぞれの紅茶も一杯ずつ交換する。1時間弱そこで過ごした後、そのチェックとやらを済ませる。
please wait a minute...Thank you for waiting.
というやり取りの後、一万円で支払いを済ませ
have a nice dayと言う店員にテンキュー、you tooと返した。店を出る頃には正午近くになっており、辺りの駐車場もいっぱいになっていた。駐車場は四輪駆動のタフな乗り物が多少多かったが、乗用車が大半を占めていた。いわんやクラシック・カーなんてリナのだけだ。もちろん通りすがりの人々は好奇心を抑えられずその乗り物を見ていた。ここの観光客には無視できない存在だ。中には写真を撮るものまでいた。
午後になるとマナーハウスツアーとスヌーカーの講義を受ける。どちらもインストラクターが英語で指導する。分からない部分はリナに教えてもらう。細部への拘りが肝心であることを、そのツアーから学ぶ。文化祭に生かせそうなアイデアも幾つかある。ライブラリー、クイーンズ・キングスルーム、リフェクトリー(食堂)・・・豪勢な間取りだ。
「Hi. what's your name?」
「Name's Ryoshi. Ryoshi Kasie. 」
スヌーカーは何もかもがビリヤードとは違う。ボールとポケットは大きく、キューは小さい。トップスピンとスクリューショットをそこで習得する。新しい構え方も。左指を広げ、台上に立てる。親指を人差し指につけながら上げて支えにし、その上にキューを置くフォームだ。 Chin(顎)とキューはピタリとくっつくくらいに近づける。インストラクターはスーヌカーがビリヤードと違って勢いよくやるものではないことを話す。そして個人の得点よりもミスをしないこと(ミスを相手にさせること)に主眼が置かれているのだとも。
それらの充実した講義の後、トランクから荷物を取り出しチェックインする。部屋のハンガーに新しいシャツとジャケットをかける。どうやら夕食がドレスコードらしい。それまでの間僕らは部屋でゆっくりする。僕らはこの前のアハトワのパーティーと同じ格好で食事に出かける。
「昔は疑問が山のようにあった。」
「例えば?」そうミアは尋ねる。
「どうして虫は明かりのもとに集まる習性があるのかとか。
どうして自分を燃やしてしまう火に自ら飛び込まなければならないんだろう。
そして何故空を飛べるのに、より大きな明りを宿した月へとは向かっていかないんだろう?」
「虫たちは月には気付いてないのかな?」
「それとも、中にはその絶対的な明るさに気付く虫もいるのかしら?」
「そうしたら、どうなるんだろう?」
「きっと、その明かりの方へと向かっていくんでしょうね。」
「その時その虫は、孤独な宇宙船と同じ宿命を背負うことになる。」
どこかのタイミングで力尽き命を落とす。ギリシャの誰も行かないような島に行く為に昼間の酒場にたむろしている漁師に声を掛け、ウゾーというアルコールの塊を一気飲みし金持ちで有名人が買うような別荘しかない島にまで送り届けて貰うような人生について、本当は一考するべきなのだ。本当に考えるべきものについて考える時間がないんじゃない。本当に考えるべきものが何か気付いてないだけだ。可能性、ところどころで多くの坂道と下り坂があり、道はろくに舗装されておらず、バックパックはじわりじわりと肉体を、主に腰に負担を欠けていく。体力を消費しながら進んでいくが、景色は一向に変わる気配がない。そして移動手段としては最低だ。
「貴方について、私の思うところを言ってもいいかしら?」
「もちろん。」
「忌憚の無い意見だけど。」
「腹蔵のない意見に」そう言って僕はグラスを掲げる。グラスとグラスが重なり短く高い音が上品になる。
「貴方は無意識に日陰を歩くのが好きなのね。」
「無意識に日陰を歩く」僕はそう繰り返す。
「貴方は日陰が好き?」
「強い日差しは苦手かもしれない。
紫外線に弱くてね、すぐに目が充血するんだ。」
「でも私が言っている日陰というのは、比喩的な日陰よ。」
「その通りだ。
でも僕が言ってるのも、比喩的な充血かもしれない。」
「明るいところを歩くと血が流れる?」
「ヴァンパイアなのかもしれない。
容赦ない太陽の陽射しが、皮膚を焼き血を流す。
僕らはある意味では誰もが一隻の流れに逆らうボートであり、海流の読めない漁師なんだよ。
種類や規模は人それぞれだし、中にはそんなものはボートとは言えないというようなみすぼらしいものも、豪奢なのもある。
でもそれらの存在意義は結局のところボートに他ならない。
それに波の流れだってその時々だし、人によってくる。
それでも前進しない訳にはいかない。
各々の宿命に向かって、流れに逆らいながらもそれは進んでいくんだ。
誰もそれを遮ることは出来ない。
宿命は駅の終点のようにただそこにあるからだ。」
「駅の終点のように。」
二日目、朝の食事まで僕らはそこに滞在する。午前中は博物館と美術館に行く。つまり、学校には間に合わない。山を下りて高速道路を100kmと少し走り、いわき市まで行く。そこから大洗までを夕日の眩しい海岸線に沿って南下する。大洗ではフェリー入口前を通りかかる。赤信号で僕らは停止する。彼女は右折のウィンカーを出した後、それを元に戻してこう言う。
「ねえ、何もかも投げ出して、あれに乗るのはどうかしら?」
僕は驚いて聞き返す。
「何もかも投げ出して?」
でも彼女はそれについては答えない。
「どうかな?苫小牧まで、何もしなくても着くよ?」
「何もしなくてもって。」
「だって、車を預けて、ホテルでゆっくりしてるだけでしょ?」
「君はそうしたいの?」
彼女は頷くと言う。
「子供のころ、翌日の遠足が楽しみで寝れなくて翌日熱を出したことがある。
その時思ったの。
前日から楽しみにしてるんじゃくて、その場ですぐに動くべきだって。」
「ここではそれを、思い立ったが吉日と言うんだ。」
「機会は自分で作るものでしょ?」
そして催促する。
「あの信号が青になる前に決めて。」
「Young men should travel? 」
「I think so. 」
歩行者用の信号が点滅する。僕に考えるべき時間というものは与えられない。
「君はまだ運転出来る?」
「もちろん。」
歩行者の信号が赤になる。
YES/NO
「いいよ、せっかくのスタッドレス・タイヤだ。
一足早めの修学旅行と行こう。」
「貴方のそういうところが、私は好きよ。」
彼女はそのままウィンカーを出さずに、直進する。
僕らは当日のツインルームの乗船券をスマホで購入する。
ウーズレーを船内に乗せ、フェリーは苫小牧に向けて出発する。
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