第26話 純粋な移動
30th,August
昼の一時。三度目の着信がそのことを気付かせてくれた。自然な目覚めではない。いつもとは違う何かが僕を起こしていた。目が開き、意識が覚醒するのをじっと待ちながらそれが何かを考える。そう、電話の音だ。カーテンの隙間から日が差し込み、部屋の色調が一段階明るくなっていた。そしてなぜスマホを持っているのか。つまりそれが鳴っているのだ。名前は読めないが、誰かからの通話を確認した。こんな朝早くに、一体誰だというのか? プロフィールが制服姿であり、彼女とは年齢も近そうだ。そう、それはスカートだった。ホーム画面は晴れた夕方の江ノ島だった。間違っても僕から友達に追加した覚えはない。
「おはよう」と彼女は言った。
「朝よ。」
彼女はウェイアップ・ファーム&ハイで、くびれのある腰までよく見える服を着ていた。それはただのファストファッションのお世辞にもお洒落とは言えないような、サーモンピンクを基調とした白いボーダーの入ったよれよれの服だった。でもそれは彼女が着るべき服だった。そういう服がこの世にもまた存在するのだ。彼女がどれほど自分の身体に意識的かは分からない。理屈を超えた興奮は冷めやらなかった。僕はおはようとだけ返した。
「どちら様?」
初対面の人間に対して僕は礼儀正しいほうだ。
「名前なら書いてあるけど。」
「あめのはらしのか」と僕は声に出して言った。
正解、と言って彼女はスマホを机に置くと欠伸をしてかがみ込んだ。彼女もやはり眠いのだろう。そしてかがみこんだせいでロングスリーブのシャツの中身がこぼれ落ちた。期待を裏切らないサイズと、エメラルドグリーンの刺繍の細かな生地が見え、それはどうしようもなく僕のことを狂わせようとし、またいたたまれなくもさせた。中学生ならそれを恋と思っただろう。高校生なら性欲と思う。それから彼女は僕との通話を忘れたのか、ボーっとしたままそのボーダーに手をかけた。やはり物事には全て始まりと終わりがあるんだと、高校生である僕個人としては感心せざるを得なかった。彼女は伸びをした後で、視線をこっちにやった。
「昨日のことは忘れた?」
そして数秒の無表情のあと、彼女は手を伸ばし電話を切った。
いいや、残念ながら覚えてる。
Q.これはいったい何だったのだろう?
朝から見るものではなかった。何にせよ、全てを忘れてこのベッドで二度寝することは出来ない。でも結論から言えば、彼女はそのような架空ではなかった。江の島と本名、制服姿の誰か。彼女についてのことに対して真実を伝えようとすればするほど話は奇妙な小道に入っていき、僕は意図せず信用や信頼を欠いていくことになってしまう。僕としてもそれだけは避けたいが、そうも言っていられないかもしれない。口から出してしまった瞬間、真実でなくなるということが時にある。でもこれは実際に起こったことだ。しかし多くの常識を備え、また僕のことを理解していない人々に対して彼女について話せと聞かれたら、僕はなんと答えればいいのか。
「今から会えない?」
「今すぐ?」
「そうよ。」
特に予定は入れてなかったはずだが、確信は持てなかった。まあ大丈夫だろう。
「良かった。
今すぐ着替えて例の所に来て。
私はもう駅にいるから。」
そう言って彼女はチャットを切った。今すぐ、今すぐ…。時刻は僕がこの世界で意識を失ってから三時間程度しか経過していなかった。顔を洗うと昨日とは打って変わりジーンズと無地の黒いポロャツを着て外に出た。昨夜は随分と奇妙な夢を見た気がする。まあそれも仕方ない。不思議の国でパーティがあり、ドレスを脱いだ美女が満月の明かりに照らされるのを見て、ずっと開くことのなかった書斎が開いた。本当は書斎の中を昼間の内にもう一度見て見ておきたかった。でも用事が出来たのなら仕方ない。こうして、ミス・アンノウンと合流することになった。
「やっと起きた?
おはよう、昨夜はお疲れ様。」
多分ああとかうんとか、そっちこそみたいな相槌をしたんだと思う。なにしろ僕は深く眠っていたのだ。 これ以上ないくらい深い眠りの後では、バラバラにほどけた自己に他人を認識し会話するような力はない。何せ自分が誰だったかも一瞬忘れているのだ。非難はしごはふたつ。コンセントはつかえなくなっている。雑音と同じ音量でジャズが流れる。窓から外の景色が見える唯一のカウンター席は高いテーブルに合わせて椅子の足は冬にはコートがかけられそうなほど長い。でも眺めはよくない。ぱっとしない顔をしたぱっとしない身なりの人々。半分はスーツを着ている。ぱっとしない車も走っている。全てがどこかに向かおうと移動している。
「お待たせ。」
「貴方、ひどい顔をしている。」
「さっき起きたばかりだから」そう言いながら僕はアイスコーヒーを流し込むとぱさぱさとしたピーナツサンドに取り掛かった。食欲はなかったし、それは上等とは言い難い代物だ。この世界でとびっきりのピーナツサンドというものが果たして存在するのか。一流ホテルのランチ・メニューにピーナツサンドが載っている風景を上手くイメージすることは困難だった。世界には色々な困難がある。
「話って?」
「まずは昨日のお礼から。
家まで送ってくれてありがとう。」
「それは運転手の功績だ。」
オールド・リムジンに乾杯。
「実は私も起きてからそんなに経っていないの。」
それに君は許容量を超えてお酒を飲んでいた。だがそんなことはわざわざ会って話すようなものではない。勿論彼女が礼儀正しすぎるならそういう可能性もあるかもしれないが。
「それで、昨夜のことについて話がしたいの。」
「昨夜の話。」
「貴方、覚えてる?」
「僕が断ったやつ?」
「セカンド・オファーに来たの。」
「どうして?」
「貴方が必要だから。」
「そんな嬉しいことを言われたのは初めてだ。」
「今日は車で来たの。
貴方のまとめた荷物を持っていくために。」
僕は彼女の顔を見た。何もおかしいところはない。僕をからかっているんでもない。そしてアルコールは多少残っていたとしても、素面だ。
「なるほど。
僕は今から家に帰り、荷物をまとめる。
そして君と暮らすと君は考えている。」
「駄目かしら?」
「この前ここで、タクミ・タチバナと話したよ。
でも僕には何も分からなかった。
そして今も、分からないことだらけだ。
悪いけど、今はカフェで話すまでが穏当じゃないかな。」
「嫌いだわ、穏当なんて。」
「その日が来たら、僕から連絡するよ。」
「でも、貴方は私と来る必要があるんじゃないかしら。」
「というと?」
「今の貴方の置かれた状況について教えられる人間は限られているってこと。」
「そうかもね。
でも流れが早すぎる。
待っていてくれ」そういうと席を立ち、カフェを出た。自室に戻った。ミアはまだいなかった。僕は試しに自分がこの空間から消えてしまうことについて考えてみた。まず通学用のリュックを取り出す。山小屋での一泊が想定されている三十リットルのバックだ。ノートパソコンを手前のポケットに入れる。次に服を旅行用のボストンバッグに入るだけ入れる。夏だし最低限あればいい。それに学校用のポロシャツ二枚とボタンダウンシャツ一枚、スラックス一枚。私服のTシャツを二枚、その上に羽織れるシャツを一枚。薄手の上着を一枚畳んで入れる。学校で必要なものはロッカーと机の下に入っている。今は軽音部に所属している。ギターは持っていた方がいいだろう。僕はそれをギターケースに入れる。一つの機材を機材ケースに入れる。余った空間に数冊の本を詰める。サングラスをかける。腕時計を付ける。ニューバランスの靴をデイバックに靴紐結んでぶら下げる。後は何がいるだろう?でも僕にはもうこれ以上必要ないことが分かっている。ブレザーや学ランなんて、必要になった時に取りに戻ればいい。それでも僕は心の隙間を埋めるために、機材ケースにネクタイを畳んで入れる。そして紫乃華に連絡する。
それはかなり具体的な妄想だった。またそれが不可能でない、現実味を帯びたものだと彼女が保証している。僕には今何もかもを捨てることが出来る。それは魅力的に見える。でも本当に僕は僕の抱えている何もかもを、そうそう易々といとも簡単に捨てることが出来るのだろうか?車にデイバックと機材ケース、ギターを入れ、助手席に乗れば僕はここを後にすることが出来る。姉の店に電話し、簡単に事情を話せばいい。そしてそれが別れの言葉にもなる。そこで僕は一着のブレザーが未知の景色に繋がっていたと話せばいい。そしてたぶん、姉さんにもそういう経験はあるはずだ。もしかすると、姉は僕の未熟を危惧するかもしれない。だが未知の景色は僕を成熟に導くかもしれない。全ての行為にはリスクが生じるかもしれないが、何もしないことが一番のリスクかもしれない。僕はあらゆるリスクを勘定に入れてないかもしれない。
「六回のかもしれないと、七回のもしかしたらで行ける世界なんてない」と姉は言うだろう。だが大事なことは背筋を伸ばし、大股で歩かないことだ。
僕はミアにメッセージを打つことも考える。今日から縁があって別の所で暮らすことになった。家出でもないし、部屋が狭いからでもない(ブラック・ユーモア)。その間僕の部屋は好きに使ってくれ。邪魔なものは別室に入れても構わない。もちろん家に帰ることもあると思う。でもきっと
「今日から友人の家に数日泊まる。
また明日学校で」と書き直すだろう。でもそれは今日ではない。
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