第19話

 私は突如、猛烈な飢餓に襲われた。喉の奥が干上がったように水を欲している。幸田は意を汲んで、ウェイトレスを呼び寄せた。私は飛びつくように飲んだが、飲んでも飲んでも渇きは収まらなかった。肩で息をする。心臓が激しく運動をしている。

 私は大きな勘違いをしていた。桜井朱里が事件で殺されているから、その兄と同級生の明日香の弟も同じく小学生で命を落としたと、身勝手に思い込んでしまったのだ。何より霊は子どもの姿だったから、子ども時代に死んだと刷り込まれた。

「だから、三好も人形の殺戮対象に名を選ばれてまったくおかしくないんだよ」

「で、でも……」

「だから言いたくないと言ったんだ」

 幸田は見たことかと首を横に振る。私はその場で大きく息を吸い込み、吐き出した。カレーやラーメン、ハンバーガー、クレープ。たくさんの料理の匂いがミックスしたフードコートの匂い。隣のテーブルの香水の匂い。リアルを体に塗り込んで、私はやっと正気を取り戻した。

「ごめんなさい、取り乱して。もうずっと前から、いつかはこうなる可能性があったのね」

「まあな。ただ、開きかけた、と言ったが、あくまでも『かけた』だ。この運命のいたずらみたいな再会すらも、決定打ではない」

「……どういうことよ」

「この再会で桜井の心にさざ波が立ったのは事実だ。ただ、この時点では桜井は、ある決定的なきっかけを知らなかった。久々の再会で、彼女の顔も忘れていたかもしれない。知らないまま三年間、それぞれがそれぞれ前を向いて、楽しい学校生活を送り、無事卒業を迎えて二人の進路が別々になれば、こんな馬鹿な事件は起きなかったかもしれん」

「…………」

 私は意味がまったくつかめなかった。もったいぶるのは癖なのか、先ほどの私の動転を気にしているのか。

 たしかに私も、これから何が語られるのか知らないが、聞いた上で気丈に保っていられる自信はなかった。でも悲しい人間の性で、ここに来ておしまいはつらすぎて夜も眠れないのもまた事実。シェヘラザードを生かし続けたシャフリヤール王の気持ちが痛いほどわかった。

「……場所を移しましょう」


 せめて、人の目が少ない場所で。ただ場所柄、どこもかしこも混み合っていないところはない。トイレは倫理的にダメだし、となると思いつくのはひとつしかなかった。

 ――ただあとで思ってみれば、もっといっぱいあったはずだなあ、と後悔の念に苛まれる。べつにお目当てのコースターはゲットできたわけだから帰ってもいいはずだし。けれどけれど、ジェットコースターの発車前と発車後に聞けるリサとガルディアの録り下ろしボイスも聞けてないし、観覧車の前後のマチベルボイスも運よく聞けたし。そう、運よく。

「……おまえ、高いところがダメならなんでここを選んだ? 休憩スペースでもよかっただろ」

 私の顔色の悪さを心配しているらしい。

「こ、高所恐怖症じゃないわよ。せっかくならね、ここの観覧車、思い出なんでしょ」

 私は顔をつるりとなでて、二度言った。言い訳のつもりではない。

「まあ、な」

 幸田は心なしか顔に朱を染め込んだ。昼下がりの陽の光がガラス張りからあたたかく差し込み、どこかぎこちない私たちを優しく包み込む。

 そういえばこの観覧車、何かいわれがあったような……? 夜のスカイツリーとか、幸せの鐘的な……? と必要のない手探りをおこなっていたところへ幸田は口を入れた。

「そう、桜井はな」

「えっ? あ、ええ、桜井くんね」

 私は無様なほど唇を震わせた。今はべつに夜景とか星空とか海岸とかに思いを馳せている場合ではないのだ。この素敵な光のたまり場にて執りおこなわれるのは、現実に起こったホラみたいな話なのだ。私は気持ちを切り替えて居住まいを正した。

「地上に着くまで十五分ほどだ。手短にいくぞ。まずな、話はもっと前、五年前の猟奇事件に端を発する」

「当たり前じゃない。それがすべての始まりなんだから」

「まあ聞け。桜井透と三好明日香、二人はべつに当時から、特別仲がいいわけではない単なる同級生だったが、妹たちはどうやら親しい間柄だったらしい」

 それはうなずける。

「桜井朱里は勝ち気な性格で、男の子と混じってサッカーやら鬼ごっこやらして遊ぶような子だった。三好繁和は友達と駆け回るのが好きなごく普通のどこにでもいる男の子。性格の似た二人は一緒に遊ぶ関係だった。帰る方向が一緒で、よく通学路の駄菓子屋に寄っていたそうだ」

 もしかしたらあの謎の駄菓子屋は、五年前の幸せな時代を取り返すような、二人の原風景だったのかもしれない。なおあの駄菓子屋は小学校廃校後、客足が途絶え、ひっそりと店じまいしたとのことである。

「二人はいい友達だった。友達以上の感情を抱いていたのかもしれないが、そこまでは誰もわからない。ただ、お互いを他の友達よりも大切に想い合っていたのは断言していい――それが今回の悲劇を招いた。朱里は繁和をかばって殺されたんだ。繁和に向けられた刃の前に立ちはだかってな」

 幸田はゴンドラから外を見ながら、淡々と語っていく。観覧車はゆっくりとゆっくりと、しかし確実に上っていく。見下ろすと人や車、すべての建物がジオラマのように小さく見える。私たちは四人の少年少女の五年間の軌跡を追うように、時計型のアトラクションを巡っている。もしやこれは私たちが見ている走馬灯で、地上に戻るとはあの世に立つと同義ではないかと訝しむほど、現実離れした話が始まっている。

 頭の中で映画が上映される。

 乱歩の小説みたいな赤い部屋だ。違っているのはそれが虚構ではなく、立派な現実であるという点だ。昼時だ。小学校は給食と昼休みを終え、掃除の時間だった。でも綺麗にするための時間なのに、教室は真っ赤で埋め尽くされて、どれだけ手間暇かけて拭き取っても永遠にぬぐいきれない。子どもたちは染まりゆく世界で夜明けの蛍のように虚しく、重なり合って倒れている。モップや雑巾は赤を吸い取り、彼らを悼むつもりか転がっている。

 深緋のセレモニーは終幕している。

 息をおこなうものはない。空気も音を立てない、終わった世界で、むくりと起き上がった真っ赤な少年。涙さえも鈍い色に変わっていた。

「朱里ちゃん……?」

 ついて出る言葉も、この世界を生き返らせるには至らなかった……

「繁和は殺人鬼が教室を出るまで息を殺して死んだふりを続けていた。その間、これまでの人生よりも長いと感じたらしい。なぜ彼女をかばうために動けなかったのか。なぜ助けられているのか。みんな死んだのになぜ一人だけ生きているのか。いろんな思いが頭を渦巻いたが、なぜ動けなかったのかと悩む羽目になったのは繁和だけじゃなかった。掃除は何も校内だけじゃない。グラウンドを掃除していた子どももいたそうだ」

「まさか」

「そのまさかだ。当時五年生の桜井透さ。やつのクラスは次の授業が体育だったから体操服に着替えて掃除を終え、そのまま待っていたそうだ。ただいつまでたってもクラスメートは来ない。先生も来ない。何か嫌な予感を感じた桜井は同じくグラウンドの担当だった同級生とともに中へ向かったそうだ。その頃には犯人も自殺を終えていたそうだ」

 なぜ動けなかったのか。

 なぜもっと早く突入しなかったのか。

 なぜ妹を助けられなかったのか。

 私はこめかみを指でもんだ。額はジリジリと焼けるコンクリートのように熱かった。

「……無茶だわ。子どもの手でどうにかできることじゃない」

「それでも思わざるを得なかったんだろう」

「……それで朱里ちゃんが身代わりで死んで、繁和くんを恨むようになったの?」

「いや。繁和はショックで蛭峡にいる間は口がきけなかったから、真実は闇の中に永久に葬り去られた。ただ、繁和はそのままずっと口をつぐんでいられない、優しい子どもだった。でも本人に否があるわけじゃないにしろ、美談で片づけられる話でもない。この期に及んで明かすのもはばかられる。やつは良心との板ばさみに悩んで引きこもりがちになり、ある日自分の部屋で首をつって自殺した。ずっと引きこもっていてご飯もろくに食べないし、外とのコミュニケーションをいっさい取ってなかったから、遺体が発見されたのは自殺から二日もたったあとだったそうだ。遺書には教室で起こったすべてが書かれていて、それを見つけたのはさすがに食事を取らない弟を心配した姉の三好明日香とあと一人、調査のために三好家を訪れていた藤林達臣だった」

 藤林達臣! 私は釘でぶっ刺されたような衝撃に、ゴンドラがぐわらんと大きく揺れたかと思った。

「ただな、この真実が明るみに出ることはなかった。商店街の誰かが言ってただろ。藤林は人情派のジャーナリストだ。今さらこの事実を明かしたとて朱里の勇気ある行動でお涙ちょうだいとマスコミにもてあそばれるだけで、生き残った人間にはなんの意味もない。浮かばれない。だから藤林はこの話を記事にすることなくひっそりと胸にしまった。もちろん、三好も同様にな」

 デリケートな、引きこもりの家族の部屋への突入を許可されたのも事件関係者から信頼されていた証だろう。

「そんな彼も今回人形にやられたわ。桜井くんは、そんな彼も心のどこかで恨んでいたのね」

 胸にくすぶる悲しい思いにため息を禁じえなかった。

「それがだなあ」

 幸田は頬をポリポリとかきながら言った。

「あいつもべつに藤林に悪感情を持っていたわけじゃないらしい。最初は事件にたかる有象無象のジャーナリストの一人、という認識で、それはいい意味じゃないのは推して知るべしだ。でも彼の取材能力や熱心さ、人柄にだんだんほだされていったらしい。ただほだされすぎたというか、藤林は立ち入り禁止の札を立てて桜井を拒んでいたのに桜井が入り込んだというか」

「抽象的ね。どういうことよ」

「林間学校の一ヶ月前にさかのぼる」

 観覧車ははかったようにてっぺんにたどり着いた。高所恐怖症でなくても足がすくむ高さだが、背中ににじむ汗は別の恐怖が呼び起こしているものだった。私は腕の鳥肌をさすった。

「藤林は大阪の人間だがその日は出張でたまたま生天目市を訪れていてな。暑い日だったからな、駅前の喫茶店のカウンターでコーヒー片手に休憩していたところ、折悪しく桜井が隣の席でお茶をしていた。ばったり出会った二人は並んでちょっとしたおしゃべりに花を咲かせていた。だがこの時点ではお互いの身分など知る由もなかった。桜井は事件の記憶がすっぽり抜け落ちていたからな。ただ話がはずんで、お互いに名乗った瞬間、藤林は互いに記憶を取り戻した」

 事件の記憶がない桜井透は藤林の正体など気づくはずもない。藤林も相手が自分を忘れていることに徐々に気づきはじめた。だが、だからこそもし何かのタイミングでパンドラの箱が開いたとき、ろくなことにならないのは藤林も経験から知っていた。桜井透にこそ明かすべきでない情報をつかんでいた点も手伝った。藤林はさっさと退散すべく折を図っていたが、緊張が限界に達し、トイレに立った。

 緊張と焦りはときに、人を思わぬ行動へと導くものである。藤林達臣がテーブルに一冊のノートを置きっぱなしにしていたのは、痛恨のミスという他なかった。

「藤林は取材のメモやスケジュールを一冊のノートにまとめていた。そこには取材相手に関する個人情報や機密情報もたくさん書かれている、彼の大事な仕事道具であり、決して他人にたやすく見せてはいけないものだ。優秀な男だからな、あるまじきミスだったと言わざるをえない。桜井は魔が差して、ページを開いた。開いたページは月のカレンダーをコピーしたものが貼りつけられていて、日付の欄に『三好家訪問』とあった。そこに矢印を伸ばして、例の朱里と繁和の秘話が短く綴られていた」

 本当に『魔』とは恐ろしいものである。この事実は桜井透の心臓を鐘のように突くには十分だった。

「勘違いしてはいけないのが、桜井はこのとき記憶を取り戻したわけじゃない。だが三好明日香という同級生の弟と、最愛の妹の間で起こった悲劇。それは本当なのか、悩みに悩まなければならなくなった。いやそれ以前の問題だ。妹が病気や事故で亡くなったと思い込んでいた桜井は、もしかしたら死因は別ではないかと疑惑を抱いた。悪いことに一ヶ月後には蛭峡のある加賀美市での林間学校だ。勝手にノートを覗き見た身で藤林を問い詰められるわけもなく、両親に聞くのもはばかられ、三好に直接尋ねるのも腰が重く、何も見いだせないまま林間学校当日になった。そして運命の地で、考えて考えて考え抜いた結果、この話が事実だろうがそうでなかろうが、朱里が戻ってこないことは変わらないと悟った。でも朱里の性格上、もしかしたら人をかばって死ぬなど、ありえない話じゃないのでは。まさか、贔屓目なしでも人のいい妹だが、小学生の女の子が誰かのために命を投げ出すなんて。けれど、そもそも殺人鬼に殺されるなんて、そんなスリラー映画みたいなことが現代日本で起こるものか……? いやでも……?」

 ここで私の拙い頭も、ようやく意味が取れた。事件を引き起こすに至った桜井透の強い思いとは、疑心暗鬼だったのだ。

 妹は誰かをかばって死んだのか。いやまさか。でも。殺された子どもたちの怨念と桜井透ののたうち回るような苦しみが手と手をつないで、小学校から久実乃まで忌まわしく伸びる道を『くるみ割り人形』をバックグラウンドに歩き進み、繁和の姉の三好明日香を襲い、この事実を知るに至らしめた藤林を追い込み、生き残って逃げていった人々を屠った。

「妹はもちろん、そんなことを望んじゃいないだろうけどな」

 それを聞いて私ははっと思い当たったことがあった。桜井朱里が消える前に残した言葉「にと」とは、「兄ちゃんを止めて」ではなかろうか。憶測でしかないけれど、だとしたら彼女が私たちの前に現れた理由が鮮やかになる気がする。

「桜井くんだって望んだわけじゃないでしょう」

「違いない。事実やつは病院のベッドで後悔にさいなまれているらしい。無理もないさ。無意識とはいえ大勢の命を奪ったんだからな。入院生活は長引きそうだぞ」

 桜井くんはまだ過去の事件を曖昧にしか思い出していないらしい。すべてをいっぺんに吹き込んだら彼の精神の崩壊を招きかねないという十文字側の配慮だそうだ。

「……宗康さん、ちゃんと教えてあげたんでしょうね? みんな生き返ったって」

「ああ。それだけが唯一の救いだと言っていた。べつに十文字だって鬼や悪魔じゃないからな。たぶん」

 本当に、たぶんとしか言いようがない。十文字が今回の事件を予言した際に事前に食い止めていてくれればこんなややこしいことにはならなかったわけだし、幸田が『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』をもっと早く奏でていれば……って、その話は終わったのだけれど。

「そう、そう。まだ『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』ってなんだったのか聞いてないわ」

「ああ、言ってなかったな」

 幸田は再び窓の外に目を向ける。地上がゆっくり近づいて、人の姿がだんだんくっくり見えてくる。寂しさを覚えるとともに安心感を胸に運んでくれる。

「蛭峡小では掃除の時間に教室で『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を流すのが定番だったそうだ。人形と音楽の町だからかな。性能のいいブルートゥース対応のスピーカーが、持ち運びが簡単で何かと便利だから、ほとんどの教師が携帯していたそうだ。おまえ想像してみろ。いきなり入り込んできた殺人鬼を目の前にして、スイッチを切る暇があったと思うか?」

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』とは散りゆく子どもたちの魂に手向けられた葬送曲だったのだ。子どもたちの念が宿った人形たちには、トラウマものだったに違いない。

「この事実は公にされていないからわずかな関係者しか知らない。ちなみにとあるジャーナリストはセレナーデ、小夜曲になぞらえて、真昼の惨劇、小昼の悲劇と呼んだそうだ。……これは非常にメディア的な煽り方で、藤林は揶揄していた旨がノートに書かれているそう。なかなか悪くないセンスだと思うけどな」

「まあ……そうね。不謹慎ではあるけど。というかあんた、ノートの中身知ってるの?」

「十文字が事情聴取のために藤林を呼び寄せたときに、ちょっと見せてもらった。そうそう、藤林は引退するらしい。もともと彼女との結婚が決まっていて、相手方の田舎に引っ越すそうだ」

「へえ……」

 他にも幸田は人形奇譚の被害者のその後を軽く話した。皆、人形に襲われた事実については生徒たちと同様記憶が曖昧だが、そのときの恐怖は体が覚えているらしく、一度蛭峡に戻ってお参りをおこなうツアーを計画中らしい。交通費や宿泊費は、十文字が負担するそうである。

「そんなことまで……鬼どころか天使かもよ?」

「馬鹿言うな。唯ちゃんも誰に似たのやら、昔はあんなに……」

 幸田の繰り言をバックに聞きながら、私は近づく地上を見下ろす。

 桜井くんの心の傷はとうぶん癒えないだろうし、林間学校を潰された生徒たちも気の毒だ。けれど今回の事件、こんなにもたくさん怖いことがあったのに、誰一人として命をなくしたものはない。皆生きて、それぞれ進むべき道を歩みはじめている。

「生きてさえいれば必ずいいことがあるでしょう?」

 ゴンドラは無事、地上に舞い戻った。他のゴンドラからも、疲れた背中や足を伸ばしながら下りてくる家族やカップルがある。私の気持ちは彼らほど晴れやかではないに違いないが、思ったより重くはなかった。

「桜井くんの入院が続くとしても、彼だったら乗り越えられるわよ。早苗だってついてるんだから」

「おまえ、怒ってないか?」

「何よ」

「野中が桜井と仲いいことに怒ってないか? だとしたらべつに怒る必要はないだろ。おまえが止めてくれたのかと感謝していたぞ」

「それは嬉しいけど……いいのよ!」

 私はつんとそっぽを向いた。あの二人がいい仲であることは今に始まった話ではない。それに私は桜井くんへのお見舞いにまだ一度も行けていない。避けているわけではないがなんとなく行きそびれているのだ。それに比べて早苗は忙しい合間を縫ってか単に暇なのかしょっちゅうしょっちゅう遊びに行っている。ピアノ一筋の早苗が自分の気持ちに気づくのはいつになるかわからないが、桜井くんが悲しみを打ち砕く頃には、早苗だって大人の階段を一歩上っていることだろう。

 こうして無駄に言葉を並べ立てているところ、私はまだ未練があるのかもしれないが……それより。

 私は幸田伊織の、腹立たしいほどに整った横顔を見た。

「あんただって、いいことあったでしょ?」

「いいこと?」

「宗康さんの誤解を解けたじゃない」

「ああ……」

 幸田は憑きものが落ちたような顔をする。

「唯さんにはフラれちゃったけど」

「ああ……」

 幸田は露骨に渋面を作る。人の恋路には疎い男だが、自分の恋にはあけっぴろげなほどわかりやすい。

「まあ、元気出しなさいよ」

「元気出ねえよ」

 幸田は大きく肩を落とす。

「俺には他にお似合いの人がいるとか、いったいそいつがどこにいるのか知らねえが、見つけ出して顔を合わせて一秒後にフッてやりたいね」

「怒ってるの?」

「おまえと一緒にするな」

 幸田はぷんと明後日の方向を向いた。嫌がったりすねたり落ち込んだり、かねての彼だったらお目にかかれなかった表情を、最近はたくさん見ている気がする。無感動に、人を人とも思わずに詰めていたときからはえらい変わりようだ。

 いや……最初から、何も変わっていないのかもしれない。私は彼に助けられた。あの姿や、この豊かな表情が本来の彼なのかもしれない。

 でも。このころころ変面のように変わるおもてが、ある日突然動かなくなることだってある。桜井くんだって、当たり前のように今夜も、妹とピアノを奏でられると信じていた。このやたらめったら広い遊園地、道行く誰も彼も幸せな笑顔を互いにかけあっている。隣の彼、彼女との永遠の別れなど頭の片隅にもないに違いなかった。

 私は雑踏の中、立ち止まった。幸田は振り返ったが、迷惑そうなしかめっ面を作れど、催促しなかった。私は空になる直前のケチャップのように、ぷすっと吹き出すように言葉を紡いだ。

「あんた、幸田家の当主になるんでしょう?」

「えっ?」

 幸田は虚を突かれたように、目を点にして私の顔をまじまじと見た。

「それがなんなんだ」

「あんたもあの薬を飲んで、死んだりするの?」

「…………」

 しばし観察するように人の顔をしげしげ眺めていた幸田は、真意を読み解いたのか、諦めたのか、青空を貫く飛行機雲より長いため息をついた。お得意の人を小馬鹿にした笑顔をつけて、

「アホか。あんな危なっかしいもん、飲める勇気があるのは宗康様と唯ちゃんぐらいだ。俺は最初っから、毒なんて必要ない、誰も死なない方法を模索してやる」

「……そう」

 よかった。

 衆人環視、おひさまに届きそうな笑い声が腹の奥からこみ上げてきて、私はそれをあわてて、明るい声に切り替えて発信した。

「よし幸田、メリーゴーランド行きましょう。マーチアのボイスが聴けるのよ!」

「知らないやつの声を聞いてどうするんだ」

「いいから行くのよ! そのあとはジェットコースターよ」

「それなら許す」

 天高く馬肥ゆる秋。空は青い。太陽は光る。二人は我先に駆けていく。

 こいつに死んでほしくないなんて、思う日が来るなんて。

 私はまだとうぶん、大人の階段を上るつもりはない。べつに、ただ今回の事件を通じて思うことがあっただけ。

 私は早苗だって明日香だって桜井くんだって、お母さんだってお父さんだって、他のクラスメートだって、この遊園地を訪れたすべての人だって、死んでほしいなんて思わない。心の底から思わないけれど……もし魔が差して、欠片でも思った場合は、あの五芒星をぎゅっと握ろう。

 十文字と幸田の加護が宿った、私の宝物を。

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真昼の小夜曲 かめだかめ @yossi0102

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