第15話

 大名行列が町を通ったときは、町民は恐れをなして道を開けるし、病院の総回診時もナースは廊下の壁に体をつける。川を真っ二つにしたモーセのように、人々を恐怖のどん底に陥れた化け物のように、これらの現象は畏怖の現れなのだ。

 私は思わず、道を開けたくなった。だが幸田がそれを制したので、ビクビクしながら固まっていた。

 扉の奥から登場した大名行列の先頭に立っているのは、化け物より化け物じみた中年男性だった。

 狩衣というそうである。衣の部分は白く、袴は牡丹のような鮮やかな赤色である。頭には烏帽子を被っている。これぞ漫画で見るような陰陽師、といういかにもな格好だが、他に数十人は見受けられるものどもは揃いも揃って茅色の直垂姿だった。だからこそ狩衣の君が、異相の心地を放っていた。

 格好だけでない。精悍な顔立ちも鋭い目つきも白髪交じりの長髪も、顔に刻まれたしわも、すべてが異様な気配をはらんで見えた。

「宗康様」

 幸田は一歩前へ出た。

「――久しぶりだな、伊織」

 低い音は大地を吹き抜ける突風のよう。

「――このものは」

 十文字宗康の双眸が私を突き刺した。きっとこの目に睨まれたら、人も獣のなすすべはない。隕石だって地球から逸れる。カラスだって白に染まる。とにかくこの人には言葉では言い表せない、人智を超えた威圧感がある。小娘に抗えるはずもなく、私は蝋で固められたように動けなくなってしまった。このとき脳裏をさっとほうき星のようによぎった記憶の欠片も雲散霧消し、二度と現れなくなった。

 幸田は十文字宗康が再度口を開けるより前に答えた。

「このものは私の同級生で、一般人です。どうかご勘弁を」

「――無論、承知している。巻き込むつもりはない」

 十文字宗康はそう吐くように言い、幸田に向き直った。

 ここだけの話、私はこのときこの、偉大なる当主殿に言い知れないモヤッとした嫌悪感を抱いていたのだが、私もおいそれと口にするほど馬鹿ではないし、命は惜しいので、胸の奥にしまっておいた。

「伊織」

 十文字宗康は続ける。すべてを超越したものと同じ独特の佇まいである。

「単刀直入に述べる。お主は無事、試練に合格した。大儀であった。おめでとう」

 驚いたのは私だけではなく、幸田も同じだった。肩がピクリと跳ねた。

 宗康殿はパン、パン、パンと規則正しい律動で手を叩く。それに呼応するように後ろに控える人たちも手を打つ。場所が場所なだけに柏手が山びこみたいに響き、私はおかしくなっていく。滑稽というか、なんというか。もちろん冗談ではなさそうだ。

「ど、どういうことですか」

 拍手の波を止めたのは幸田の叫び声だった。十文字宗康は繋ぎ止められたように幸田から視線を外さず、答えた。

「幸田伊織。お主には才能がある」

「…………」

 幸田は目を背けようとしたが、踏みとどまった。

「お主も心得ているだろう。幸田の家は微禄しきっておる。低級のあやかし同士の小競り合いですらも我ら十文字の手を借りなければ収められないほどに」

「おっしゃるとおりです」

 幸田は下唇を噛んでいるが、それでも目を逸らしたりはしない。

「それだけならばまだ目をつぶっていられよう。ただ幸田の家にはお主以外の跡継ぎがいない。そのお主すらも修行の際、他の家の子どものように邁進することなく、惰眠をむさぼっていた。我々としても見過ごしていられないほどに。ただ、私も鬼ではない。生天目を守りし家が廃れたならば世界の均衡を乱しかねない。だからこそ我々は特別事例として、幸田に最後の悪あがきをする機会を与えた」

「悪あがき……」

 私と幸田、二人とも同じことを思っていたに違いなかった。幸左衛門の背中に揺られながら幸田は語ったではないか。本来十文字の分家は地区ごとに定められており、他の地での揉め事には非干渉の姿勢を取るのが決まり。今回幸田が加賀美市の事件解決を命じられるのは、イレギュラー中のイレギュラーであったと。許されるのは分家の手助けをおこなう立場にある、十文字だけであると。

「わ、私を試したということですか」

「いかにも」

 十文字宗康は鷹揚にうなずく。

「お主は能ある鷹であったのだ。此度の事件、私の知るお主ならば決して解決できる代物ではなかった。私が気づかなかったとは、宗家の名を持ちながらなんたる未熟者であったと慚愧する以外耐えない。許してくれ」

 宗康が頭を下げたことに、後ろの付き人たちが困惑気味にざわついた。幸田は何も動じることなく、ただただ顔を上げる当主と向き合う。

「そこで、だ」

 宗康殿は続ける。

「幸田の家を継ぎ――生涯を終えるには惜しい人材であることは認めざるを得ない。幸田伊織、お主にユイの寝殿へ立ち入る権利を与える」

 このとき――このときの私は、思わぬところで自分の名前が飛び出したので、恐ろしい気持ちをいったん忘れて、宗康殿の顔を見ないわけにはいかなかった。目が合ったような気がするけれど、そうでない可能性のほうが高かった。

 ただすぐあとの幸田伊織の反応で、その名前に自分は関わっていないことを知ることとなるのだった。

ゆいちゃん……いえ、唯様でございますか」

「他人行儀な物言いをするでない。お主たちは夫婦の契りを交わすのだからな――唯」

 宗康は少し声を高くして言った。途端お付きの人の垣が分かれ、道を作った。二人の直垂が息ぴったりに講堂の扉を開いた。それは、世にも美しい人を出迎えるための、神聖な儀式だった。

 彼女も狩衣姿だったが宗康殿とは印象がだいぶ違った。それは、彼女のしとやかな足使いや吸い込まれそうな瞳、上品な唇から来る、現実離れした形がそう思い込ませるだけかもしれない。彼女は可憐である。対して彼は苛烈である。細く長い指を体の前で組み、彼女はやおらお辞儀をした。

「十文字唯でございます。伊織さん、お久しぶり……」

「――ご無沙汰しております」

 幸田はどこか気が抜けたような横顔を見せた。彼女は次いで、驚くべきことに私のほうに体を向けて、野に咲く蓮華草の笑顔を浮かべた。

「お初にお目にかかります。十文字宗康の娘、唯と申します。伊織さんのご学友だそうで……」

「は、はえ、はい。お初で」

 私は一族の恥と後ろ指をさされてもおかしくないぐらいしどろもどろだった。果てしなく情けない女にも彼女は顔色ひとつ崩さず再びお辞儀をして、初対面の挨拶を済ませた。すべては映画のワンシーンだった。彼女の存在する場所と、私たちがいるところ、次元がひとつも二つも別に思える。それは父の宗康殿も同様だった――これが十文字のなせる技なのか。

「伊織さん」

 十文字唯は言う。歌うように優しく、沈むように美しく。

「昔とずいぶん変わったわね……わたくし、嬉しいわ。あなたが立派になって」

「君こそ……変わったな。あんなにおてんばだったのに」

「大人になっただけよ。あなたもね」

「隠し事もやめたんだな。十文字の娘だなんて、一言も言ってなかった」

「これは当時から、あなたより大人だっただけよ。言ってしまえば敬遠されるでしょう? おかげでおもしろい毎日を送らせていただいたわ――ねっ、伊織ちゃん」

「……へえ」

 完全に相手のペースだった。

 いつもだったら乗せられるような男ではない。久々の再会で心をかき乱されたのか、心を持っていかれたのか、どっちかは知らない。たぶんどっちもである。

 私は自分の心が、小鳥が飛び立ったあとの木のように、小さくざわついているのを実感していた。

「唯、積もる話はのちにいくらでもできよう。下がりなさい」

「はい、承知しました、父上」

 十文字唯は宗康の後ろに下がった。宗康殿は気を取り直して、言った。

「日取りはすでに幸田殿と話がまとまっている。幸田殿も息子の晴れ姿を楽しみにしていると言う。なに、心配はいらぬ。幸田の家の跡継ぎは十文字から送り出す手はずが整っている。お主は幸左衛門ともども、屋敷へ向かえ。しかしお主らは未成年、我々も時代の流れには逆らえぬからな。事実婚ということになるが――」

「お、お待ちください」

 どうしたって私は、この瞬間を死ぬまで後悔しなければならないことは火を見るよりも明らかなのだが、あとの祭りだった。

 過去は取り戻せず、私はどこの馬の骨とも知れぬ出しゃばり女として、いっせいの目を向けられることとなった。

「おい」

 幸田は焦り顔で私の体を押し戻そうと試みるが、意外にもそれを制したのは宗康氏だった。

「岡崎結衣」

 まったくもって恥ずかしいにも程がある。果敢に出ていったのはこちらだというに、ふいに名前を呼ばれて私は硬直してしまった。それに何より私は名乗っていないはず。

「言いたいことがあれば早急に言え。我々はお主に時間を割く」

「――では言わせていただきます」

 とはいえ私みたいなごくごく普通の女子高生、この偉大なる当主の前では風の前の塵に同じ。自分の浅はかさを呪うしかないが、一度決めてやめたら女が廃る。私はお守りみたいな髪飾りを無意識に手に握っていた。

「あなたたちの仕事を少しだけ聞きました。妖怪や幽霊から私たちの生活を守ってくれている、それは感謝します。ただ人の生活を守るのに、多数の人の命を奪うなど矛盾しています……何より幸田の、幸田くんへの試練。知りませんけど、そのためにたくさんの人たちが犠牲になるなんて、あっちゃいけないと思います!」

 なんて子どもっぽい。作文。夏休みの日記。支離滅裂。しっちゃかめっちゃか。のちに振り返ってみれば赤っ恥だけど、これが私の真実の、リアルな意見だ。

 息が詰まるような静寂が舞い落ちる。皆が一様に私に注目する。宗康殿は鷹のような眼光で突き刺す。この注目は、ただ居合わせただけのお呼びでない恥知らずへの冷笑であろう。自覚はあったが、覆水は盆に返らない。切り立った崖に追い詰められた私にできることは、視線を外さないことだけ。

 そこへ救いの手か、悪魔の手か、差し伸べられた。

「岡崎結衣さん」

 同名の美女、十文字唯がしずしずと前へ出てきた。頬に湛えた微笑は崩れない。

「あなたがおっしゃりたい意味はわかりました。ただ、それだけじゃないでしょう。あなたにはまだ他に言いたいことがあるでしょう?」

 ――まだ?

 目を白黒させて彼女の美しい顔を見る私は、さぞ見ものだったと思う。スフィンクスになぞなぞを出されたテーバイの人はこんな気持ちだったのだろうか。間違えたらこの美しい人に魅入り殺されてしまいそうだ。

 私が金魚のように口をパクパクさせていると、宗康殿が動いた。

「まあ、よい。岡崎結衣、お主の気持ちは買わせてもらおう。だが伊織、おまえは来い」

「お待ちください」

 ひとつ発せられた合図は、私のすぐ隣によるものだった。誰も予想していなかった彼の一言に、お付きの人々は狼狽を顔から隠せず、ただ十文字親子だけは泰然自若と、視線と体をそちらへ向けた。聞く姿勢を整えたということか、それとも想定内だったのか。

 しかしだ。そのあとにおこなわれた幸田の行動を目の当たりにすれば、十文字親子という大人物であったとしても、取り乱さないではいかないだろうと、私のような庶民には思う。ただ実際は十文字唯のやわらかい目尻がくいっと小さく上がったのみだったのだが。

 幸田は膝をつき、両手もついた。

「宗康様。私にお嬢様をいただく資格はございません。私は未熟者でございます。桜井透から放たれた邪気を一人で食い止められなかっただけでなく、そもそもあのものが元凶であると見抜けなかったのです。それだけではございません。そう、この娘……岡崎結衣の存在がなければあのものは自らの邪気に食い破られていたでしょう。あの邪気は人形どもをいとも簡単に超える破壊力を有していたに違いありません。宗康様、私は、私たち十文字の血は、人の命を瑣末に扱いすぎていました。時代の流れ、たしかにそうです、私たちも意識を変える好機なのではありませんか」

 幸田の声は大いに振動していた。それは恐怖から来る震えと、武者が戦場に赴く前の高ぶりから来る震えが、スムージーのように混ざり合っていたからかもしれない。

 私はただ呆然とするのみだった。いつも傍若無人な同級生の五体投地など誰だって混乱するではないか。

 いやしかし。私は幸田がただの不躾でないことを知っている。だから私も手を貸すように、幸田と同じ先を見つめた。

 四つの若き瞳に射抜かれた宗康氏は、喉の奥を鳴らし、娘と顔を見合わせた。

 十文字唯は父の目に笑いかけた。

「いいのではございませんか。そろそろあの子も大人の階段を上るいいときかと」

「おまえには敵わぬな、唯」

 十文字宗康は綿に似た微笑を持ち上げた。しかしすぐさま元の厳格な当主の顔に戻ると、

「伊織、戻りなさい」

「はい」

 幸田は膝を上げた。私は彼に言いたいことが山ほどあったが、無論空気を読んだ。

 そう、空気は変わっている。講堂を、この山をはらむ気は明らかにあたたかいものになっているような。それは宗康氏の微笑みをはじめて見た私の錯覚だろうか。連綿と受け継がれる異端の力をのちの世に伝える使命を持って生まれた人は、海や大地のように、父の強さと母の優しさを併せ持つのだろうか。

 いや、私は甘かった。甘すぎた。

 力を持って生まれたからこそ、彼はおぞましいし、我々庶民には理解できないし、優しいのだ。優しすぎるのだ……

「唯、準備はできているな」

「ええ、父上。何時でも」

 二人はうなずきあった。

 後ろの人々は兵隊の行進のように一糸乱れず、襟元から何かを取り出した。

 それは紙切れのように見えたが、何かが書かれているようだ。

「…………」

 全員が声を合わせて何か言葉を唱えはじめたのだが、内容はさっぱりだった。数十人の声が集まると雄叫びのようで、獣の咆哮のようで、横風に吹かれた森のようで。けれども不思議なのはそれにたしかに、魂が宿っていると感じたこと。

 私は反射的に幸田の腕をつかんだ。

 やがて親子は嵐の中、京の都の今や昔を見守り続けた法隆寺で、今にも羽ばたきそうな鳳凰丸を思い起こさせる威厳ある佇まいで――己の襟元からひとつものを取り出した。

 それが後ろの彼らのような紙切れではないことは形状から一目瞭然だった。

 私の視力では限界があるので憶測だが、どうやら瓶のようだ。ジャムを詰めるタイプの背の低いやつだ。ただ中に入っているのは、ストロベリーの赤やマーマレードの黄色の、食欲をそそられる色ではなく、墨を溶かして煮詰めて煮詰めて放っておいたような、ドス黒いそれだった。

「あ!」

 私と幸田は異口同音に悲鳴をあげた。

 二人は瓶を開ける。異臭が立ち込めるが、鼻を覆う間もなかった。

 二人は躊躇なく中身を指ですくい、子どものように舐めた。

 刹那、親子はくるくると永遠のように回り続けたコマの最後のごとく、どおんと大きな音を立ててその場に横倒しになった。

「唯ちゃん……!」

 幸田は駆け寄ろうとするが、私はそれを止めた。そうしたほうがいい気がしたからだ。幸田はおとなしく私に従った。

 呪文は続く。途絶えることなく、二人へのレクイエムのように。

「……ううん? ここは……?」

 体育館の隅で顔にガーゼを被せられていた三好明日香が、夢の現実の狭間で目をこすりこすり起き上がったのは、私と幸田が抱き合って大泣きを始めたときから数秒がたってからのことだった。

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