第14話
ピアノを弾いているときの彼は、この世でもっとも偉大な表現者なのだ。可憐もあれば、苛烈もある。曲によってさまざまな表情を見せる。楽しみ、おかしみ、苦しみ……悲しい感情もあるけれど、すべては彼が持っている尊い、なくしてはならない感情だ。
とはいったものの、これは封印したって罰は当たらないと思う。
「これ以上近づけないわ」
私の悲痛な声に、幸田もうなずいた。私たちは講堂の中央まで達していたが、百里を行くものは九十里を半ばとするで、まだまだ先は長い。
「岡崎」
幸田はあえぎあえぎ言う。
「ここからやるぞ」
「嘘!」
「まさか心の準備ができてないとか言うんじゃないだろうな?」
図星だった。
みんなを助けたい。それは紛れもない事実。でも――ちょろっと聞きかじっただけの私が、うろ覚えで唱えて、果たして願いは叶うのか。
「いいか」
幸田は私の片手をさらに強く握った。
「陰陽術ってのは一朝一夕に身につくものじゃない。安倍殿だって開花は四十過ぎ。俺だってまだ十六年そこらの人生。おこがましいぐらいだ。でもな」
幸田は私のポケットを指さした。
「こっちには切り札がある。俺とおまえ、二人力を合わせれば、勝てない相手じゃない。なに、俺が先にやってみせるってんだから」
私の心は完全に見透かされていた。
なんだか、腹が立つ。隠していたのはずっとあっちだったのに、いつの間にかわかったような態度で、なのにガンガン核心を突いてくるところが、腹が立つ。でも、嫌じゃない。
嫌じゃないなら、委ねたって構わないってことだ。
「わかった。一言一句聞き逃さないわ。あんたも、こっちを全面的に信用しなさいよ」
「全面ってほど信じられないがな」
なんでこのタイミングで人の心を折るようなことを言ってくるのだ、こいつは。
でもこれも今さら。私はポケットにしまいっぱなしの髪飾りを取り出し、左の手のひらに置いた。そしてその上に右手を重ねて、ぎゅっと包み込んだ。
私より先に幸田が動く。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女!」
私にも見える、言葉の矛。武器は龍のような生きた形を帯び、ピアノへ向かって一直線に突き進む。格子型のそれは網のような役割を果たし、盾として術者を守るそうであるが、盾を持って敵に突進すると、強力な矛にもなるのだ。
この呪文が弾き飛ばされる。
まるで桜井くんのまわりに結界が張っていて、演奏を守っているような。
「効かない!」
「くそ、やっぱり強いな……岡崎、行くぞ」
私は九字を切ったことがないし、呪文を唱えたことはない。当たり前だった。陰陽の家系でないのに九字を切る機会があるのは、安倍晴明を演じる役者ぐらいだ。だから慣れない。ぎこちなくて当たり前。しどろもどろで仕方ない。でも、この状況でそんな甘っちょろいこと言っていられないのも当たり前。
私は髪飾りを握った右手を差し出し、上から下へ、左から右へ。
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女!」
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女!」
異口同音に叫んだ。
双頭の龍がケルベロスの龍になり、ブラフマーの龍になり、ヤマタノオロチの龍になる。大蛇は八つの首を車の尻のように振り回しながら、ピアノに衝突する。
桜井くんが椅子から吹っ飛ばされて、気を失った早苗のそばに倒れ込んだ。講堂は久々の静寂に包まれた。
勝利を確信した決定的瞬間。私たちは腕を下ろし、この建物で唯一、立っている人間として、皆の喜びを代弁するかのように、二人顔を見合わせて、ハイタッチを交わした。
講堂の扉が開いたのは、その直後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます