第13話

 桜井透と三好明日香が蛭峡小学校に通っていた。この事実は私たちに大きな驚きをもたらすとともに、大量の疑問を胸に湧き立たせた。

 八つ時が近づき、閑古鳥が鳴きわめく喫茶にもちらほらと客が見えてきた。マスターに聞きたいことは山ほどあったけれど、引き止めておくわけにもいかないので、私たちはマスターが出してくれた水を片手にテーブルを囲んで、声を小にしてディスカッションを繰り広げた。しかしどうにもこうにもわけのわからない状況に、話し合いははかどらずにぐだぐだのまんま終了。幸田は満を持して言った。

「山に戻ろう。桜井に会って話を聞くんだ。現状、話せるのはあいつだけだろう」

 事実だった。

 私は外を見た。ザーザーと降り続いていた雨はピークを超え、あとは収まるのを待つばかり。雲の隙間から薄日が差している。元気が取り柄の小学生は傘も持たずにはしゃいでいる。

「このぐらいだと幸左衛門も当てにできるな。外へ出て呼んで――」

 幸田の言葉が終わるより前に、また電話である。私たちは椅子の上で三ミリはジャンプし、息を呑んでスマホを取った――が、同時に弛緩した。ただの間違い電話だった。今ならば間違いもオレオレ詐欺も宗教の勧誘も、彼女からの連絡よりはだいぶマシ、むしろ大歓迎だった。

 それにしても私たちはすでにパブロフの犬のように『くるみ割り人形』を聞くと飛び上がってしまう体になっている。惜しいけれど、着信音を変えることも検討しようかと思う。

「そういえばおまえ、なんでその曲なんだ? ガラじゃないだろ」

「失礼ね」

 私は電話対応を終え、スマホを元の場所に置きながら口をとがらせた。

「素敵な曲でしょ」

「たしかにいい曲ではあるが、おまえならばブランチの曲にしていてもおかしくないからな」

「ブランチじゃないわよ。『ヴィアベル』よ。一文字も合ってないじゃない」

「なぜなんだ?」

「いいじゃないのよ。あんたには関係ないわ」

 私はムキになって、飲み終わったコップに意味もなく口をつけた。溶け出した氷の水滴がちょろっとだけ喉を通った。

「とにかくあんたは幸左衛門くんを呼んできなさい!」

「あ、ああ。怒るなよ」

 幸田は首をひねりながら外へ出た。私はほおとため息をついた。

 私が再び犬と化したのは、幸田が幸左衛門を呼び、再び喫茶店のドアをくぐる、ちょうどそのときだった。そもそも着信音が大きすぎるのもびっくりする原因だと推測した私は少し音量を下げたのだが、浅はかな考えだった。私たちの心はすでに『くるみ割り人形』に人質に取られていてたのだ。友人に対する物言いではないが『野中早苗』という名前もとうぶん見たくなかった。

「今度はなんだ!」

 幸田は血相を変えてテーブルに駆け寄った。ケーキと紅茶で談笑する女性二人組が呆気にとられているが、私たちのどちらも気にしちゃいなかった。

「早苗! どうしたの!」

 すぐには返事は返ってこなかった。それは今までだってそうだったからそこに驚きはなかったのだが――違和感がある。その正体に私たちはすぐに気づいた。すでに人形はおらず、幸田の指示で演奏は止まっているはずなのに――濁流のような音がとどまるところを知らずに聞こえてくる。早苗も返事をしていなかったのではなく、この大音量で声がかき消されていただけなのだ。

『き、来て! 早く!』

 怯えの節だけ受け取れた。私は異常な緊迫感を胸に覚えた。

「なに、なんなのこの曲!」

『《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》よ――たぶん』

「たぶん?」

『こ、こんなの演奏じゃないわ……気が狂いそう!』

 尋常ではない悲鳴が、目の前で起こっている出来事のようにクリアに私たちの耳と心臓に打ちつけてきた。

 何かが起こっている――それだけははっきりと取れる。

「わかった。すぐに行く。場所は講堂だな?」

『そ、そう!』

「よし、おまえは気をしっかり持て。今はおまえしか頼れないんだからな、野中」

 幸田は荒々しいながら優しい言葉をかけると、一方的に電話を切った。まだ素直にはなれないらしいが、今は幸田の変化に感動している場合ではないのだ。

 幸左衛門とはこの先の空き地で待ち合わせるとのこと。私たちはおっとり刀で空き地に駆けつけ、羽を休めている大ガラスに飛び乗った。幸左衛門は黒い羽を大きく広げ、大空こそ我が物であらんとばかりに舞いながら、口ではぶつぶつ大人げなく文句を繰っている。

「まったく……式の気も知らずに勝手に呼びつけるな。せめて、雨がやむのを待て」

「もうやんでいるも同然だろう。本降りのときは気をきかせて呼び出さなかったんだぞ。おまえ、自分の立場をわかっているのか?」

「式だからといって縛られるような私ではない。雲の上まで飛べば降られないだろうか」

「やめてよ。富士山じゃないんだから」

 私は静かに反対した。幸左衛門は羽をぶるんと鳴らして、

「ふむ、おなごが言うならば私も否やはないが……くっ!」

「うわぁ!」

 突如、幸左衛門の大きすぎる体が急ブレーキをかけた。鳥の背中で空を飛ぶ経験に乏しい私は危うくバランスを崩して、イカロスのように真っ逆さまに落っこちるところだったが、間一髪幸田が腕を取って引っ張ってくれた。礼を言う間もなく幸田は幸左衛門に抗議の声をあげた。

「なんだ、急に止まるな!」

「い、伊織。前を見ろ」

 ひょうひょうとしていて、主人にも平気で楯突く、尊大な式神があらわにしている感情は、恐怖である。感じ取った私たちは行く先を見つめ、あっとすぼんだ声をあげた。

 蛭峡から空の道を通って、田上町へひとっ飛び。久実乃の大山はもう目前なのだが――その山が、真っ黒な霧で覆われていた。

 無論、気まぐれに降ったりやんだりを繰り返す、天気の変化が激しい山にもやがかかるのは小学生でも知っている常識である。しかし普通もやとは、白っぽいものではないだろうか。今回のように、黒い場合はなかなかないのではないだろうか。何より、じっと見ていたら頭がくらくらする、目がくらむ、体中がビリビリと痺れる。私は思わず目をそらさずにはいられなかった。

「邪気だ」

 幸田が押し殺したように言った。幸左衛門は敏感に反応して、首を縦に振った。そして生きとし生けるものすべてを包み込む、大地のようにやわらかい声で続けた。

「伊織。私たちはともに育ってきたな。お主の祓い屋としての実力も手に取るようにわかる。だからこそ、あの場所へ出向くべきではない。宗康むねやす殿の到着を待つほうが得策ではないだろうか」

「そのとおりだな」

 幸田は唇を噛みしめた。

 けれどそれは本心から来る言葉ではないことに私は気づいていた。燃えるような黒いもやが目を鈍く突くにも関わらず、幸田はいっさい目をそらさなかった。

「でもな。今の状態では十文字の到着を待つより先に山は邪気に飲まれる。あの山には俺も知っている人たちが大勢いる――指をくわえて待っているわけにはいかない」

「しかし」

「宗康様が到着したら、百パーセント全員死ぬ。ただ俺があれを取り除く可能性にかけて、九十九パーセント不可能だとしても、一パーセントを引き当てることができたとしたら、全員を助けられるかもしれない」

 彼の目には暗々と燃える邪気が鏡のように映り込み、それでも心にまでは映させない。幸田は、震える私の手を握った。

 幸左衛門は、それ以上反論しなかった。

 邪気の影響がもっとも大きいのは真っ正面から食らっている彼自身のはずだ。にも関わらず幸田の準備が整うのを、ただじっと、羽を広げて待っていた。

「岡崎」

 幸田は私の目をに焦点を合わせた。私の髪に鷹揚に手を伸ばし、髪飾りを外した。次いで私の手を取り上げ、手のひらに優しくそれを置いた。

「俺たちは邪気の根源へ向かう。それを前にしたら、これを握りしめて、さっき俺が子どもたちを祓おうとしたときに使った呪文を唱えろ」

「い、いいけど、なんだったか覚えてないわよ」

「着いたら先に俺が唱えてみせるから、一回で覚えろ」

「そんな。あんた、今もう一回言ってよ」

「あれは強力だからな。俺でも迂闊につぶやくべきじゃない」

「じゃ、じゃあなおのこと私なんて……」

「岡崎!」

 幸田は叱責するように声を鋭くあげ、私の両手をぐっと握った。

「野中たちを助けたくはないのか?」

「――」

 なぜだろう。

 あんなに嫌いだったはずなのに。

 真剣だから? 昨日の倉庫での出来事がフラッシュバックするから? クレセントランドでの約束のせい? いや、そんな馬鹿な。きっと、邪気にあてられているのだ。

 早苗や桜井くん、みんなを助けたい。他の理由はいらない。私はうなずく以外の選択肢を知らなかった。

「よし。幸左衛門、もう少しだけ山に近づけるか」

「わかった――ふん、式使いの荒い主人を持つと、苦労する。――行くぞッ」

 幸左衛門は面舵いっぱい、いったん体を右方向へ切り替えると、大きく息を吸い込んで、カーッと鬨の声をあげる。もしこの美しいカラスの勇姿が地上から見えていたならば、町に架かる虹のように、人々の瞳を惹きつけていただろう。私たちは幸左衛門の黒い体に思いっきりつかまった。カラスは反動で、弾丸のごとし直線飛行で、邪気の戯れる山に突入した。

「よし、よくやった!」

 嵐の中、生身で飛んでいるのだ。幸田は枯れんばかりの声をあげて、私の腕をつかみ取った。私はつぶれるほど目をつぶっていたが、髪飾りだけは離さまいとしていた。

 私の足は黒い体から放たれて、幸田と連れ立って落下した。いや、道連れか?

 万事休す。否、死ぬわけにはいかない。ダメ、死ぬ!

 二人の体は翼の溶けたイカロスのように地面に叩きつけられたが、落ち葉が降り積もっていたので、擦り傷切り傷だけで済んだのは、奇跡に近いと言わざるを得なかった。幸田がしなやかな身のこなしで、地面に両足をついて着地したのは、山猿もびっくりのウルトラCだった。

「あ……あんた、無茶するわ……」

 私は幸田の手を借りてかろうじて落ち葉から脱出した。

「これぐらい当然だ。それより行かなければ。邪気の影響がひどい」

 見渡す限り、秋らしい紅葉で覆われていたはずの木々は、墨で塗りつぶしたようにくすんだ花を咲かせていた。この死の山で、生き物が生きていられる保証はなかった。

「俺たちは十文字の加護があるから大丈夫だが、あいつらはわからんな」

「早く行かなくちゃ!」

「言われなくても。ついてこいよ」

「道はわかるの?」

「おまえと一緒にするな」

 幸田は私の返答も構わずに走り出した。

「待ちなさいよ!」

 もつれる足を懸命に動かし、ついていく。お恥ずかしい話そもそも邪気のあるなしに関わらず、この山で一人ぼっちにされたら私は一巻の終わりなのだ。一日に二度も迷子になるのは避けなければならなかった。

 人形の怪の影響で、通れない道は多々ある。二人は木をよじ登ったり、川を飛び越えたり、けもの道を通り抜けたり、盛壮な猿のように山を駆け回った。鍛えているであろう幸田はまだしも普通の女子高生にこなせる運動量ではなかったが、人の命がかかっているのだ。

「わかるでしょ、幸田!」

 私は泥をぬぐいながら叫んだ。

「人は他人のために強くなれるのよ!」

「――しゃべるな、舌噛むぞ!」

 二人の喉は、異常な興奮にはずんでいた。

 野を越え山越え谷越えて、ただただ走る、走る、ひた走る。草に足を取られようが、岩肌で滑りそうになろうが、無我夢中で走り続ける。爪が割れても、骨がミシミシ軋んでも、体の全部が悲鳴をあげても、鞭を打って走り続ける。

 トレイルランニング? 目じゃない。ローファー? だからなんだ。乗りかかった船に櫂がついていなかろうが、エンジンがお釈迦になろうが、構うものか。手で漕げばいいだけのことじゃないか。

 どこかから、視界が開けた心地だった。まだまだ木々は悪夢のように連なっていて、先は長いのだけれど、心模様はそうだった。ハイになっていた。

 そういうときこそ、夢から覚めたときは注意しなければならない。現実に首根っこを掴んで引っ張られたとき、夢心地なだけに、痛みは二倍であるからだ。

 真に視界が開けたとき、私は幾倍の恐怖心に胸をドスンドスンと殴られ、遠くへ吹っ飛ばされた気持ちだった。さすがは数多の死線を越えてきた幸田は肩で息をしながらも、冷静に事を分析していた。

「――これは、思った以上だな」

 幸田の声は聞こえず、口の動きがそう言っていただけなのだが。私たちは汗でベトベトの両手で耳をふさがなければならなかった。講堂は視界の奥に小さく見えるぐらいなのに、ただならぬコードが両耳を光線銃のように貫いていた。

「これはたしかに『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』じゃないわ」

 私はつぶやいた。音ひとつひとつはたしかに、聞き馴染みある『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』なのであるが、あの明るく楽しい音楽とは別物だった。人を不快にさせるには十分だった。セイレーンは美しい声で船乗りを魅了し、殺害するが、この音はただただ耳障りな、旋律ともいえない爆弾の羅列で人の心を殺す。まさに、邪気である。

 私は音に負けないよう、力いっぱい声を大きくした。

「これは誰が弾いてるの!」

「さあな」

 幸田は負けじと叫ぶ。

「本人に聞けばわかることだ!」

 幸田はまたも、言い終わる前に走り出した。

 ここから講堂まで、普通に歩けば三分。走れば一分もかからない。カップ麺を作るより短い時間が、人生十六年間よりも長く感じられた。ピラトの官邸からゴルゴダの丘まで十字架を背負って歩かされるイエスの気持ちがわかったというか、どっちかというとたまたまそこに居合わせただけで十字架を担ぐ大役を背負わされたシモンの気持ちというか。

 どんどん爆発現場へ近づいていく。気を確かに持たなければ。講堂の重い扉を開けたとき、正気でいられる自信がない。私はポケットの中に入れておいた、髪飾りの存在を全身で感じた。いまだに呪文は思い出せない。

 幸田は扉に飛びついた。私は息も絶え絶えに追いついた。

「……準備はいいな。行くぞ!」

 またまた返事を聞かず、ドアが開かれる。

 待ち構えていたのは、端的に言うと地獄だった。

 生徒たちは幸田の言いつけを守って、この場にとどまっていたのである。もし幸田が止めなくても外に出て、一人になったとき、いつ襲われるかわかったものではないと懐疑主義に陥るのも真っ当な思考で、誰もこの場を離れなかったかもしれない。

 それが仇となった。爆発の巻き添えをもろに食らった友人たちはつぶれたカエルのように倒れ込み、地面に落ちたセミの調子で指をピクピクさせていた。古い木の壁はキシキシ軋み、剥がれかけている板もあった。ステージのカーテンはバサバサと、洗濯機にひとつだけ入れたタオルのように暴れていた。

 私たちもただではすまない。私は薄目を開けて室内を確認し、やがてステージの上の物体に目を止めた。

「桜井くん! 早苗!」

 声を上ずらせながらも足がすくんで近づけなかった。

「岡崎!」

 臆病な私の腕を取って、幸田は一歩一歩着実に進もうと足に力を入れる。しかし一歩進んで三歩下がって、足が言うことを聞かない。

 邪気は、音の爆弾は、私たちの目指すところから放出されていたのだ。

 音は見えない力だけど、強すぎる力は目に見えるのだ。

 ステージの下手に、早苗が倒れている。中央を陣取るは、黒いピアノ。邪気で白鍵も黒く塗りつぶされた、悪魔のピアノ。

 弾き手は桜井透。声にならない雄叫びを縦横無尽に撒きながら、思うがままに鍵盤を殴る、桜井透……

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