第12話
このソースの香り漂う昼下がりの喫茶店に、『くるみ割り人形』の軽やかな音はうってつけだった。まあ、炭坑節でもいいんだけども。
幸田は仏頂面でスマホを眺めていた。私はストローをすすっていた。今店が満員状態だったら確実に『倦怠期』を想像させる、視線の合わなさ加減だったが、無理におしゃべりするより心地よい気もした。私は最後のウインナーコーヒーをひとすすりし、一息ついた。
「……あっ」
テーブルの隅に置いておいたスマホが『くるみ割り人形』を奏でたのは、この数秒後のことである。
「……早苗よ」
「久しぶりだな」
幸田は自分の携帯を置いた。たしかに、久実乃からの連絡は明日香の容態情報以来だった。
私の胸がやけに激しく騒いだ。
『結衣! 幸田くん!』
スピーカーをタップする前に幸田がいち早く押した。早苗は高調子に二人の名前をまくし立てるが、それから嘘のように喉をきゅっとしぼませて、何もしゃべらなくなった。この時点で私の胸騒ぎは高波のように大きくなっていた。
「何かあったのか?」
『…………』
外をちょうど、自転車が通り過ぎた。
『……二人とも』
次いで外回りのサラリーマンが携帯を耳に当てながらせかせかと歩き去る。
『明日香が……』
サッカーボールがポーンと跳ねた。
『死んだわ』
バケツをひっくり返したような雨が、蛭峡全土に降り注いだ。
自転車はスピードを増し、サラリーマンはコンビニに駆け込んで傘を買い、サッカーボールを蹴った少年は雨宿りをした。
私たちは――顔を見合わせて、何も言わなかった。
外の世界とこちらの世界はまるで別だったが、暗い雨だけが壁を通り抜け、私の体に入り込み、涙となって外へあふれ出た。
動く人形と対峙し、霊の少年少女と出会い、しゃべるカラスやしゃべる猫と交流した私にもまだ、信じがたい出来事という概念は残っていたようだ。
「……拭け」
「……」
「俺の口を拭いたやつじゃないぞ。ここから取り出したばかりのやつだ」
「――ありがと」
私は幸田の差し出したナプキンを乱暴に取り、顔をしっちゃかめっちゃかになるまで拭いた。拍子に前髪がボサボサになったが、ヤケだった。
「――トイレに行ってくる」
幸田はすっくと立ち上がり、ドアの向こうへ消えていった。私も顔を洗いに行きたかったが、そうはせずに座り込んだままだった。歩く気力がなかった。
雨降りだ。
山の天気は変わりやすい。地上が雨だからといって山も降っているとは限らない。せめて久実乃だけは晴れていてほしい。不思議なカラスの幸左衛門が、どこかで雨宿りをしながら、神に伝えてはくれまいかと願わずにはおられなかった。
覚悟していたつもりだったけれど、その覚悟はトランプタワーと同じで、ちょっとの刺激でパラパラとあえなく崩れ去るほどの砂上の楼閣だったということを、生々しく思い知らされた。
幸田が戻ってきた。何も言わずに椅子に腰を下ろし、神妙な声でこう言った。
「――悪かった」
「……えっ?」
思ってもみない言葉に、涙が一瞬引っ込んだ。問題児の幸田はきまり悪そうに、口を拭いたナプキンを指でもみくしゃにしながら、視線をたゆたわせて、また言った。
「悪かった」
「――こちらこそ」
幸田が私に対して謝罪の言葉を述べなければならない行動は山ほどあるけれど、この状況でわざわざ述べるのに適しているのはひとつしかなかった。私も水気を吸い込んだナプキンをもてあそびながら言った。
「こちらこそごめんなさい」
「悪気はなかった」
幸田の、持ち前の氷の剣が私の首元に立てられた。しかしピラミッドやミロのヴィーナスに似て美しく精巧に造り上げられた氷が、徐々に徐々に溶けてゆくのがわかる。
「なかったが……白状する。俺は三好明日香が死のうが、他の誰が死のうがどうでもよかった。世界レベルで犠牲者が数多出ようが、知ったことじゃないと思っていた。ただ、悪気があったわけじゃない。俺にとって人が死ぬことは日常茶飯事で、当たり前なんだ。雨が降れば天気が悪いように、犬が西を向けばしっぽは東にあるように、魑魅魍魎が蹂躙すれば人は死ぬんだ」
「何よ」
私は語気を強めた。冬の夜、窓を開けたら、溶けかけた氷が再度凝固する。
「だから今回、人間がいくら死のうがどうだっていいってこと? ふざけないでよ」
「ふざけている。馬鹿げている。おまえの価値観だ。俺にはこれが当たり前だ」
言葉にならなかった。
彼は前を見ているのか見ていないのか、不自然な目を持っていた。一度溶けた氷は二度と同じ形に戻らない。今の形は、これまで見せられてきたあいつの形とは明らかに違った。
「平和な日本。明日天変地異が起こって抗うすべもなくただ死んでゆくなんて、想像もできないだろう。けれど俺にはむしろ天変地異こそが日常なんだ。俺たち祓い屋の子は六歳を過ぎる頃から中学卒業まで、親元を離れて、十文字本家に修行に行かされる。祓い屋としての能力を鍛え上げ、根性を身につけ、慣れることが目的だ。十文字の当主について各地を回って、ありとあらゆるあやかしや悪霊と向き合う。向き合う、要は戦争だ。戦争には犠牲がつきものだ。あやかしもいたし、人間もいた」
「だから、何よ――言い訳じゃない――」
かろうじて口にできたのは、これぐらいだった。
私は考える。いつからだろうか。一流の職人によって研ぎ澄まされた、綺麗な氷が融解し、中から、赤子のような人間らしい感情が見えはじめたのは。――それを美しいと捉えるか汚いとみなすかは、生まれ育った環境に依存する。祓い屋十文字から見れば、唾棄すべき汚物であろう。しかし私には、どんな宝石よりも輝く一等星に見えた。
「――あんたはあの子たちから私を助けようとしたでしょう」
「助けたわけじゃない。悪霊は滅さなければ」
「あの子たちを見逃したでしょう」
幸田は目にかすかな光を宿し、まっすぐ私を見た。
「戦争は人を殺す。兵士は国のために人を殺さなければならない。でもあんたは、戦争を避けるという選択を取ったわ」
「そんなんじゃない。俺はもっと非情な人間だ」
「嘘は終わりよ」
人はときどき、自分で自分がわからなくなる。この土地に来てからは特に激しい。
早苗たちをステージに避難させたあのときは、まったく自分がわからなかった。普段勘がいいほうではないし、テストの二択も外しっぱなしだから。なのにあのときは、虫の知らせが私の頭の中でけたたましく、警報のように鳴り響いた。
べつに今は、あのときのような虫の声は聞こえない。でも今、幸田を責め立てるのは違う、と鳴いている。それは虫ではなく、私の感情に起因するものである。
「十文字での日々はどうだった?」
「…………」
幸田は目を泳がせるように動かした。私はわざと、視線を合わせにいった。
両手を握ってしまえばほらこのとおり、傍若無人なあいつでも固まらざるをえないし、私だってこんな状態で、ずっと黙っているのも気恥ずかしいので、自然と言葉があふれ出るから一石二鳥だ。
「人の死を見続けるだけだった?」
「――離せ」
私は素直に離した。しかしあいつは顔を背けなかった。
「……焼きそばを食べた」
「――えっ?」
「同学年で、他にも修行に来ているやつがいてな。普通、修行者同士は会ってはいけないし、会えないはずなんだが、あいつはなぜか俺のところへ来た。質素な精進料理しか許されない退屈な生活の中で、あいつは人目を忍んで、カップ焼きそばを差し入れた。いや、差し入れたなどという殊勝なものではないな。ただ、食いたかったから一緒に食おうというガキらしいわがままだ。久々のファーストフードが、あんなにうまいものだったとは」
「――そういうことなのね」
いろいろと腑に落ちたし、これでわかった。
こいつが本心、人やあやかしの死を見続けたくないということ。
「他にはないの? 十文字に行く前でもいいわ」
「家族でクレセントランドに行った。ジェットコースターに乗りたいとせがんだが、身長制限で不可能だった。観覧車には乗ったな。メリーゴーランドもだ。そう、本家に出される一週間前だった。今考えれば思い出作りをしようと思ってくれたんだな。ああ、チュロスがうまかったな。ポップコーンは結局、帰ってからも食べきれなくて親父が平らげたんだ」
「そう」
私はうなずいた。これぞ、作られたものでは決して映せない、人間の形だ。
断っておくが私は、幸田を全面的に許したわけではないし、十文字を理解したわけではない。同級生を見殺しにしたことは罪深いし、人殺しを当然とする価値観は嫌だ。けどやっぱり、人は自分がかわいいもので……こいつが自分を助けようとしたことは、紛れもない事実であるのだ。
何より十文字である前に、幸田伊織という一人の人間だ。
もうひとつ、踏み込んでみても罰は当たらないだろうか。
「人の命には変えられないけど、私に責任を取りなさい。今からでも取り返せる心残りがあるのよ」
私はスマホであるワードを検索し、開いたページを幸田の眼前に突きつけた。幸田はスマホを受け取って、上から下までじっくり眺めて、困惑の目を私に見せた。
「今度、クレセントランドで『ヴィアベル』コラボがあるの。本当は明日香と行く予定だったんだけど、こうなってしまった以上、一人で行かなきゃいけないわ。ただそれも寂しいでしょう?」
「……」
皆まで言わせる気らしい。
「――『ヴィアベル』?」
皆まで言わせる以前の問題だった。
私は作品の概要を簡単に説明した。我々現代っ子がフィクション作品にもっとも触れる時期である小学校から中学校にかけて、修行に明け暮れる日々を送っていたから、知らないのも無理からぬことかもしれないけれど、
「ファンタジー、ってなんだ?」
と聞かれたときにはさすがに肝を冷やした。私からすれば祓い屋のほうがよっぽどファンタジーなのだが、これも育った環境の違いだろうか。
「要は、クレセントランドに行きたいってことか? 俺と一緒に?」
「ま、まあそういうことよ」
「べつに、構わないが」
幸田は涼しい顔で首をひねった。
「それは責任を取ることになるのか? 贖罪ならば自分に呪いをかけるとか、いろいろあるんだが……それでいいのか?」
「いいわよ!」
私は肩で息をし、融解に融解を重ねて美味しさを逃したウインナーコーヒーを飲んだ。こんな条件を提示した自分が馬鹿だった。
というか――これ、よく考えてみなくてもデート、であるのだが。人生初をこいつに捧げてよかったのだろうか、と私は今さら赤くなるが、当の本人はクレセントランドコラボの食事メニューページの『マーチアがベルベットに振る舞った地上のB級グルメ・焼きそば定食』に夢中であるわけだし、呪いで罪を償おうとする男だから、匂わせてもこっちが照れくさいだけである。私は心の中で桜井くんにごめんなさいをした。
「こんな形でクレセントランドに舞い戻ることになるとは、予想してなかったな」
幸田がつぶやくとほぼ同時、私のスマホがピロンと鳴った。幸田は手の中でスマホをジャグリングボールのように二度投げた。
「な、なんだ?」
「チャットよ。誰から?」
「野中だ」
私たちはテーブルの真ん中にスマホを置いて、顔を見合わせ、喉を鳴らし、強張る手でチャットアプリを開いた。
『言い忘れてた。明日香ちゃんの遺言があるの。シゲちゃん、もうすぐそっちに行くからねって』
『し……げ……』
「貸して。あんたに打たせてたら日が暮れるわ」
私は幸田の指示どおり「シゲちゃんって誰か知ってる? 私は知らないけど」という旨の文章を送った。実際私は知らなかったのだ。早苗とのチャットを上へスクロールすると、絵文字や顔文字、スタンプだらけのやり取りが延々続く。しかし今日のチャットは作文のように句読点で文を締めるばかりだった。異様な状況である、と再認識させられる。
返事は数分後に届いた。
『誰も知らないって。わかったら伝えるね』
『了解』
チャットはここでいったん終了した。重要なようでそうでもないようでやきもきしてしまう情報に、私たちはテーブルをはさんで考え込んだ。
「……二つわかることがある」
幸田が人差し指と中指を立てた。
「そっちに行く、ということはそのシゲちゃんとやらはもうすでにこの世のものではないということだ。そして死ぬ間際に名前を口にするほど、三好にとっては大切な人だということだ。たとえばどういう相手だろうか」
「家族、恋人、友人……いろいろあるけど。すでに死んでるってところがポイントね」
明日香とは二年生に上がって同じクラスになってから仲良くなった。きっかけはもちろん『ヴィアベル』で、真面目な見た目のザ・学級委員長でありながら休み時間にカバーをかけてコミックスを読んでいたのを偶然見かけた私が話しかけたのだ。二人でのお出かけも全部『ヴィアベル』関連で、しゃべる内容といえばストーリー考察や新グッズ、アニメ情報、同人イベントばかり。ゆえに明日香の詳しい交友関係は知る機会もなかった。
否、どちらかというと、機会を意図的に逃したのだ。
「明日香、自分のこともあんまり話さなかったし。だから趣味でつながれる私と仲良くしてくれたんだと思うけど」
「そういうふうには見えなかったがな」
あんたがクラスメートと接さなすぎるのだ、と言いたかったが、他の生徒もたいがい気づいていないと思うのでやめておいた。彼女は、特別社交的ではないが誰にでも優しく好かれるタイプの人であるが、腹を割って話せる深い仲の人はそういないようなのだ。
「どっか殻に閉じこもってる部分があるというか……だからこそシゲちゃんって、相当特別な人よ」
「これはもう、当人の親に聞くぐらいしか方法はなさそうだな」
せっかくの情報だが、これでは手がかりはないに等しかった。
そこへ喫茶店の扉がキキッと開いて、ミドルな男性が呼吸をはずませながら飛び込んできた。よほど急いでいたのか、傘を持ったまま中に入ってしまい、あわてて雑巾を取りに行くというハプニングに見舞われた。
「お客様、お待たせいたしました。いやあ、奥のほうにしまい込んでいたようで、遅くなりまして申し訳ございません」
「マスター!」
私たちは反射的に立ち上がった。マスターはコップの水を飲み干して調子を整えると、手に抱えていたクリアファイルを幸田に渡した。
「こちら名簿でございます。お嬢様のイラストを家内と確認して、名簿と照らし合わせたところ、それらしい名前を思い出しましてね。いちおう印として付箋を貼りつけております。直接書き記して、第三者の方に公開したことを知られると困ったことになりますので、どうかご理解を」
「いえいえ、何から何までありがとうございます」
名簿にかじりつく幸田のかわりに私はお礼を述べた。名簿には生徒の名前と年齢、誕生日、現住所がひととおり記されている。印とやらは書類の二枚目に貼りつけてあり、付箋に矢印を書いて名前を示すという、絶対に痕跡を残してはならないというマスターの強い意志が感じられる。
しかしたとえこの付箋がなかったとしても、この名前と住所には目を引かれるに違いなかった。事実幸田は三度も目をこすり、私は心臓がドクンドクンと早鐘を打ちはじめ、額から冷や汗が飛び出た。マスターは私たちの豹変に目を疑い、
「ど、どうかいたしましたか」
と尋ねたようだったが、それすらもノイズにしか聞こえなかった。二人の頭の中では無邪気でいたずら好きな天使が、二つの名前をからかうような声でささやいていたのである。
『桜井朱里(さくらいあかり) 四年二組』
『三好繁和(みよししげかず) 四年二組』
起こり得る可能性を同時に探った私たちは目の色を変えて、奪い合うようにページをめくった。この書類は若い学年が最初のページになるように作られているらしく、六年生のページは一番最後の八枚目だった。
たしかに、あった。
『桜井透(さくらいとおる) 六年三組』
『三好明日香(みよしあすか) 六年二組』
「お二人とも、顔色が優れませんよ――」
なんともはやいくら天使だって、気まぐれもいい加減にしてもらいたいものだ。
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